水瓶座満月の後から1週間、えらいこっちゃでした。


農家の友人が作った大きいお茄子を、息子に描かせてみたら、こんな絵になりました。
オカンと弟2号が送ってくれた誕生日プレゼントの72色の色鉛筆で描いてました。

さて。
前回の日記にもチラっと書いた「えらいこっちゃだった件」ですが。
8月18日に「変革の使者」が我が家に突然訪れて……なんですが。
この件については、もちょっと時間が経ってから書けたら書こうかな、と思いますが、
とにかく、変革の使者が来たんです。
あ、そうそう。
変革の使者に「芳本美代子に似てる。」と言われたんですけど、絶対それって八重歯だからだと思う…。
初めて言われましたわー。今まで言われたことないわー。
村上信五に似てる、だったらテンション上がりまくりでしたが、似てないし。残念だけど私あんなイケメンじゃないし。いくら八重歯つながりでも。
ちなみに、若い頃はアラレちゃんに似てるって言われました。
ああいう眼鏡かけてたんで。
と、そんな変革の使者がやってきて、いろんな話を聞きまして、あーーーーーー…………、ってなりました。
ざっくり言えば、私は「もっと外に出ることができる人で、もっと外に出るべきだ」というお話でした。
(外に出るってーのは、外出しろってことじゃないからね!みんな分かってくれると思うけど!)

そしたらですね。
翌日に寝込みました。
9時半くらいから頭痛が始まって、なんとか息子のお迎えは行けたんですが、それ以外は寝込んでました。
娘なんて、遊びに行った友達の家でお昼ごはん食べさせてもらっちゃったし。
ママ友さんが気を利かせてくれて、ほんっとに助かりましたよ~。
丁度その一週間後が関ジャニ∞の夏のリサイタルで、月子さんが素晴らしい席(ガイシホールでアリーナの前から5列目!)を当ててくれていたので、こうやって先出しで寝込んでいれば、きっと大丈夫……なんて、思って耐えておりました。
たみえマニアな方はご存知かと思いますが、エイトのライブに行くと、なんやかんやで一時的にせよ体調がすげー悪くなることが多いのですが、関ジャニズムのツアーの時だったかな。
一週間前に倒れて救急車まで呼んじゃった、なんてことがあった時は、逆に心身共にすごーくスッキリした状態でライブに参戦できたのです。
なので、「変革の使者がキッカケで、先出しの頭痛になってるに違いない…。きっとこれでスッキリした状態でリサイタルに行けるわ…。」と、思うことにしたのでした。
で。
その翌日。
丸一日潰れてしまったので、あれやこれやと予定が重なりましたが、すっかり元気になったので予定を粛々とこなしました。
そして、去年から何かとお世話になってる自然食品のお店にも行ってお買い物をしてから、ちょっとゆっくりさせてもらってました。
子供たちも一緒にまったりさせてもらっていた……のですが、
ここの店長さんもスピリチュアルなことにも造詣が深いので、変革の使者が来て頭痛で寝込んだわー、と詳細を話したところ、
今までで一番くらいの強さで、ぐいっと突っ込んできてくれました。
彼女自身は別に何かが分かるとか見えるとかじゃないけれど、
でも、直観でそうだと思うから、と突っ込んできてくれたのでした。
たみえさんは、ココ(おでこのお目目)がいつでも開くのに、開きたくなくて薄目を開けてるだけ…みたいな感じなんじゃないかなぁ?
でももう逃げてちゃダメだよ、ってことなんじゃないかなぁ?
開き直って受け入れたら、体調不良も全部吹っ飛んじゃうかもよ?

…なんてことを、いろんな言葉で力説してくれました。
「えー?そんなことないよー。あたしなんてー。」と、今までの私なら返事したと思います。
今でもそう思う自分もいます。
……でもですね。
具体的にどういうことなのかは分からないんですけど、
何か……こう……ひとつレベルアップするというのか、すぱーんと何かが開くというのか……潮目みたいなものを感じている自分もいるのです。
それは今年に入ってからのもにょもにょ期間を抜けてから、なんとなくですが感じていたことでした。
店長さんは額のお目目が開くという表現をしましたけど、お目目というよりも、それこそ「自分をぱかーんと開く」…ということなんだろうな、と思います。
開き直る。
確かにそれが必要なんだろうな、と思います。
でも怖いんですよね。
変わることが怖いのだと思います。
何がどう変わるのかもサッパリ分かりませんけど、でも変わることそのものが怖いのだと思います。
開き直って、新しい自分を迎え入れたらいいだけじゃない?と言う自分に同意したり、
別に誰かを救うことができるような力を持った素晴らしい特別な人になりたいわけじゃないんだから、今のままでいいやん……と、囁く自分に、そういう意味じゃないんだけど、でもそうだよね、と思ったり、
自分の中でいろんなモノがギシギシと大きな音を立てているような、そんな感覚になりました。
なんてことがあっての、翌日。
夕方に息子がなかなかの下痢をしたのですが、彼はすぐに良くなりました。
が、夜に私が下痢になりました。
息子と違って、そこそこの長時間かーなーりお腹が痛くて、何度も下痢でトイレに走り、最後は水のような下痢になりました。
色がついてないんです。
すると、あまりに腸が動きすぎたせいか、胃までおかしくなって気持ち悪くなり、水も飲めなくなってきました。
仕方がないので、おとーちゃんが夜間救急のところに連れて行ってくれまして、吐き気止めをプラスした点滴をしてもらいました。
胃腸風邪だと言われました。
……うん。
夏の胃腸風邪なんだろうね。
でも、違う面から見たら、「浄化」だよねコレ……。
お掃除だよね…。
ギシギシ動いた分、「消えていく姿」が浮き上がってきたんだよね……。
と、点滴をしてもらいながら思いました。
それが日曜日の夜で、
月曜日は食欲も無く、おかゆ代わりにゆるゆるになったお茶漬けを少しずつ食べては、一日中ゴロゴロしてまして、
ヘロヘロになりながら、火曜日の午前中に息子の学校に懇談に行きました。
「元々痩せてらっしゃるけど、さらに痩せました?大丈夫ですか?」と息子の担任の先生に心配されちゃうくらいでした。
頑張って懇談に行ったは良かったんですが、やはりお腹の塩梅はずっとイマイチで、結局リサイタルの前日、25日までイマイチの状態が続きました。
食欲もあまりありませんでした。
えらいこっちゃでした。
家でゴロゴロしている間、久しぶりに五井先生の本を何冊か読み返しました。
忘れていた大切なことを、あらためて教えてもらったような気がしました。
(具体的なことは何も分からないけど)自分の天命(課題)が完うされますように、という祈りの原点に居れば、不安や恐れも「消えていく姿」として観ることができるんだ、という大切なことを、です。
天命が完うされますように、と祈りつつも、どこかで「今の(こじんまりした)自分」から変わるのを恐れ続けていることを、ハッキリ理解しました。
さらに家でゴロゴロしている間、こんなツイートを目にしました。


マスターの魂の断片を持っていようがいまいが関係なく、その天命の重さにも関係なく、
自分自身の本質を知る、ということはとても大切なんだろうな、と思いました。
そして、「そこから逃げる」というのは、何もフラフラした生き方をするというばかりでなく、現状維持にしがみつく、というのも同じなんだろうな、と思いました。
誰もが素晴らしい本質を内に秘めていて、
それに気付いて、ぱかーんと開けば、そこから素晴らしい自分がどんどん湧き出てくる。
そこにはネガティブが入り込む余地は無いのだから、安心して湧き出るままにすればいい。
そんな単純なイメージを持てばいいのに、やんややんやと横ヤリを入れる自分がいるんです。
怖い怖いと言う自分がいるんです。
なーんて書いてて、
「脱皮寸前の蝶みたいやなー。」
と思いました。
殻を破って出てくるしかないのに、こわいよーこわいよーって閉じこもってるみたいです。
殻を破らなかったら、そのまま死ぬしかないのにね。
TOMOKOさんだって
山羊座☆次のステージへ
って書いてるしねー。
http://tomoko7art.blog85.fc2.com/blog-entry-1162.html
と、まぁ、えらいこっちゃな1週間だったのでした。
でも、エイトのリサイタルはめっちゃ楽しんできましたし、いろいろ考えさせられて、自分を見つめる時間となったので、これで良かったんだろうなー、と思います。
今は。

どうしたってジャッジしちゃうよ人間だもの。


息子の浮輪についてた紐が猫たちには大好評でして、
ブ子さんも「遊んで♪」とよく持って来ましたが、黒丸は「取ってこーい。」と言ってこれを投げてやると、くわえて戻ってきます。
犬みたいです。
犬かもしれない。
さて。
先日、Twitterでこんなことをツイートしました。


スピでは「ジャッジをしない」ことを推奨されてるような気がするのですが、
そんなことはやっぱり無理だよなー、と思うんですよ。
ただそのまま受け止める、という域にはなかなか達することはできません。
分析しちゃいますよ。どうしたって。
分析したらジャッジしますよ。どうしたって。
でもですね。
がっつりジャッジもするし、「こうしたらいいのにー。」とか余計なお世話で思っちゃうんですけど、
「そういう人もいるのねー。」と思う部分も増えてきたのです。
なんて言いますか……、完全中立ではないけれども、車のニュートラルに近い感じです。
ギアがどこにも入っていない、みたいな感じ。
それすらどこか上から目線なんだと思うんですけど、人間なので仕方がないですね。
けれどもこうやって人間はどんどん年を重ねていって、いつの間にか好々爺になっていくのかもしれんですね。
もちろん、いじわるばーさんのままってのもアリですけどね。
なんでもアリですよね。人間だもの~。

私はモデルチェンジを2回しているのかもしれない。


土曜日に、息子がいきなり「庭の草抜きをする。」と言い出しまして、
まずおとーちゃんが機械でがーーっと草刈りをしてくれまして、その後に小一時間ほど息子と私で草抜きをしました。
この雑草はおとーちゃんも息子も残しておいてくれました。
かわいいから好きなの~。
さて。
昨日のブログ記事で、ここの小学校の子供たちが素晴らしいってことを書きましたけど、
じゃあここの小学校では子供同士の人間関係に全く問題が発生しないのか、と言えば、そんなわけはなくて、あちこちいろいろあります。
決してパラダイスというわけではないです。
……ということだけ、付け加えておきます。
人間関係なんてねーー
一番難しいことですもんねーー
まぁでも、大人も子供も人間関係の問題ってーのは
言わなくてもいいこを言う か 言わなくちゃいけないことを言わない 
のどちらかで発生するもののような気がしてます。
今から思うと、若いころの私もそのどっちもやらかしてたことが多かったなぁぁ~……と、恥ずかしくなります。
今でもまだまだ未熟ですけど、かなり未熟でしたからねぇぇぇ……。ああ恥ずかしい。
あ。
そういえばですね。
先日、こちらの記事
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-2247.html
を読みまして、なるほどー、と思ったんです。
私は、19歳までの自分と、20歳から30半ばまでの自分と、それ以降の自分では、それぞれ別人……とまでは言いませんが、
それでも部分的な感覚では別人と感じるくらい違っているなー、と思っていました。
20歳からは健康面でネガティブな変化があったために、それ以前の自分とそれ以降の自分では考え方や生き方にどうしても変化が出てしまったのは仕方がないと思っていましたし、
最初の子供を産んだのが34歳だったので、育児をするようになってからもまた内面的に大きな変化が起こったのも当然だったんだろうなー、と、そんなふうに考えていました。
けれども、もしかしたらそれだけが理由ではないのかもしれませんね。
魂レベルでの理由もあるというのなら……ちょっと納得です。
それくらい、自分の中では感覚的に「違う人間」になっているのです。
モデルチェンジしたみたいな、そんな感覚です。
なんであれ、
リンク先記事に書いてある言葉を流用するなら、『この時空間のなかで人間として生きるうえで実現する霊的成長』をするために、それぞれの魂がそれぞれの方向性や度合いでもって目標値を定めて「今のこの自分」として生まれてきてるんでしょうから、
必要なモデルチェンジを何度かしながら、粛々とこの人生を生きていくしかないわけです。
『天命を信じて人事を尽くす』という五井先生の言葉も頭に浮かびます。
自分の魂が「今のこの自分として生きて実現しようとしている霊的成長の目標値と実現の仕方」(天命)なんてさっぱり分かりませんけど、それが実現されると信じて、自分を信じて生きていくしかないですし、それが一番強力なグラウンディングなのかもしれないなー、なんて思ったりもします。
もしも魂というのは、人生の中でまるでモデルチェンジするようなタイミングが何度かあるのだとすれば、
その頃に出会う人との縁というのは、とても大きな意味を持つのかもしれませんね。
私とおとーちゃんにとってそれは息子だったわけですが。
……あ。そいえば。
おとーちゃんと出会ったのって19歳の時でしたわ。
おおー。
※追記※
そいえば、私は8歳(小3)でもモデルチェンジしてましたわ!
この時のモデルチェンジはなかなか劇的でしたわ~。
覚えてますもん。
「世界の見え方」が突然変わったの。
なので、モデルチェンジは3回してましたね。あたし。
でもって、小3の時に出会ったのが一番仲良しだった友達でした。

もしかして、もしかしたら…


inahoの店長さんに頼まれまして、特別に描かせていただきました。
お友達のお店の開店祝いに贈りたい……とのことだったので、開運・金運サポートのエネルギーを降ろしながら描かせてもらいました。
そのお友達にも気に入ってもらえたようで良かったです~♪
お店が繁盛しますように!
*+*+*+*+*+*+*+*
さてさて。
先日、突然「ハッ!」とした話です。
去年の9月に発生した娘のディスレクシア問題からこっち、なんだかんだでずーーーーっと娘に心配をかけさせられています。
今までこんなことなかったのに、なんだかんだと続いているのです。
いえね、ディスレクシアに関してもね、分かったからこそ親の態度もより善いものに変えられましたし、学校の先生もちゃんと理解してくれてますし、なにより本人が自分の資質を理解できたことが大きくて、苦手だけど頑張ってるんですよ。
そしたらですね、去年の1月から通いだしたソロバンの効果も出てきたんだろうな、と思うんですが、算数のテストの点数が高め安定してきまして、
それにつられるかのように、理科や社会も高め安定してきたのです。
苦手だけど漢字を頑張るぞ、という娘の心意気が他の科目にも反映されてるような気がします。
そして、勉強が楽しいと言い出したのです。
私もどっちかというと学校の勉強は楽しかった方なので、学ぶ楽しさを娘が感じてくれているのがとても嬉しいわけなんですが、
これはディスレクシアだと分かってからの好転だよなー、と感じています。
だから、心配かけられても心配かけられておしまいではないし、おしまいにならないように親としても努力はしてるんですが、
それにしてもねー、なんだかんだと続いているのは、親としては少々キツいのです。
私、心配性だからねぇぇぇぇ。
心配しまくるわけですよ。心の中で。
そりゃしんどいですって。
そしたらですね。
先日、突然ハッ!としたんです。
ほんとに突然。いきなり。前触れもなく。
ディスレクシアだと気づくちょっと前に、娘ちゃんにゆーたよなぁ……。
『親に心配かけたくないって理由で親に相談しないというのはアカンよ。親は心配するのが仕事やでね。』
って……。

それからも時々娘に言ってたんです。私。
親は心配するのが仕事だからね、って。
親は心配するのが仕事だ、と言葉にして言ってるから、そういう現実が創造され続けてるんじゃね?
……と、ハッとしたのでした。
もちろんねー
そういうつもりはありませんでしたよー。
心配したいから言ってるわけじゃなくて、心配かけたくないから親に相談しないなんてのはしなくていいからね、というのを娘に伝えるために、娘により伝わるようにと思って言った言葉なんですから。
でもですね………
特に今年になってからなんですけどね、
所謂スピで地球の次元が上がっただのなんだのっていう話がですね、もしかしたら本当かもしれないな、と、なんとなくなんですけど、根拠は示せないんですけど、そんなふうに思うようになってきたんです。
同じ物理世界に生きてて、同じ世界を共有してるんだけど、それは間違いないんだけど、でも薄いヴェール1枚で世界が隔てられてるような………
同じ世界を共有してるけれど、それぞれ異なる次元を生きてるような、そんな感覚を覚えるようになったんです。
もしかしたら、「私という意識」は今までの次元と平行して、次元がほんの少し上がったところでも生きてるのかもしれないと、思ったりすることが増えたのです。
(それは、「上のヒト」を感知する、という意味ではないです。あくまでこの物理世界での「私という意識」の話です。)
もしもそうだとしたら、
不用意に発した言葉でも、その言葉が現実を創るスピードは以前より速くてもおかしくないわけで、
それが、自分に起こっているんじゃないか?とハッとしたのでした。
いやいや、そんなバカな~……、と否定したりもしてみたんですが、
すると、間髪入れずに長居和尚さんのこの記事が目に入ってきたのでした。
http://blog.goo.ne.jp/osyou16_1965/e/183783e1fc5eaf0cbd6ceee128119526
言霊で自分を縛る、という言葉にドキっとしました。
現状を言葉にしただけ、
分かりやすく伝えるために言っただけ、
感情を言葉に表しただけ……でも、言霊で自分を縛ってしまうことになるわけです。
やはり、今まで以上に発する言葉には慎重になった方がいいのかもしれない、と思いました。
まぁね、私の感覚が全くの的外れであったとしてもですよ、発する言葉に慎重になるのは悪いことではないので、気をつけていこうと思います~。

ソレは霧散してしまいましたが。


庭の草も、一気に春の草になってきています。
あの地震から5年ですね。
いろいろいろいろ思うことはありますが、あえて違うこと書きます。今日は。
と言いますか、メモみたいなものです。今日のは。
このところ、ちょっと今までと違う流れになっておりまして、
まずは、友人が『自分自身の自己評価と、他者の自分への評価に差がありすぎるために起こった話』をしてくれました。
それは、自分自身への評価が辛すぎた場合の話でした。
自分自身への評価が辛すぎるために、他人に褒められても、卑下でもなんでもなく、本心で「そんなわけない。」と否定してしまったり、
自分への評価が辛すぎるために、もっと努力しないといけないと頑張ることが、場合によってはイヤミに受け取られる……という気づきについてでした。
それを聞いて、「なるほど!」だったのです。
その話を聞く直前に、私自身も知り合いのところでヘッドマッサージを受けた時に同じようなことがあったのです。
マッサージをしてくれたセラピストさんが、「お肌のキメが細かくていいですね~♪」と褒めてくれたのでした。
反射的に
「いえいえ、毛穴はぱっかーんだし、シミだらけだし、アカンですよ~。」
と、本心から言いました。
でも、セラピストさんはお世辞じゃなくて、触り心地から私の肌のキメの細かさを感じて、本当に褒めてくれたのでした。
「あれ?このやりとり、前にもあったなー…。」
と、数年前の美容院でのやりとりを思い出しました。
若い美容師さんが洗髪をしてくれたのですが、その時に同じように褒めてくれたのでした。
でも、私は反射的にその言葉を否定してしまいました。
謙遜ではなくて、否定です。
しかしここで、たくさんの人の肌に触ってる人が言うんですから、お世辞も込みだとしても、間違いでも見当違いでもないのかー……、と、気がついたのでした。
私にとって、「綺麗な肌」というのは、横山裕くんのような白くて美しい肌のことを指すので、自分の肌は全然アカンと思っていました。(8TESTライブの時に彼を間近で見たんですけど、ほんっっっとに美しかったの~♪)
加齢に伴って毛穴はぱっこんぱっこん開いてるし、職場のストレスで吹き出物だらけになった時の残骸としてのシミもデカいのが何個もあります。
でも、確かに見た目に比べて触り心地は悪くないのです。私の肌は。
そうかー……。
評価基準があまりに高すぎて、自分への評価が辛口になりすぎてたのかもなー……。
と、思ったばかりだったのです。
なので、この時の正解は、
「ありがとうです~。自分ではアラばっかり気になってしまうんですけどね~。」
だったのかもなー、と考えてたところでした。
目標は高くてもいいのだけど、
評価基準があまりに高過ぎると、自分自身への評価がとても低くなり、他人からの評価とズレてしまう……というのも、やはりバランス的によろしくないのかもなー、と思ったのでした。
そしたらですね。
そこから目にするもの、耳に入るものに次々と「あれ???」となってきたのです。
たくさんありすぎるので具体的なことは割愛しますけど、「あれ???」の連続でした。
するとですよ。
昨日の夜、お風呂上がりの時に、不思議な感覚になったのでした。
不思議な感覚、としか言いようがありません。
ほんとうに体感というか……感覚として、通常の感覚ではない状態になりました。
変性意識状態の一種なのかもしれないですが、なんとも言葉にできない感覚・体感に包まれました。
それと同時に、
自分自身の肉体は完璧なのだ。
この肉体を含む自分自身を【真に】尊敬し愛すれば、【すべて】が正しく機能するんだ。
そしてそれは美しいものなのだ。

という「思考」がばこーーーんと出てきた………と言いますか、
普段の意識状態とは違った意識状態でもって「分かった」のでした。
ええ。
「分かった」のです。
そこに疑いも何もなく、それでしかあり得ないということが「分かる」というアレです。
しかし。
こーゆー「普段と違った感覚で、おそらく高次元の何かを掴んだ」ような体験あるあるなんですが、
その状態が過ぎ去ってしまい、普段の意識状態に戻ってしまうと、霧散するわけです。
「紛れもなくソレだと分かった」という感覚が。
なので、「そうだと分かった自分」を思い返してみても、それはまるで「こういう夢を見たなー。」というのと大差ない状態になってしまうのです。
本当にそうだと分かって、それを体現するにはほど遠く、いつもの自分に戻ってしまうわけです。
も少しキープできるといいなー、とは思うのですが、普段の意識状態じゃないとオカンとしてやってられないというのもありますしねー。
それに、霧散してしまったと言っても、「こんな夢を見たなー。」というのと同じようなうすーーーい感覚でしか残ってないにしても、
それを数秒でも体験して「分かった」だけでも凄いことだと思うので、
ついつい「普段の思考の癖」や「無意識にそうだと思い込んでる状態」でオートマティックに対応している自分自身に対して、
そうじゃないんだよ~、と言い聞かせよう、という気持ちになりました。
この肉体を含む自分自身を【真に】尊敬し愛すれば、【すべて】が正しく機能するんだよ、って。

娘はディスレクシア★番外編★&「鏡」に映るのは…?

fc2blog_20140514111858976.jpg
娘のディスレクシアの記事について、ブログやSNSでいろんな方がご紹介くださいました。
ほんとうにありがとうございました。
ディスレクシアだけでなく、身体を動かすのが苦手なディスプラキシアや、計算が苦手なディスカリキュアなどもあります。
努力をしていない、のではなくて、それが生まれつきちょっと苦手なんだ、ということを、親も学校の先生も認めて、その子に合った指導ができたら、不要な劣等感も持たずに済むと思いますので、いろんな方に知って欲しいなぁ、と思います。
ですので、ブログやSNSでご紹介くださるのはとてもありがたいと感謝しています。
俳優の堺雅人さんがディスカリキュアっぽいという記事もありますが、有名人でも学習障害っぽい人はたくさんいらっしゃいますよね。
そして、私も若干そのケはあるかも、と思います。
計算ができなくはないのですが、子供の頃から苦手というか、人より時間がかかっていました。
そして左右がすぐに分からなくなります。
私も「左」「右」と言われると、一瞬分からなくなるので、「あっち」「こっち」と言ってもらう方がうんと楽なんです。
人に言わないだけど、そういう人ってそこそこ居るような気がします。
(そうそう!以前ツイッターで流れてきたんですけど、左右がパッと分からない人は「エロ」で分かるよ、書いてありました。左右だからエロ。左はエ、右はロ。だからエロ!)
また、のび太は運動がとても苦手ですがあやとりの名人なので、たとえディスプラキシアだとしても「全身運動(粗大運動)」の方の協調がスムーズではないけれども、「微細運動」の方は大丈夫なタイプなんだろうな、と思います。
こういうどっちかだけ苦手だと、ディスプラキシアだと思われないことも多いかもしれません。
「体育が苦手なんだねー。」「縄跳び下手だねー。」「よく転ぶねー。」で、済んでしまうことも多い気がします。
そして、「目」も重要で、視力は良いけれども「視覚機能」が少し弱いと、学習障害になることもあるそうです。
視力が良いと気づきにくいですよねぇぇぇ。
でも、うちの娘もちょっと弱いなー、と感じてるんですが、日常生活で「お前、見えてないだろー。」って思うことが昔からちょいちょいあったのです。
物を探すのが下手なんです。
ざっくり言えば視野が狭いんでしょうね。
視空間認知がちょっと弱そうです。
ちなみに私は視力も弱いですが、動体視力が弱いといいますか、瞬間視が弱いので、それで車の運転が苦手なのです。
(自分が車の運転は苦手だと思っているので、安全運転を心がけております。)
生まれつきお腹がめっちゃ丈夫な人もいれば、お腹がとても弱い人もいますし、
それと同じで、脳と身体の連携でちょっと弱い部分があるというのは、実はよくあることなんじゃないかなー、と思います。
お腹が弱いからこそ健康に気をつけていたら、とても長生きした……ということだってありますし、自分の弱点もひっくり返ることだってありますから、余計な劣等感だけは持つことがないように、と特に子供たちには望みます。
★★★
さて。
話は変わりまして。
月子さんがこんな記事を今朝アップしていました。
http://tsukinohitorigoto922.blog.fc2.com/blog-entry-29.html
へぇぇぇぇ~、と、とても興味深く読んでおりました。
実はアドバイスをした友人というのが私でして、
彼女がこういうのあまりやりたがらないと知っていたのですが、
「私のこの記事みたいなワークをやってみたらー?」と薦めてみたのです。
この記事というのが、コレです。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-545.html
この記事を読んでいただければ分かりますが、私は「インナーチャイルド」とは言っていません。
「インナーセルフ」言っています。

しかし、そこでじぇいど♪さんと、「過去世・上のヒト」の問題を見つけて癒していこうとするだけじゃなくて、
やはり「上」と「下(現実世界の自分)」は等価なので、インナーセルフのワークで「上(過去世)」の自分(の状態や問題)を再発見して癒していくことと同時に、リアルの自分の中にある今生で抱えて隠してしまった傷や感情や想い……を丁寧に見いだしていくことが大切だよね、ということを話し、そのうえでさらなるワークの方法をじぇいど♪さんに教えてもらったので、それに従ってワークをしてみました。


でも、彼女の中では「インナーチャイルド」と変換されていたようなのです。
これがまずとても興味深いなー、と思いました。
でも、無意識にインナーチャイルドだと思いこんで読んでしまう方って、結構いらっしゃるんじゃないかな?とも思いました。
そして、この記事なんですが
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-8.html
初めてタミエルと会ったのがこの時のワークだったのですけど、
この時に、守護獣として豹が出てきてるんですが、これも私のインナーセルフの一側面なんじゃないかなぁ、と思っているのです。
なので、インナーセルフに動物が出てくるというのも不思議ではないのですが、
インナーチャイルドの抵抗が強すぎて前に進めない場合に、あえて動物に置き換えるというのもあるのか、と実に興味深く月子さんの記事にあったリンク先を読ませてもらいました。
私のオカンは、おそらくかなり深く傷ついたインナーチャイルドが存在していたと思います。
アレがよく暴れていたんだろうな、と今ではそんなふうに感じます。
そして、暴れるアレにちょいちょい我々子供たちは翻弄されていました。
傷つけられることもありました。
しかし、オカンの母親である祖母が亡くなってから、オカンは「すべて許せた。」と言いました。
かなりの葛藤があったはずなのですが、すべて許せたそうです。
まるで憑き物が落ちたように許せたのだそうです。
そして、その言葉をオカンから聞いた途端に、私の中に残っていた確執もすーっと消えたのでした。
インナーセルフ、その中のインナーチャイルドを癒すためのワークをあえて無理やりする必要は無いと言えば無いです。
人生の何かの大きなイベントの時に、インナーチャイルドが劇的に癒されるように魂が設定しているかもしれないからです。
または、それこそもっともっと深いところの魂の傷とリンクしていて、ちょっとやそっとじゃガチガチになったものを解消できないので、何年も何十年もかけて徐々に順序よくハイヤーセルフの采配によって、そのプロセスを歩ませれてるのかもしれないですしね。
なので、どうするのが正解なのか、なんて分かりませんけど、
生き辛さをずっと感じているとか、よくよく考えてみると同じことを繰り返しているとか、そういうことから抜け出したいと思っているのなら、インナーセルフのイメージワークをしてみるのも悪くないかと思います。
鏡に何が映るのか、を、勇気を出して観てみるといいんじゃないか、と思います。
(もしもまだ準備ができてないなら、当たり障りのない姿しか映らないと思います。)
あ。
ちなみに、なんですが。
私がまだ子供を生む前で、名古屋に住んでた時に初めてヒプノセラピーを受けまして、
その時にインナーチャイルドが出てきたんですが、小さい私は三つ編みをしていて、誰か(←今から思うとアレはタミエル!)に抱っこしてもらって、草原の彼方の地平線をワクワクするような気持ちで指さしていました。
とても子供らしい溌剌とした感じのインナーチャイルドでした。
なので、私のインナーチャイルドには問題がないね、とセラピストさんに言われまして、私もそうなのかと思っていたのですが、
じゃあ、子供の頃の心の傷が全くないのかというと、そんなことは無くて、
以前にも書きましたが、6歳くらいの女の子がお母さんに甘えてる姿を直視できない、というのが、心療内科に通ってる頃に顕著に出ていました。
今から思うとですね、
確かに私のインナーチャイルドは、ヒプノセラピーで出てきたような姿に象徴されるような面も強くあるのです。
けれども、傷ついて怒りやすいオカンのインナーチャイルドの影響も同時に持っていたのだと思います。
ただそれは、ほんとうに「影」のようなもので、私自身のエネルギーではないといいますか、厳密には私自身のものではなかったから、姿を現すことが無かったんじゃないか、と思っています。
だから、オカンの中のインナーチャイルドが癒されたと同時に、私の中からもその影が消えたのだと思います。
と。
今日はゆりえさん(←死んだ祖母)の誕生日だったので、書いてみました。
キムタクと同じ誕生日なのよねん。

ねたみちゃん、現る。

ちょっと前のことですけども、
友人とのやりとりの中で、魂ってものについての彼女なりの解釈を聞かせてもらいまして、それがとても納得だったのです。
ざっくり言いますと、
どんな人でも、いろんな魂のパーツの組み合わせだ、という感じですね。
かなり大人な魂のパーツと、ある意味とても未熟な面を持った魂のパーツが組み合わさっているようなものだ、と。
私自身も、何年も前になりますが、自分の魂というのは、たくさんの魂のパーツの組み合わせだというイメージを見せられたことがあります。
そいえば、五井先生も似たようなことをおっしゃっていた記憶もあります。
すると、
氣乃 介さんも、ブログの方で「類魂」のお話をシリーズで書き始められまして、
http://ameblo.jp/kino-tasuku/entry-12086528703.html
やはり、ここでもたくさんのパーツで魂は成り立っている、という考え方が書かれています。
私の場合は、タミエルとファウとミルラ・ムという別々の魂のパーツをもともと感じてはいますが、
全然認知していないパーツもたくさんあるんだろうな、というのは、自分がたくさんのキラキラした魂のパーツの寄せ集めというイメージを見せられたこともあって、そう思っていました。
まぁ、これは、物理学で「光」を「波」と捉えるか「粒子」と捉えるかという問題と同じようなもので、
魂を「かたまり」のように捉えた場合の認識の仕方だと思った方が良いように感じます。
波(波動)と捉えたら、また違った認識の仕方になりますからね。
それで、です。
一昨日からちょっと体調がよろしくなかったのですが、
昨日は久々に朝から全くダメで、ほんとーにしんどくて寝込んでおりました。
おとーちゃんにお仕事を休んでもらったくらいダメダメでした。
そのうち、どうにもならないくらいしんどいピークが過ぎて、ちょっとだけ楽になった頃に、ぼーっとした頭で何故かなんとなくプラチナプロテクトをしなくちゃ、と思いまして、半分ウトウトしてる状態でプロテクトをかけたんです。
するとすぱーんとこんな映像が頭に浮かびました。

雲の上のような、そんなふわっとした真っ白くだだっ広い空間に、私とミカエルだけが居て、向かい合っていました。
すると、ミカエルは小さな石のようなものを見せてくれました。
光ってはいるのですが、墨のような色をしていました。
これは、私の魂のパーツの1つだと思いました。
そして、このパーツは、「羨ましい、妬ましい。」という感情でいっぱいなのだと感じました。
私は、いい人ぶるわけじゃないんですが、誰かのことを妬ましいと思ったことがほとんどありません。
誰かを羨むという感情自体が、大人になってかしかハッキリとは認識できませんでした。
会社員時代の友人が「いいなー。いいなー。」とすぐ言う子だったのですが、ああそんなふうに軽く言っていいんだ、と目から鱗が落ちてからは、かるーく「いいなー。」と言うようになりましたが、それまでは人を羨ましいと思うよりも、すごいなぁぁぁー、で終わっていたことが多かった気がします。
なので、今でも「いいなー。」と言ったとしても、そんなに真剣に羨ましく思ってるわけでもなくて、すぐに終わって忘れてしまうことが多いです。
そこは土星先生の良い面が発揮されてるのかもしれません。
他人を羨むことにエネルギーを注ぎ続けるより、自分の成長の方に意識が向きやすいからだと思います。
または、『そうでない自分がイヤ』で「美人さんに生まれたかったわー。おっぱい大きくなりたかったわー。」と思うのであって、誰か特定の美人さんや巨乳さんを羨ましがるというわけではないのです。
ですから、私の魂のパーツの中に、人を羨む・妬む、という感情でいっぱいになってるものがあるとは思ってもいませんでしたので、ぼーっとした頭の中でもかなり驚きました。
もしかしたら、このパーツが私の「人を羨む」という気持ちを全部引き受けてくれてたのかもしれないし、
もしかしたら、他のより成熟したパーツがこの部分に関しては前面に出てたのかもしれないし、
どうなんだろうなー……、とぼんやり思いつつ、この薄墨色の光る小石のようなパーツを眺めていたら、
突然、このパーツが人格化して見えてきました。

ミカエルに
「この子は、ねたみちゃんって名付けてみるわ。」
と、私が言うと、ミカエルはにっこり笑ったような、そんな気がしました。
ねたみちゃんは、小学生低学年くらいの、小さな女の子でした。
ねたみちゃんを膝に抱っこしながら、ぼんやりしていたら、ふと思いました。
そうか。
ねたみちゃんってば、私が本気で「羨ましい」と思って言葉にしても、誰も私を責めない現実を創ったのね。
私は、7歳の頃から宇宙物理学者という頭が良くないとなれない職業に就きたかったので、とても頭のいい親友や弟のことを「いいなぁ。」と、大人になってから羨ましく感じることがありました。
確かに羨ましく思いました。
でもね、それすらもね、すぐに「まあ仕方がないか。」と、羨む気持ちを手放してしまっていました。
時々、折に触れ「いいなぁ。」と思い出すのですが、すぐにまた手放していました。
またそのうち書こうと思いますが、羨ましいよりも少し違う方向で思うことがあった、というのもあって、羨ましいという感情自体は割とすぐに手放してしまっていました。
なので「妬ましい」まで醸されることもありませんでした。
そんな私ですが、いつも健康で元気な人を心底羨ましいなー、と思う気持ちは、とても大きい気がします。
しんどいこと自体もほとほとイヤになってるし、
家族に迷惑をかけることもイヤだし、
おとーちゃんの仕事先に迷惑をかけるのも申し訳ないし、
いつも元気で健康な人を本当に羨ましいなぁ、と思います。
そして、身体がちょっと弱い私が、「健康で元気な人が羨ましいわ。」と言ったとしても、それに関して「人を羨むなんてみっともない。」などと責める人は確かにいないだろうな、と思ったのです。
これなら自分に対しても、人に対しても、正々堂々と羨ましがることができるよなー、と。
「でもさぁ、ねたみちゃん。しんどいのはもうイヤなんやけど。あたし。」
と、話しかけましたが、ねたみちゃんはガン無視です。
どうしたらいいのかなー………と、ぼーっと考えてるうちに、急にハッと意識がハッキリしてきたので、イメージが霧散してしまいました。
ねたみちゃんが晴れやかな女の子に変容していくように、私はどうしたらいいのかしら~……と、考えてはいるのですが、
さっぱり分からないので、とりあえず、ふと思った時にイメージの中でねたみちゃんを抱っこしております。
ガン無視されっぱなしですけどね。
ねたみちゃんが変われば私の体調も変わるかもしれないし、ちっとも変わらないかもしれないけど、
見つけたこの子をこのままにしておけませんしね。
だって、私の魂の一部ですもん。
★★お知らせ★★
月子さんが星読みを常時募集しておりますので、
興味のある方は、こちらのブログにアクセスしてください♪

http://tsukinohitorigoto922.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

今の「この自分」に生まれてきた理由は、ちゃんとあると思う。

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ドライフルーツをちびちび食べてお茶飲みながら書いてます♪
先日書いたブログ記事にも関連することなんですが、ちょっと書いてみます。
お客様…というか、もともと仲良しの女性ですので、ちょっとばかり踏み込んだ言い方でやりとりをしたのですが、
そのやりとりを通じて、ああこれは説明不足なのかなー、と思ったことがあったので、書いておこうかと思いました。
私自身もそうだったんですが、
多かれ少なかれ、誰でも「親との関係性」が、今の自分自身を作り上げた大きな要因の1つになっていると思います。
それは良い面もたくさんあるはずなのですが、「自分の生き辛さの原因」を親との関係性に見いだす場合も多いと思います。
それはそうなんですよね。
そこはとてもとても影響が大きいですよね。
なので、なんとかしようとすると、親子関係の問題、さらに言えば親自身の問題を見ることになるわけで、
私も例に漏れずそんな感じでした。
しんどかったこといっぱいありましたが、それは自分自身を知るためにも必要な過程でした。
でもね。
そういう「今世でのあれこれの中から問題の原因を見つける」だけでは解消できないこともたくさんあるんですね。
今世で「問題」として顕れていることは、魂レベルで何らかの解消すべきモノがあるからこそで、
そんなモノの存在を示すために、「問題」が発生するような今の自分として生まれてきた

としか、思えないんです。
そこそこの時間をかけて自分を向き合ってきた結論として、そうとしか考えられんのです。
さまざまな経験を積み重ねているからこその偏り(深い部分での思い込みや、不要となった誓いや契約など)を魂の中に見つけて、それらすらも受け入れて昇華していく、ということを、今生での問題解消とリンクさせつつ、真剣に丁寧に進めていくことが、まさに「この自分に生まれてきた意味」なんじゃないかな、と思うのです。
あ、少なくとも縁あってこの記事を読んでる人は、そうなんやないかなー、と思います。
じゃあ、過去世を思い出さないと問題は解決しないのか、というと、YESともNOとも言えません。
過去世を思い出したとしても、こんな人間でしたーこんなことしてましたーこんな気持ちでしたー……と、思い出すだけなら、ただ面白いマンガを読んでるだけなのと大差ない気がします。
過去世に囚われてしまうくらいなら、逆に思い出さない方がいいかもしれません。
過去世を思い出すことが目的じゃないですもんね。
そして他にも方法はいくらでもあるんですから。
魂の偏りを見つけて受け入れて昇華する、というのは、
永い永い時間をかけて積み重ねた経験を整理整頓して、成長を遂げた魂がさらに自由になる、ということと考えてもいいかもしれません。
まさに魂の棚卸。
まさに魂のデフラグ。
……って、抽象的なことばっか言ってるけど、具体的にどうしたらいいの?と訊かれたら、困るなぁ~。
それは自分で求めて自分で見つけないと意味が無いことですもんね。
その人その人にカスタマイズされた方法をハイヤーさんが用意してると思いますもん。
「覚悟ができたら、真剣に求めてください。」としか言えません。私ごときでは。
あ。
でもねでもね。
月子さんに言われたんですよ~。
私、というか、私の絵というか、そのセットというか、は、「誰かの背中を押す係」だね、って。
私に背中を押されたら、逃げずに一歩踏み出してみてくださいね♪

誰でも神様からギフトをもらって生まれている

サンダルフォン
もう3年前になりますかね。
この絵を描いたのって。
お客様にお届けしたものですが、私はこの絵がかなり好きなんです。
サンダルフォンなのですが、普段私が描くサンダルフォンより、ちょっと高いところのサンダルフォンのような感じがするのです。
または、もっとプリミティブな、という感じ。
以前ブログで紹介した時もこんなこと書いてましたしね。私。
久々にこの絵を見て、
「これは、やっぱり、魂を送り出してるんだろうなー。」
と、思いました。
描いてた時に何を感じたのかは、もうすっかり忘れてしまったのですが、そう思いました。
私たちは、天使などの大きな存在に見送られて、そして見守られながら、この人生を生きてるんでしょうね。
実は昨日、月子さんから興味深いお話を聞かせてもらいました。
それは、月子さんのお勤め先の人事異動についてのお話だったのですが、それを聞いて、
(醸し中でブログにはまだ全然書けてないんですが)この一カ月で私の周りで起こったいろいろなことと照らし合わせつつ、しみじみ思ったんです。
人間って、絶対何か持って持って生まれたギフトがあって、それを磨いて(自分のためにも人のためにも)活かすために生きてるんだな…。
と。
もちろん、そのギフトが自他共に分かりやすいものばかりじゃないので、自分が与えられたギフトが何か分からないままの人の方が多いような気がします。
それでも、大好きなことや、人より少しでも得意だなーと思うことや、なぜかこれをしなければならないことになった…など、やっぱりギフトを活かすように知らず知らずの間に促されているものじゃないかなー、と感じるのです。
それは、時にはネガティブな要素をもってして促されることもあるでしょう。
……もしかしたら、そのパターンの方が多いかもしれませんね。
さつきのひかりさんのこの記事にしてもそうですけど、
我々からしたら、「自信が無いなんてホント?」って思っちゃいますけど、ご本人にしたらあの記事に書かれたことが真実でしょうし、
自信が無いからこそ途切れず続けることができて、多くの人に癒しのエネルギーを送ることができたというのなら、ネガティブな要素に促されたパターンだと言えますよね。
でもって、ギフトの大きさというか密度というか、今世での課題との合わせ技で、それらが大きい重い…という人ほど、潰されそうなほどのネガティブ要素で追いかけられたりするかもしれませんが、
潰されたらやり直しでしょうから、やはりここは立ち向かうしかないですよね。
言い訳してるうちに人生終わっちゃうし。
あ。
あれだ。
大きい星ほど重力も大きいからね。
自重で潰れるほどの重力加速度に立ち向かうようなイメージだな。
うん。
そんなこと言われても私には別にこれといった特技は無いし……と思う方もいらっしゃるとは思うんですけどね、
もちろんね、ギフトが仕事に直結したり、ネットを通じて発信して多くの人に知ってもらって喜んでもらえたりすれば、これもすごく分かりやすいですが、そういうものばかりじゃないですよね。
息子の同級生のママさんに、「ぱあぁぁぁっと明るい人」がいます。
農家のお嫁さんで、普通のお母さんです。
でも、彼女がいるだけで空気がぱぁぁぁぁっと明るくなるんです。
それは生産的なことに直結しているわけではありませんし、本人もちっとも意識していないと思いますが、すごく素晴らしいギフトですよね。
でね。
多分ね。
ギフトを磨いて自分のため人のために活かす、というのは、結局は、
自分を愛すること
なんだと思うんです。
言い換えれば、「人は自分を愛するために生きている」ということになりますかね。
ですから、まずは他人に褒められたことは素直に受け取って、そこを大事にしよう、って思えばいいんじゃないかな、と自戒を込めて思うのです。
ええ、あたしも素直になかなか受け取れないんですけど、そうしようと思います。
きっと、こうしてちまちまとブログを書くことが好きなのも、神様からのギフトね♪
より一層大事にします♪

心配しなくていいよ、と彼女は言った。


今年は「ちょー暑いのが短期集中」って感じでしたね。
8月の終わりからもう秋雨前線が停滞して雨が多いですし。
とは言え、今日みたいに晴れると、日中はまだまだ暑いですね~。
運動会の練習もあって、顔を真っ赤にして「暑いーーー。」って子供たちが帰ってきました。
娘なんてかき氷アイスを半分食べて、水筒の水を補充して、すぐに自転車で学校に行きましたけどね。
ここの小学校の運動会では、3年生4年生は一輪車の演技があるので、その自主練に行きました。
娘は夏休み中にコツコツ一人で練習してたんですが、みんなで練習すると一人で練習するより上達が早いみたいです。
面白いもんですね。

お猫も今日のお昼前後は暑くてぐだーーーーとしてました。
さて。
たみえかーさん、瞑想を毎日続けてます。
なんとか1日2回やってます。
夜は寝る前にやってるので、そのまま寝てしまうことも多いですが。
で。
今日の午前中の瞑想のことです。
瞑想の時にYouTubeにアップされてる音を適当に選んで流してますが、なんとなく気に入らないとすぐに止めて、違うのをこれまた適当に選んでます。
今日は、なんとなくコレを選んでみました。

音楽じゃなくて、誘導するやつです。
そしたらですね、
インナーチャイルドが出てきて、15年くらい前にヒプノセラピーを受けた時に出てきたインナーチャイルドとほぼ同じ姿で、みつあみした女の子でした。
そして彼女が言いました。
「心配しなくていいから。」
って。
先週末から更年期障害の症状がちょっとキツくて、不安になることが多いんですが、それについて言ってくれてるんだろうな、と思いました。
そしたらですね。
瞑想の後、お昼過ぎに郵便局やらスーパーやらに行ったんですが、そのスーパーで聞き覚えのある曲が流れてきました。
曲だけで、歌は入っていませんが、大好きだった野猿さんの曲だってすぐに分かりました。
コレです。

サビの部分が
♪You don’t have to cry
♪誰もみな まだ見えない そう明日だけを信じてる
♪don’t have to cry
♪愛しさと切なさが瞳からあふれても 心の中そばにいる 夜空を待ちながら

という歌詞なのですが、すっかり歌詞は忘れてまして、
You don’t have to cry と、心の中そばにいるだけはメロディーを聴きながらぽこんと出てきたのでした。
守護してくれてるガイドやら天使やら、そういうさまざまな存在からのメッセージのように感じました。
心の中、いつもいつもそばにいるから、嘆かなくていいよ、心配しなくていいよ……、って。
頭では分かってても、実際にしんどい時はオロオロしてしまうので、こうやって何度も何度も語りかけてくれるんでしょうね。
まるで親子みたいですね♪