アストラルリーディングをしてもらいました

先日、こちらの記事に書いたとおり、Whitelotusさんのアストラルリーディングのモニターセションを受けたのですが、
昨日はyoriさんとの交換セションでアストラルリーディングをしてもらい、アストラルドローイングもしてもらいました♪
それがこの絵です。
私の心象がアストラル体に映し出された星空です。
私の宇宙です。
アストラルリーディング
yoriさん曰く、水色やペールグリーンが印象的だったそうです。
タミエルの色だなぁ~…と、ニヤニヤしてしまいました。
Whitelotusさんにリーディングしてもらった時には、第1レイヤーのところで「呪い」があると指摘してもらいましたが、それをマイティピュリフィアで解消たおかげで、今回はyoriさんからそのような指摘をしてもらうことはありませんでした。
ちゃんと解消してて良かったです。
と、
(他のも含めて)解消した部分以外については、やはり「同じもの(私のアストラル体)」を観てもらってるわけですから、翻訳時の表現が違うだけで、ほとんど同じ内容でした。
同じものを解読してもらっているのだとハッキリ分かりました。
『敵も味方も無く、人も自然もみんなで大合唱という感じ。』と前回言われた部分を、今回は『差別とか比較とか無くて平等。石も人も(存在としての本質的な価値は)一緒と捉えている。』と言われたり、
『普遍の愛、(マイティピュリフィアで説明されるような)マリア的愛にプラスして私ならではの愛を深めていくチャレンジをしている』と言われた部分は、『ネガティブを否定し消し去るのではなく、大気のように大きな規模で包み込む(←これもマイティピュリフィアっぽい)』と言われたりしました。
すごく良い人っぽくないですか?私!
実際の私は当然ですけどアカンところだらけですし、お父ちゃんともよくケンカしますし、イライラして子供にキツめに叱ってしまうこともありますし、毒も吐きます。
でも、それは「本質的な部分」と肉体のこの私の境界にあるガラス板に汚れがついてるようなもんかなー?と思ったんです。
汚れをちょっとずつでも落としていけば、リーディングしてもらったような本質がどんどん見やすくなる(表現されやすくなる)んやろうな、と思いました。
あ、それは私だけではなく、誰でもそうなんだと思います。
みんなそれぞれ唯一無二の宇宙を持ってるんだと思うので、ガラス板の汚れさえせっせと落としていけば、その本質が現われてくるんだと思います。
そして、そういう自分の本質である「平等」を、自分の生き方で伝えていこうとしているらしいです。私。
まだまだこれから…らしいです。私。
その手段としても…のようにも感じたのですが、お2人共「エネルギーと絵を結びつけるといい」と指摘してくれました。
これがお2人共「たみえさんはもうやっていらっしゃるんですけど、さらにもっと、ということですね。」と言ってくれまして、
「私は絵を描いていいんだ…。」と最初のセションでものすごくホッとし、2回目のセションでは「私は絵を描いた方がいいんだ…。」と、気持ちは更に一歩前に出たような、そんな感じになりました。
そんなリーディングをしてもらって、
「私って、48年間かかって基礎工事を延々としてきたようなもんなんやなぁ~…。」と思いました。
ここから本格的に建物を建てる…のかもしれませんね。
シンプルで、日当たりが良くて、風通しも良くて、住みやすい使いやすい建物を目指しますわ~。
ちなみに。
交換セションということで、私は思いつくままyoriさんの臓器にあっちこっちとマイティピュリフィアを流させてもらいました。
これはこれで実に興味深かったです!
というわけで。
yoriさんのツイートを貼っておきます♪

氣乃さんのセションと六芒星の太陽と時環とinahoと

まーーーー、これがですねーーーー、
4月下旬からいっろいろありまして…………、
まだ現在進行形でまとめきれないので、ちゃんと書けませんが、
そのいっろいろの最中に、氣乃さんのシナジーコンディショニング(の有料モニター)を受けてましてね。
あ、まだ2/3回で、残り1回のセションが残ってるんですが、
まーーーーー、これがですねーーー、
驚きましたわーーーーー。
って。
いっろいろあって、まだ氣乃さんに2回目のセション後の報告していないので申し訳ないのですが、ここで報告代わりに書かせてもらうことにします。
(アップしたらちゃんと氣乃さんにメールしますから!)
2回目のセションで、遠隔でエネルギーを流してもらった時に、このようなビジョンが浮かんできました。
まず、ファウのツインであるガイドの『J』(←と私が呼んでる。コードネームみたいなもんです。)が直前からピッタリ寄り添ってきた感覚になりました。
そして、まるで丸いランプシェードみたいなものに包み込まれたようなイメージが浮かび、
額から眉間の奥、脳の真ん中辺りを鍛冶屋さんたちがトンテンカントンテンカンと叩いて治しているようなイメージが浮かびました。
そのうち、その修理によって繊細な模様が浮かび上がってきて、修理が終わったと感じると、そこをまるで青白い炎で燃やすかのように見えました。
そのように浄化されていったのだと思いました。
すると突然、心臓がバクン!としまして、
ハートチャクラと(実際は私が向いていた方向に太陽はありませんでしたが)前方の緑色の太陽が一直線に繋がり、その緑色の太陽からCodeのような…符号のような…何かしら『データ』が流れ込むようにダウンロードされるビジョンが浮かんできました。
ダウンロードが終了すると、額にクジャクの羽のようなものを貼られました。
これがとても近いイメージです。
TOMOKOさんからのプレゼント
TOMOKOさんにもらったものです。(我が家の冷蔵庫の扉に貼ってあります。)

と。
ここまでは、エネルギーを流してもらった直後に報告したのですが。
何故なんでしょうね。
今さっき視たビジョンだというのに、最後の最後のビジョンについては、氣乃さんに報告しませんでした。
というか、報告中に頭から抜けてしまったのです。
セション後にノートにメモし始めて、
「あれ?なんで私は氣乃さんにコレを報告できなかったんだろ???視た直後なのに。」
と、ほんとーに不思議になったのですが、
まー、こういう時は『その時に言うべきものではない』とストップがかかったんだと考えた方が正解に近いような気がします。
というわけで、
クジャクの羽のようなものを額に貼られた直後のビジョンです。
何故か「誰かを救い出さないと!」という強い感情が湧いてきました。
すると、何者かが、お前がやらなければならない、と私に語りかけてきたので、
暗い冷たい深海のようなところに深く深く…潜っていきました。
その時、氣乃さんが送ってくれているエネルギーと他のガイド達から送られいるエネルギーがまるでロープのようになり、それを掴んで深く深く潜りました。
「ああ、このロープがあるからここまで潜れるんだ。」と思いました。
命綱のようでもあり、同時に推進エンジンのようでもありました。
深く深く、とても深いところまで潜って行き、ようやく誰かの腕を掴みました。
その人と共にロープの力で浮上し、その人を見ると、それは「もう一人の私」だと思いました。
しかし、「もう一人の私」はあまりに冷たい体をしていて、ぴくりとも動かないので、その場でミカエルとラファエルに彼女を託しました。

セションから2週間くらい経ってからでしたか。
ふと、あの「もう一人の私」はどうしているんだろう?と、思いました。
思った途端、彼女が視えました。
足取りはおぼつかない様子でしたが、それでも動けるようになっていました。
「あー。目覚めたんだ~。良かった~。」と、思ったら、ぱん!と【私のネイタルチャート】(ホロスコープ)が出てきました。
とてもとても大きなサイズに感じました。
その大きなネイタルチャートの【太陽】の位置に立派な椅子があり、そこに彼女が座ったのでした。
私のネイタルチャートはアングルの1つとヴァルナという小惑星(占星術的には「真の支配者」という意味らしいです。)を含めると、太陽をその一角とする六芒星ができます。
そして六芒星を構成している他の惑星たちというのも、土星より遠いものたちです。
月子さんに、「たみえさんは太陽で生きていない。月で生きてきた。」と指摘されたというのは、以前にも書きましたが、
自分の太陽でも生きよう…と思っても、ジタバタするだけで、結局はどうしたら良いのかが分からないままでした。
そりゃ分からんかったわけです。
太陽が空位だった
わけですから。
太陽の椅子に誰も座っていなかったのですから、太陽で生きることができるわけがなかったのです。
やっと太陽で生きるための最低限の準備が整ったのかも…と、思いました。
だって、深く暗く冷たい海の底からサルベージしてきた「もう一人の私」は、やっとヨタヨタと歩ける程度にまで回復し、太陽の椅子になんとか座った…という状態だからです。
ぐったりした様子で座ってるだけです。
まだまだこれからです。
……と、考えていたら、ふっと一瞬だけ『もう少しだけ回復した彼女』の姿が視えたのですが、
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1013.htmlに書いた『パドメみたいな私』に成っていく途中…という感じだったのです。
あのイメージワークで出てきた存在が、私の太陽のあるべき姿なのかもしれないなー…と思ったら、腑に落ちる…に近いような感覚になりました。
人生残りの時間をかけて、私の太陽を「パドメみたいな両性具有な存在」に育てていくしかないよなー……と、考えていました。
そしたらですね。
16日の金曜日にinahoでですね。
inahoのお客さんのYちゃんに占星術の基礎の基礎を教えることになったんです。
Yちゃんは占星術の知識が全く無いというので、「占星術ってこういうものなのかー。」ということが分かる程度まで教えることになりました。
私自身がシロウトですから、「その先は自分で先生見つけるか独学かで学んで。」と、お願いしました。
その勉強会が終わった後、もう一人のYちゃん…えっと、こちらはYBちゃんとしますか。
店主のひろちゃんとYちゃんとYBちゃんと私の4人で雑談していたのですが、これが「なにみえ遠足」の話とかになりましてね~。
もう9年も前のことなんですね。なにみえ遠足って。
私の遠足のレポはコレなんですが、懐かしいです。
雑談の途中でまずYちゃんが用事があるので帰りまして、
3人でまた遠足の話を続けていたのですが、こういう話をすればそりゃ「行ってみたい!」ってなりますわね。
こういう話ができる人たちならば。
でも、私じゃ連れてってあげられないし~……って笑って話してたら、(遠足の時に私の守護龍となった)時環が突然言いました。
「ひろちゃんなら今ここで連れていけるよ。」
と。
あ、ちなみになんですが、これは「声」で聞こえるんじゃないんです。
思考のカタマリをぽんっと頭に投げ込まれるような感じなんです。
なので、え?と一瞬戸惑いましたが、時環を絶対的に信頼している私は、ひろちゃんを自分の隣に座らせて、彼女の手を握り、誘導しました。
こんなこと初めてです。
時環と私の共同作業でした。
すると、ひろちゃんはほんの数分の誘導にも関わらず、ちゃんと「上のひろちゃん」の姿を捉えることができました。
もちろん私にも視えました。
ひろちゃんが視た姿と、私が視た上のひろちゃんの姿は一致していました。
残念ながら、YBちゃんを今ここで上に連れていくのは無理、と時環に言われたので、そう彼女には言いました。
私の力不足なのか、系統違いなのか、タイミングじゃないのか、理由は分かりませんが、やはり誰でもOKというわけではないので、逆に『ひろちゃんだからたまたまOKで、たまたまできた』と考える方がいいのかも、と思いました。
そして、YBちゃんが帰り、私ももう少ししたら帰ろうか…と思っていたら、今度はJちゃんがお店に来ました。
「やー、今さ~、こんなことがあってさ~。」と、ひろちゃんと私でJちゃんに説明していたら、そりゃJちゃんも「いいな~いいな~。」と言い出しますわね。
そりゃそうだよね、でもたまたまだったからね~……と、思っていたら、
あれ?
上に3人いるよね??
タミエルとひろちゃんの上の人と……あれ?もう一人ってもしかしてJちゃんの上の人??
と、ビジョンが浮かんできまして、あれれ???と思っていたら、またしても時環に「もう一回。」と言われたので、慌ててJちゃんの隣に座り、誘導を始めました。
これもまたビックリするくらいスムースに彼女も「上の自分」を視ることができました。
今までの彼女の話を聞いていると、ビジョンを視ることは不得意そうな感じなのに、スルスルっとできたのでした。
そして、これもまた私が視た姿と一致していたのです。
上の自分と肉体の自分というものの関係性等について、2人にアレコレ説明した後、
そのうちinahoに集まっている『人を癒す人たち』をメインとしたイベントをするつもりで、そこには私も入ってるから、と、ひろちゃんが言いました。
何故かinahoにはヒーラーさんたちが集まっているし、癒されるものを持っている人たちも集まります。
私がひょっこり買い物に行って、そこで癒しのお手伝いをすることになった…というのも実は何度もあります。
別に私はヒーリングをするわけでもないし、霊能力で視るわけでもありません。
ただ、話を聞いて、本人が自分の問題点の在処を意識できるところあたりまで付き合うだけなんです。
そういう姿を見ているひろゃんが、私をヒーラーさんたちと同等に見てくれているのはありがたいことではありますが、
私は絵描きであって、癒しのプロじゃないから~、癒しのアイテムは何も持っていないから~、と答えると、
ひろちゃんとJちゃんが「くまえるがいる!」と言うんです。
ひろちゃんとしては、ただ私は会話をすればいいらしいのですが、それではイベントでたとえワンコインだけだとしてもお金をもらうのが憚られると言うのなら、くまえるとくまえるの言葉を描けばいい、と提案してくれたのです。
その夜、YちゃんもひろゃんとJちゃんと同じようなことを書いてメッセージを送ってくれました。
彼女と初めて会った時、彼女は号泣していました。
その時も、彼女の話を聞くことで、彼女が自分で自分を癒すためのちょっとしたサポートをさせてもらったのは事実です。
彼女たちが私を評価してくれるのは本当にありがたいことです。
……そうは言っても。
太陽の椅子にサルベージした「私」が座ってからのこの流れに、正直言えばもぞもぞしています。
おそらく、自分の中で「私はこうしたい」というのが相変わらずハッキリしていないからだと思います。
民絵屋も周囲から求められて始めたので、今回も求められたままにやればいいんじゃないか、と思う自分もいるのですが、
民絵屋を始めるのとはちょっと訳が違うよなー、と感じる自分もいるのです。
こう…なんて言うか……
肚からちゃんと意図する
ことがまず大切で、
そのためには、自分(の魂)が何処を見ているのか、をそろそろ真剣に知る努力をしないといけないんじゃないか、と感じるのです。
今までは肉体の自分の求めるもの…つまり、健康面での改善希望や『世界の仕組み』を知りたいという知的欲求が宗教やオカルトやスピリチュアルと呼ばれる分野での様々な経験を導き、その積み重ねがある程度なされてはきましたが、あくまでそれは「自分自身のため」でした
ネットで仲良くしてきた人たちや、inahoで会う人たちだけでなく、民絵屋のお客様からのメールへのお返事もそうですし、リアルでの知り合いからの相談もそうですが、その人が抱えている問題を解消するための一助となるようにその人の中に無かった視点を示すために私は自分のできる限りのことはしますし、その時は真剣にその人のためになれば、と純粋に思っています
不思議と本当に純粋な気持ちなのです。その時は。
でも、だからと言って、私は(世界平和は祈っているけど)人類を救いたいとか世界を良くしたいとか、そういう大志は抱いていないのです。
その時その目の前の人の一助になろうという気持ちしか持てないのです。
やはりそれでは積極的に「多くの人を癒す」という志向を持ち得ないのです。
そんな状態で、イベントに参加するのはやはり志が高い他のヒーラーさんたちに申し訳ないよなー、と思うのです。
それでいいのか、それではよくないのか。
「大きな意味での自分(魂とかね)」がこの肉体の私に課したものが何なのかを、私がもう少しちゃんと感じ取ることができれば、そこらへんがまずハッキリしてくるような気がするのです。
太陽の椅子に座った私と、もう少しちゃんと話せるようになることで、そこらあたりが見えてくるのかなー…なんて思ったりしています。
…たぶん。

こんな私ですけど。


以前、こんなことを書きましたが。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1297.html
この数日後、浜松のお寺に行ったのですけど、そこは浄土真宗のとある宗派ですから、もちろん「他力本願」なお話をしてくださるわけです。
そして、私たち夫婦(や家族)が豊橋の先生と20年近くも縁が続いてるというのは、「(他力本願による)救われの道」に入っているからだ、と言われました。
「他力本願」を本来の意味とは違った使い方をしている人も多いかと思いますが、めっちゃざっくり言いますと、すべての人間が救うという阿弥陀如来の「本願」によって我々は救われる、ということです。
五井先生の教えも「お任せしきる」ですし、小学生の頃に2年間ほど教会に通って聖書の教えを聞いていたのですが、イエスの教えも私からすると同じに思えていました。
振り返ってみると、私の場合は自力で救われようとする方法ではなく、神霊(神・仏・高次の自分…などなど)にお任せしきるという道を進むように促されていたんだなー、と思います。
もちろん、全員がその道を進んでるわけではないです。
私の場合は、です。
そして、浜松のお寺さんに「自力も他力もどっちもと、中途半端なのがよろしくない。」と言われて、内心きゅうううう~となりました。
『信頼すべきは、高次の自分、神なる自分しかないやん。』と思えたにも関わらず、どうしても「自分」でなんとかしようという意識が知らず知らずに浮かんできますからね。
お任せしきる、というのは簡単なことではありません。
下手に知識や経験がある方が余計にアカンですね。
親鸞が「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」って言ってますけど、そりゃそうだよなー、と思います。
自分のことを悪人だと自覚しているなら、こんな悪人の自分が救われるのは阿弥陀如来への帰依しかない、という心境になりますもんね。
イエスが癒しの奇跡を起こした時にも「貴方の信仰が貴方を救った」と言ってるところがありますしね。
まぁ、でもですね。
それを分かった上で、宗教についてもスピについてもあれやこれやと分析し考察し、自分の中で組み上げ続けているんです。
遠回りなんだろうなー、とも思うんですが、おそらく誰かに語るための言葉が欲しいのだろうと思います。
私は誰かを救うことはできないけれど、私の魂を語ることで、誰かに「それが私たちなのだ」と伝えたいのだと思います。
で。
最終的には、言葉で語らなくてもそこに居るだけでそれを伝えられる可愛いおばーちゃんになりたいですね。
そのためには、お任せしきるしかないんですけどね。

「そもそもお前が実現したい自己って何だよ?」

先日、ミカエルの絵を描いた時に、絵の一部をマクロレンズで撮ってみました。

ひとりで
「ミカエルっぽい!ミカエルっぽい!」
と、ニヤニヤしておりました。
さて。
確定申告の書類も税務署に提出し、やれやれといったところだったのですが、
ここ数日は基本的にもにょーーーんとしておりました。
そういう星回りだったのかもしれません。
そいえば、12日(日)の23時過ぎに乙女座の満月だったようですね。
その翌日13日…って昨日ですけど、昨日の正午ちょい前に「お!」がやってきました。
ここ2年ほど氣乃さん伝授のヒーリングをちまちまちまちま…と続けたことによって…だと思ってるのですが、
自分の中の「ベースライン」みたいなものが少し上がってきたなー、という感覚になっています。
さらに、去年の11月にこじ蔵さんのセションを受け、自分の中にずーっとあった「目立つのが怖い」という過去世由来の不要となった思い込みもそこそこ解消されていきました。
そうなったところで、私のホロスコープに対する月子さんの解釈を再考してみると、どうしても「自己信頼ができていない」というところに行き当たってしまうのでした。
そんなことを考えているうちに、この数日は自分が停滞しているような、そんなもにょーんとした気分になっていったのでした。
すると昨日、とあるツイートが目に入りまして。
それは、子供を通して自己実現するしないの話だったんですが、それを読んで


とツイートしたんです。
娘がディスレクシアだと分かった時に、私は自分自身に隠しつつもガッツリそういう意識を持ってる、ということを自覚させられたのでした。
そんなことを思い出しつつツイートしてたのですが、はたと問いが浮かんだのです。
そもそもお前(私)が実現したい自己って何だよ?
と。
すると、するするする~~~と、絡まってた紐が解けるかのような感覚になりました。
いやいや。
実現したい「自己」なんて、そもそも無いやん。
信頼すべき「自己」なんて、この肉体の「表層意識の私」としての「自己」には備わってないやん。
つまり、その「自己」である自分を信頼するなんてことは、ハナっからできないことなんや。
信頼すべきは、高次の自分、神なる自分しかないやん。
脳の働きによって表出している「私」なんてのは、実在ではなくて『働き』でしかないもん。
スマホのアプリみたいなもんや。
実在する本体はスマホなのに、1アプリ(プログラム)を実在する自分自身だと、どうしてもすぐに思い込んでしまうんやな~。
で、この『働き』(アプリ)を洗練するために、知識を得て知性を磨く(アップデートする)ということは良いことではあるけど、そうすることで【「私」を信頼に値するもの】へと変えていこうとしてたのが間違ってたんやな。
信頼できないものを信頼しようとしたって、いつまで経っても信頼できるわけないわな~。
自己信頼できてへんのが正解やったんやな~。
でもって、信頼すべきものを信頼しない限り、私の六芒星のエネルギーは回せないままなんやろうなぁ…。

……と、『今まで頭で分かってたこと』が『お腹の辺りまで落ちてきた』のでした。
頭では十分分かってたことなのですが、なーんだこういうことか……と、お腹で分かったのでした。
頭で分かってるのと、お腹で分かるのって、雲泥の差だよね!
は~……、すっきりした~……と、いう感覚になったところで、丁度正午のサイレンが鳴ったのでした。
まるでなんだか1枚脱皮したような、そんな心持ちになったので、近所の神社にお参りに行ってきました。
お腹の辺りに落ちてきてくれました、ありがとうございます、とお礼を言ってきました。
おみくじ(←神様からのお手紙だと思っている)を引いたら大吉でした。
「今はイマイチやと思ってても、ええ感じになるよ~。」というお手紙でした。
そしたらさきほど、こんなツイートが流れてきました。


ここで言う「エゴ」が「働き」のことで、「あなた」が「神なる自分を信頼している私」だとすれば、その通りだよな~、と思いました。
「人の子よ、ようやく分かったか。」

願いと祈りの違いを娘に話した、というお話。


今日まで学校に行けない息子は、妖怪ウォッチのメダルを出し入れしたり、タブレットで「ぐるぐるマップ」(←グーグルマップのこと)を見たり、友達の名前をたくさん書いたりして遊んでおります。
しかし、おとーちゃんはお布団の中です。
実は、日曜日の午後からダルいと言い出し、月曜日に発熱しまして……。
インフルエンザA型でした。
多分、息子を休日夜間診療所に連れてってくれた時に罹ったんだと思います。
待合室に50人くらいいて、そのうち20人くらいがインフルエンザっぽいなー…と思ったそうですから、ちょっと喉が弱っていたおとーちゃんが罹ってもおかしくなかったと思います…。
おとーちゃんも熱は火曜日の朝から引いてるんですが、まだちょっとダルいみたいです。
お仕事をいろいろ抱えてて大変そうなので、与えられた休息と捉えてゆっくり休んでくれたらいいかな、と思います。
というわけで。
NOインフルエンザな私と娘が昨日は一緒にお風呂に入ったのですが、
娘が突然質問してきました。
「世界が平和であるように、と思ってることって、口先だけのことなの?」
学校で何かあったのかなー?と思いつつ、その疑問は横に置いておいて、湯船につかりながら娘の質問に答えていきました。
「もちろん、娘ちゃんが世界が平和であるようにと思って、何か行動したとしても、世界は平和にならんよね?」
「うん。」
「娘ちゃんがトランプさんみたいにアメリカ大統領になったとしても、それは簡単なことやないのは分かる?」
「うん。」
「ってことは、誰が平和を願って行動したとしても、世界はそうそう変わるもんやないのは分かるやんね?
でも、『自分1人が選挙で投票したって日本は変わらない。』と思ってたくさんの人が投票せーへんかったら、変わるもんも変わらんやろ?」
「うん。」
「だから、どうせ無駄だからって何も期待せんくて何もしないというのは違うってのも分かるやろ?」
「分かる。」
「そういう意味では、小学生の娘ちゃんであっても、世界を変える直接的な力が無いから無駄やと世界の平和を望まないというのは良いことやないってのは分かるよね?」
「うん。」
「でね。それとはまた別の意味でね、『祈り』と『願い』は違うんよ。」
「違うの?」
「違うんよ~。これが。願いは…娘ちゃんは立春にお稲荷さんの奥の院に行ったやろ?あそこでおじさんに『ダキニ天さんにお願いしてくださいね。』って言われたやろ?それで『ソロバンとトランペットが上手になりますように。』とお願いしたやろ?それはお願いなんよ。だから時間が経つとお願い事はどんどん変わっていくんよ。娘ちゃんが中3やったらきっと『第一志望の高校に合格しますように。』ってお願いするやろうし。」
「ああ、そうやね~~~。」
「でもね、お祈りは違うんよ。何歳になろうがどんなことが起ころうが、同じことを祈り続けるやろ?自分がお金持ちになったら世界が平和にならんでもいいや~、ってならんやろ?」
「ならんならん。」
「それにね、お祈りはね、あれは自分でしてるようで、自分でしてるんやないんよ。」
「どゆこと?」
「人間はみんな大元の神様から光っちゅーか、命をね、わけわけしてもらって生まれてきてるからね、みんな大元の神様とほそーーーい糸で繋がってるんよ。お釈迦様とかイエス様とかは、その大元の神様とずどーんと繋がったから糸がちょーーー太くて、体そのまんまの太さやけど、娘ちゃんやおかーさんはほっそーーーい糸くらいなんよ。あ、○○先生(←豊橋の霊能師さん)やと親指くらいの太さかもしれんね~。とにかく、普通の人はほっそーーーい糸で繋がってるんよ。でもね、大元の神様と自分の間に黒い厚い雲がどんよりかかってるとね、糸が繋がってることすら分からんくなってしまうんよ。」
「あー…。クラスメイトにそういう感じの子おる…。神様なんておらんって言う。」
「そうなると、大元の神様からの光がちゃんと届かんのよ。でも娘ちゃんはほっそーい糸やけど、ちゃんと届いてるから、世界が平和になりますように、って本気で思えるんよ。世界が平和になるようにって本気で思ってるのは、実は娘ちゃん自身やなくて神様からの光がそう思わせてんのよ。それが祈りなんよ。」
「あーーー!そうなんやーーー!分かった!すごい分かった!」
と、
娘は納得してくれました。
どうやら、学校で読んだ本の中に「そんなの口先だけだ。」という話があったようで、それで自分もそうなのかな?と疑問に思ったとのことでした。
ちなみに。
私は(入信はしてませんけど)五井先生の世界平和の祈りをずーーーーっと続けておるのですが、
五井先生も、それを教えてくれた豊橋の先生も、それこそ最初は口先だけでいいから続けてね~、と言ってまして、
それは娘に説明したことの「逆」のことが起こるからなんです。
口先だけで祈り言を言い続けると、それが少しずつ少しずつ大元の神様からの光を通してくれるようになって、いつしか口先だけの祈り言から「祈り」になっていくんです。
それはどんな宗教の祈り言でもそうなんですよね。
たまたま私は五井先生とご縁があったというだけで。
ですから、信仰というのは、「どんな状況であってもその祈り言をずーーーーっと言い続けることができるしぶとさ」とも言えるような気がします。
…とは言っても、これはやっぱり古いやり方なんでしょうね。
スピ的にはいろんなメソッドがあるようですし。
昔なら死ぬほどの修行でもせん限り知り得なかったことを本やネットで知ることもできますしね。(←あくまで「情報」という意味で、ですけどね。)
でも私は古いやり方が好きなんですよねぇぇぇぇぇ♪

椎茸を買いに行ったら、思いがけずヒーリングセションを受けることになったお話(その2)

TOMOKOさんから魔法の絨毯が届きました♪

星のように見えますけど、絵で描く星は五角形が多いですよねぇ…。
でもやっぱり星に見えるんですよねぇ…。
最近気づいたんですけど、ICとマイナーな小惑星を1つ入れると六角形(六芒星)になるんですよねぇ。私のホロスコープが。
なーんとなくそれに見えて仕方がないので、ちょっとドキドキしてしまいました……。
やはり「箱入り太陽」を箱から出さないと魔法の絨毯に乗って遠くに行けないのかしら~????
*+*+*+*+*+*+*+*+*
さてさて。
昨日の続きです。
朝市に椎茸を買いに行ったら、ヒーラーさんにリーディングしてもらうことになった、という話でしたが、
……ここから少々怪しくなります。
キネシオロジーを使って、私の魂に対してリーディングをしてもいいかの許可を得ようとしたところ、
どうにもおかしな動きになったのです。私の腕が。
シロウトの私でも「これ、なんかおかしくない?」と思う動きだったのです。
もちろんヒーラーさんも「あれ…?」と何度もやり直すのですが、やはりどうにも変な感じなのです。
『あー。きっとリーディングの許可が降りないんだー。私の魂が拒否してるんかなー?』
と、私は呑気に考えてたのですが、ヒーラーさんは難しい顔をしながら言いました。
「邪魔が入りましたねぇ…。」
するとヒーラーさんは立ち上がり、ぱっぱっと何かをし始めました。
九字を切るみたいな、そんな感じのヤツでした。何かは分かりませんけど。
すると、また筋反射が正常に戻ってきました。
「……邪魔って何ですか?」と、恐る恐る訊いてみると、ヒーラーさんは笑顔でかるーーーくとんでもないことを言いました。
「あなたが本当の自分に目覚めちゃうと困る存在たちが邪魔してきましたね~。それだけの人なんですよ~。」
なんですか?それ。
ファンタジーアニメか何かですか???

と、目が点になりました。
なりますよね?
そんなこと言われたら、目が点になりますよね???
と、内心あわわわわわ~な私。
「……でも、それって、占星術をやってる友人に最近『もうそろそろちゃんと表に出て太陽を生きなさい。』ってハッパかけてもらってて、えー?それこわいーー、って思ってる自分もまだ居るのが分かってるんですけど、そのせいで無意識に変な筋反射になってたんじゃないんですかね……?」
と、おずおずと訊いてみたのですが、
「そうじゃないですよ~。そういうのじゃないですよ~。明らかに邪魔が入ったんですよ~。」とこれまた笑顔でかるーく言われて、あわわわわわわわわわ~、な私。
実は、
本当の自分って、この自分以外にいるわけないやん?
という自分が居るのです。
スピリチュアルな世界の『独特な表現』に対して、どこか穿った見方をしている疑い深い自分が居るのです。
すべては方便だというのも分かっているつもりですし、非科学的なスピリチュアルな世界を否定してるわけではなくて、ちゃんと「そういうものだ」とある程度は分かっているつもりなんです。
なので、リーディングやヒーリングをしてもらう時に、信じてないのに信じてるフリをしてる…というわけではなく、しっかり向き合ってるんです。
けれど、同時に穿った見方をする疑い深い自分もいて、しっかりチェック機能が作動するのです。
イヤなんですよ。
「今のこんな自分は本当の自分なんかじゃない。」という想いを秘めてて、それがあるから「ほんとうの貴方はすごい人なんです。」という言葉に飛びついてしまう……というような在り方が。
みんなすごいのーー。
みんな神様の分霊なんだから、(自分を葉っぱ1枚とすると)本体(の樹そのもの)は誰でもすごいのーー。
その本体の光が肉体の自分にもさーーっと届いて、ぱーーーっと放てるような、そんな風通しのいい自分にさえなれれば、誰でもすごいのーー。
だから、本当の自分ってこの自分以外にいないのーーー。

と、常々思ってるのです。
そんなわけで、
あわわわわ~となりつつも、『まぁ、そういう解釈もアリだよね。』と、数秒で自分の中で折り合いをつけて、本格的にリーディングをしてもらったのでした。
その時に、前の日記で書いたように、ご先祖様のご供養はほぼほぼクリアになってるし、現世の私の心の傷も癒すべきものが見当たらない、ということで、過去世で受けてしまった魂の傷についてリーディングをしてもらいました。
すると、どうやら隠れキリシタンの時の大きな恐怖心が魂に刻まれている、とのことでした。
キリシタンであることは決してバレてはいけないわけですから、恐怖心の大きさもさることながら、目立ってはいけない隠れていなければいけない、という強迫観念もさぞ強かったのだと思います。
そりゃそんな傷が残ってたら、太陽を箱に入れて鍵かけますわ。
いくつかの過去世を思い出してはいるのですが、隠れキリシタンだった時のことはちっとも思い出せません。今のところ。
しかし、私は魂というのはたくさんのつぶつぶで構成されてると思っているので、そんな傷を持った『つぶ』があってもおかしくはないと思いますし、
弟1号が様々なことを考慮してみると、私たちの父方の先祖はもしかしたら隠れキリシタンだったかもしれない、と以前話してくれたことがあったので、そういうご縁があってもおかしくはないだろうなー、と思うのです。
そして、隠れキリシタンだったかどうかを証明することはできませんが、もう今は無駄になってしまった恐怖心や強迫観念は手放した方が楽になるのは間違いないでしょうから、2日後に別の場所でヒーリングセションをしてもらうことにしました。
するとですね。
当日の朝、掃除をしながら、
「そいえば、リーディングの時に邪魔が入ったって言われたけど、だったら今日も邪魔が入るんじゃね?」
と、ふとそんなことを思ってしまったんです。
……そしたら、その後すぐに電話がかかってきました。
ダブルブッキングしていたので、申し訳ないけど時間を変えて欲しい、と言われました。
これはイロイロよろしくないな、と思いました。
なので、電話で会話をしながら、心の中で「邪魔が入る」という想念をごみ箱に捨てるイメージをしました。
そんなイメージをしつつ、変更する時間の相談をしました。
すると、ちゃんと無事にその時間に到着できました。
後から訊いてみたところ、ダブルブッキングなんて初めてのことだったそうです。
やっぱりねーーーーーーーー。
私が変なことをふと思っちゃったからごめんなさいねーーーーーー。
ヒーリングは小一時間ほどやってもらいました。
すぐに変性意識状態になったので、なんやかんやとイメージが見えました。
ずーっと宇宙と肉体の自分を行ったり来たり…な感じでしたが、
突然、丹田あたりに向かって上から鋭いぐるぐる渦巻きがきゅーーーっと降下して入ってきて、もうどうにもならない!降参するしかない!という絶望にも似た感覚になり、
「あー、わかったわかった!もうその螺旋の先端のところ、ふかーーーーいところで自分の人生を受け入れるから!」と心の中で叫びました。
すると、いきなり宇宙のイメージに切り替わり、目の前にどーん!と大日如来が現れたので、「あー…。はい。」ってなりました。
なお、この時の大日如来は大日如来そのものではなく、標識とかアイコンみたいなものだと感じました。
と、こんなイメージを見ていたら、ヒーラーさんに「はい。終了ですよ。」と声をかけられました。
最後の最後であのようなイメージを観ていたのでした。
というのが先週の出来事でした。
椎茸はもちろん美味しくいただきました♪

椎茸を買いに行ったら、思いがけずヒーリングセションを受けることになったお話(その1)

関東は初雪だそうですね。
こちらは雨ですが、寒いので初ストーブです。

あ、今シーズン初セーターも着ました。
「長い秋だなー。」という感覚だった先週。
最近は買い物せずにまったりさせてもらうことも多い自然食のお店の朝市に行きました。
肉厚ぷりぷりの椎茸が目的でした。
が。
その朝市はなんでもアリでして、なんとヒーリングのブースも出てまして、
前回の朝市の時に店主さんと「じゃあ次回はヒーリングしてもらっちゃおっかなー♪」なんて冗談で話してたんですけど、
店主さんが私のことをそのヒーラーさんに話しておいてくれたとのことだったので、じゃあせっかくなので、と、淹れたてコーヒー片手にブースにお邪魔してみたのでした。
まず、どんな方なのか知りたくて、どうしてヒーラーになったのかと質問しました。
するとですね。
ご縁というのは不思議なもので、ヒーラーさんが藁をも掴む思いで尋ねたのが、私がずーっとお世話になってる霊能師さんだったんです。
彼はその1回しか尋ねていないそうなのですが、そこから今の道を進み出したそうです。
その後何人かの先生に師事し、さまざまな経験をされたことをかいつまんで話してくれました。
と、ヒーラーさんのお話を聞いた後に、リーディングをしてもらいました。
キネシオロジーを使うリーデングなので、準備運動をしてからリーディングに入りました。
するとですね。
ありがたいことに、私のご先祖様の問題も旦那さんのご先祖様の問題も私自身の心の問題もほぼほぼクリアになってる、という結果だったのです。
これはほんとーーーーに嬉しかったです。
豊橋の先生のところに通い始めた時は、行く度に浮かばれていないご先祖様が次々と明らかになりまして、ご供養のために紹介してもらったお寺に何度も通いましたし、
ある時期からは、そのご供養を自宅でもできるようになりまして、その頃からはオカンが実家でご供養をしてくれるようになりました。
そして先々月、ようやく気がかりだった母方のご先祖様の永代供養をオカンがとあるお寺さんに頼んでくれまして、これでもうかなりスッキリしたんじゃないかなー?と感じていました。
旦那さんのところは、本家の方が正直まだまだ…だと感じていますが、分家の我々では何もできないですし、豊橋の先生も「分家だから自分たちのところだけしっかりやっていればいいよ。」と言ってもらったので、それはそれでOKだと思っておりました。
先生のところに通い始めて20年近くになります。
先々月にずっと気がかりだったご先祖様のこともスッキリしたタイミングでのリーディングだったので、ドキドキ半分ではありましたが、
「すごいですね~。ちゃんとご供養されたんですね~。」
とヒーラーさんが感心してくださったのを見て、心から嬉しくなりました。
今生のこの「私」の心の傷というのも、どうやら私は自力で修復していたようです。
まーーー、もう2年もすれば50歳になりますからね。
心の傷が修復できていないと『かわいいおばあちゃん』(←人生の目標)になれないので、中年期までに自己修復力が向上していたのは有り難いことだと思っています。
や。
これは、ラッキーだったんだと思います。
おそらく私は自己修復が不可能なほどの心の傷を受けていなかったのでしょう。
死ぬ病気ではないけれどしょっちゅー寝込んで、やりたいことを諦めることが当たり前になっていた半生ではありますが、
自己修復が不可能なほど心に大きな傷を負うような人間関係や事象が無かったというのは、私のケースでは、人生で表現されるべき「負」(←カルマとかねー。)の多くを健康問題で表現してるんじゃないか、と思うことがよくあるのです。
つまり、私のこの人生においては、心に修復不可能なほとのダメージを受けて、それを修復することに大きなエネルギーを割いている余裕が無い、ということなんだろうな、と思うのです。
ただ単純にそういうことなんだと感じます。
と、そんなわけで。
私と旦那さんのご先祖様と、私の心には癒すべき問題は無かった、ということでした。
が。
私の魂には、癒すべき問題があったのでした。
(つづく)

緻密に計算されてる



お昼は日溜まりでまったり昼寝なお猫たちであります。
実は今日は、急遽とある方のセションを受けてきたんですが、
それについては、そのうち書けたらざっくり書くとしまして、
とにかくですね、受けてきてですね、
あらためて「あー。」と思ったんです。
私は、「自分は何者であるか。」ということに、あまり興味が無いなー、と。
高校生の時に、思春期らしく自分の内面と向き合うことが多々あったわけですが、
ある時突然に「私って、健全だ。」と、まるで何かの啓示のように強く思ったことがありました。
その時にその意味するところは実はよく分からなくて、何が健全なのかは最近になってようやく分かってきたのですが、
その健全さのおかげで「自分が何者であるか。」ということに興味を示すことがあまり無かったのだと思います。
「私」という存在そのものに対しての疑いが微塵も無かったからです。(← これは「自分に自信がある」というのとは違います。)
でも、私は成人してから身体がしんどくなることが多くなったために、それをどうにかしたかったのです。
医者に診てもらっても良くならないことから、「何故このようになっているのか」の「仕組み」を知らねばならなくなったのです。
それらを根本的に解消したかったのです。
すると、それが自動的に霊的な知識を得ていく推進力となっていったのでした。
表層意識の、身体のしんどさに辟易している「私」からすると、「そんなん、かなわんわ~。」ってなもんですが、
それでも、「無駄なことは無いんやなぁ~……。てか、緻密に計算されとるんやなぁ~……。」と、今までよりももう少し深いところで感じ入ったのです。
しみじみしてしまいました。

やむにやまれぬ『好き』が湧きあがってしまった理由

おれは好きや
ここ数週間におよぶアレコレとその内観について、やっとまとめるタイミングになったみたいなので、まとめました。
若干長いです。
良かったら読んでみてください。
*****
私は20年以上前に占星術の本とソフトを買って、占星術の基本の基本の基本を学んだ程度なので、
ちゃんとした先生に師事して学んだ経験のある月子さんのようにはホロスコープを解読することは全くもってできませんが、
彼女の説明を聞いて「なるほど。」と理解することができるくらいの基本知識はなんとかあります。
が。
やはりそこはシロウトが本を読んで学んだ程度なので、とある占星術に特化したサイトを知った時にも「敷居が高いなー。」と思い、ずーっとアクセスをしていませんでした。
それがですね、何かを検索していてたまたま引っかかって、そのサイトだと気づかずに読んだのがキッカケで、ちょいちょいと読むようになりました。
いろいろ考えさせてもらっとります。
そのサイトの中に、男性におけるある惑星とある惑星のアスペクト(意味のある角度)について書かれているのを読みまして、
もしかして……と、おとーちゃんのホロスコープを確認したところ、それが在ったんです。
それはパートナーの女性にとってはマイナスに作用すると言えばそうなんですが、
でもですね、それはそうなんでしょうけど、その作用自体のことよりも、『薄々そうなんじゃないか?と思ってたことが、そうだよと言われた』ことに、どこか「やっぱりかー。」と納得できたことの方が大きかったのです。
別におとーちゃんが意識的にやってることじゃないし、
振り返った時に観える人生というのは(フラットに捉えて)「運命」でしかないと私は思っていまして、私とおとーちゃんが夫婦になって息子と娘を授かったというのは、すでに私の中では「運命」となっておりますので、
「その惑星と惑星のアスペクトに示されるような我々夫婦間のエネルギーの流れというのは、運命でしかない」と受け止めております。
その上で、私がどう意識したらいいのか、を考えていけばいいのかな、と思ったのです。
と、そんなことを月子さんに報告したところ、さらにいろいろ分析してくれまして、
その流れで、私が今まで考えもしなかったことを指摘してくれました。
ホロスコープにおいて私の月は、海王星とも冥王星ともハードアスペクトを形成していますが、逆に太陽は海王星とも冥王星ともソフトアスペクトを形成しております。(さらに言えばキロンともソフトアスペクトを取ってます。)
しかし、そんな太陽を私は旦那さんに預け続けていて、私自身の太陽としては活かしていなくて、私自身は月としてしか生きていない、という指摘でした。
これは、先に書いたことも大きく影響してなるべくしてなっていること、まさに「運命」だと思いますし、
私が太陽をおとーちゃんに預けて、嫁と母という「月そのもの」として生きてること自体に問題があるわけではありません。
実際に、我が家に何度も遊びに来てくれていて、我が家のことをよく知っている月子さんも、私が月をフル稼働して生きていることで、我が家のバランスが上手に取れていることを有り難いことに高く評価してくれています。
しかし、です。
私の太陽は、その意味合いとしては、めっちゃざっくり言えば「仕事バリバリすることで自己実現を目指す太陽」なのです。
それを、海王星も冥王星もバックアップしてるよ、という程度にしか思っていなかったのですが、
月子さん曰く、
『ソフトアスペクトだらけの太陽で、箱入り太陽』なのだそうです。
資質としては仕事バリバリなのに、おとーちゃんに預けてる上に箱入りの太陽ですから、使えてない度がハンパない太陽ということになります。
それを指摘されて、ぐうの音も出ませんでした。ぐう。
月子さんによると、ソフトアスペクトは意識しづらく、ハードアスペクトの方が意識しやすいのだそうです。
困難さを伴う方が意識しやすいというわけですね。
確かに私は自分の水瓶座の月の方が山羊座の太陽より何倍も意識しやすいですし、自分らしさを月に感じることの方がうんと多いのです。
海王星と冥王星のハードアスペクトで意識せざるを得ない月をフル稼働して10年以上ずーっと生きてきたために、太陽のことをすっかり忘れてしまっていたような、そんな状態にある、ということなんですね。
さらに、私の場合はココに書いたように、14歳で夢を諦めてから夢らしい夢を抱くことができなかった、というのも大きいのです。
太陽を使う時の目標がどうにも定まらなかった、ということでもあるからです。
月子さんとのやりとりを通して、やはりどうしてもここに行き着くのでした。
あ。
ちなみに、占星術における太陽の意味についてイマイチ分からない方はコレとかコレとかどうぞ。
ざっくりしてますがー。
……それに、さっきから海王星と冥王星のアスペクトが~ってサラっと書いてますけど、これがなっかなかの案件だったりするんですけどねぇぇぇぇぇぇぇ。
や、もちろんですね、使えてない太陽をこれから使うのか、このままで行くのか、は、私次第なので、月子さんはとやかく言いません。
ただ彼女は占星術の智慧を使って私が気づいていなかった状態を教えてくれた、だけです。
そして、もしも月だけフル稼働という状態ではなく、(子供たちの成長につれて)これから太陽も使いたいと思うのならば、まずはこうしたら?とアドバイスをくれました。
そのアドバイスに従って、太陽や冥王星の度数のサビアンを何度も読んでおりました。
しかし、頭ではなんとなく分かっても、ちっともお腹に落ちてきません。
夢を諦めた時に傷ついたであろう「14歳の私」にアクセスしてみようとしても、どうしても感覚が散漫になり拒まれ続けましたし。
そうこうしているうちに、ひょんなことから現在住んでいる土地の由来を知ることとなりました。
思いがけず、それには持統天皇が関係しておりました。
この流れで持統天皇です。
私からすると持統天皇は「自身の太陽をバリバリに使っていた女性」として映ります。
太陽を使うということがテーマとして浮上している時に、こういうシンクロって起こるものなんだよなぁ~、とどこか他人事のように感心しつつ、「奥さん奥さん、ちょっと聞いておくれよ~。持統天皇が~、持統天皇がぁぁ~…。」と、じぇいど♪さんに現状を報告しました。
すると、何往復かのやりとりの後、じぇいど♪さんが実に興味深いことを教えてくれました。
私が以前、このような記事を書きましたが、この「カラフルな波」と「つぶつぶ」の寄せ集め、というのがミソだと言うのです。
とりあえず、「つぶつぶ」として簡略化して考えると、
今のこの肉体でのこの生で、何らかのブループリントを遂行していく(生きていく)ためには、
大小様々な「つぶつぶ」が必要となるわけです。
誰かとの巡り合わせの縁や、何かの資質・才能を備えるために、です。
それを、「魂の構成要素」と呼ぶこともできるでしょうし、守護神霊の霊団と呼ぶこともできるでしょうし、前世やご先祖と呼ぶこともできるでしょうし、宿命と呼ぶことも、生まれた時のホロスコープと呼ぶことも、親につけてもらった名前と呼ぶこともできるでしょうし……まぁ、そこらへんは切り口によって変わるものなんでしょう。
それで、です。
「大小様々なつぶつぶ」を寄せ集めて1つの「個」として機能するようになると、その「つぶつぶ」の1つ1つの違いがその人の生まれ持っての性格や得意不得意などの「個性」ということになるのだそうですが、
寄せ集めの1つの「個」として機能させるための配慮をしても、やむにやまれぬ内側から湧き上がる『好き』というのは、完全に処理することができないのだそうです。
「やむにやまれぬ『好き』が内側から湧き上がるのって、いいことじゃない?』
……と、思う方もいらっしゃるでしょうが、
それが今生のブループリントにおいて必要不可欠なものだったら、もちろん良いことに決まってますが、
今生においてメインで遂行することにおいてそれが必要ではないケースも割と頻繁に起こるのだそうです。
つまり、その処理しきれなかったやむにやまれぬ『好き』に翻弄されてしまうこともちょいちょい起こることなのだそうです。
私が、7歳の時に子供用百科事典でプレアデス星団やアンドロメダ星雲の写真を見て、魂を掴まれてしまったのも、この「処理しきれなかったもの」の働きだったのか…。
そして、私みたいな事例は、そこそこ頻繁に起こることなのか…。
頭で理解しただけでも、何か憑き物の(ほんの)一部が落ちたような、そんな感覚になりました。
しかし、それだけでは足りないと、じぇいど♪さんは続けて教えてくれました。
14歳の私にアクセスできないというのなら、『夢を叶えて科学者になっている自分』にアクセスしてみろ、と言うのです。
平行世界の自分…というのか、何度目かのやり直しの自分…というのか、とにかくそんな自分にアクセスしてみる、という発想は全く無かったので驚きましたし、これがなかなか『自分が整う』に至らなくて数日間悶々としましたけど、3日前に突然すーっと繋がったのでした。
その翌日、じぇいど♪さんに送ったメールを転機します。
これをベースに書き直そうと思ったんですけど、臨場感が削げちゃうので、このままで。

おはよーーーー
なっかなか例のアレにアクセスできへんかったんやけど、
昨日はイレギュラーで息子がデイサービス入れてもらってて、迎えに行かなくてもいいから、午後からだら~っとしてたら、アクセスできたっぽいわー。
目つぶってたら、眉間がうにょうにょしてきて、
紫の模様がもあんもあんと見えてきたから、あー、イケるかもー、ってなってさ。
体感もちょっと軽くなってきたし。
で。
やったことなかったけど、
「天文学とか宇宙物理学とか、そーゆー系の研究者になってる自分」
っての、居るー?って探しに(?)行ったら、おってさ。
やー、おるんやー、ってビックリしたけど、
私……なんやろうけど、私やないんよ。当たり前やけど。
もうね、全然違うの。
背も低めやし、ちょっと丸っこいし、でもって、私よりうんとマイペースでのんびりな性格に感じられたんよ。
基本的には好きなことしかせーへん、って感じの。
多分、旦那さんもおって、同じ大学の生物系の研究してる人っぽくて、イケメンから遠くハズれてる人なのよ~~~。
でも、いい人っぽくてさ、
その旦那さんの実家に住んでて、子供も1人おるけど、お義母さんが子供の世話をしてくれてるから、研究に支障はほとんどなくてさー。
なんちゅー幸せな奴や、こいつーー、って思うんやけど、
もちろんさ、彼女なりの悩みとか苦労とかはあるみたいで、頑張ってるんやろうけど、でも、端(っても私だけど)から見たら、良すぎるくらいの人生やろー、って思うんよ。
でね。
じゃあ、こういう「私」がおるなら、「美人に生まれた私」もおるんちゃう?と探しに行ったら、おってさー。
当然ながら見た目は全然違うんやけど、これまた性格も全く違っててねぇ。
あまり深く物事を考えない…というか、楽天的というか。
結婚して、子供もいて、これまた彼女なりに悩みとか苦労はあるんやろうけど、恵まれてる人特有の「毒の無さ」みたいな感じがあって、そんなに深く考えてないんやけど、なんかええ感じになっとる…みたいなんよ。
美人で鼻持ちならない人間、ではないのよね。
なんかねー、それこそ「お花」みたい。
と、こんな2人を見てたら、今のこの自分ってのは、それこそ「いろんなつぶつぶがいっぱいありすぎるくらいある」んやろうな、って思ったんよ。
彼女たちは、頭がいいとか美人であるとか、非常に特徴的ではあるんやけど、
私ほど雑味が無いというかなんというか…。
彼女たちに比べたら、私はオールラウンダーなんやなー、と思ったんよね。
いろんなつぶつぶをちょっとずつたくさん寄せ集めてみた、みたいな。
だから抜きんでてるものは無いんやけど、(もともと優劣なんてないけど)彼女たちより私が劣ってるかってゆーと、そんなこともないよなー、って感じてさ~。
でさ。
じぇいど♪さんが教えてくれたように、つぶつぶの寄せ集めの、そのつぶの1つから強烈な太陽のような「好き」が、私が7歳の時に子供辞典の「宇宙」を見た瞬間から湧き出てしまった……がために、
14歳で「科学者になる。」という夢を諦めて以降、それに代わる強烈な太陽の姿を見つけられない自分にずーーーーっとダメ出しをし続けてたんやなー…って分かってねぇ。
あの夢が消えて、あの太陽が沈んでしまっても、私の世界は別に闇に没したわけでもなんでもないんやけど、あまりにあの光が強烈過ぎたんやな、って分かったんよ。
14歳で夢をあきらめたことに自分が傷ついてる、んやなくて、その後ずーーっと自分で自分にダメ出しをし続けてたんや、って。
じゃあ、あんな強烈な太陽のような光なんて私の人生の初期に無ければ良かったのか、と言えば、やっぱりそんなことはなくて、
あの太陽があったというのは、やっぱりギフトやなー、と思えるんよね。
人生の初期に、まだ無垢さがたくさん残ってる時期から何年もの間、あんな強烈な太陽のような光を全身に浴びていられた、なんて、そんなたくさんの人に起こることやないやろうし。


毎日毎日ちまちまと絵を描いてて、絵を描くことが好きだった…というギフトは、思いがけず仕事に繋がっていますけど、
宇宙のことが大好き…というギフトは、仕事には繋がってはいません。
……繋がってはいませんが、
それが「科学的思考」を私に教えてくれましたし、宗教やスピリチュアルを学ぶにつれ、科学的思考をする自分がいることの大切さをひしひしと感じています。私にとっては「両輪」なのです。
やっぱり、無駄な「つぶ」は1つも無いってことです。
それも愛やで
そして。
頭で分かっただけでなく、「自分ではない自分」を垣間見たことで、お腹の方にもかなり落ちてきてくれました。
キラキラに輝く太陽のような「好き」が湧いてこないことにダメ出しを続ける意味が無くなりました。
すると、
金星や火星といった個人天体ではなく、トランスサタニアンである海王星と冥王星が太陽の背中を押してくれている、ということは、個人のエゴを超えたところで太陽を使え、ということなんだな、ということも、今までよりもすーーーっと自然と自分の中で「分かる」ような、そんな感じにすらなりました。
まー、それが具体的にどういうことなのか、は未だちっともさっぱり浮かんできませんけど、アウトラインとして絶対にそれを忘れるな、ってことなんだろうな、と思います。
あ。
「エイト大好きー♡」は、また別ですからねーーーー!

信じるべき自分なんて最初っから存在していなかった。


ぴゅーーーーっと超高速で飛んできた天使……という感じですかね。
てことは、「最も速い翼を持つ天使」と言われることもあるイオフィエルかしら。
天使の絵をお客さまに描いたんですけど、パレット(という名の牛乳パック)に出した絵の具がけっこー残っていたので、勿体ないなぁ~、と小さい紙に描き始めたら、こんな絵になりました。
さてさて。
1つ前の日記に、「ああ、もういいや。」と、人生に降参だ~…という感覚になったよ、と書きましたが、
確かにそうなんですけど、でも、これって単に頭で理解してたことがお腹に落ちてきたというだけのことなんです。
決して悟ったとかそーゆーレベルの話ではありませんし、仙人みたいになったわけでもありません。
なので、意識はすぐに通常運行になります。
どうなるか分からない先のこと考えて不安になるし、エイトのツアー日程発表に喜ぶし、お腹痛いと「もうイヤ!」ってなって落ち込むし。
相変わらず頭と心は常に忙しいです。
そんなもんです。
…そんなもんなんですが。
でも、ちょっと楽になったんです。
私は、自分のことは肯定的に捉えてはいるのてすが、自分を信用する、ということに関しては非常に怪しい状態のままこの歳まで来てしまいました。
自分を信じる、ということが命題のひとつと言えばそうなのかもなー…と、ずーーっと思っておりました。
少し前まで、大好きなエイトの横山くんがONというドラマに出演しいたのですが、
その最終回で、(生まれつき感情の発露が人とは違う)新米女性刑事に対して、横山くん演じる先輩刑事が
「とりあえず信じてみるわ。お前のこと。」
と、言いました。
そんなセリフを聞いて、もにょもにょ~っとしてしまうくらいでした。
もにょもにょ~…
もにょもにょ~…
しかし、
「ああ、もういいや。」という感覚になってから、この「もにょもにょ~」も気付いたら消えていたのです。
信じるべき自分なんてものは、初めっから存在していなかったんだ、と分かったからです。
夢も希望も必要なかった、信じるべき自分なんてものは最初っから存在していなかった……なんて書くと、これまた「大丈夫?」と心配されちゃいそうですけど、大丈夫ですよ~~~。
たみえかーさんのエゴは相変わらず張り切ってますから!
日常生活はなーんにも変わってませんから!
逆に「すごいなー。この肉体とこの精神を与えられたこと、ここにこうして生きてること…って、ほんとにすごいことだなぁぁぁぁ。」と、
満開の美しい桜の大木を見上げて感動するのに似たような、そんな深い感慨に浸ってしまうくらいです。
自分の人生に降参したからって、自分の人生を放棄するとかじゃないんです。
これが逆なんです。
だからこそ、人生を今までより深く愛しく感じるのです。
そして、そんな人生に対して、自分のできる限りのところで応えたいなー、と思ったのです。
人生を創造するのと、人生をコントロールするのは違うんだなー、と分かったのかもしれないです。
人生をコントロールしようとするのは到底無理だ!と気付いたという感じですかねぇぇぇ。

たとえば。
科学的に考えれば、惑星がどの位置にあろうが、そこに人間に作用する何かが発生するわけ無いんですけど、
でも、多分、何かあるんだと思います。
それを簡単に「惑星のエネルギー」と呼ぶとすると、
特定の位置(アスペクト)の時に、そのぼやーんとしたエネルギーがレーザービームみたいに放射されるようなイメージになるんです。
私の頭の中では。
で、
その飛んでくるレーザービームを消してしまうことは絶対無理なのだけど、
そのレーザービームをどのタイミングでどのように使うか、は、その時のその人の在り方に合わせて、守護の神霊たちと本人の霊魂がフレキシブルに決めていくような、そんなイメージがあるんです。
「分かってへんから、ガツンとやったらなアカンな。」と判断されるか、
「そこそこええ感じやから、ちょっとした変化で気付くやろ。」と判断されるか、
「ええ感じやから、さらに背中押してやるかな。」と判断されるか、
それこそ『それまで人生に対してどのように向き合ってきたか』がキッチリ評価されるのだと思うのです。
なので、「ああ、もういいや。」だからと言って、人生を放棄するわけじゃないです。
ガツンとされちゃうのイヤだしー。
ですから、たみえかーさんは今までと何も変わってないよ、というわけなのです。
「頭いてぇーなー。」と、今日もコレ書いてる途中で横になったら、うとうと寝ちゃったしねー。