肉体は単なる「器」…だけじゃないらしい。

久しぶりに「ものもらい」になりまして、久しぶりにいつものクリニックに行きました。昨日。
(そこの先生はもともとは眼科医さんなんですよ。)
去年の秋以来です。
身体がどーにもしんどくて仕方がなかった頃はずーっと月に2回のペースくらいでお世話になってたので、
そう思うと、私ってばかなり元気になりましたねぇ~♪いえーい♪♪
さて。
この記事で、散々「うまく言えないけど、肉体って思ってるよりスゴいんだよー!って、理論とかすっ飛ばして感覚として感じるんだけど、整理できなくて説明できないー。」と言っておりましたが、
すぐにいろいろヒント満載となりました。
まずは、じぇいど♪さん。
メールであーだこーだとやりとりしておったのですが、その中で彼女か自身の昔のブログ記事をひっぱり出してきてくれました。
これです。
http://plaza.rakuten.co.jp/californiajade/diary/201007270000/
もちろん、アップされた当時、読んだのは覚えてます。
ああこういう記事だったね、と思い出しました。
でもね。
その時はね、
これは自分とはかけ離れた世界のお話
みたいなね、そんな感覚で読んでたんですよ。
この感覚、多分、分かってくれる人も多いんじゃないかな、って思うんです。
だってねー、こんなの「普通」やないやん?
こーゆー「導管」みたいなことが「できる人」ってのはねー、
先を行く人たち
であって、今の自分では起こりえないことやーん!
……みたいなね、そんなのがね、無意識のうちにあって、
そういう無意識の「決めつけ」「思い込み」を持ったまま、「へー。すごいなー。なるほどなー。」って読んでる、って人、けっこーいらっしゃいません?
私はそうです。
そうでした。
ここで「羨ましいなー。」とでも思えばいいのかもしれないんですが、私はそれすらめっちゃ希薄で、
いつか…って現世中なのか来世なのかは分かりませんけど、いつかそーゆー境地にも辿り着くんだろうけど、
でもそれは今じゃないし、直近でも無さそうなので、自分は自分のできることをコツコツやるしかないよねー、
という、ある意味「超マイペース」な考え方をしているんです。
下手に「私もああなりたい!」という欲が強すぎると、それはそれでどえらい厄介なので、これはこれでいいとは思ってるんですが、
当事者意識が薄すぎるというのは、やはりちょっと問題なのかもな、と思いました。今回。
あ、それで、話を戻しまして。
いくら「これは先を行く人のお話であって、私には関係ないわー。」って思ってたとしても、
今回の
「普段の『私』だと認識してる意識状態の私」……とは別の、
「観音様モードの私」を、『私』が認識して……というか、観音様モードの私とリンクが『私』とも繋がったといいますか、
とにかくそーゆーふうになりまして、
そして、中二病的表現をすれば、「阿弥陀如来をココに召還した」……
のもね、
天と地をつなぐ導管
だった、と認めざるを得ないわけです。
観音様モードになる…というか、高い次元に在るバカデカいトータルセルフの中の観音様と呼ばれている範囲から任意のカタマリにアクセスした…ことで、天と地をつなぐ導管という役割を果たすことになった、のだろう、と認めざるを得ないのです。
あ。
ここで、なんで天使じゃなくて、観音様で、阿弥陀如来かといいますと、
日本人だからね、「救ってくれるのは阿弥陀如来」という観念が強いからなんだと思います。
阿弥陀如来だから、自動的に観音菩薩になりますわね。
観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身と言われてますからね……って、今こうして書いてて、ビックリしましたけど、
だからあんなに『私』が慈悲深かったのかーーーーー……。
やー、あんなに慈悲深い感覚って、初めてでしたからね。
慈悲深いって、こういうことか、みたいなね。ほんとにね。
あ、脱線ばかりですみません。
それで、ですね。
じぇいど♪さんの記事を読んで、お?と思ったのです。
「天と地をつなぐ」という言葉。
これって、五井先生もゆーてたなぁ、って反射的に思い出しました。
白光真宏会の故・五井昌久先生の世界平和の祈りにご縁をいただいたのが、もう15年くらい前ですかね。
それで、ちまちまお祈りをしてたんですが、
息子が1歳になる頃から、急に五井先生の本を読み始めたんです。何冊も。
これがまた何故か、当時住んでた名古屋のとある街でですね、近所にそーゆーコアな本がたくさんおいてあるコアな本屋があったんですよー。
お祈り貯金が貯まったのか何なのか、それまでは教えてもらったお祈りをただただしてただけなのに、急に先生の本が読みたくなったんです。
それで、講和集みたいな本を何冊か読んだんですが……
ここから半年間がえらいこっちゃでした……。
今でこそ、ネットにもスピな情報がごまんと溢れてますけど、その頃はそんなことなくて、
もともと霊感の強い家族がいて、見えない世界の話ってのは、どっちかってゆーとよく知ってる方だと思ってたんですが、
そーゆーのとも違うんですよねーーーー。
たとえば、金星は(先生はアセンションという言葉は使ってないですが)先にアセンションして、金星人たちは地球人たちを見守り支えてくれてるんですよ、
なんてお話をね、すんなり受け入れられるわけないじゃないですかーーーー。
金星ってどーゆー星か知ってます?
地表面温度が400度くらいあるんですよ?
温室効果で灼熱地獄な星なんですよ?
生物なんているわけないでしょーーーー。
昭和30年代40年代にこーゆーお話をしてるんですよね。
五井先生。
そして、表層意識の私は嘘やーん!って思っても、嘘じゃないって心の深いところで分かっている…みたいな感覚がハッキリしていたので、逃げるわけにはいきませんでした。
そして、自分の中のいろんなものを見直して、壊して、再構築して…というのに、半年かかりました。
科学的思考をする私と、科学の範疇を超えたものを(それまでよりさらに深く)感じて思考する私とが、ちゃんと両立できるようになるための再構築でした。
もちろん、五井先生の言葉とて「方便」なんです。
目覚めていない凡夫の我々に説明するために言葉にしてるものなので、方便なんです。
どの宗教の言葉も、スピの言葉も、すべて方便だと私は思ってます。
けれど、そのたくさんある方便の中でも、私には五井先生の言葉が一番分かりやすく、理解しやすいのです。
この世界というもの、霊魂というもの、人間というもの、神というもの。
それらの「説明」が、私には一番分かりやすいので、私の中でベースとなっているのは五井先生の説明です。今でも。
その五井先生も、ご自身のことを「天と地をつなぐ者」っておっしゃってたよなー、と、反射的に思い出したのでした。
それで、本棚にある五井先生の本を取り出して……こなくてですね、
ネットの海に検索に出かけたのでした。
すると、こんな記事を見つけました。
http://kemono666.seesaa.net/article/262739182.html

長いです。
そして、クセがあります。
なので、読みにくいかと思いますが、よかったら読んでみてください。
これを読むだけでも、かなりいろんなことが「頭で分かる」と思います。
それは、感覚的に分かってたことが言葉になる、という意味でもありますし、まずは情報から分かる、という意味でもあります。
ちょいとばかしお時間を作って、ぜひ。
で、ですね。
ここで言われてるとおり、五井先生は何度も何度も、「肉体は単なる器」とおっしゃってるんです。
このブログ主さんのひっかかりどころがココで、これについて反論しています。
それを読んで、ハッとしたのでした。
そうか。
五井先生は、昭和30年代40年代に、今みたいなスピの知識があるわけでもない、苦しみからどうやって逃れられるのか、を知りたいばかりの人たちに対して、その時の苦しみに囚われないように、こういう方便を使ったんだな…。
と、分かったのです。
当然、「肉体は魂の器」というのもほんとうのことですが、それだけじゃないんですよね。
でも私は、「肉体は魂の器」という部分に、少し強く囚われてたんだな、と分かったんです。
そう分かって、何度も読んだことのあるこの文章を読み返してみると、それまでに感じたのとは違う感覚が沸き上がってきました。

私は常に神々の生命を交流し、自分の本体がどこにいるかわかっています。
肉体でこうしてしゃべっている自分がおります。
しゃべらせている私もいるわけです。
ズーッーーとズーッーーと高い所に五井先生がおって、
白髪であごひげの長い先生がいるんです。
衣冠束帯の格好をしている時もあれば、白髪三千丈ではないけれど、
眼光炯々とした大きな先生もいるわけです。
それはやはり私なんです。
よく村田さんの『霊界通信』に、霊界へ誰かが行くと、
白光燦然として光の中から五井先生が現われます。
「五井先生って肉体に生きているのに、どうしてあっちにいるのかしら」
と思うけれど、あっちにもいるんです。
あっちは本物で、こっちは偽物ではないんだけども、こっちは分生命なんですね。
向こうは神界におりますから、こうこうと輝いて宇宙を照らしているのです。
その神界の光はズーッと肉体に来て、
肉体界の代表として五井昌久という人がここにいるわけなのです。
いうなれば天と地をつなぐ光の柱です。
天と地をつなぐものの、今この私が中心になっているわけです。
皆さんも実は、天と地をつないでいるのです。


そして、このブログに引用されている日月神示のこの言葉がぐあんぐあんと響きました。

「今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、
肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か」
「この世ではそなた達が神であるぞ。
あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。
それがカミと申してゐるものぞ。
あの世の人をこの世から見ると神であるが、
その上から見ると人であるぞ。
あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって、
限りないのであるぞ。
裏から申せば、神様の神様は人間様じぢゃ。
心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな」


肉体は魂の器で、魂が課題をやり遂げたいから肉体に宿る、というのもほんとうなのだけど、
裏から言えば、確かに『肉体なくして宇宙神(創造主)は存在し得なかったのである。』なのだと、思いました。
科学の世界にも「人間原理」というものがあります。
http://jein.jp/jifs/scientific-topics/513-topic34.html
この宇宙が、あまりにも「できすぎている」ので、このような考え方をする学者さんも出てきたのです。
さらに、シュレディンガーの猫ってのもあります。
こちらがすご~く読みやすくて分かりやすいんですが、長いです。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/neko1.html
これが(1)で、ここからどんどん続きます。(4)まであります。
そこからさらに多世界解釈の話につながります。ちょー面白いです。
科学をスピに安易に結びつけるべきではないと思うのですが、これらのことからしても、「裏から言えば、肉体無くして宇宙神は存在し得ない」というのも、なんとなく感じられるんじゃないかな、と思います。
ですからね。
オモテからしか見ていなかったので、先を行く人たちは天と地をつなぐ導管となり得るけれど、凡夫の私はまだまだそんなことないよねー、とお気楽に捉えていたわけですが、
ウラから見てみると、
そーゆー意識に目覚めていようがいまいが、誰もが天と地をつなぐ者
なのだ、と、いうことなんですね。
導管を流れるものは、上から下へも、下から上へも、どっちもあって、
それはどっちも等価なんですね。

って、今、ふと生命の樹が頭に浮かんだので、ウィキペディアを見てみたら、ケテルの説明がこんなんでした。

第1のセフィラ。思考や創造を司る。数字は1、色は白、宝石はダイアモンドを象徴する。惑星は海王星を象徴し、王の横顔で表される。神名はエヘイエー。守護天使はメタトロン。同時に最後の剣として称されるマルクトと通じ合っている。


一番上と一番下が通じ合ってるんですもん。
メタトロンとサンダルフォンなんですもん。
なるほどなぁ…。
てことでね、
じゃあ結論は何なのよ?と問われたらですね、
この身体も精神も心も丁寧に扱って、かつ鍛える
ってことなんですけどね。
とにかく、私は毎日やってる大腰筋エクササイズなどを、これからも続けますよ、ってことですよ!

おれはAmazonからのお届けモノとは違うぞ。

朝日に照らされた富士山と、輝く一番星と。

21日と23日に愛知県の東の端っこの方から名古屋までライブに行き、
そしてまた中1日で、クリスマスの今日は家族4人で、川崎市の藤子・F・不二雄ミュージアムに行ってきました。
(私も元気になったもんだ!ひゃっほー。)
……車で、です。
片道3時間の移動です。
長距離ドライブです。
おとーちゃんがそんなに長距離運転が苦じゃない人なので、当然のごとく全部お任せでした。
それも日帰りです。
うはー。
息子が3年生になってからずーっとドラえもんが好きで、4年生になってさらに理解力がついてきて、マンガもアニメもしっかり内容を理解して楽しんでいるんですね。
そんな息子が、ずっと行きたい行きたいと言っていたので、とうとうおとーちゃんが連れてってやるよ、と予約をしてチケットを購入したのでした。
おとーちゃんのこういう親馬鹿なところはとても素晴らしいと思っております。おかーちゃんは。
てのも、
うちのオヤジさんは仕事が忙しかったのもあるんですが、あまり子供とどこかに出かけるということが得意ではなかったんです。
いえね、我々子供たちのことはしっかり愛していてくれていたんですけどね、ただまぁ、昔の男性ですしね、育った環境とかも考えますとね、仕方がないよね、って思います。
なので、お盆に琵琶湖の近くのおじーちゃんのお家に行くくらいなものでして、
そんなもんだったので、私は中3の修学旅行で初めて富士山や海を見たくらいでした。
ですから、
中3で初めて富士山を見た時の感動は忘れられません。
真っ青な快晴の中の富士山は、それはそれは大きくて美しくて、圧倒されました。
大人になってから、
初めて富士山の近くに行った時に、キレイに富士山が見れたなら、それは富士山に歓迎されてるんだよ、
という話を耳にして、
じゃあ私は富士山に歓迎されてんるだ~、とすごく喜んでいたら……新入社員の時に沼津に転勤になり、5年半も富士山の近くで暮らすことになっちゃいましたからねぇぇ。
1カ月前に、友人たちと東京に行った時は、おしゃべりに夢中だったので新幹線の中から富士山を見ていなかったんですが、
今日は車なので、ばっちり見えました。
朝のまだ暗いうちから出発したので、少しずつ空が明るくなって行き、富士山が見える頃は朝日に照らされていました。
富士山
何年かぶりに見た富士山も、快晴の中の、美しい姿でした。
そして、
子供たちは今日初めて富士山を見ました。
子供たちも富士山に歓迎されているんだなぁ、と嬉しくなりました。
さて。
ミュージアムで楽しんでお買い物もして、
午後になって割とすぐに岐路につきました。
家で猫が待ってるのでね、なるべく早く帰ってあげたかったのです。
でも、日没も早い時期ですから、静岡の西の方まで来た頃にはどんどん空が暗さを増してきました。
すると、西に向かっているので、一番星がよく見えたのです。
雲の少ない空に、これまた美しい一番星が輝いていました。
子供たちはずーっと車内でもドラえもんのDVDを見ていたのですが、
私は関ジャニ∞の歌をイヤフォンでずーっと聴いていました。
かなり空の色が濃くなってきた頃、
それに比例して、一番星の輝きが増していった時、
「涙の答え」という歌になりました。
この歌の中に、「一番星」が出てきます。
一番星のような大切な人がこの世界からいなくなったけれど、そんな世界でもぼくは生きていくよ、という歌です。
これがですねぇ…。
なんともまぁ、私の上のヒトのエピソードにもばっちり当てはまるのです。
なので、美しい一番星を見ながら、この歌を聴いていたら、そりゃもー自動的にぐっときてしまいます。
と、胸にぐっとくるものを抱えながら、ふと、
「ああ、あれって金星だよねぇ…。金星って今、逆行を始めたところなんだよねぇ。」
と思い出しました。
それで、なにげに音楽を聴いていたスマホの中にある天文のアプリを起動し、真ん前の一番星に向けてみたところ、
山羊座の近くにあると表示されました。
あ。
そうだった。
山羊座にいたんだ。
ちなみに、占いの「星座」は厳密には黄道を12分割にした○○宮というものなので、夜空に見える星座の位置と今はズレてきているんですが、山羊座の後ろの度数に現在いる金星はたまたま夜空の山羊座の近くにいたのです。
太陽が山羊座の私。
太陽が冬至から山羊座に戻ってきたばかりです。
お誕生月です。
石井ゆかりさんの週報でもこんなこと書かれいます。
http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/week/weekly20131223.html#capricorn
目の前の一番星は、山羊座で逆行している「美や愛の星」金星だったのです。
耳には「涙の答え」がずっと流れてきています。
長い間ずっと失われていた愛が、あなたのところに戻ってきたんだよ
と、言われてるように思えました。
ファウのパートナーを感知できるようになったのは……もう4~5年前のことです。
それから、2年ほど前からやっとタミエルの親友と星の名前を持つ弟のような人が分かるようになり、
今年の後半になってから、ファウを大切に育ててくれた人が分かるようになりました。
彼らは、魂としての私だけじゃなく、この肉体の私をも深く愛してくれているんだ、ということが、さまざまなことを通して、ようやく……ほんとにようやく実感できるようになってきました。
なので、ほんとにやっと「愛が戻ってきた」と言えるのかもしれないなぁ……と、思ったら、ぽろぽろと涙が零れました。
そんなわけで。
美しい富士山に久しぶりにご挨拶することができ、
美しい金星には大切なことを教えてもらい、
おかーちゃん的にはなんだか、子供たちのドラえもん祭りとは別のところで、ある種のお祭みたいになった1日でした。

魂の癖

おそらく。
魂の癖…というのは、ほんとうにあるんだろうな、と思うのです。
なので。
今の人生の問題点というのも、ざっくり言えば魂の癖由来なんだろうな、と思うのです。
誰しも。
生まれ育った環境の影響で、「その人」となるのは、5歳とか6歳だという人もいますけど、
三つ子の魂百までとも言いますし、そういうものなんでしょう。
そういう親、そういう環境を選び、そういう自分を確立したうえで、
「さて。自分の魂の癖と、どう向き合う?」
と、問われているのだろうと思うようになりました。
しかし、「魂の癖」というのも、そうそう簡単に見抜けるものではないように思います。
たとえば。
「自己肯定感が低い」といっても、
それまでもそういう人生をたくさん生きてきた影響なのかもしれないし、
「自己」に対してよりも「他人」にエネルギーを注ぎ過ぎる癖を正すためのバランスが働いたせいなのかもしれないし、
毒親だったことがあるせいで、そういう親の子供の立場になることを選んだのかもしれないし、
十人十色、人それぞれなんだろうな、と思います。
さて。
このブログ記事
http://takakonotorikumi.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
から一部をコピペさせてもらいます。
------
おかあさんは、私がいらない。
おかあさんにとって、私は産まなきゃよかった子で、おとうさんともけっこんしなければよかった人で。
わたしがいなければ、しあわせになっていたのに、おとうさんとけっこんしたのはしっぱいで、自分が不幸なのは私達のせいだって、いった。
あたしがいなければよかったの。
あたしはいてはいけないこなの?
あたしはどうすればいいの?
あたしはどこへいけばいいの?
だれもわたしのことはひつようないの?
だれにもすかれないようなこなの?
おかあさん、わたしはどうすれば、いいの?

--------------------
お母さんに、「お前なんて産まなきゃ良かった。あんたたちのせいで私は不幸だ。」と、機嫌が悪くなるたびに言われ続けて、どれだけたくさんの傷が小さな心に刻まれていったのだろう、って想像するだけでキツいです。
小さい子供を育ててる最中の母親としては、とてもせつない。いたい。
このブログ主さんは、私のマイミクさんなのですが。
なんかね。
私は彼女を見てると、「戦士みたいだなぁ。」と感じるんです。
外に向かって怒ってる姿が、じゃなくて、自分の中の巨大な敵と常に戦ってるみたいに見えるから。
彼女の魂がなぜそんな母親を選んで生まれてきたんだろう?って考えてみても、己の弱さを克服しようとする戦士気質のせいなのかしら??とか思っちゃうし。
まさに、魂の癖みたいなものか、と思えちゃうのです。
今の人生で、初期値をかなりハードな設定にして生まれてきたとか、圧倒的に足りないものがあるとか、なかなかクリアできない想い癖があるとか、
そういうのって、魂の癖というか、魂の「骨格のゆがみ」みたいなものかもしれないなー、って思うんです。
背骨がゆがんでたり、骨盤がゆがんでたり、歯のかみ合わせが悪かったりすると、筋肉の一部に常に過剰なストレスがかかって、どんどん症状が悪化しますもんね。
じゃあ、どうしたらいいか、っていうと、そんなこと私もよく分かってないのですが、
でもね、
魂のゆがみを丹念に確認しつつも、その「魂の次元」よりもさらに高次の自分は光そのものの存在なんだ、と自分にずーーーーーーっと言い聞かせるしかないのかなー、と思うんです。
納得できなくても、そういうもんなんだってーとお念仏のように毎日自分に言い聞かせることで、だんだんとその光で魂のゆがみも補正されていき、魂のゆがみが補正されていくにつれて、だんだんと現象界の我々の凸凹も補正されていくんじゃないかなー、と思う……というか、そうだと信じたい……というか、そういうもんじゃないの?という感じです。
……長い道のりだけど。
それで、ですね。
私の魂の場合も、いろいろ癖はあるみたいなのです。
その中の1つが、
「大事な人を助けるためなら、自分はどんな苦しみでも引き受けますよ。」
「私のエネルギーを、あなたに差し上げましょう。」

みたいな反応をしがちだというものです。
これがですね、肉体意識の私はあまりそーゆーことを思わないというか、苦しいのやだーって人間なもので、
そのために深いところではそういうモノを持ってるなんて思ってもいなかったし、そういうモノを持っていると気づくのに40年以上かかったのです。
魂の癖は無意識に癖に合わせた状況をさまざまな形をとって現実に引き寄せるということになりますからね。
現世でも過去世でもいろいろありました…。ええ。
一昨日の夜も、お風呂の中でのんびりしながらちょっといろいろ考えていて、
「代わりに引き受ける」というのは、一見すると美しいけれど、根本解決にはなってないよな!
って、つくづく思ったんですよ。
そしたら昨日、たらたら眺めてたツイッターでこれがピタリと目に留まりました。
http://kusohuku.blog.fc2.com/blog-entry-2425.html
おじいさん、かっこいいです。
ほんと、かっこいい。
愛が深い。
それはほんとうにほんとうにそう思う……んだけど、だからこそやはり「……その代わりに自分が苦しみを引き受ける」というのは、もう違うんだって、思ったのです。
少なくとも私はもうそこから卒業しなければならないんだ、と思わされたのです。
それは、咄嗟の時に子供をかばって母親が犠牲になった…などとは違うんです。
そういうことじゃなくて、
「自分を差し出せばいいんだ、自分が苦しめばいいんだ。」が魂に染みついてるのがダメなんです。
なので、
「私はもう代わりに引き受けるという愛し方はしない。」
と宣言すると同時に、私のうんと高次の処からの光でこの凸凹は補正されていくんだ、と自分に言い聞かせておりました。
早くその癖が補正されるといいんですけどね~。

そうは言っても。

今日、このツイート
https://twitter.com/Ajna22/status/275495031329136640
を読んで、ほんとにそうなんだろうなぁ……と、思いました。
自分の父親のことを思い出しました。
しかし、いくらそういう課題を魂が自分でチョイスしてきた、と言っても、
実際の肉体の本人や家族はえらいこっちゃやでー。
恵みや試練というのは分かるけど、えらいこっちゃやでー。

ナチュラルにそう思えるほどにはなっていないけれど。

まずこれを読んでみてください。
http://plaza.rakuten.co.jp/siriun/diary/201210250000/
「なるほど。」と思いました?
それとも「ええー?うそーん。」って感じになりましたか?
で、その次にこれを読んでみてください。
http://plaza.rakuten.co.jp/siriun/diary/201210290000/

これはちょっとむずかしい話になっちゃうんだけど、自分が体験する世界も、自分のまわりに存在する人たちも、じつはすべて自分の意識がつくっている。
自分が意識をしない限り、それらは存在しない。
「じつは存在はしているんだけど、あくまでも自分にとっては存在しないに等しい」というのではなく、ほんとうに存在をしない。

という部分が、やはりミソだよな、と思うのです。
ふつーの感覚で言えば、自分の意識しないところにも世界は存在し、且つそれはとても広大なもの…だと思うのです。
それが間違っているわけじゃない。
でも、それを否定するんじゃなくて、そこを超えてのコレなんだろうなー、と思ったのです。
非常に限られた、顕在意識の「私」が認識している範囲においての「世界」を大切にすることと、
そこを超えた認識を持つことは、相反することではないんだよ、と、ミの字だか誰かが教えてくれてるような、そんな気がしました。
このところね、ちょっとね、そのあたりでもにょもにょしてたものでね。
てへ。

この「世界」のモデルと、「系統」について。

あくまで、私はこうやって整理しましたよ、ということであって、
これが正解なわけじゃないですからね。
てか、正解なんて頭で考えてるうちは到底辿り着けないものでしょうし。
でも、とりあえず、私はこんなふうに整理整頓しましたよ、ということを書いておきます。
魂の系統がー…って話をしてても、「よく分からない。」って人もいたので。
私は会員ではないんですけど、白光真宏会という宗教団体の創始者である五井先生のお祈りにご縁をもらってるので、五井先生の本も読んで、ああこういうふうになってると思うとスッキリするなー、と感じることがほんとに多かったため、五井先生の説明がベースになってます。
…てかね、「コーザル界」とか「エーテル体」とか、カタカナになるとさっぱり分からんくなるんですよぉ。
あたしカタカナ苦手だから~。
なので、漢字の方が字面を見てるだけですーっと入ってくるのでね。こうなってます。
では。
まず、私が整理整頓した、めっちゃ簡易化した「世界」を以下に示しますね。
こんな感じ。
三界
「おおもと」の「神」みたいなものから、まず光が分かれていって、神界で神直下の光が働いてる、とします。
そしたらその光から、今度は「霊」が生まれて、その場は霊界となるとします。
そしてそして、次は「魂」が生まれて、その場は「幽界」となるとします。
最後に「魄(はく)」が生まれて、その場は「物質界」となるとします。
つまりこれはディセションのモデルってわけですね。
よく「三界」っていいますけど、霊界・幽界・物質界の三界それぞれの次元における「おおもとから分かれた光」の状態・働きを「霊・魂・魄」としますよ、と定義したと思ってください。
そして、「魂」というのが精神活動の要素であって、その姿は「幽体」となり、
「魄」というのが肉体活動の要素であって、その姿は「肉体」となる、ということになります。
アカシックは幽界(アストラル界)にあるそうですが、人の想いがすべて記録されているのがそこであるというのも、精神活動(想い・念)を司る世界だからこそなのかな、と私は思ったりしてます。
でね、ほんとはこんなカンタンな話じゃないハズなので厳密にはもちろん言えないんですけど、「神霊」「霊魂」「魂魄(こんぱく)」みたいなくくりで考えると私は分かりやすいなーと感じることが多いので、よくそうしてます。
「神霊」は完全なる存在なんでしょうけど、「魂魄」は波動があまりに粗いために傷つきもするし癒しも必要となるし、なにより進化する存在になってるんだろうな、と思ってます。
私ごときが感知できるのなんて、せいぜい幽界の真ん中くらいなんだろうなー、となんとなく思ってます。
なので、幽界でのタミエルの姿(幽体)を私が感知してる、ってことなんだと思ってまして、たまーにいつもよりめっちゃ高い次元のタミエルを感じることもあるんですが、姿も分からないし、ぴかーっとしてるだけになります。
ミカエルもそうですね。
ほんとはどの次元にもミカエルはいるんでしょうけど、私が感知してるのはせいぜい幽界の中くらいのミカエルなんだと思ってます。
そしてこのタミエルも、私の中で目覚めてから何年もかけて「癒しのプロセス」を経て成長し、今に至ってます。
やはり「魂」と呼ぶものも成長するものなんだと実体験から感じています。
ちなみに、五井先生は、
「幽体が下着、肉体が上着」って考えると分かりやすいよ、と言ってます。
と、こんなモデルを定義しまして、次は魂の系統について、以下に示しますね。
系統
私が一番最初に自分の「魂」をビジョンとして感じたのは、いろんな魂のカケラの寄せ集め…で、それがそれぞれの色でキラキラしてるというものでした。
でも、これまでのいろんな経験から推測するに、どうやら大きなカケラが3つあるようなのです。
ミカエルから分かれ(分霊)て生まれたタミエルと、メタトロンから生まれたファウと、なんかしらんから生まれたドラゴンライダー(またはドラゴンの嫁・ドラゴンそのものではない)のミルラ・ムねーさんです。
タミエルもファウも大昔に、魂が大きく傷つき損ねる経験をしていまして、単体としては魂の機能を果たせないということで2つを1つとしたようなのです。
そして、いつからかは分かりませんが……多分、けっこー直近だと感じるんですが、ミルラ・ムの魂の一部も混ぜて、私の魂の基本ができあがってるみたいなのです。
このねーさんの魂が無かったら、私は天使系が強すぎて、マイ・ドラゴンの時環とは出逢えず「なにみえ遠足」にも行けなかったと思うので、ねーさんには感謝感謝です。
ここに、さらに地球で効率的に多くを経験し成長するために、いろんなカケラをちょっとずつ提供してもらったんじゃないか、という感じがするのです。
ちょっと前に描いたマーメイドもそうなんだろうな、と感じるのです。
……つまり、「つぎはぎの下着」なんですよ。
私の魂てのは。
なので、いろんな過去世を思い出してみても、タミエルの性格・業が強い場合と、ファウのそれが強い場合とでは、やはり「課題」が全然違うんですよね。
いえいえ、それだけじゃなくて、この人生においてもそうです。
タミエルが強く出てる時とファウが強く出てる時では、嗜好が違ったりしてます。
天使同士でもこうなんですから、もっと毛色の違う魂のカケラ同士だと、その出方次第で全然違う性格になるだろうなー、と思います。
と。
あくまで私がこうやって整理整頓して、今のところこうとらえてるよ、ということを説明してみました。
誰かのお役にちょっとでも…………立つかなぁ~?

私が「素敵な私」なることは、私のためだけじゃないと思うのだ。

お客様からのメールに時々、
「私も天使の声が聞こえるようになりたいです。」
とか、
「私も過去世を知りたいです。」
とか書かれていることがあるんですが、
その気持ちはすごーーーーーく分かるんです。
ええ、もちろんめっさ分かるですよ!
………分かるんですけど、なんのためなんでしょうね?それって。
迷ってばかりで辛いから、教えて欲しい天使に指示して欲しい……というものなら、場合によってはそれって「自分の人生を放棄する」になるかもしれないですよね。
「ゆだねる」と「放棄する」は似ていて全然違うんですもん。
なので、「よく分かんないけど、なんだかそれって素敵そうやん?」ってくらいの気持ちで「天使の声が聞こえるようになりたいで~す。」って言う方がいいんじゃないかなー、って思うくらいです。
なので、過去世を知りたいっていうのも、「なんか面白そうやーん?」ってくらいのかるーい感じの方がいいような気がします。
……まぁ、実際に過去世を知るというのは、どっぷり深い感情の波がどかーんとやってくるものなので、そうそうお気楽ではおられんですがね。
へっへっへっ。
で。
「ああ、こんな過去世やったから、今の自分にこういうところがあるんやー。」という「解釈の発見」も漏れなくついてくることになると思うんですが、
知ったからふっきれた、ということもあるだろうし、
知ったからこそ余計に途方にくれることもあるだろうし、
結局は、その時その時の「今の自分」の器のデカさ、人間としての深さによって、その「素材(解釈)」をいかに自分の成長の糧にできるかが決まってくるんやろうなー、と思います。
振り回されるばっかりというのなら、そんなもん知らん方がいいと思いますもん。
(でも、それをほんとうに自分を知るキッカケ・成長の糧にできるというのなら、こんな素晴らしいギフトは無いと思います。)
そもそも、過去世というものも、「同時存在する、同じ魂の別の自分」みたいなものと捉えるなら、
それぞれがそれそれぞれと深いところで影響しあっていると考えてもおかしくないと思うのです。
「今ここにいる私」が、「今ここの世界」に表出している唯一の存在であるというだけとするなら、今ここにいる自分の変化は魂全体に波及していき、どこぞの別の誰かの変化は自分にも影響するというわけですね。
魂は表層意識の私が考えるよりもっともっとバラエティ豊かな表現方法でもって、その存在をどんどん大きく深くしているんでしょう。
なので。
ガッツリと「過去世の物語」に入り込んで、そこから「なにか」をつかみ取ってきたら、
それをどう解釈するか、を、ちょいと引いた視点から見てみる…みたいなスタンスでいます。私は。
(それでも、ばりばり感情は動き続けてるんだけどね。)
でも、きっとそのうち解釈すらも不要になってきて、「ただそれを十全に感じるだけ」になっていくんだろうなー、と思ってますがね。

だから。たとえば。

そう。
だから。
たとえば。
誰かが、過去世のタミエルを知っていて、そしてあたしの中に彼を見つけたとして、
私の性格の一部や、言動の一部、見た目の一部、ふとした瞬間の雰囲気……などに、彼を見いだすこともあるのかもしれないけれど、
でも、あたしはタミエルそのものじゃないから、彼じゃないあたしの部分を見て、もしもガッカリされたら………
笑っちゃうよね。
どうしたって、私は私なのだし。
でも、私にはたくさんの「わたしたち」が一緒にいて、だからこその唯一の私なのだから、
すべてのわたしたちを愛して、
すべてのわたしたちが愛した人たちを愛して、
そうして、『いつか天を跳ぶ』のだ。

私と、「わたし」たち。

別に、過去世の自分の所業に今の自分の在り方の原因を見つけようとしたわけでもないし、
そこに今の自分の中にあるさまざまの責任を押しつけようとしたわけでもないのだけど、
この私という存在は、おそらくは「同時存在」である多くの「わたし」たちとこんなにもこんなにも干渉しあっているのか、と気づかされ、
魂というものの壮大さ、繊細さ、悲しさ、美しさを少しだけ垣間見たような気がした。
そして、どんなカタチであろうと、たとえ逆さにひっくりかえったものであろうと、やはり誰かを愛するという想いが、己の魂の姿を探すための導き手となるのだろう。
……細かいことをアレコレ書いておきたいのだけれど、さっぱり指が動かん。
これがやっと。

どうか、笑っていて。

高校2年の夏に出会った同い年の男の子に私は恋をして、
お付き合いをすることにはなったけれど、
私が彼を想うほど彼は私のことを想ってはいなかったので、冬には
「友達に戻ろう。」と言われてしまいました。
その夜は、お布団の中でいっぱい泣きました。
そして、それから少しして彼が(結果的には彼女というわけではなかったのだけど)他の女の子と一緒に映画に行ったのを知り、
またその夜に、お布団の中でいっぱい泣きました。
私はほんとうに彼を失ったんだな、と思い知らされ、
心の半分以上をもぎとられるような、そんな痛みを経験したのでした。
多分、人生で初めて感じた「喪失感」というものだったのでしょう。
そんなふうに、心が離れるというだけでも「あの人を失った」という感覚は強烈で、ほんとうに胸が痛くて仕方がないのに、
突然彼氏が死んでしまったら、どれほどの気持ちなんだろう……と、泣いている友人を見つめるしかなかった大学生の時の私がいました。
私にとっても友人だった彼。
悔しくて仕方がありませんでした。
私にできたことは、お通夜の日に彼女の下宿先に泊まって一緒にいることだけでした。
他にも、高校生の時のその彼氏を紹介してくれた当時大学生だった友人も、出会って2年もしないうちに交通事故で突然逝ってしまいました。
お葬式では、私と同い年の彼の弟が、友人みんなの目の前でしたが、少し言葉を交わしているうちにどうしようもなくなったんでしょうね。
仲良しだった私にぎゅっと抱きついてきて身体を震わせて泣いてしました。
私には、彼をやさしく抱きしめることしかできませんでした。
突然、愛する人が死んでしまうということは、どれほどの痛みなんだろう…と、そんな友人たちを見つめながら思ったのを覚えています。
私は、叔母も父も祖母も病気で死んでいますから、「もうダメなんだ…。」という覚悟を持つことができました。
父の場合は、それはほんの数時間のことではありましたが、
だんだんと身体が死んでいくところに一晩寄り添っていられたので、
目の前で死を宣告されても、取り乱したりはしませんでした。
お医者さんの「ご臨終です。」という言葉を聞いてすぐに、私はそっと病室の窓を開けたくらいです。
お父さんの魂が早く行くべきところに行けるように、と。
叔母を失った時よりも、祖母を失った時よりも、父を失った時の喪失感の方がそれは比較にならないくらい大きいものでした。
どれだけ私は父を愛していたかを、その大きさで思い知らされました。
だからこそ、目の前でだんだんと死んでいくような死に方をしてくれて、ほんとうに感謝しました。
これが、突然失うような、そんな別れだったら耐えられないだろうな、と思いました。
事故などで、誰か恨むことができる相手がいたら、恨まずにはいられないだろうと思いました。
ですから、当時4歳で、まだ自分の名前も言えず信号も理解できず車が危ないものだという認識も持てていなかった息子がちょっとした隙から突然家から脱走していなくなった時は、冷静になろうとしてもなれませんでした。
どこを探してもいなくて、あの子をこのまま永遠に失うのではないかという考えが頭をよぎる度に吐きそうになりました。
あの小一時間ほどのことは、今でも軽く私のトラウマになっていて、出先で息子の姿をほんのちょっとでも見失うと必要以上に焦ってしまいます。
今世では、おかげさまで目の前で突然大切な人を失うという経験はしていません。
でも、タミエルが大切な「あの子」を目の前で突然失った時の気持ちを、少しくらいは想像できます。
そして、その絶望的な喪失感からくる生々しい感情の一部を感じたことにより、今世の私の「愛」がほんの少しでも深まったとしたら、
それも魂の癒しにつながるのかもしれない、と思いたいです。
もしも、タミエルの愛しい「あの子」が、今どこかの誰かとして生きているのだとしたら、
どうか笑っていて欲しいと、心から願っています。
そして、目の前で親友のタミエルを失った彼が、もしも今どこかの誰かとして生きているのだとしたら、
どうかその魂の傷が少しでも癒されていて、あの素敵な笑顔で愛する人たちと一緒にいますように、と心から願っています。