(つづき)
とは言え。
どうにも気になって、2007年の終わりにNORIKOさんの「封印解除」のワークを受けることにしました。
遠隔で、それもメールのやりとりだけでもOKであったこと、
そして、モニター価格でお安かったこと、がポンと私の背中を押してくれました。
あのワークのおかげで、観音様やミカエルとの脳内会話が始まり、天使の絵を描くことにもなり、会員でもない私が「白光」のコアな会員さんからいろんなことを教えてもらえることになったり、遠足に当選したり……と、本当にするする~~と、いろんなことが1年の間に次々と起こりました。
そして、遠足の縁で、のりすけちゃんという相棒とも「再会」することができました。
スピ的なアプローチも、必要な時にはちゃんと目の前に「はいよ。」と用意されるんだなぁ~、と思いました。
そして、必要な時のスピ的アプローチというのは、即効性があるなー、と感じました。
でも、やはりそれからは特にこれと言ったことはせず、気になった無料ヒーリングをぽちりぽちりと受けさせてもらうくらいでした。
そして、9月のあの「珠会」です。
あれは、ほんとーーーーーーに突然、「スピ的イベント」を主催することになったわけですが、
おかげで、私にはエネルギーラインが細いとか、詰まりがあるとか、そーゆー問題があるらしい、ということがハッキリしました。
そして相棒が
「透明な、コルク栓みたいなものが、たみーのお腹にあるよ。理由があって入れてあるものみたい。」
と、観えたものを教えてくれました。
そして、観音様やミカエルにこの栓のことを聞いても、どうしてもつながらないというか、雑音がザーっとしてるような感じになって、栓のことについてはちっとも解明できませんでした。
時期が来たら分かるだろうとは思ってましたが、なんとも落ち着かない感じが続いていました。
そして、そんな時にシエル1968さんの日記を私の日記にリンクしたところ、相棒から
「シエルさん(のヒーリング)、超おすすめだよ~~~。」
と、言われました。
いつもなら、どーしよー…と思いつつ、時間が経って「まぁ、いいや。」ってなっちゃうことが多いんですが、
この流れに乗っちゃった方がいいかも……と、思い、自分を少々鼓舞しまして、シエルさんにメールしました。
シエルさんのオリジナルヒーリングは、会話式でもないし、メールのやりとりだけで遠隔でヒーリングをしてもらえます。
シエルさんが視えたことはヒーリング後にメールで教えてもらえます。
そしてなにより、お安い!
……やはり、私にピッタリのものを用意してもらったな、と感じました。
そんなわけで、ヒーリングの当日となりました。
(つづく)
「透明な栓」が教えてくれたこと…1
ちょっと前に、かさねーさんが自身の日記のコメント欄で
私宛てに以下のコメントを書いてくれました。
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たみえる
日記読んでると実は分かってるな。と感じます。
根拠はない!
たみえるはスピ系じゃなかったんでしょうね、遠足までは。
大事なことは分かってるんだけど、スピ系の人が知ってたりやってきたりってことに少し疎いのかも。
そこもかわいかったりします。
けれどその目線がスピ慣れしたわたしたちにはない目線でいろんな人にも必要な目線なんですよ。
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確かにそうかもしれんです。
全然スピ系本を読んでなかったわけじゃないんですけど、30歳の頃までは、養老さんや河合のオッチャンの本を読む方が圧倒的に多かったし。
実家のオカンと弟1号は、昔から霊感が強くて、霊障もあったんで、「見えない世界」のことはある意味身近ではあったんですけど、スピ系かと言うとちょっと違うんでしょうなぁ。
…オカルト系?
というか、やっぱり「信心」とか「信仰」とか、そっち系ですね。
それに、スピリチュアリズムって言うと、やはり「シルバーバーチの霊言」だな、と私は思うんですね。
シルバーバーチの霊言を読んでると、五井先生の言ってることと表現が違うだけで、同じだよなー、って思います。
なので、結局は同じところを目指してるんだなー、と、ありきたりな結論に至ります。
でも、やっぱり私は「信仰」が芯にある道の方が、しっくりきます。
いろいろ思い出した過去世によると、何度も「宗教に対して少しハスに構えた人生」というのを経験してるんですが、それもまたここにやって来るための経験でもあったんでしょうね。
たとえば、スピ的な本やらブログに、よく「引き寄せの法則」が取り上げられてますが、あれについても、スピ的なアプローチだけでは消化不良になるんです。私は。
けれど、「信仰」が芯にある道では、すーっと納得できるんですね。
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◆果因説について◆ 西園寺 由佳
今回は、果因説について書かせていただきます。世の中の多くの人が因縁因果律を唱える中で、なぜ私たちは果因説を唱え、それを実行に移すことが出来るのでしょうか。
私が思うに、それは私たちが歩んできた真理のプロセスの中に、果因説が存在しているからなのです。
・真理へのプロセス
この世の中に、因縁因果や業生が存在することは確かなことであります。五井先生が「人間と真実の生き方」の中で書かれているように、「この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿」なのです。過去の思いが、結果となって現在に現われてくるのです。それをまず、事実として理解することから始まるのです。
しかし、それだけですと、消えてゆく姿が現われるたびに自分は業が多いのだとか、罪深いのだと、自分を責めがちになってしまいます。そこで五井先生は、もっと大きな真実を掴むよう、教えてくださいました。それは、私たちは本来、神と一つであるという真実です。だからこそ、五井先生は目の前に現われてくる苦悩はすべて消えてゆく姿であることを理解しなさい、それらは必ず消えてゆくのだ、と説かれたのです。そしていかなる思いも世界平和の祈りの中に入れてしまえば神と一つになるのだから、そこに身を委(ゆだ)ねなさいと。すると、自分の心が神の光やみ心と一つになり、自分の中から絶対なる愛や平和が現われ、神心が……自分の本心が開発されていくのです。そうすることによって、因縁因果の法則から離れていくことが出来るのです。神を掴み、神と一つとなり、業に把われず、すべては消えてゆく姿と理解した時に、私たちはまた進化を遂げるのです。
そしてこのシリーズでも書かせていただいたように、消えてゆく姿で世界平和の祈りを毎日続けていくことで、自分の意識も進化していくのです。自分の中に現われる苦しみも不安も、真理を掴み、自分自身を信じることによって克服できることを知るのです。そしてそのプロセスを経ることによって、我即神也、人類即神也の宣言文も印も、素直に受け入れることが出来、改めて確信をもって、私たちは神そのものであると宣言することが出来るようになるのです。
真理をまずは概念として理解する。次に、真理を体得するための実践法(祈り、印、マンダラ)をこなしていく。そのステップを通して自分の本心で真理を体感していくことが大切になってくるのです。そうすることによって、私たちはまた一歩、進化を遂げることが出来るのです。
そうすると、概念で愛や平和を掴むのではなく、概念で神の光やみ心と一つになるのではなく、自分自身の中で確かに鳴り響く真理を感じることが出来るようになります。自分は愛であり、平和であり、絶対なる神の光やみ心と一つであると感じるようになるのです。そのプロセスを経ることによって、初めて果因説の概念を知り、実践することが出来るのだと私は思います。
因縁因果の法則の中だけで生きつづけると、現在現われているものはすべて過去によって作られているという、その繰り返しのみです。そこから解脱(げだつ)できないと、いつまでも自らの過去を生きることになってしまいます。しかし、真理を掴み、実践していくと、自分は神と一つであるという事実を深く理解することが出来るようになります。消えてゆく姿を行ないつづけることによって、業からも解き放たれていくのです。本来神と一つであるということを掴むことが出来るのです。そして自由と創造力を神様から頂いている私たちは、自らの未来を創造し、現わしていく無限なる力と可能性を持っているということにも気づくようになります。
その力を現わしていくことが果因説であります。これもすべて法則なのです。その法則を理解するためにも、一つ一つのプロセスが重要になってくるのです。
・“より調和した世界へ”という想いが果因説の法則と響き合う
それらのプロセスを何も知らない人が果因説だけを掴み、「それなら自分は、自分の未来を描き求めることによって、それを実現できるのだな」と一生懸命自分の未来の姿を思い描いても、そう簡単には実現しません。なぜなら一連の真理のプロセスを歩んでいないと、自らの望む未来の姿が真理の法則に沿ったものではなく、そこから外れている可能性も大きいからです。
神と一つである姿を現わした時に、初めて自分が心から思い願うことを実現することが出来るのです。自分だけの幸せを望み、楽することを望み、利己的な考えで未来を望んでいても、そこに自らに内在する神の無限なる力は発揮されにくいはずです。
別にお金を望むことがいけないと言っているのではありません。病気を治したいという思いや、成功したいという気持ちを否定しているわけでは決してありません。その願いが世界平和の祈り、神の心と一致しているかどうかが大切なのであります。
大切なことはその人の心の奥底で、真理と神と、全く一つになっているかどうかなのだと思います。そうなるには、自分自身の意識が高まっていることが大切であり、そこまでの真理を体得していることが必要なのです。だからこそ、その意識で想い描いた未来を現実に引き下ろすことが出来るのです。そのような人が果因説を掴めば、必ず、必ずその思いを実現することが出来るのです。(後略)
「白光」2009年10月号より
http://www.byakko.or.jp/article_howa/bno_howa/howa2009_10.html
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ネットなどでチラチラ見かける「引き寄せの法則」には、
「欲望の念で引き寄せてるんじゃない?」と、感じてしまうものもあります。
でも、私達が本当に「物質世界」に顕現させたい世界というのは、エゴの欲望が描いたものではない、と思うのです。
エゴにはエゴの存在理由もあるし、働く理由もあるけれど、エゴの念で引き寄せたものだけでは、多分腹の底から満足することはできないんじゃないかな、と思うのです。
「なにみえ遠足」に参加したり、「珠会」をしたり、天使の絵を描かせてもらっておきながら、こんなこと言うのもオカシイかもしれませんが、
おそらく私にとっては、スピ的なことは『二の次』なんだと思います。
だから、サイキック能力を高めたいとか、チャネリング能力を高めたいとかも、ことさら思わないし、
マイドラの時環とはもっとコミュニケーションを取りたいとは思うけど、それすら「時環への愛情」とは別モノであって、心底そう思ってるわけでもなさそうだし、
エネルギー的なものをもっとしっかり感知できたらいいなー、とも思うけど、それも自分から頑張ってその能力を獲得しようなんてことも、やっぱりしてないし。
(あ。SVFはアチューンメントしてもらった!でもやっぱり体感がほとんどなーい。)
そもそも、スピ的ワークとかって、お値段がけっこうするものも多いし、スカイプ等で会話式ってのも小さい子がいるから難しいし~~。
やはり、ちびちびお祈りをして、ちびちび印を組んで、少しずつでも「我即神也」にどんどん近づいていけば、それらは自然と自分のものになっていくものだろう、というのが、自分の中で厳然と在るから、心から真剣にスピ的アプローチでなんとかしたい、という気持にはなかなかならないのだと思います。
もう、自分の中に「王道」があるからね。
そーゆー意味では、呑気なもんです。
(つづく)
生きているって、なんだかスゴいことなのかも。
お彼岸だってーのに、お墓参りできてません。
ごめんなさい。
たとえば、阿弥陀さまやイエスに自分の『真』からおすがり(お任せ)することで、輪廻から脱出しちゃったよ、というご先祖さまは問題無いんですけど。
凡夫のまま迷いや執着や怨みや悲しみをいっぱいいっぱい抱えたまま幽界にいるご先祖さまには、生きてる子孫がガンガンお経をあげないと、いいところ(って、生まれ変わるためのサポートセンターのせいぜい入り口みたいなところやと思うんだが)に行けない……というのも、ある意味本当だと思うんですよ。
てのも。
幽界って、現象界よりも想念が「具現化」しやすいですから、迷いのある人には迷いのある世界が速攻で展開され、怨みのある人には怨みのある世界が速攻で展開されてしまうわけです。
無神論者で、死んだら何も無くなるんだ、と思ってる人が死んだら、「何もないところ」を彷徨い続けることになっちゃうわけです。
そうなると、なかなかそこから抜け出せないだろうな、というのは簡単に想像できますね。
「迷いの世界」「怨みの世界」「戦いの世界」「何もない世界」にいる本人(魂)が、ハタと気づく瞬間まで、延々と続くのです。
結局は、その人が「ハタと気づく」ことがないと、守護の神霊の手助けも受けられないんです。
自分を救うのは自分しかないということです。
生きてても死んでからでも同じです。
シンプルです。
んじゃ、「ハタと気づく」まで、周囲は待ってるしかないか、というと、これがですね、生きている子孫の祈り(お経)がそのご先祖さまが閉じこもってる『意識』の殻をちょっとずつちょっとずつコンコンとつつくことになるらしいんですよ。
で、カラにヒビが入ると、「ハタ」の瞬間がやってくるわけですね。
不思議ですよね。
現象界の我々って、一番ダメダメな魂やん、みたいな感覚になることが多いんですけど、実は違うんじゃないか、とここ数年は思うんです。
なぜ自分が、ここにこうして生きているのか、を、深く深く感じてみることは、いつもいろんな発見をもたらしてくれます。
人間って、面白いですねぇ~。
ばけがく。
「タミエルっていう天使が本当にいたら面白いよねー。」
と、検索かけたら、堕天使にタミエルってのがいて、それも天文学が専門の天使さんと知り、地学科出身の私はかなりビックリしたわけですが。
地学って、ものすごく守備範囲が広い学問でして、時空をどかーんとまたいで勉強せんとアカンのです。
そして、物理・化学・生物もよく分かってないといけないのです。
が。
数学脳が機能不全の私にとって物理というのは厄介な相手でした。
いや、好きなんですよ。
好きなんだけど、道具である数学が使いこなせないので、歯が立たないことが多かったのです。
生物は、まぁまぁなんとでもなりました。
地史古生物学なんてすげー興味深かったしね。
で。
高校生の頃からなんですけど、実は一番得意だったのは化学だったんです。
それも特に無機化学。
教育学部の教員養成課程のため、専攻が地学でも物理・生物・化学の実験の単位や概論の単位は必須だったんですけど、無機化学はすご~くよく理解できて、テスト勉強もほとんどしなくてOKだったんです。
んじゃ、最初っから化学科にしとけばよかったやん、と言われそうですが、ところがどっこい。
化学は得意なんだけど、別にいいや…、って感じなんですよ。昔も今も。
数学脳機能不全という致命的欠陥があるにもかかわらず、地学が良いんです。愛してるんです。
これは、7歳の時に宇宙図鑑に載ってた星々の写真に魂を掴まれてしまった時から呪縛のようになっているので仕方がありません。
で、ね。
最近になって、「あ?」と思ったんですよ。
錬金術ってやつですよ。
過去世の人なのか、守護してくれてる方なのか、は分からんですが、なーんか錬金術やってた人と関わりがあるんじゃねーの?
って、思ったわけです。
私が化学得意だったのって。
あ。
でも、もう今は錆び錆びですよ。
使ってないからー。
王さまと私。
寝る前に毎晩寝室に洗濯物を干してるんで(冬場は朝の4時頃からエアコンの暖房がかかるようにタイマーセットしてあるので、部屋が乾燥せんように干しておくのだ。)、先日の夜も家族が寝てるところで黙々と洗濯干しをしておりました。
干しながら、突然ふと、
「私は、自分の過去世をいろいろ思い出すことを許可しちゃうぞ。」
と思ったんですよ。
そしたら、洗濯を干しながらパッと思いました。
「おー。私、王さまだったことがあるぞ。」
いや、歴史に名が残ってるような王さまではないと思います。
村長くらいかもしれません。
んでも、なんとなく王さまって思ったんですよ。
でもって、続けて
「でも、良い王さまじゃなかったなー。」
と、これまた根拠なく思いました。
そう思った途端、お母ちゃんは洗濯物を干しながら、
「ごめんねー。悪かったねー。良い王さまじゃなくてー。器じゃなかったんだよー。でも王さまにはなりたかったんだよー。ごめんごめん。」
と、すげー軽い調子ではありますが、心の中で謝りました。
ほんとにそうだったのかどうかは、分かりませんが、結構「ああ、そうだったわー。」みたいな感覚になり、んでもって軽い調子で謝っちゃった自分がほんとに面白くなっちゃって、一人で笑ってしまいました。
事実かどうかなんて、どうでもいいんですけど、咄嗟の反応が面白かったです。自分の。
「もう済んだことやしー、あの世に行った時にいっぱい反省しとるやろうで、赦したってー。」的な感じが。
お布団の中に入ってからも、中国か朝鮮の宮仕えの人など、他の過去世と思われるものをいくつか頭に浮かんできて、ほほーー、と思ったんですが、朝になったら忘れてました。
でも、「王さまといい、宮仕えの人といい、信仰心も薄いし、あまりいい人でもないやーん。あたしの今の信仰心はどこの時代で種が蒔かれたんやろー?」と、思ったのは覚えてます。
そう思った途端、寝てしまったようです。
ということで。
今生では、あまり人に迷惑かけんように気をつけたいと思います。はい。
「世界」はすでに平和なのだ。
世界人類が平和でありますように。
日本が平和でありますように。
私達の天命が完うされますように。
守護霊さまありがとうございます。
守護神さまありがとうございます。
と、ちびちびお祈りしていたら、だんだんと
「世界は、日本は、平和になる。」
と、本気で思えるようになりました。
そして、今は、
「もう、世界はすでに平和なんだ。」
と、本気で思えるようになりました。
「現象界の世界」は、まだまだ争いや貧困や略奪や暴力が横行しているけれど、しかしそれは時間の問題だ、みたいな感覚です。
五井先生の本にもそんなことは書かれてましたが、それは頭で理解してるだけでした。
でもこのところ、感覚として「そうなんだ。」と自然に思えるようになってきました。
もちろん、「現象界の私」は、現象界で起こるさまざまな悲しい出来事に心を痛めているんですが、それとは別のところでの感覚です。
高次の自分である「たみえる」とのパイプの目詰まりがもっともっと掃除できれば、もっともっとそーゆー感覚は鮮明になってくるんでしょうなぁ。
業想念の「私」を「私」と認識しながら生活していることも、それさえも意味があって、多次元にわたって「私」はお仕事をしてるんだなぁ~。
現象界の私のお仕事は、今は子育てが一番ね。
そして、天使さんたちの道具として使ってもらうことね。
たみえるはいづこ?
名前を、通称の「民絵」にしたら、自分の中に「タミエル」っていう天使がいるやんかー、って分かって笑っちゃったわけですが。
そしたら、遠足に行くことになって、そうこうしてるうちに、上での自分がどんどん「タミエル」と融合して、みんなからも「たみえる」と呼んでもらったりするようになって。
今ではすっかり、金髪青い目のデカい天使の姿です。たみえる。
のりすけちゃんがコメントに書いてくれる前から、どうもここんとこ「たみえる」が何かいろいろやってそうな気がしてました。
それも、多分、時環がパートーナーになって。
何やってんだろーなー……。
三次元の私には分かりません。
てか、どうも最近、上に行くってのも、「アストラルトラベル」って感じではないんです。
抜ける、ってんじゃなくて、「たみえる」につながる、って感じなんです。
たみえるには、たみえるの「お仕事」があるんでしょうなぁ。
でもって、三次元の私の「意志」にも合わせてくれてるような感じですね。
三次元の私が、今夜上でのイベントに行こうかな、って思った時は、そこにたみえるが行ってる、みたいな。
んっとに、普段、意識してない時(がほとんどだが)、たみえるはどこで何してるんでしょうなぁ~。
と、思っていたら、かさねさんとこに出張してた模様。
ビックリだー。
【mixiより転記】永遠は刹那。刹那は永遠。
【mixiより転記 12月1日】
えっとですね。
子供の頃から「時間」ってなんだろう?って不思議で仕方がなかったんですね。
で、ある時(まだ学生だった頃)、
「永遠は刹那。刹那は永遠。」
って、ふいに思ったんですよ。
でも、それって、分かるようで分からない言葉でね。
そして、ゆうべ気がついたことなんですが。
よく、大本の神様の次元では「時間」が無いって言いますよね。
どこの次元から時間が生まれてくるものなのか分かりませんが、とりあえずこの三次元では、過去・現在・未来と時間は「過ぎていく」というか「流れていく」ものであって、逆行しませんね。多分。
そんな世界観の中で生きてきて、確かにこの三次元ではそうだよな、って当たり前に思って生きてきたわけです。
「今」にフォーカスして生きることが大切、といろんな人が異口同音に言ってますけど、それもそんな世界観の中での理解でしかありませんでした。私の場合。
でもね。
「時間の無い」神様のところから私達を見てみたら。
常に「今この瞬間」しか有り得ない。
「刹那」がいっぱいいっぱい存在している。
ああ、ほんとだ。
「刹那」は「永遠」だし、「永遠」は「刹那」なんだ。
って、「は。」っと気がついたんです。
ということは……。
私達は、「今」しか生きられないってことです。
そしてそれは、「今」の私の意識(意図)次第で変わるのは「未来」だけではなくて、「過去」も変わっていくってことです。
つまり、「【世界】が変わる」ということです。
なぜなら、私達の本質は「神」だからです。
神の目線で見て、神の目線で意図するということは、そういうことになります。
(ああ、「我即神也」って、ほんとーに究極の真理ですねぇ。)
もちろん「世界が変わる」というのは「捉え方が変わる」っていう意味じゃなく、本当に変わるということです。
本当に、です。
カルマを浄化していく、って、そういう意味でもあるんですね。
「この世界はどんどん進化していく」というフレーズは、「時間ありき」の表現です。
時間の無い神様にとって、それはどういう意味合いになるんだろう?って疑問に感じていたのですが、ちょっとだけ垣間見たような気がしました。
ほんとにちょっとだけだけど。
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この日記を書いた後に、こんな記事を発見しました。
【mixiより転記】古代エジプトで、本当は妹を愛していたのに。
【mixiより転記 8月30日】
「上」でのお茶会で、かさねさんが見てくれた【ハイヤーセルフのビジョン】がきっかけで、ともこさんが古代エジプト時代の妹だった、ということをクレアコグニザンスとしか言えない感覚で思い出したわけですが。
その後、ききょうさんとともこさんと私との間で少しやりとりがありました。
最初に私が思い出した過去世より前の過去世でも、ともこさんは私の妹でした。
その時の私は姉でした。
以前、ききょうさんが書かれた日記が↓です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=630768563&owner_id=14461292
これを読んだ当時は、
「再生復活を祈る神事のための生贄なんて、こえー。てか、やだよなー。こーゆーの。」
と、思ったくらいだったのです。
だって、自分と関係がある出来事だったなんて露とも思わなかったんですもんね。
でも、とても深い関係があったんです。
妹は、この時代でも巫女(女性神官)で、なんと自ら志願して生贄となっているのでした。
ききょうさんから教えてもらった時は、「へ?そうなの??」とビックリはしたものの、どうしても思い出せません。
なんでピンとこないんだろう???と不思議でした。
さて。
ききょうさんに薦められてアマゾンで購入した「フラワーオブライフ」が届いた日のことです。
フラワー・オブ・ライフ―古代神聖幾何学の秘密〈第2巻〉 (2005/09) ドランヴァロ メルキゼデク |
本を読みながらも、お父ちゃんとおしゃべりしておりました。
すると、お父ちゃんが言いました。
「面白いなぁ、と思ったんだけど、ききょうさんとともこさんとお母ちゃんは、今世でも昔と同じようなことしてるんやね。ききょうさんは、その高い能力ゆえに『縛られて』、お母ちゃんは怒りながら「真実はどこやー。」と探しまわって、ともこさんは神様の中に素直に飛び込んでさ。」
今世のともこさんは「道具」となって絵を描いていますが、それって一種の「神様に委ねてる姿」だと思うんです。
ききょうさんだけでなく、子供の頃から【分かる人】であることは、生きにくさを伴うということは、容易に想像できることだと思います。
真に共感することはできなくても、です。
だから、なるほどな~~、お父ちゃんウマイこと言うなぁ、と思ったんです。
それで、私は思い出したんです。 (またまたクレアコグニザンスとしか言えない感覚で。)
当時の私は、神様(というか神官たち?)にも怒ってたし、自分自身にも怒っていたし、妹にも怒っていたんです。
妹との最後の時間にも、私は怒ってて口をきかなかったんです。
なんてことでしょう。
妹の信仰、妹の想い、妹の愛を真から理解しようとせず、私は怒りのために妹に背を向けたのです。
この「怒り」は、ずっと自分のさまざまな過去世と今世にも影響してるなぁ、と気がついたんです。
たとえば、古代エジプトの妹に対して怒ったように、私は弟たちにも同じ怒り(そりゃ強度は同じじゃないけど。生死の問題じゃなかったんで。)を感じたりしてたのです。
ある種の怒りの原点がここにあったがゆえに、私は思い出したくなかったんだな、と感じました。
そうやって気づいた直後。
お布団の中でうつらうつらしていたら、フラワーオブライフの図形がどーーんと出てきたのです!
そして、何かを深く理解した……ような感覚になったんですが、朝になったらすっかり忘れてしまいました
でも、多分ずっと抱えていた怒りに関することだったと思います。
もしかしたら手放したのかもしれませんね。
ちなみに。
ともこさんが携帯メールに送ってくれた絵というのが、↓の右の絵でした。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=911733621&owner_id=5587416
【mixiより転記】今、エジプトが熱い。
【mixiより転記 8月20日】
過去世を知ったからって、どうってことないっちゃ、どうってことないんです。
だって、大切なのは、今の自分をいかに生きるか、ですからね。
でも、ヒプノなどで過去世のイメージが湧いてくると、ここが面白いんですがね、今の自分の人生じゃないから、親しみを感じつつも客観的にその時の人生の意味を捉えることができるんです。
そしてその学びは、今世にも通じる課題であることが多いんですね。
また、今世での想いの癖の原因となっている過去世での出来事を知ることで、人生をもっと楽に生きられるようになるんですね。
あとは単純に、「あら、そんなご縁があったのね。」と喜ぶとか。
というわけで。
なんだかエジプトの過去世がホットな話題となっているお母ちゃんです。
水都輝さんもかさねさんもエジプトつながりっぽいし、ききょうさんともエジプトで知り合いだったそうだし。
嬉しいやらビックリやら、でござるよ。
そうそう。
コメントでききょうさんが、私とともこさんが「姉妹」だったと書いてくれました。
あ、と思いました。
てか、ちょっとビックリしました。
実はですね、例のイメージが湧いてきた時のことなんですが、イメージを追いかけながらぼんやり思ったことがあるんです。
「あー。この人生よりも前にもエジプトで生きてたことがあるなぁ。その時もともこさんと一緒だったっぽいなー。なんか私も神殿に仕えてたのかなー?そんな感じがするけど……でも、このお兄さんの時じゃないみたいだしー。」
って。
「姉妹」だったのは、そっちの時かもしれないですね。
ちなみに。
私のイメージが正しいとか正しくないとか、ききょうさんのアカシックアクセスが正しいとか正しくないとか、そーゆー正誤の問題じゃないんですよ。
でも、あえて言うなら、ききょうさんの方が正解率はうんと高いです。
それは間違いないっす!
私のは、もしかしたらいろんな人生が混ざって解釈してるかもしれんなぁ、とも思うしー。
精度、低いんで。てへへ。