お腹と背筋のこと

以前、オーラの泉でオダギリジョーが出てた時なんですけど。
(↓こちらに詳細が載ってました。すごいねー。)
http://k-tantan.blog.so-net.ne.jp/2006-01-17
姿勢よく座っていないオダギリジョー。
それは、そーゆースタイルなんじゃなくて、ホントに座っていられないとのこと。
エネルギーがちゃんと通らないから、お腹を立てていられない、という美輪さまからの指摘でした。
あーーーーー。
分かるかもーーーーーーー。
と思ったんですよ。
私も子供の頃からお腹をすっと立てていられないんです。
だから猫背というか、背中が丸くなってしまうんです。
右足が生まれつき内向きになってるため、小学生の時に1年ほど叔母が私をバレエ教室に通わせてくれたんですが、
やっぱり長時間背筋をスッと真っ直ぐできませんでした。
小学生の時にずーーーっと習字にも通ってたのですが、そこでもまっすぐお腹を立てて座っていられませんでした。
筋肉が足りないのかなー、とずーっと思っていましたが、
あの放送を見て、それだけじゃないかも、と思いました。
で。
今年の秋に、まるでっくーな過去世関連のことがいろいろ分かった時に、
私のお腹に金色の小さい栓があり、そこに過去世からの悲しみや怒りが絡まるように溜まっていることも分かってきました。
ここでエネルギーが分断されてしまうため、それにより肉体的には発作も起きていたのでした。
自律神経の暴走発作っさー、しんどいんだよねぇ……。
シエルさんのヒーリングで可能な限り「溜まっていたもの」は取ってもらいましたが、もちろんまだ残っています。
お腹を立てていられない、というのも変わらず、よくコタツで背を丸めてます。
冬至のヒーリングではお腹を剣で刺されて封印された戦士が出てきたしねぇ。
あれ以来、まだその部分が痛いので、余計にお腹を立てておられんですし
さて。
話はちょっと変わりますが。
つい最近、ひのこ☆ねーさんのネットショップ↓
http://atelierhinoko.cart.fc2.com/
で、阿弥陀如来の絵のポストカードを購入しました。
ポストカードと一緒に、ねーさんの見えたビジョンも一緒に送ってくれました。
**------------------------------**
ないだ 海
白いふねが おきに出る
東やや北にすすむ
そこに光の柱が立つ
如来はあなたを、あなたの居る土地を
見守る
**------------------------------**
なんだかとても荘厳な感じで、そしてすごく護られてるなーー、アタシ、と嬉しくなりました。
もちろん、お礼のメールをしたわけですが、
そしたら、こんな返事をもらっちゃいました。
**------------------------------**
うん。光の柱がなんなのかは私も良くわからず、
今問うと火山のようなビジョン。押さえていたことが開放されて湧き上がるエネルギーみたいなもの。
今の時点は全体的に平和な感じでした。
また時間がたつと違うものが見えるのかもしれないね。
やっぱり印象的だったのは
たみえさんが背中を丸めてなにかお炬燵?に座っているその背中にすごい光のコードが天上に繋がっていて仏さんが金色のエネルギーでたみえさんがつつんでいるところ。護られてるなあって思った。「祈りをありがとう。。」っていう波動も伝わってきた。。これは菩薩さんかな。
**------------------------------**
ちょっとーーーーー!
ねーさん、見てたのーーーーー???
私がコタツでいつも背中丸めてることを!!
じぇいど♪ボスが時々ひのこ☆ねーさんのことを紹介してるけど、
これって、当人になってみるとホントにビックリするわ~~……。
なんで分かるのー?って。
てなわけで。
頭じゃなくて、丸めた背中にスゴい光のコードなのかー、と
つい振り向いて自分の背中を見ちゃったですわ。
てへへ。
下の子を産んでから特にまたずーっと身体がしんどかったのも、今年の後半から徐々にちょっとばかし上向きになっきたので、
いろいろリリースしながら、身体もどんどん上向きになって、
いつか背筋がピンとなるといいなー、と思ったりしとります。

へんなかんじー。

「なにみえ遠足」の第4回の前に、さつきのひかり先生のレインボーエナジーフレーム(REF)を受け取り、
『じわーっとだらだらネガ出し状態』が1週間続きました。
そして、またまたREFを受け取ったら、そのネガネガが浄化されたかのように、浮上に転じたのでした。
が。
今度は、ネガネガではないのですが、なーんか変な感じなのです。
うーん……。
どこか、自分の中に「散らかってる部屋」みたいなのがあって、それをとうと片づけなくてはならないんだけど、どこから手をつけていいか分からない……みたいな感じと言いますか、
または、自分の中に、「コリコリ」したものがあるみたいで、それをムニムニとほぐしてあげなきゃと感じるんだけど、どこにあるかが分からない……みたいな感じと言いますか、
歩き出さなきゃなきゃならないのは分かってるんだけど、「歩くって、どうやるんだっけ?」って分からんくなってる……みたいな感じと言いますか。
なんなんでしょう???
こーゆーのって。
不思議な感じでござる。
そんな時、ぴんぐさんのコメントを読んで、
「あー。大丈夫かーーー。そっかー。」
と、なんだかちょっとホッとしました。

年に1度の。

今、年に1度の「浄化槽のくみとり」に来てもらってます。
がーがー、じゅーじゅー、って音がしてます。
ウチの実家は、長いこと「どっぽん便所」だったんで、定期的に「くみとり」には来てもらってました。
そして、いつも思ってたんですが、
くみとりとか、ゴミ収集とか、こういうお仕事って、本当に偉いなぁ。
って。
汚いものを扱うお仕事ですもんね。
クサイのが当たり前のお仕事ですもんね。
ほんとにありがたいなー、と思います。
いろんな人が、いろんなお仕事をしているから、今の私達の生活がこうして成り立ってるんですよねぇ。
どんなお仕事も、お仕事はお仕事。
きっと誰かの役に立ってる。

あたしがバカだった…。

毎日ウチの裏庭でゴロゴロしているキジトラちゃん。
身体が小さくて、てっきり人間で言えばまだ「中学生」くらいかと思ってたら、
一度だけ子猫2匹をお披露目してくれた、猫ちゃん。
3日前から、子猫ちゃんもウチの裏庭に日中はずーっといます。
かわいいんだよぉぉぉ。
たまんないんだよぉぉぉ。
でも、やはり野良猫親子です。
これだけ餌やら水割り牛乳をやっても、やはり網戸をガラリと開けると、だーっと逃げて行きます。
そして、網戸を閉めると、ミルクを飲みに来ます。
さて。
今日の午後。
ソーセージを細かくちぎって、窓の外すぐ下に置いてみたら、早速親子で飛んできました。
でも、ソーセージが置いてある「すのこ」の下に転がっていったので、拾ってやるか、と網戸を開けたら……
すぐ真下でうにゃうにゃ声を出しながら食べてる「小キジ」が、網戸の音に気づかずに逃げません……。
すぐ真下…。
手がすぐに届くところに、小さなカワイイ子猫が…。
お母ちゃんは、突然の衝動をコントロールできずに、子猫を抱き上げてしまいました。
もちろん、子猫は大パニック。
部屋の中を逃げ回り、母猫も裏庭で大パニック。
すぐに外に逃がしてやりましたが、それから「小キジ」は「ねぐら」に逃げ帰って、裏庭には来てくれません……
当然だよね…
うううううう。ごめんね。小キジ。
怖かったよねぇ…。
母猫の「キジ子」は、それでもやっぱり裏庭に来て、何か餌をもらおうとはしてますけど、心理的距離と物理的距離がどーんと広がってしまいました……
と。
そんなキジトラ一家です。
昨日、ガラス越しに撮った写真。
「ブチ」は、片目が炎症してる模様。
キジトラ一家
(クリックしてね。)

「棚卸」

1つ前の日記で、いろいろ書いた後、
なんだか、今日の午後になって、突然ふと、以前NORIKOさんからもらったメールが読みたくなりました。
封印解除のモニターをした時に送られてきたメールですから、1年半近く前のものです。
何が書かれていたのか、覚えている部分もあるのですが、忘れている部分もたくさんありました。
その中に、以下の文章がありました。
----------------------------------------–
むしろ、この壁を感じられていることがひとつのサインです。
人と比べてしまって、自分の成長に苛立ちを感じたりすることは、裏を返せば常に向上心があり、慢心しないという利点があります。
ネガティブな傾向が強まってしまうと、自己不信や完ぺき主義、エリート意識となってしまいます。
もちろん、過去生から来る恐れもあるのかもしれません。
認められなかった過去生・・・
条件付きの愛情・・・
信念を貫き通せなかった過去、幽閉・・・
いろんなヴィジョンがランダムに広がりました。
魔女裁判のような席で、助かるために虚偽の証言をしたというキーワード。
たみえさんの守護女神の観音も言っていましたが、やはり、他のガイドスピリットたちも口を揃えて、「もう、自分に厳しくするのやめなよ」というメッセージです。
天使をはじめ、守護女神、いろんな存在が全身全霊をかけて、たみえさんを愛しています。何も条件などつけなくとも、そのままのたみえさんを愛し慈しみ、いつもエールを送っています。
いつもダメ出しをするガイドもいるかもしれませんが、本当に位の高いガイドならば、気持ちが沈むメッセージは出しません。このあたりも参考にしていただければ、と思います。
あなたなら大丈夫、あなただから出来るのだ、というメッセージもエゴの声ですから気をつけてくださいね。逆に自身を喪失させるようなメッセージもエゴの声です。
これから、解除する過程でエゴと向き合うことも多くなるかもしれませんが、エゴが顔を出した時は、喜びのエネルギーを送り癒して行く事を繰り返し行ってください。
----------------------------------------–
すっかり忘れていたので、ちょっとビックリしました。
最初に読んだ時は「おおー。そうなのかー。」くらいにしか思えなかったことが、今は「!!」(←少々痛い気味に)と感じるんですから、おもしろいもんです。
なんでも過去世の出来事に安易に結びつけるもんじゃない、とも思うんですが、今ここにある自分の心の在りようが、現世の育てられ方や育ち方だけで出来上がっているとも思ってません。
たくさんの過去世での経験のエッセンスでできている「種」を、現世でこのように育てる、という意図の元、親や環境を選んでくるようなもんだ、と思うからです。
ですからもちろん、この3次元の世界で生きているということが一番大切で、「種」からどのような花を咲かせるか、は、やはり「今」の自分次第なんだよ、というのは大前提です。
が。
成長具合やら何やらいろんな条件の下、時期が来たならば少しずつでも「棚卸」はされるようになってんだろうなぁ、とあらためて感じました。
そいえば。
私ね、小学生の頃から、ガリレオ・ガリレイにものすご~~く惹かれてたんですよ。
宗教裁判で信念曲げて嘘ついた人なのに、なんだかすご~~~く惹かれてて、自分でもすげー不思議だったんですよ。
自分の中にある似たようなニオイを感じてたんですかねぇ。
おもしろいなぁ~。

それは、どこから来ている思い込みなのか?

連休はオカンが子守に来てくれてました。
子供たち、特に娘はオカンになつきまくりで、オカンが帰る時は大泣きでした。
(息子は、最初我慢してたけど、やっぱり泣いた。これはこれで見てる方が切ない。)
オカンが孫に接する態度を見てると、
「あー、私もこうやって育ててもらったんやなー。」
と、思います。
いっぱいいっぱい手をかけてもらったんだろうなぁ、と。
ありがたいことです。
が。
いつからなんでしょうねぇ。
子供の頃、もう小学生の低学年の時には、オカンとの間になにやら「距離」を感じてました。
オカンは、本当には私のことを理解してくれていない、みたいな「距離」を。
実は、オカンと弟1号はとてもよく似ています。
いろんな占いでも星回りが同じことが多く、性格も似てます。
そして、霊感の強さも弟1号は受け継いでます。
この2人は、家族に対して、時々スパっと切りつけるような物言いをすることがあります。
本人たちは気づいていないと思いますが、結構イタイです。
なので、いつからか、私はオカンに怒られる時には、「言葉」は聞いているけれど、どこか心を閉ざすというか、「防御」するような姿勢を取るようになりました。
それでもスパっとやられるので、イタイんですが。
そして、弟1号から一時期いろいろ言われた時も、イタイのでスルーしてました。
昨日の夜、別件で電話をかけたら、弟1号からスパっと切られました。
本人はスパっと切る気はさらさらないのは分かってますけど、こっちにしたら、
「それが出来ないから、遠回りでもこういう道を通ってるんやないか。」
と、言いたくもなりました。
言わなかったけどね。
こういう時、オカンや弟1号からしたら、
「ほんとに頑固やなぁ。言われたとおりに素直に考えを変えればいいのに。」
と、私のことを思うのかもしれません。
でもなぁ~、なんてのかなー、誰でもそうだと思うけど、
腑に落ちないと納得できない
と思うんですよ。
オカンや弟1号にしたら簡単に分かることでも、私は簡単には分からないんです。
こんな時、反論する自分ももちろんいるんですが、
素直じゃない自分がダメなんだ、とか
人間として未熟すぎる自分がダメなんだ、とか
五黄土星のいばりん坊の星回りに生まれた自分がダメなんだ、とか
とにかくダメだダメだ、とダメ出しばかりする自分も同時に大きな顔をしながら出てくるんです。
たいがいは。
さて。
スパっと切られてとてもとてもイタかったし、自分の中でダメダメって言う声がどんどん大きくなって、短時間の間で非常に疲れてしまったので、子供を寝かしつけながら私も夜の8時には眠ってしまいました。ゆうべ。
でも、時々目が醒めては、うつらうつらといろんな想いが浮かんできました。
私ね、昔からそうなんですけど、些細なことでも注意されたり指摘されたりすると、自分を全否定されたような気持になるんです。
(ダメダメっていう声のせいなんだと思います。)
というか、そうなんだ、ということにあらためて気がつきました。
うつらうつらとしながら。
なんでなんだろー??
と、これまたうつらうつらとしながらぼんやり考えたりしました。
「ありのままの自分」では受け入れられない
という想い(思い込み)が根っこにあるということに、朝方、うつらうつらとしつつ気がつきました。
オカン(と弟)にスパっと切られることが時々あったからかなー?
と、思ったんですが、どうもそれだけではないような気がしました。
もちろん、オカンのそーゆー物言いが私のそーゆー部分をさらに大きくしていったんだろうとは思うんですが、原因がそこだけにあるとは思えませんでした。
それは、なんとなく、なんですが。
「ありのままの自分」では受け入れられない、という想いは、どこから来てるんでしょうねぇ…。
オカンが持ってたそーゆー想いを私が知らず知らずに吸い取ったのかなー?
吸取紙みたいに。
うーん。
それとも、なんかの想い癖なのかなー?
うーーーーん。
案外傷つきやすい自分、ってのに手を焼いてたんですが、まさか「ありのままでは受け入れられない」という想いがあったなんて思いもしませんでしたわ~。
人間って、自分のことが一番よく分かってませんねぇ。やっぱ。

こういうのが、幸せ。

【3月7日(土)】
このところ雨がちだったけれど、今日は朝からずーっと良いお天気でした。
午後4時くらいだったかな。
明日も明後日も雨だし、今日のうちに畑に行って、脇芽として生えてきてるブロッコリーをぷちぷち収穫しておこうと思いました。
息子と娘を2人連れては畑に行けません。
2人がバラバラに走って行ってしまうからです。
今日はお父ちゃんがお仕事お休みで、子供たちといっぱい遊んでくれていましたが、ついでに娘をお願いして、息子だけを連れて畑に行きました。
お母ちゃんはブロッコリーをせっせと収穫していました。
息子は、ブロッコリーとキャベツと一緒に生えているカラスノエンドウの中に座り込んでいました。
草をちぎったりしながら、何かとお話していました。
自然農の畑で、こうしてカラスノエンドウがたくさん生えてくるのは、良い畑になっていっている証拠なんだそうです。
とてもふわふわの、優しい草です。
そのふわふわの草の中で育っているキャベツを、3つ収穫しました。
小さいキャベツですが、とても美味しそうなキャベツです。
息子が持っていた袋に入れてあげたら、「食べたい。」と言いました。
1枚、キャベツの葉を渡したら、息子はカラスノエンドウの中に座り込みながら、それは美味しそうに食べていました。
オレンジ色が少しばかり強くなっていた太陽の光が優しく感じました。
いいなぁ…。
と思いました。
こういうの、幸せだよなぁ。
と思いました。
細い農道を挟んで向こう側にある自然農の田んぼには、牧草のような草が一面に生えていました。
もうそんな季節です。
まだ柔らかい草は風に吹かれてキラキラしていて、田んぼが草原のように見えます。
その田んぼの中を、ドロ付きのままのニンジンを3本、片手で持ったまま、どんどん奥へと歩いていく息子の後ろ姿を見ていました。
これもまた、幸せだなぁ。
と思いました。
息子と一緒に収穫したお野菜も入れて、夕食には野菜スープを作りました。
こぼしながらスープを飲んで、大きな口を開けて、美味しそうにお父ちゃんが作ったお米のご飯をパクついている子供たちを見ていたら、
あんたたちのお母ちゃんになれて良かった。
と思いました。
今日はそんな小さな、でも大きな幸せをじんわりと感じられる余裕が身心共にあったようです。
ありがたいことです。

大きな虹を見ました。

今日の夕方、市内は市内なんだけど、ちょっと遠いところまでお買い物に家族4人で行きました。
その帰り道。
とっても大きな虹を見ました。
こんな大きな虹を見たのは生まれて初めてだったので、とっても興奮してしまいました。
丁度いいところに、お父ちゃんが車を停めてくれたので、携帯で撮りました。
お父ちゃんが、その写真をつなげてくれました。
虹
(↑クリックしてね。)
とってもとっても大きくて、とってもとってもキレイで、
振り返ると、夕日と周りの雲も幻想的だし、怖いくらいでした。
畏怖ってやつですね。
天使さんたちからのプレゼントかしら~。

ジャッジしないなんてことはできないから。

ひとつ前の日記で、のりすけちゃんのコメントに対して、
「生きるってことは過程そのものなのに、人間は正解を欲しがるものだよね。」
って感じのお返事しました。
確かにそうなんだよなぁ、って思います。
「ジャッジしない」ということが大切と、スピ的な人たちが口をそろえて言いますが、凡夫の我々は日々ジャッジしてしまいます。
正しい・正しくない、という判断をするということは、「正解」を求めているからなんだろうなぁ、とさっきお返事を書きながら思いました。
ジャッジしない、ということが、「批判しない」ということとイコールではないと思うんです。
だって、「こうした方がいいと思うよ。」という善意のアドバイスであっても、それは既にジャッジをしているんですから。
で。
(「エゴ」を含む)顕在意識の我々は、「正解」を求め、ジャッジをするという「機能」を持っていて、おそらくそれがメインの機能なんだ、と気づいてさえいれば、とりあえずOKなのかもしれないな、と思うんです。
普段の日常生活において、「正解」を求め、ジャッジする機能が無いと、お母ちゃんとしての役割を完うできなくなります。
子供を起こす方が先か、お弁当を作り始めるのが先か、洗濯機を回す方が先か……次々と「正解」を求めてジャッジせんと、ちゃっちゃと家事なんて回っていきませんもん。
てことは、出家して行をするというのは、ジャッジしなくていい状況に身を置くってことなのかもしれませんね。
でも、私達はそんなわけにいかないので仕方ありません。
この機能をフルに生かして、元気に生きていかないといけないんです。
ただ、正解を求めてジャッジしてしまう、という性を、「批判」という形に持っていかないように気をつけることはできると思いますし、「怒り」に持っていかないように気をつけることもできると思います。
批判や怒りは、お互いに正解・不正解を押しつけ合うことになるだけです。
イスラエルの怒りはパレスチナの怒りを生むだけのように。
んじゃ、どうすりゃいいか、というと、多分ね、「それは不正解だ。こうすべきだ。」と言うんじゃなくて、「それは悲しい。それは辛い。こうしてくれたら嬉しい。楽しい。」と、シンプルな「感情」を表現するように心がけるだけで違ってくるんじゃないか、と思うんです。
すると、怒りという感情にしても、
「そんなふうに私を怒らせるようなことをしたあなたの心が悲しい。」
と、だんだんなってくるような気がするんです。
子供の頃に、「慈悲」って仏教の言葉だよって教えてもらって、なんで「慈悲」って言うんだろう?ってすごく不思議だったんですよ。
「悲」って漢字を使ってることが不思議だったんです。
でも、それがちょっと分かった気がします。
愛があれば、怒りの前に「悲しみ」がちゃんとあるんですよね。
仏さまは、深く深く我々を慈しんで悲しんでくださってるから、「慈悲」なんだなぁ……って。
多分。
悲しみは、祈りへと導いてくれると思います。
でも、怒りや批判は、祈りへは導いてくれないと思います。
だってさー。
息子や娘に対して、イライラしてどかーんと怒ったって、後味悪いだけだもんね。
んでも、分かってても怒っちゃうんだけどさーー。精進足らん足らん。

よい「塩梅」

mixiのこの日記で、きらりん☆さんのコメントにお返事を書いた後、つらつらと思ったことなんですが。
どんな霊能師さんでも「全て」が分かるわけじゃないので、その意見を「完璧」だとは思わない方が良いですよね。
五感でしか捉えられない世界よりも広い世界での視点で観てくれるわけなので、それは「より多くの情報から分析した結論」みたいなもんだと思うんですよ。
でも、世界はもっともっと広いってことも、ちゃんと分かってないとね、ってことです。
それに、占いでも霊視でも、依存してしまってはアカンと思うんです。
でもね。
依存はしないけど、頼れるアドバイザーの意見を素直に聞く耳は必要ですよね。(もちろん、アドバイスに違和感がある時は自分で考えて却下するというのはアリですよ。)
依存と素直は違うし、盲信と信心は違うし。
なんでもそうなんですけど、こーゆー「塩梅」って大切だと思います。
でもね、こーゆー「塩梅」って、頭で考えて判断できることじゃないと思うんです。
自分の中に「芯」があるかないか、が、「よい塩梅」を見極めることができるかできないか、の分かれ目なのかなー、と感じます。
だってね、自分の「外」にはモノサシが無いんですもん。
あるのは「現象」だけで。
科学だって「今のところ大多数の科学者が支持してる考え」でしかなくて、本当の意味で「真実」であるかどうかなんて分からんものなのですから、科学的情報をいっぱい集めたって、それは確かに役には立つけれど「絶対的なモノサシ」にはなり得ません。
常識ってもんも、単なるローカルルールでしかないですし。
まずは、「自分も他人もどこか偏重している」という前提を、頭のスミに常に置いておけるかどうか、ですかね。
案外、これってできてるようでできてなかったりするんですよねぇ~。
もちろん、覚者や聖者じゃなくて、我々凡夫のお話ですよん。