臨月突入

発熱が続いたための休みと冬休みも終わり、久々に本日より息子くんはまたまた保育園生活が始まりました。
車の中ですんごい不安そうな顔をしておりました。
がんばれ、息子。
久々に息子のいない時間に、お父ちゃんとお茶を飲みながら「なんだか静かだねぇ~。」と、庭に来る鳥なんぞを見ながらのんびりしてしまいました。
んでも、息子がいない間に掃除とかしちゃった方が楽なので、結局は重たいお腹にひーひー言いながら掃除をしました。
ここんとこなるべく安静にしようと心がけていたんですが、昨日から妊娠36週に入りまして、ええ、そうなんですよ。
とうとう臨月突入なのですよ。
もういつ生まれてもいいのです。あ~、早産にならなくて良かった良かった~~。
てことで、適当に身体を動かして、掃除もマメにしとかんとね。
しかし、お腹、ほんとに大きくなりました。
さすが臨月。動きづらいです。んっとに。ひー。
****
そうそう。
出産したら、最低1カ月の間は目をあまり使っちゃいかんのですよ。
これは昔っから言われてることらしくて、名古屋時代にお世話になってた薬局の先生に何度も言われたのです。
ですから、新聞も本もネットもダメダメになるわけですが、読みかけの本があるんですわ…。
1カ月以上前に購入して、チビチビ読んでいるのですが、ちっとも終わらないのです。
コレです。
いわゆるスピリチュアル系といいますか、お祈り系といいますか、そーゆーブログやサイトはいろいろいろいろありますが、「これはいいね。」と感じて気に入って毎日チェックしている所が3つ4つありましてね、その人たちがこの本を推薦してるんですよ。
あー、いつかは読まなきゃならんだろうなぁ、と思っていたのですが、なかなか購入までには至らず。
それが、アマゾンの割引をもらったので、「ここはひとつ。」とようやく購入することかできました。
ハトホルの書はちびちびと言いながらも、ざーーーっと読めてしまいましたが、ヨギの自叙伝は面白いけれどなかなか進みません……。
注釈が多いというのも1つだし、なによりインド人特有の雰囲気に飲まれてしまって、ほんとーになかなか進まないのです。
ああ、このままだと読み終わる前に出産ってことになりそう……。
しかし、この本は「今だから読める本」だなぁ、としみじみ思います。
五井先生の本を何冊も読み、お祈りを続けてきたおかげで『分かる』のです。
ハトホルの書にしてもそうでしたしね。
五井先生の後継者の昌美先生の本にしたって、読み返してみると、「ああ、そうよね~~。」と、以前より深く理解できるし。
少しずつでも霊性の開発が深まっていってる証拠だと思えば、実に嬉しい限りであります。
もちろん、まだまだなのは重々承知ですがね、それでも嬉しいもんです。
あ、でもね。
そうそう。
年末にお父ちゃんと話をしていて、言われたことがあるんですよ。
そりゃ守護の神霊の方々から見たら、50歩100歩なのは分かっているんですが、自分の立場からするとね、やはり自分より霊格が低い……というか、あ、いや、ちょっと違うな。
えっと、霊格はどうなのかは分からんのですが、とにかく現在の時点で『目が開いてない人』と会話をすると、とても疲れることが増えたのです。
そこで、お父ちゃんに言われたのです。
「あー、それが来年(今年)のお母ちゃんの課題だねぇ。」って。
どんな人と話をしても疲れないようにならなきゃね、ってことです。
それは、なかなかハードな修行だと思われます。
「私は君より上の人間なんだけど、わざわざ下に降りてきて話を合わせてあげてるんだよ。」という傲慢な気持ちになっては、もちろんダメダメの超ダメダメでして、そうじゃなくて、『無理せず自然に合わせる』というこが必要となってくるわけなんですね。
この『自然に』というのが難しい、と。
自我(小我)が傲慢にもいろいろ主張してくるので、すんげー不自然になっちゃうわけですわ。
だから疲れるんですよね。
こうやって書くと、自我(小我)は厄介者でしかないように思えてきますが、そんなことはなくてですね、大我が物質界で働くために必要なものとして存在していると思うんですよ。
ただ、キリスト教的に言えば『原罪』、五井先生風に言えば『過去世から積み上げてきた業想念』に主導権を取られちゃってるんで、自我が暴走してしまうだけでね。
ま、そのために『心の働きを止めて、悟りを得る』という方法で大我に直接アクセスしようとする『修行』があるんだと思うんですが、私の今年の課題というのも、その『修行』の入り口みたいなもんだなぁ、と感じるのであります。
お父ちゃんの口から出たものではありますが、これは守護霊さまからの課題だと思っております。
ではどうやってその課題にとりくんで行くのかというと、これはお祈り(と印)しかないなぁ、と思っております。
つまり、『絶対他力』なのです。
もちろん、昌美先生のおっしゃる『我即神也』という真理の元での、絶対他力、です。
『お任せ』というやつです。
しかし、『私の中の神様に全てお任せしきってしまう』という境地になるのが難しいわけでして、そこに至るための課題の1つが今年の課題でもある、ということなんでしょう。
なので、どうやって課題にとりくむかというと、お祈りしかないわけです。
なんだかぐるぐるしてしまいますが、そーゆーことなのです。
てなわけで、まずは出産から、ですな。

心のベクトルはどっちに向いてる?

ここんとこ数回分、オーラの泉を見ておりませんでした。
息子を寝かしつけてるうちに、私も寝てしまうというパターンばかりで。
それが、先週はなぜか『見させられた』という感じの状況でありました。
田中美里さんの回です。
もぉね、聞いてて「あ、遊廓だ。」とか「あ、肺病だったんだ。」とか、江原さんたちが言う前になんとなく分かっちゃたりして、自分でもなんだか変な感じでした。
そいでもって、大嫌いだった『女性の仕事』が好きになっていった、というくだりなんぞは、最近の私もそのまんまでして、とにもかくにも田中さんへの言葉が自分への言葉のように思えてならない回でした。
番組を通して守護霊さまが教えてくれたんだなぁ、と感謝せずにはいられませんでした。
そして、今週。
プロレスラーの前田日明さんの回です。
キツかったっす……。
内容が内容なだけに。
三島由紀夫が前田さんを今日ここへ連れてきた、なんて話になった頃から見てて気持ち悪くなり、将校たちの亡霊がたくさん前田さんに憑いているって話になってからは、も~~~~柏手を打ちたくて打ちたくて仕方がないくらいの気持ち悪さでした。
柏手というのは、五井先生がなさっていたことなんですが、白光の方たちで霊性が上っていった方たちは今でもお清めでなさっているそうです。
自分でもよく分からんのですが、ぱんぱんぱん!と柏手が打ちたくて仕方がありませんでした。(夜中だからやらなかったけど。)
多分、よほどの霊気だったんでしょうなぁ~。テレビからでもイヤ~な波動が伝わってきてたんでしょうなぁ~。
そんなふうだったので、五井先生を想いながらテレビを見ておりました。
変なモノが近寄ってこないようにね。
そうそう。
あの回を見てて、私はすぐに「うおー。」と思ったのには予備知識があった、というのも大きかったと思います。
ある白光の会員さんのブログにこんな記事があったからです。
コレコレ
恐ろしいですな……。
でも、ただ成仏していない執念深い霊が怖いってんじゃなくて、生きている私達の『心』のベクトル次第だということが、ある意味怖いなぁ、とつくづく感じました。
五井先生ももちろん、ハトホルさんたちも、他のスピリチャル系の人たちの多くも、異口同音に『すべては波動だ』と言ってます。
すっごい簡単に説明すると、一番精妙な波動が神様で、そこからどんどん粗くなっていって、最後の最後、どんじりにこの『三次元の物質世界』を現す粗い波動が存在している、とのことです。
で、もちろん『心』というか『想い』も波動なわけでして、物質世界のひとつ上の波動の世界が幽界とかアストラル界とか、まぁいろいろ名前はあるんですが、幽霊といわれるような成仏できない霊たちが彷徨ってる世界があるそうで、我々の物質世界のお隣ですから、近いんですよね。
近いもんだから、成仏できてない執念深い霊が、自分と似たような波動をキャッチすると「ラッキー。」とばかりに憑いてしまったりするんだそうです。
そうなると、憑かれた人の人生は狂ってしまうわけです。
困った霊にいらんことされちゃうからね。
ですから、心は常に神仏(光)に向けなければならんのです。
以前、ポジティブシンキングのことを書きましたが、心の奥からの前向きさが持てず、身体の調子も悪かった頃、自覚はありませんでしたが思いっきり私も憑依されてました。迷ってるご先祖さまたちに。
心が光に向いていなかったからそうなったのか、そうなっていたから心が光に向かうことができなかったのか、は分かりませんが、自身の体験からも美輪さまがおっしゃってたことはよ~く分かりました。
特に信仰する宗教宗派がない場合、私としては一番手っとり早いのは五井先生の『世界平和の祈り』を一日一回でもすれば、時間は少々かかりますが、確実に自分の中の本心(神)につながっていくことができる道だと思うんですがね。
これも縁なので、できる人とできない人がいるんですなぁ。
できない人には何度言ってもできないんですよね。なので仕方がありません。
とにかく頑張れ、君の魂……としか言えないです。
しかし、忘れてならないのは、私達は自分だけでは自分を救えないってことです。
私達は神の分け御霊であるけれども、それを真に自覚するに至るまでは、守護の神霊の導きがどうしても必要なのです。
そういう意味では他力ですね。
けれど、自分自身の心のベクトルを常に神仏(光)に向ける努力をする、という『最初の一歩』がなければ他力の道には入れません。
そういう意味では自力ですね。
とは言うものの、人間なんて多かれ少なかれ憑依されてるもんだ、と聞いたことありますし、自身のカルマも血族のカルマもあるわけですから、最初の一歩が一番厄介なのかもしれないですね。
偉そうなことを言ってますが、そんな私だってまだまだまだまだなわけでして、そんなことは百も千も承知なのですが、なんだかまたまたこんなことを書かされておるわけです。
きっと誰かのためなんだろうな。
誰かさんの守護霊さまが、うちの守護霊さまに「ひとつ頼むよ。」ってな感じで。
とにもかくにも。
実はそんなに悠長にしていられる時間がないので、地球霊王さま(by五井先生)の波動がどんどん上がっている今、その波動上昇にシッカリチャッカリついていかんと留年しちゃうんでね。
留年しちゃうとどうなっちゃうのかは、ハトホルさんたちでも分からんそうです。
あ、でもあれは10年前の本だから、もうだいたい予測はつくようになったんかも…。
「よしみさんの言ってること、何がなんだかさっぱり分からん。でも、ちょっと興味あるかも。」という初心者の人には、坂本さんのわかりやすい!絵で見る「死後体験」がすんごい分かり易いし薄い本なのでお薦めです。
坂本さんはバリバリの理科系の人なんで、理科系の人には特に良いのではないかと。
あ、そうそう。
さっきのリンクのところを見てる時に、アツコ姉さんからメールが届いたんですよ。
「美輪さんの講演会があるよ。」って。
シンクロニシティなんて結構慣れっこになってきたけど、ちょっと驚いた。
これは行けってことか?

あなたの真実、私の真実。

まずは、新井信介さんのブログから。
コチラの記事です。

どこまでも、どこまでも、どこまでも、
心と肉体が一致した、喜びを、感じあっていたいと思います。
そして、その喜びを、分け与えることで、社会的な富を生み出したいと思います。

本当にそうだよなぁ、と思います。
ただし、心と肉体が一致した喜びを感じ合うためには、私達一人一人が『自分の本当の心のまま』に生きていなければならない、というのが、ちょっと考えてみると非常に厄介な、と言いますか、どこから手を着けていいか分からないポイントだと思います。
そこで、次はあるヒーラーさんのブログです。
コチラの記事です。
自らの真実に生きる、というのは、わがまま勝手に生きることじゃない、常識的に生きるということでもない、というのは大概の人には分かると思うんですが、ではどーゆーこと?と聞かれると、やっぱりなかなか難しい問いだったりするんですよね。
たとえば。
スピリチャル系の人たちはみんな異口同音に『良い言葉を使い、良い想念を持ち、良い未来を信じて生きなさい。』と言いますが、ポジティブシンキングができない時というのも現実にはあって、そんな自分を騙してまでポジティブであろうとするのは、なんだか違うな、と。
ポジティブに考えることが『良いこと』だからそうする、のではなく、自分の内から真にポジティブに陽気に喜びに溢れるようになるためにどうしたらいいか?を求めることが大切なんじゃないかなと思っていました。
でなければ、あまり意味がないと感じていたのです。
ですから、このヒーラーさんの言葉に「なるほどー。」と深く頷いてしまいました。
自らの真実から発せられた言葉や想いでなければ、いくらポジティブなものであっても生きるエネルギーにはならない、と。
だからと言って、ネガティブなものをそのまま言葉に想念に行動に表出してしまっては、業を増やすだけです。
それも生きるエネルキーにはならないでしょう。
ほらね。
「じゃあ、どうしたらいいの?」ってなっちゃうでしょ?
生まれつきの善人でなければ『自分の真実・本当の自分の心のまま』に生きられないってこと??と、ガッカリしてしまいますよね。
けれど。
そこで諦めちゃうと、そこまでなんですが、諦めが悪いとちゃんと道を示してもらえるもんなんですよ。これが。
それは、人によって違う道なので、それぞれが諦めずにいることだ、としか言いようがないのですが、私の場合はやはり五井先生の教えが光の道でありました。
私の真実。
それは、私たちは神様の分け御霊であって、本心は神である、ということ。
心の芯からポジティブなものが出てこないのは、前世からの溜まりに溜まった業の現れであって、私本心は常に神様と共にあり、光そのものである、ということ。
それを『感覚』として感じることができなくても、とにかくそれをまず信じ、世界平和のお祈りを続けなさい、と先生は言います。
祈りは光であり、その光が業を少しずつ消してゆくと、少しずつ少しずつ、本当の自分が現れるから、辛抱強くお祈りを続けなさい、と。
悪い想念が出てきたら、お祈りの中に入れて消してしまいなさい、と先生は教えてくれました。
初めは『形』だけ信じていたようなもんだったと今から振り返ると感じるのですが、とにかくちびちびとお祈りを続けていたら、気がついたらいつの間にか、それが私の真実になっていたのです。
すると、ありのままの自分を認める、という課題を最近は守護霊さまからいただくようになりました。
本心の私からは遠く離れた業想念(ネガティブな想い)の私も、『この三次元の現実の現れとして、今ここに在る』ということを認め、そのうえで、それは本来の私の属性ではないことも同時に認める、ということです。
すると、この物質世界のリアルであるネガティブな想念も浮かびつつ、本心の私から湧き出る光の想念も少しずつですが感じられるようになったのです。
真実に生きる、というのは、私の場合はそういうことなんだな、と思いました。
するとですね。
不思議なことにですね、毎日を過ごしている『この三次元の物質世界』の空気っていうか、なんていうか、そーゆーものの密度が濃くなったような感覚を覚えるようになったんです。
私は弟のように霊感はありませんので、劇的なものではないところが逆に伝えにくいっちゃあ伝えにくいのですが、そうなんですよ。
とにかくですね、同じ世界のはずなのに、この世界の波動が少しばかり精妙になった感じがするのです。
それは、もう『そういう感覚がする』としか言えません。
あ、ただ、分かり易くなったこともあります。
いろんなことが『以前より速く現れるようになった』ってことです。
いろんなことが、です。
ですから、浄化(下痢とか)も、想念に合わせて来ます……。
今朝もきました。とほほ。
しかし、因が速く結実して果となるというのは、分かり易いです。ほんと。

私達は、深い愛へと還っていかなければならない。(その2)

コレの続きです。
*****
「貧しく、苦しく、病んでいる人とともに生きることは、人間にとって最も素晴らしい生き方なのです。」
マザー・テレサはそう言いました。
あなたは見捨てられた存在ではない、あなたは愛されているのだ、と、死んでいく貧しい人たちに伝え続けるマザーたち。
一人一人が大切なのだ、とマザーは言います。
分かち合い生きていくこと。
それは、物質的なことだけではありません。
深い愛を、自分の中の美しいものを人と分かち合い生きていくことが、人間にとって素晴らしい生き方だということなのでしょう。
そして、その深い愛につながり続けるために、神の愛をそのままみんなと分かち合うために、祈りが日々の生活のなかでとてもとても大切だとマザーは教えてくれています。
けれど、マザーの言葉一つ一つに感じ入っていた私なのですが、翌日にお腹が痛くなりました。
何かが間違っているのです。何かが欠けているのです。私の中で。
それを守護霊さまが教えてくださっているに違いないのです。
下痢は一応収まりましたが、まだお腹がしくしく痛い状態で、洗濯物を干しに行きました。
ぐったりしながらも、頑張って洗濯物を干していました。
その時にぼんやりと思ったのです。
「守護霊さまや守護神さまは、こうやってお腹が痛くてぐったりしている私のことを、どう感じながら見てくれているんだろう……。」
たくさんある業をちょっぴり消すため、間違っていることを教えるため、『守護霊さまが私の身体をそうさせている』んだから、「あーあ。バカだなぁ。」なんて言いながら見ているわけはないよな。
きっと、私の考え方の癖や心の動きに寄り添いながらも、在るべき道へと少しずつ少しずつ導いてくださっているんだなぁ……。ありがたいなぁ……。
そうぼんやりと考えが浮かんだ時に、ハッとしました。
お祈りをちびちび続けたおかげで、少しは霊性の向上の道を進むことができていると思える私ですが、当然ですが、そんなもんは守護霊さま守護神さまから見たら幼稚園の年少さんが年中さんになったぐらいのチビっとな成長でしかないのです。
まだまだ霊的には幼稚園児なのです。
なのに、年少さんの言動を見て、なんだか違うなぁ…、と思っていたのです。
霊性の向上に伴う『差別感』みたいなものや『批判』は持たないようにしなければ、と常々思ってはいるのです。
五井先生やハトホルさんたちが教えてくれたとおり、これは大きな落とし穴だと【頭では】十分に分かっているからです。
それでも、です。
私はやはり心のどこかで批判しているんだ、と気がついたのです。(いえ、うすうす気がついてはいたのですが、どかーんと気がつかされたのです。)
守護霊さま守護神さまは決して幼い私を批判しながら見護ってくださってるわけではないのに。
幼い私の心の動きにも寄り添い共感しながらも、その想いの間違いを赦してくれているのです。
しかし、決してそれを是としているわけではないはずです。
間違いは間違いなのですから。
それは批判とは違うもののはずなのです。
私は、守護霊さま守護神さまの深い愛を想い、涙が出ました。
洗濯物を干しながら泣いてました。
そして、「どうしてお義父さんお義母さんは、おばあちゃんの心に寄り添えないの?」と悲しんでいた私自身が、愛を分かち合い共感し合い認め合いながら心を寄り添って生きることがちっともできていないんだ、ということに気がつき、さらに涙が出ました。
だからテレビを見ながら「なんだか違うよねぇ…。」とさらりと言えてしまうのです。
だから菜桜ママさんにも「気持ちは分かるけど、違う見方もできるよ。」なんて分かっていないのに言えてしまうのです。
たとえば、自分より身体的に劣る人、自分より勉強ができない人、自分より人間性が熟成されていない人、自分より霊性の開発が遅れている人……。
そんな人たちに対して、優越感を持つのはもちろんのこと、批判的であってはならないとは分かっているのですが、それでは「かわいそう。」と同情すればいいか、というとそうでもないというのも分かっていました。
それでは、どうなれれば良いのか。
それがイマイチ分からなかったのです。
今でも分かりません。
でも、分かったんです。
深い愛(神様の愛)に還っていく過程の中で、私もいつか守護霊さま守護神さまのように、マザーのように、本当に一人一人が大切だと、心の奥の奥から感じられるようになるんだ、ってことが分かったんです。
頭で理解しているだけでなく、本当にそう感じられるようになるんだ、ってことが。
今はほど遠いところにいるけれど、まだ「かわいそう。」「大変だな。」「早く気がつくといいね。」としか思えないけれど、私の中にある神様の愛に近づけば近づくほど、自然と本当の想いが湧いて出てくるようになるんだ、と分かったんです。
それが分かったからって、『今の私』が今すぐ大きく変われるわけではないけれど、深い愛が足りないために『こうなっている自分』を教えてもらえたことはとても大きなことだと思うのです。
それは、深い愛へとつながり続けるためのお祈りの大切さをあらためて教えられた喜びでもあるのです。
最後に本に書いてあったマザーの言葉をもう一つ。
「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもらたす存在、それがお母さんなのです。」
自分の子どもたちのためだけでなく、縁ある人たちのために、私はそうなりたいと思いました。
深い愛に還っていく過程の中で、そうなりたいと思いました。

私たちは、深い愛へと還っていかなければならない。(その1)

一昨日の午前中に、お父ちゃんが草刈り機で庭の草をガンガン刈ってくれたので、昨日の午前中2時間は私が木っ端微塵になった草を集めておりました。
それだけでも大変な作業なのです。思ったより大変。
そして、お大師さまがいらっしゃるところには一列ずらっと木がありまして、その枝払いをガンガンしました。
もーー、これがかなりの重労働なのです。
あっと言う間にアキオが帰ってくる時間となりまして、おかげで裏庭の草集めは翌日(本日)に延期になりました。
というわけで、今日は裏庭の草集めと芝生のところの手入れをしようと思ったんですが、朝食後からお腹が痛くなりました。
何度もトイレに行き、とうとう下痢に。
ぎゅーーーっとお腹がいたくなる下痢です。
昔は頻繁になり、心身ともにイヤになっていたアレです。
おかげで草集めどころではなくなりました。
でも、こんな時こそ「ああ、消えていく姿だ~。ウンチと一緒に業が出て行くんだ~。ありがとうございます。」と感謝しながら痛みに耐えることを弟1号に教えてもらってからは、しんどいはしんどいんですが、とてもしんどいんですが、心身ともにイヤになるということはなくなりました。
ただし。
今日のは、それだけではありませんでした。
またまた深い深い気づきを示してもらったのです。
自分への覚書のためにも書いておきます。
まず、先週のことです。
福祉ネットワークを何気にほんの10分ばかり見ました。
老人福祉施設の園長さんと町永アナとの対談でした。
その中で、『認知症のお年寄りの心に寄り添う』という言葉が出てきました。
認知症のお年寄りは、子どもに還るのではありません。
自分が壊れていくことが分かっていて、とても不安なのです。
だから怒ったり、妄想で自分を護ろうとするんだそうです。
だから、そんなお年寄りたちの心に寄り添うことが大切だと、園長さんは言うのです。
そうすることで、どんどんお年寄りは穏やかになっていくのだそうです。
ハッとしました。
ちょっとね、旦那さんのご両親のことで思うところがあったのです。ここんとこ。
とても良い人たちなのですが、『常識』や『自分たちの世界』の中の善悪の殻から出られないでいるなぁ、と旦那さん共々感じていたのです。
だから、ちょっとボケてきたおばあちゃんへの対応に私達は哀しくなったりすることがあるのです。
おばあちゃんの心に寄り添うという発想が生まれないんだな、とその時分かりました。
余計に哀しくなりました。
それから一昨日。
テレビで団塊の世代の人が、リタイアを前に田舎に家を建てるという番組がやってました。
のんびり田舎暮らしがしたいんだそうです。
立派な古民家風の家でした。
でも、私と旦那さんは「なんかちょっとなぁ~…。」と感じました。
団塊の世代の人たちにとっての『憧れの田舎暮らし』というのは、ああいうものなのか、とガッカリしたのです。
結局、消費していくだけの生活を、田舎暮らしという形で続けていくだけやん、と。
さて、そして昨日。
まず、以前お父ちゃんが買った本に載っていた『マザーテレサ』についての対談を読みました。
愛の深さについて、あらためて感じ入りました。
それから、菜桜ママさんのブログを読みました。
来年になったら入れると思っていた幼稚園から突然拒否されたのだそうです。
とても混乱されてました。
そして、いろんな方(だいたいは障害児のお母さん)のコメントも、しんどいものがありました。
腹が立つのも分かるし、不安になるのも分かります。
でも、幼稚園や保育園にそんなに固執しなくてもいいのに、と思いました。
障害児の母になること自体が結構イレギュラーなことです。
だから、いろんなことが『普通』のようにはいかないのが当然だし、イレギュラーであることの意味をよく考えて、自分や子どもの『本当の生き方』を探す努力をすることが大切であって、『普通』になることへしがみついていては、同じような問題が何度も何度も立ち現れてくるよな、と感じたのです。
私達はみんなみんな重度な思い込みを抱えて生きている、ということを知らなければならないのです。
ということで、お節介なんだけれども、今朝一番で菜桜ママにメールを入れました。
そして、お腹が痛くなりました。
なんとなく、なんとなくですが、ほんのりと分かってたんです。本当は。
多分ね、ここんところのこの流れと、この腹痛は関係アリアリだな、と。
でも、お腹が痛くて「ありがとうございます。」と唱えるだけで精一杯で、その時はちゃんと頭が回っていませんでした。
それでも、なんとなく分かっていたのです。
私には、気がつかなければならないことがあるって。
…息子が帰ってくる時間となりました。
続きは後で。

ハトホルさんたち、たくさん教えてくれてありがとう。

ちびちびちびちび大事にハトホルの書を読んでおりましたが、やっとさきほど読み終えました。(ワークも少々実践してました。)
もぉーーー、素晴らしいです。
読んでいるだけでも自分のアセンション螺旋が加速していきそうな感覚に包まれます。
そして、五井先生の教えの素晴らしさを、ハトホルさんたちのさまざまな言葉によって再認識することが多々ありました。
他にも、自分が子どもの頃からつい最近まで感じていた感覚や、得た知識において、「ああっ。これはそういう意味だったのか!!」と、それらが私の目の前に開かれていた意味が次々とつながっていきました。
なので、また今夜から読み返そうと思います。
ワークもしっかり実践しつつね。

生命について、自分がどう捉えているのか。

まぁ、まずコレを読んでみてください。
読みましたか?
私がお世話になることになった産婦人科の吉村先生は、本当に医療行為が必要な妊婦さんというのもいる、と言っています。
しかし、例えば3日もかかるようなお産でも、医療行為(帝王切開とか)が必要ではないお産なら、じっと赤ちゃんが生まれてくるのを待っていてくれます。
その代わり、妊婦は産気づくまでしっかり身体を動かして、粗食を心がけ、リラックスして生活するように、と指導されます。
それが自然なお産への道なのだそうです。
しかし、普通の産科では、3日もかかるようなお産の場合は帝王切開になるのが普通です。
お医者さんの経済的な理由もあるようですが、なにより『何かあった時が怖い』からだそうです。
お産というのは『絶対に安全なもの』ではありません。
吉村先生だって、全責任を背負いつつじっと待っていらっしゃるのです。
その覚悟たるや、ちょっとやそっとのものではないはずです。
産科はリスクが高いものなのだそうです。
ですから、お産をコントロールすることが「訴えられないため」にも必要となってくるわけですね。
どうして、私達はいつの間にか医療に完全を求めるようになってしまったのでしょうか?
どう考えても「それはどうよ?」というお医者さん(病院)も確かにいるとは思いますが、「そんなことで訴えられたらたまったもんじゃない。」という場合も最近は多いと、私も耳にしてます。
しかし、私の中にも『自分の身体を科学的に把握したい』という欲求がずーっと存在しています。
自分の身体は自分で把握してコントロールしていたい、体調不良の原因をつきとめて治したい、という欲求です。
身体は自然そのものであるはずなのに、小我の私ごときがコントロールしたいと切実に願い続けているのです。
愚か過ぎですな。
ということに気がついたのが、吉村先生のところに行ってからでした。
今だに続く体調不良とそれに伴う憂鬱感は、その欲求を手放さない限り続くなぁ~、と気がついたのです。
私の場合は、矛先が自分に向いてたからまだいいけれど、これが外に向いていたら更に大変だったろうなぁ、と先の記事を読んで感じたわけであります。
それは、多くの人にも潜在しているものかもしれませんね。
私達はあまりに多くの思い込みをしています。
それが『思い込みである』と、1つ1つ気づいていくことが大切なんだと思うのですが、どれが思い込みなのかさえ分からんのですから厄介です。
けれども、生命とは何かを、(いわゆる)スピリチュアルな面から見つめていくことを続けるとか、感謝の心を持ち続けること、神様に心を向かわせることなどで、少しずつ気づかせてもらえるもんなんだろうなぁ、と楽観的に捉えております。
てか、それしか道を知らないの。

お墓は大切だよ。

数日前、実は久しぶりに例の先生のところに行ってきましてね。
これまたビックリなことを教えてもらいましてね、3日後に(もちろん旦那さんの方の)本家の叔母さんを連れて再び先生のところに伺ってしまいました。
本家のお墓に問題があるってことが分かったのです。
少し時間はかかるかもしれないけれど、親戚みんなで協力して、ご先祖さまたちのために正しい作法に則ったお墓にしていけたらなぁ、と思ってます。
多分、ちゃんとできると思うな。うん。
叔母さんと一緒に伺った時は、予約者が少ない日だったらしく、結局2時間近くも先生が(お墓のことだけじゃなく)いろいろ話しをしてくれました。
叔母さんは信心深い人なので、先生のお話もス~~~っと入っていった様子でした。
最近、すごく強く感じることがあります。
『信仰心』が厚い人でないと、深い部分で共感できるところまでなかなか辿り着けないなぁ、という感覚です。
その共感というのは、本当に感覚のものなので、言葉にすると「あ。そうだね。」って一言で片づいてしまうので、説明が難しいです。
でも、そーゆー感覚というのはあるのです。
そして、その中心にあるのが、神などの『何か偉大なるもの』へ志向する心です。
それは、『目覚め始めた者』ということかもしれません。
これからは、そういう人たちと、そうではない人たちとの差がどんどん広がっていくのかもしれませんね。
そうすると、終には別々の次元に分かれていくことになるのかもしれませんね。
どんな世界が待っているのかなぁ~。

心の奥の奥から響いてきた問いかけ

先日、「タマネギが欲しいなぁ。」と思っていたらタマネギがどーんとやってきた…と、書きましたが、私のこういう面に関してはお父ちゃんが前々から指摘しておりまして、
「だから、あんたは『お金欲しいなぁ。』と言ってなさい。」と、お父ちゃんに言われました。
なので、ここんとこ「お金欲しいなぁ。現金欲しいなぁ。」と、時々思うようにしてました。
お父ちゃんも私も会社を辞めて貯金で食べてる状態だし、やっぱり現金がいいよな、と思ったからです。
そして、昨日。
思い出して、「あー。お金欲しいなぁ。現金ができれば多めに欲しいなぁ。」と、また心の中で呟いてた時でした。
『本当に現金が必要なの?』
という声が心の中から、いえ、心の奥の方からどあ~~~んっと響いてきました。
一瞬、身体も思考も止まりました。
あれ……?
でも、その問いに答えないといけない、と何故か思いまして、なんだかとっても慌ててしまいました。
えっとー。
生活していくにはそれなりの現金が必要なんだけど、本当に本当に『今』必要かと問われると、なんとか生活してるし、来年でもいいかなぁ~って思うんだけど……。
いやいや、そーゆー意味の問いなんじゃないんじゃない?
ああ、だったら、どうなのかしら?
え?え??
お金って、必要な時に必要な分だけ神様からいただけるんだから、私が「ちょうだいちょうだい。」って言わなくてもいいのかなぁ?
あれ??どうなのかな??
と、ぐるぐるしちゃって即答できませんでした。
結局、「やっぱり、できれば現金が欲しいです。」と最後に答えてみました。
そう答えてから、ハッとしました。
多分、あの問いは、小我の私からのものじゃないです。
感覚的に、いつも認識している小我の私から出たものとは違うということだけは分かったのです。
それが、守護霊さまなのかハイヤーセルフなのかは分かりませんけど。
という出来事を、今さっき思い出してお父ちゃんにしました。
そしたら、
「なんで『はい。たくさん現金が必要です。』って即座に言えなかったの?あんたはまだ清貧が良いとでも思ってんの?まだお金が汚いものだとでも思ってんの?現金をたくさん神様から回してもらっても、どうやって使っていいか分かってないんでしょ??俺たちはねーーー、たくさんお金を回してもらったら、それを自然農って形で世界平和実現へのお仕事ができるんやよーー。あんたは『お金大好きヨッシャー!』とお題目唱えとるだけやったんかね???」
と、お父ちゃんにたたみかけられました。
どうもすみません。
日常生活の繰り返しの中で、目先の生活のことばかりしか見えなくなっておりました。
それが家庭を守るお母ちゃんというものの性かもしれないんですが、そこが落とし穴だったんですなぁ。
いえね、どうもなんやら自分の中で『乖離』してる感はうっすらとあったのですよ。
お祈りをしながら印を組みながら神様を強く求める自分(あえて今日はこう書く。)と、目先の生活(主に息子)のことに忙殺されている自分との間に、本当は架け橋のような具体的なビジョンが必要なんでしょう。
もちろん、それは『家族みんなのもの』としてはあるのです。
ただ、そのビジョンは正確に言うとお父ちゃんのものであって、私はそれに賛同しているだけで、私の中から湧いてきたものではないのです。
だから、『現金』は『生活のために必要』という思考になってるんですね。心の底では。
自分の中から湧いてきたビジョンを実現することが世界平和実現にも役に立つんだ、という信念があれば、唐突に『現金が必要なの?』と上の方に問われても、「はい。」と胸を張って言えますもんね。
その『私の』ビジョン。
無いこともないんですよ。実はこれが。
でも、自分をどうにも信じきれてないという、私の人生における大きな課題がやはり大きな壁となっておるのです。
……というのを、気づかせてもらいました。
「我即神也の印をよく組んでるのに、全然ダメやん。」と、お父ちゃんに笑われてしまいました。
うん。そうなの。
やっぱり弱点なのよーーー。
私は自分を信じきれてないからこそ、我即神也・人類即神也の印を組んでるんだよー。
そんなんだからね、きっと弟1号の『神様の波動をリアルに感じられる』霊能が羨ましかったんだろうなぁ……。
丁度ですね、今日の夕方に弟と電話でいろいろ話をしたのですよ。
私はオカンと弟1号が霊感があるために(主に身体的に)しんどい思いをしてたのを見てたので、彼らに霊感があることを羨ましいとは思っていなかったんです。
でも、自分でも気がつかなかったんですが、ある時から弟のことを羨ましいと密かに思っていたようなのです。
今日の電話を切った後に、ハタとそれに気がついたのです。
私は姫さまの波動をちっとも感じないのに、弟はものすごい反応を示した、あの時からだと思います。
神様への信心は深くなっていった(当社比)し、人間の本性が神様の分霊だってのも心底信じているし、自分自身も変わっていった(当社比)し、日常生活はそれとしてちゃんとこなしていくものだって分かっているし、『間のビジョン』の芽もちゃんと出ているのに、芽を育てられないのです。
私自身の課題をしっかりクリアできていないせいで。
そりゃ乖離もするわね。自分の中で。
そうなるとどうなるかってーと、そこを無意識に埋めたくなるわけで、それがこれまた無意識に分かり易い方向(リアルに神様の波動を感じる能力)を見て羨望の想いを持ってたように思われます。
自覚してなくて良かったよーー。ほんと。
ただ、すごいなぁ~、と自分で思うのは、目の前の代替品が良いなぁ~と知らん間に思っていた自分に気がついた途端、本当に足りないものの正体まで辿り着けたことです。
いや、すごいすごい。中途半端にならんくて良かった良かった。
…でも、これも上の方の計らいなのですね。てへ。

どっちかって言うと芸事には疎いと思う。

神事と芸事は表裏一体。
らしい。
夕べのオーラの泉で江原さんが言ってました。
そりゃそうだわな~~。
歌や踊りは神様に奉納されてたもんですからね。
それにそもそも神様とは『真・善・美』の究極ですもの。
ところで。
ウチのオカンと弟1号は、芸術・文化方面にとても明るいです。
オカンなんて、娘が生まれて大きくなったら一緒に歌舞伎を見たり美術館巡りをしたり…と、そーゆーことをしたいと密かに思っていたそうですが、生まれて育った唯一の娘がこの有り様なので、お母様ごめんなさい、としか言えませぬ。
しかし、息子の1人がその血を受け継いでいるので、最近では「京都に行くにしても、友達と行くよりも、ねこだるま(弟1号)と行きたいねぇ。」とよく口にしてます。
弟は芸術・文化だけでなく、歴史にも非常に詳しいのであります。
最近、オカンや弟1号と話していて思うことがありました。
多分、私はこの人たちとは美の感覚が違うんだろうな、と。
感覚(波動)が精妙なのね。きっと。
それにひきかえ私はと言うと、確かに子どもの頃から絵を描くことは好きではあったんですが、どーも芸術・文化に対する感覚(波動)が粗いのです。
弟2号も言います。
「あの人たちは、本当によく本を読んでるし。とにかく違うよね。」って。
そうなんです。
ただいろんな本をたくさん読んでいる、というだけではないのです。
そもそも生まれ持ったものが違うんだろうな、と最近は特に感じるのです。
オカンは昔、親戚の(ちょっと変わった)人に、「前世は巫女さんだったみたいだねぇ。」と言われました。
最近判明したことですが、弟1号の前世の1つはチベット仏教のお坊さんでした。
神や仏に仕えていた人たちですから、そりゃ感覚も(少なくとも私よりは)精妙だよなぁ~、と、昨日の江原さんの言葉を聞いて納得してしまいました。
そもそもあの人たちは昔っから霊感バリバリだしね。
やはり、『今の自分がこうして在る』というのは、うんとうんと昔からの総体である、ということなんですなぁ。
オマケも目減りもありませぬ。