「事実」の意味合いが違うような気がする。

12月7日のmixi日記から。
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10年ほど前に、ヒプノで初めて前世ってものが出てきたんですが、
もともと前世ってーのはあると思ってたんで、それらをするりと自分は受け止めました。
で。
遠足後、上のヒトというものが出てきて、それが天使の姿をしたヒトたちだったんですが、
そーゆーのもするりと受け止めてました。
でも、そのうちその上のヒトたちの昔話が出てくるようになって、
だんだんとその取り扱いをどうしたもんかなー、と思うようになってきました。
するりと受け止める……だけでは、どうも違うような気がしてきたんです。
かと言って、それらを妄想だと切り捨てるというのも違うと思うのです。
たとえば、
ともこさんと私は、昔々のエジプトで妹と姉だった…という過去世は、「事実」だと思うんです。
そう。
それは、今ここにいる私たちが「事実」だと思っていることと、同じ意味合いでの「事実」です。
でも、
ミカエル系の天使タミエルがツインの天使にお腹をぷすりと刺されたとか、メタトロン系の天使ファウが黒いガブリエルに汚染されたとか、
そーゆー話を「事実」だと感じてる自分もいるんだけど、
でも、今ここにいる私たちが「事実」だと思っていることと同じ意味合いの「事実」では無いような気がするんです。
かと言って、ただの妄想・作り話かと言うと、そういうものでもないと感じるんです。
そうだなぁ…。
「神話」という言葉が、一番近いかもしれんなぁ。
そもそも、今ここにいる私たちが「事実」だと思っているものが何なのか、
「世界」とは何なのか、ということがめっちゃ曖昧なので、ハッキリとしないんですけどね。

何かがもう一度始まる

私、弱虫なんですよ。
ヘタレだし、臆病だし。
体調が年がら年中不安定だから、目先のこと(子供のお世話)で精一杯だし。
高校生まではもっとアクティブだったのに、やっぱり大学生の時に身体を壊してからガラっと変わっちゃったなー、と自分でも思います。
でもさ。
第一回のなにみえ遠足募集の時は、(出会い頭みたいなもんだったので)好奇心の方か勝っちゃって、えいやーで応募しちゃったら合格しちゃって。
後からどーしよー、どーしよー、遠足後にぶっ倒れでもしたら困る~、って悩んだんだけど、
マイミクのともこさんも参加するから、やっぱ行きたいって気持ちの方が勝っちゃって、えいやーで参加して……
あそこでチャンスをつかまなかったら、と思うと、ちょっとゾッとすらします。
今の自分はここにはいなかっただろうな。
少なくとも、民絵屋はオープンしてなかったよなー。絶対。
そしてなにより、たくさんの出会いをフイにしてたことになるよな。
昨日のセミナーで、和尚さんから「ハイヤーセルフからのメッセージ」というものをいただきました。
『チャンスをつかむ機会に出会う時期に来ています。
何かがもう一度始まる時期に来ています。』
これを読んで、なにみえ遠足に応募したことをパッと思い出しました。
なんだろうね。
どんなチャンスがやってきてくれるんだろう。
その時、また私は悩むような気がするけれど、きっとまた、ともこさんのように、誰かの存在が私を後押ししてくれるんだろうな。
実際、昨日のセミナーには、なおぴむんが私を連れてってくれたようなもんだし。
弱虫だけど、ヘタレだけど、
おそるおそるでも、チャンスをつかみたいな、と思ってます。
せっかく来てくれるチャンスなら。

「天命」って誰にでも必ずあると思ってるんだけど。

相変わらずキビシーですなぁ~。takakoさん。
http://marialetter.blog22.fc2.com/blog-entry-154.html
でも。
その厳しい言葉使い云々は置いといて、ちょっと「お。」と思ったんですよね。
私ね、「使命」とか「天命」とかって、多分、生きてる間はよく分からないものなんじゃないかなー、と思っとるんです。
もちろん、「真に分かってる人」もいると思うんですけど、それは少数派で、凡夫の我々はやっぱり死ぬまでよく分からん派だと思うんです。
でも、「天命」ってあると思うんです。
それは、生まれてくる時に
「これをクリアしたい。この課題に挑戦して、こうなりたい。」
と魂が設定した目標みたいなもんだと思うんです。
なので、悩んだり苦しんだりしつつも、なんとか前に進もうと努力してりゃ、それが「天命を完うする道のり」なんじゃないかなー、と思うんですよ。
それに、魂が設定した目標なんて、人間の感覚からかーなーりハズれてるものだって多そうだから、下手したら殺す殺されるってことも、「清算」って目標の1つになってる場合だってあるかもしれないし。
そう思うとね、今の自分の感覚でどうのこうの言えるようなもんじゃないだろうなー、と感じるんです。「天命」って。
だから、生きてる間に分かるようなもんじゃないよなー、って思うんです。
(だからこそ、五井先生の「私たちの天命が完うされますように。」という言葉で祈るしかないんだよね。私は。だって私もみんなもどんな天命があるか知らんもん。でも天命が完うされる人生をおくれた方がいいやんねー。)
なので、不遜だろうが何だろうが、人の役に立ちたいなー、という気持ちが強くあるのなら、人の役に立つと思われることを探してすりゃいいと思うんです。
でも、それに使命とか天命とかって言葉を付与するのはやめた方が無難だよな、と私も思います。
自分がやりたいからやってるの。
やりたいから頑張ってるの。
そう言えれば、それで十分なんじゃないかなー、と思うんです。
それで人に喜んでもらえたなら、素直に自分も喜べばいいと思うし。
…でも。
そんなにたくさんいるのかなー?
「これは私の使命なんです。」って感じでスピの世界を歩いてる人って。
私がそーゆー人を見ないだけなのかなー?
なんかみんな、てきとーにゆるーい気がするんだよなぁ~。
私のスピつながりの人たちって。

ジャッジするなと言われても、反射的にしてしまうので。

最近よくチェックしてるヒーラーさんのブログのこの記事
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-813.html
を読んで、「お。」と思いまして、忘れんうちに書いておこうと思いまして。
だいたい、スピ系のいろんな読み物に目を通してると、「ジャッジしないこと」という話がよく出てくると思います。
確かにそうだよなー、と思うんです。
読むたびに。
でもって、あまりに「ジャッジしたらアカンよ。」という文面をよく見かけるせいか、
ちょぴっとは
「あー、そういう見方もあるのかー。そういう考え方もあるのかー。」
と、賛同はしかねても、否定したり批判したり…という気持ちが減ったりもしました。
ほんとにちょぴっとだけどね。
でもね。
そうは言っても、やっぱり刻々とジャッジしまくりなんですよ。大なり小なり。
しゃーないよなー。人間デキてないし。
と、苦笑するしかなかったんですが、ふと思ったんですよ。
「ジャッジ」って言葉だと重いけど、これって好きか好きじゃないか、ってことやん、って。
これは好きか、好きじゃないか。
それは「自分がより快適に生きるための選択」とも言えるような気がしたんです。
もちろん、好きと好きじゃないの選択が存在する時点で、霊性進化的に言えば「まだまだえらいことお子ちゃま」なんだけど、とりあえず「ジャッジ」という言葉より楽な気がして、
大人になれば好きじゃないピーマンとかニンジンとかも食べられるようになるように、そのうち私もなんとかなるだろう~、
と、思うようになりました。
で。
冒頭の記事を読んで、です。
ああ、そうか、と思いました。
好きか好きじゃないか、ってーのも、それを分ける「何か」があって、それが「信念体系」だったりするんだなー、って。
なので。
ジャッジするなー、ってったって、そんなもん凡夫の我々にはなかなか難しい話なので、
これは好ましい、これは好ましくない、と判断をした時に、精神的に余裕が少しあるならば、それを判断した「自分の中の信念体系」は何なのか、ってのをチラリとだけでも探ってみるといいかもな、と思いました。
すると、そのうち「自分」ってものが違う角度からけっこーハッキリと見える瞬間が来るかもなー、と思いました。
そして、そうなることで、もしかしたらその部分に関する「ジャッジ」は消えていくことになるかもしれないなー、と、なんとなくそう思いました。
何が出てくるやら~~~~
ちょっとコワイねー。

自分も他人も責めちゃう自分がいるんだけど。

確かにさ。
確かにそうなんだよ。
「事実」としては、そういう「経緯」とか「状況」とかがあったわけでさ、
んでもって、それを自分が「こんなふうに受け止め」て、「こういう感情が湧いてきた」んだよ、ってわけなんだよね。
それは確かにそうなんだろうけど、
それはそれという感じで認識したうえで、誰かを責める気持ちってーもんを手放していかないと、なんだか堂々巡りな人生な気がするんだよなぁ。
どんな些細なことでも、きっと誰かを責めてるうちは堂々巡りなんだろうなぁ。
もちろん、私はまだまだ自分も責めちゃうし、他人も責めちゃうんだよ。
「あー、もー、あんたたちが○○って言ったからやーん。」とか、子供に向かって言ったりね。
で、そんな自分に後からダメ出しして落ち込んだりね。
そんなん、しゃーないやん。
あたし、デキた人間やないし。
…って思うけど。
思うけど、でもやっぱり、こーゆーのが堂々巡りの原因なんだろうなぁ~って、最近ちょっといろんな人のブログ読んでるうちに、じわじわと思うようになってきたよ。
うん。

「相棒」という感覚を教えてくれて、ありがとう。

久々に……1カ月半ぶりくらいに、のりちゃんのブログを読みました。
相変わらず軽やかで、のりちゃんらしくていいなー、と思いました。
やっぱりね、ちょっと淋しくてね、切なくてね、彼女のブログを読めずにいました。
でも、久々に読んだ彼女のブログからは、ふわっとかる~い感じがして、
「あー、ずっと彼女はいい感じで続いてるんだなぁ。」
と、しみじみ感じました。
1度しかリアルでは会ったことないけど、「相棒」という感覚を教えてくれた人でした。
私にとっては、今までにない感覚でした。
自分としては彼女が「ツインソウル」だとは思えませんでした。
とっても近いソウルメイトの1人なんだろうなー、とは感じていましたが、魂の片割れとは思えませんでした。
それでも、「相棒」という感覚を教えてくれたということは、もしかしたら、「ツインフレーム」という関係だったのかもしれません。
ツインフレームというのは、「互いの魂に共通した使命や目的のために助け合うソウルメイト」だそうなので。
ふと思い出して、「筋トレ」の年報を読み返してみたら
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6月から8月までは、環境が大きく変化する気配があります。
引っ越しやリフォームなど、
何らかの形で「居場所」を変化させる時期になりそうです。
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とあって、苦笑いしてしまいました。
シエルさんが私とのりちゃんのツインのコードが2月で切れている、と言ったのも、もう目的は果たしたということだったのかなー、と今更ながらに思いました。
離れたということは悲しいことだけど、でも離れたということは、魂の目的を1つ遂げたということでもあるわけで…。
ほんと、今更だけど、のりちゃんにすげー感謝しとります。
逢えて、良かったです。

表層意識の「私」と、神なる「私」と。

先月の月食(満月)から、今月11日の日食(新月)の間って、体調不良で頭痛とか消化器官の不調とか、そーゆーのが多くなるって、なんかに書いてあったわー。
てことで、頭痛はそのせいってことにしておこう。
そうしよう。
でさ。
この不安定な(?)時期の間に、内観が進む……みたいなことも書いてあったのを読んだ覚えがあるけど、
なんかねー、
不思議なんだけどねー……
あたし、別にいつ死んでもいいよな
って、すげー深いところから湧いてくるんですよ。
いや、別に今すぐ死にたいとかってんじゃないですよ。
ただ、生きてることに執着してないなー、って感じ。
深い部分の「私」は。
でも、表層意識の「私」は、
痛いのとか苦しいのとかはイヤだー、
子供がまだ小さいからまだまだ死ねんがねー、
一度は松潤を生で見てみたいがねー、
お金、やっぱもっと欲しいなー、
お肌、つるつるになりてー、
とかとか、いろいろ騒がしいし、それらはもちろん当然だよねー、って思うんですが、
そことは別に、深いところの……「神なる私」に近いところの「私」は、
何かを成し遂げたいとか、何かをしたいとか、こういう自分でありたいとか、そーゆー自己実現を超えた存在
なんだな~、とぼんやりとながら「実感」できるんです。この数日。
ただ、在るだけで十分、みたいな感じ。
だから、別にいつ死んでも問題ナシ、って感じなんだろうなー。
小3の時に、突然「世界がクリアに見え始めた」時から、自己実現の欲求は強かった私ですが、
20歳直前から身体をこわして、ずーっと自己実現というのもから遠ざかってしまいました。
これって、どういう意味があるのかしら……と、時々ふと思うこともあったけど、
この数日は、
「ほんとに、これって消えていく姿だったんだなー。業を出しちゃって、お掃除してるんだなー。自己実現の欲求さえ業だったのねー。」
と、なーんかほんとに深い部分で思うんですよ。
いや、だからね。
しつこいようだけど、表層意識の私は、生松潤に会いたい~とか、そーゆー煩悩まみれのカワイイ奴なんだけどね。
それを否定してるわけじゃないっす。
ここんとこ、洗顔や歯磨きの時、鏡を見ながら、
「我即神也。私は神だよ。」
と、声に出して言うようにしてたんですよ。
そのおかげで、いつもより神に近い部分の「感覚」がすこーしばかり滲み出てくるようになったのかなー、とも思うんですが、時期的なものもあるのかしら。
はてさて。
神なる「私」の感覚と、表層意識の「私」の感覚が、どこかでバチっとリンクしたら、その時は、スーーーっと雲が晴れるような感じになるのかもしれんね。
今は、まだ別々だなぁ~。

私も、「なんで、ここに、こうやって『いる』の?」と、よく思ったもんだ。

またまたtakakoさんの記事です。
http://marialetter.blog22.fc2.com/blog-entry-143.html
この記事の中で、こんな一文がありました。
癒すとか、違和感があってその答えを導き出すとか、それは必要なプロセスではありますが、通過儀礼のようなものと思った方が良いと私は思います。
そうだよなー、と思いました。
自分を癒すことや、人生そのものを問うような…そんな問いの答えを探すこととかって、
確かに「必要なプロセス」であって、そして「通過儀礼」のようなものなんだろうな、と、最近の自分を省みて感じました。
または、「手段」とも言えるかもしれないです。
決して、それは「目的」ではないな、と思うのです。
……でも、人間だもの。
辛いのから逃れたいからさー、とりあえずの「小目的」しか見えないことって、あるよね。
けどさ。
じゃあ……、
「私」のこの人生の目的は?
「私」の魂の目的は?
…わかんないけど。
わかんないけど、それは、とてもシンプルで、同時にとても深いもの……のような気がします。
今の私には、言葉にはできないような類のもの、かもなぁ…。
あ。
でも、むりやり表現すると、
すべてひっくるめて、愛!
って感じの類のものなんでしょうーなー。やっぱり。
しかし、すげーざっくりな表現だなー。

いろんないろんな守護存在が私を護ってくれてるとは思うんだけど。

ボスんちのちゅまちゃんも、人間に転生したのは初めてだそうですが、
こちらのブログの娘さんもそのようです。
http://fineengel.blog10.fc2.com/blog-entry-351.html
で。
上記記事を読んでいて、
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この、霊でありながら肉の中で生きるという
人間という生き方は、ともすれば肉体のない
よからぬものに乗っ取られてしまい、現実ばかりに目を
向ければ良心が蝕まれるという非常に微妙なバランスの
必要な生き方であると思います。
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という言葉に頷いてしまいました。
絶妙なバランスをとるというのは、簡単じゃないですよね。
私は霊感っちゅーものがほとんどありません。
オカンと弟1号はバリバリだったし、霊障もけっこーあったので、
「霊感があるとエライこっちゃなー。あたしはふつーで良かった良かった。」
とすら思っていたのです。
……思っていたのですが。
10年ほど前、フタを開けてみたら、私もがっつりエライこっちゃの状態だったんです。
書き出すと長くなるから割愛しますが、
霊能師の先生の(当時の)言葉を借りれば、
「君の霊魂は、さみしーよーつらいよー、っていう先祖霊に対して、『あ、じゃあ私のところに居てもいいよ。かわいそうだから。』とすぐに許可しちゃうんだよねぇ……。」
ってことらしくて、ハッキリ言ってお人好し過ぎらしいのです。
ダメじゃん。ダメ過ぎるやん。
肉体の私が困るやん。
ってことで、物質界の私が「そーゆーの、ヤメ。」と強く決断すりゃいいんだろう……と思っていたのですが、
これがまた人間の不思議さっちゅーかなんちゅーか。
当然ですが、肉体のエネルギーが枯渇していくことになり、しんどいなんてもんじゃないわけですよ。
そーゆー状態って。
で、肉体の私は「やめろー。そーゆーのはナシだってー。」と強く強く強く思うわけなんですが、
これが、ほんとーーーに心の奥の方の奥の方から強く思っているのかと言うと、
………なんとなーーーーくアヤシイのです。
この感覚、分かるかなー?
今は「憑依」ってハナシを軸に説明してますけど、そーゆーことだけじゃなくて、いろんなことにおいて、
一番表層の意識では強く決断しているつもりでも、
奥の奥の方で思っていることはアヤシそう。
ということってたくさーーーんあると思うんです。
で、それに気づけばまだマシなんだけど、気づかないことの方が多いかもね、とも思います。
もちろんね。
宇宙一のヒプノマンであるPさまに手助けしてもらう、という手もあるし、
他にもいろんな方法があるんだけどね、
(そして、確かにお祈りを10年ちびちび続けたことは、かけがえのないことだったし。)
表層意識が「本気で強く決断する」というのは、
「あー、こーゆーのイヤだ~。あーゆーがいい~。」
って程度の思いとは全然レベルが違うんだろうな、と思うようになんてきたんですよ。
でもって、やはり「強い決断」でなければ、ほんとーに変わっていけないんだろうな、と思うのですね。
でもって、その「強い決断」というのは「欲」というレベルではなくて、「ほんとうの私が望むこと」とリンクしたものでないと、錬金術で金に換えるのではなく、金メッキになっちゃうような気がするんです。
(けど、『とりあえず』ってことも大事なのは十分分かってるよ。)
あ。
違うか。
「ほんとうの私が望むこと」に、指先だけでも触れたら、泉が湧きだすような感じになるかなー。
ま。
いいや。
とにかく、「なんかアヤシイ」というのは、やっぱりアヤシイんですよ。
やっぱまだちゃんと「ほんとうの私の望むこと」にリンクしてない感がどこかにあるんだよなー。
「憑依」のこと以外でもね。あれとかこれとか。
でも、イヤなものはイヤだよ。
当然イヤだ。
けどね、なんやかんやで「しかたがないよね。」と思えるうちは、まだ余力があるんだろうなぁ。
「あー、ほんとーにもうコリゴリ。」って腹の底から思えた時が、変わり時なのかな。

「癒される」って?

2つ前の日記に、のりすけちゃんが書いてくれたコメントを読んでいたら、
……「癒される」ってどういうことだろう?
と、思いました。
よくよく考えてみると、実は私はよく分かってないかもしれないな、と感じたんです。
神様と自分という構図だと「救われる」「赦される」なのが、
自分だけにフォーカスすると「癒される」になるのかなぁ…。
ま、もちろん救われない状態も赦されない状態も癒されない状態も、自分がそうであるというだけで、ある意味幻想なんだろうけど、
それでも、それが課題でもあるから、なんだかややこしいんだけど。
あとね。
「女性性の解放」ってのもね、分かるような分からんような…。
多分、あたし分かってないなー。