まず、ゲッターズ飯田さんのこの記事
http://ameblo.jp/giida/entry-11601396061.html
を読んでください。
母方の叔母が、48歳の時に死にました。
入院して、もう意識が無く、集中治療室みたいなところにいた叔母に(オカンたちと交代で)付き添っていた私のことを、叔母の娘だと思った方(←とある患者さんの付き添いの方)が、
「人間は病気で死ぬんじゃないんですよ。寿命で死ぬんですよ。まだお母さんはお若いから、きっと寿命はまだあるだろうから、あきらめちゃダメでよ。」
と話してくれました。
「ありがとうございます。」と返事しながらも、私は
『ああ、じゃあ、ちーちゃん(←おばちゃんのことをこう呼んでた)は死んじゃうんだろうな…。』
と思っていました。
なぜなら、叔母は時々、
「私は48歳で死ぬんだって。」
と笑って言っていたからです。
占い好きの叔母が、何かの占いでそう言われたらしいのです。
そして、叔母は占いのとおり、48歳で死にました。
しかし、実家の近所にある喫茶店のママさんは、これまた占いか何かで寿命が○歳だと言われ、
そんな早くに死ねないからと、仏様のご加護をいただくために忙しい毎日なのにこまめにお寺にお参りを続けてきたそうです。
先日、半年ぶりに実家に帰ったのですが、ママさんも相変わらず元気そうでした。
ゲッターズ飯田さんの記事を読みながら、叔母のこととママさんのことを思い出しました。
多分叔母にも、生きようと思えばその瞬間を乗り越えて生きられる道はあったと思うのです。
死ぬことがダメなことで生きることが良いことだと決めつけるというのもどうかと思いますが、
とりあえず、叔母にもオヤジさんにもまだまだ生きてて欲しかったので、そこを乗り越えて生きる道を選択できるものならして欲しかったよな~、なんて、残された方としては思ったりします。
ただ。
叔母とママさんの違いは、ものすごく分かりやすいですが、
自分だったら、ゲッターズ飯田さんのような選択ができたらいいな~、と思います。
運命を受け入れつつも、自分が他人のためにできることに力を尽くす、という選択です。
叔母は、ただ受け入れただけ。
ママさんは、自分のためにできるかぎりのことをした。
けれど、できることなら、ゲッターズ飯田さんのような選択のできる自分でありたいなー、と思いました。
なかなかできないよなー、って思いますけどね。
「アルクトゥルスの記憶」というブログ記事。
時々チェックしているブログなんですが、今さっき読んだ記事のリンクを貼っておきます。
必要な人もいるかもなー、と思うので。
なんとなく。
「アルクトゥルスの記憶」
http://sekaijunokokagede.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-0173.html
ちょいと記事のボリュームがあるので、麦茶でも用意してから読み始めるといいかと思います。
自分を取り戻して、誰のせいにもしないで、自分の人生を生きる、ということ。
もう1年以上前になるんですが、「毒になる親」という本を読んだ時のことを書きました。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-553.html
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-554.html
親にからめとられていたエネルギーを取り戻し、自分の人生を生きるために使うことができるようになるための1つの方法が示されていると思います。
さて。
昨日ですが、ほぼ日の山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」の中の1つをひょいと読んでみました。
Lesson644「誰かのせいで何かができない」と言わない自立
http://www.1101.com/essay/2013-07-10.html
です。
ぜひ全文読んでいただきたいのですが、
山田ズーニーさんはたくさんの人の文章を読んできた中で気づいたこと、それは、
親子関係に大きな確執がある人でも自立して自分の人生を生きている人たちに共通するのは、親子関係を解決しようとしていないことだ、と言っています。
「毒になる親」を読んだ時もなるほどと思ったのですが、大事なことは「自分を取り戻して、自分の人生を生きる」ということであって、
親との関係性を風通しの良いものに改善していくことではないんですよね。
もちろん、そうなればなお良いに決まってますけど、そこが目的ではないんです。
大切なことは、自分の人生を生きるということ。
誰かのせいにしないで、自分の人生を生きていけば、
実に逆説的ではあるけれど、
親は変わらなくても親に対しての自分の想いが変わったり、愛情を素直に感じることができるようになったりもするんです。
もちろん、そうでなかったとしても、誰のせいにもせず自分の人生は自分で責任を負うというという生き方を貫いていくことは、さまざまなギフトが人生から贈られてくるはずです。
また昨日はこんな「つぶやき」をマイミクさんの1人がされていました。
日記に載せてもいいよと言ってくださったので、コペピさせてもらいます。
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「愛してるよ」って30年間言えなかったひとに言ってしまった! そしたらエネルギーが噴水みたいに吹き上がって、身体がホースみたいにうねって、涙がこぼれてこぼれて、大笑いが止まらなかった。喉のチャクラ開きはじめた。夕焼けの空が綺麗できれいで、ここはどこだろう、わたしはだれだろうと感じたよ。愛してるって!
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
これは、誰に対して「愛してるよ」と言えたのかは分かりませんが、でも30年間言えなかった…ということですから、かなり身近な人なんだと思います。
このような体験は、まさに人生からのギフトだよなぁ、と思いました。
1人1人親子の関係性は違うし、経済的な問題やら健康問題やら……いろんなことがあって、今は自分の人生を生きるためのパワーを失ったままの人もいっぱいいるかもしれないけれど、
「自分を取り戻して、誰のせいにもせずに、自分の人生を生きたい!」と腹の底から本気で願う力をまず呼び起こしてもらいたいなぁ、と思います。
自分の人生を生きていないと、愛がまっとうに流れにくいものね。
「不機嫌」であることで周囲をコントロールしようというのは、心地良い手段ではないよね。
いまここの記事更新のツイートが目に入ったので、久々にアクセスしたら、ちょっと面白かったので、ペタリしときます。
http://abetoshiro.ti-da.net/e4877462.html
http://abetoshiro.ti-da.net/e4887266.html
http://abetoshiro.ti-da.net/e4891330.html
阿部さんは、特に若い世代に向けて書いてます…って言ってますが、
いえいえ、ほんとにね、どの世代にもがっつり当てはまりますよね。
「嫌な感情を持てば見返りが期待できる」
これは、自覚なんてできないくらいものすごーく当たり前に、しれっと存在してるんだろうな、と思いました。
自分達の中に。
そして、
『この観念を自覚すれば、自分がまたお得意の感情に浸ってしまったとき、内心で何を求めているのだろうと問いかけることができます。』
というのは、ほんとにそうだよな、と思いました。
私は自分の中に問いかけて見つけ出す…というのが、割と得意「らしい」のです。
自分ではよく分かっていなかったし、自分ができることくらい誰でもできるものだと思い込んでいましたが、
どうやらそうでもないらしい…ということが、この年になってきて分かってきましたので、
「問いかけて、見つけてみればいいんだよ。」と言われても、それが難しいんだよ…と言う人もいるんだろうな、と思います。
…思うんですけど、やっぱり、そこは自分に問いかけて見つけるってのは、己を知るという手段としてはものすごーく強力なものだと感じるので、逃げない方がいいと言っておきます。
そして、それを見つけていかないと、同じことを繰り返すだけなんですよね。
そう。
同じことを。
『嫌な感情を使って、周囲の気持ちをコントロールしようというのは、とても幼いやり方です。』
これ、私はやっていないよ、と胸張って言えますか?
私は言えません。
いーえーまーせーーーん!
嫌な感情を持つことが良いとか悪いとかじゃなく、
嫌な感情を使って周囲の気持をコントロールしようとしても、ほんとうに望むものは手に入らないと知ること、
そして、ほんとうに自分が望むものは何なのかを知ること、
さらに、ほんとうのドロドロっとした望みを知ることで、自分の偏りを自覚していくこと…
ああああ、痛いですねぇ。
己を知っていくことは、えらいこっちゃです。
でね。
自分を知って、自分の弱さとか欠点とか嫌な感情を生み出す元を知った時に、
それを否定するもんじゃない、って思うんですよ。
思うんですけど、
だからって、それをそのまま放置して、「私は私、これでいいの。」って、開き直るのもマズいと思うんです。
開き直ってしまうと、知らず知らずにやっぱり周囲を嫌な感情でもってコントロールしちゃうんだなー、と、人の言動を見て、すごく感じるからです。(←自分もやってるに違いない。)
じゃあどうしたらいいのよー、ってなるんですけど、
なんとなくですね、PCのデフラグみたいなイメージがいいんじゃないかと思ったりしてます。今は。
ものすごく偏りがあって、性能がめっちゃ落ちてる。本来の性能が発揮できない。
ものすごく偏りがあるから、「できごと」に対して、過剰にネガティブな反応をしたり、その反応のせいで周囲もイヤな気持にさせる。
そんな感じだと捉えると、デフラグしていこう、って思えるんですよ。
欠点・弱点をピンポイントで修正するというより、全体の偏りを修正していこう、みたいなイメージになるんです。
トータルとして、自分の「個」の在り方がどうであるか、を作り上げていくのが「人生」だと思うので、
全体の偏りをデフラグしていこうという観点は、けっこー面白いんじゃないかな、と思っておるところです。
私は、悟りを開きたいとか、アセンションしたいとか、聖人になりたいとか、そんなことは思ってなくてですね、
だいたいいつも上機嫌で、ヘラヘラ笑って生きてる人間になりたい
んですよ。
まだまだほど遠いんですけどね。
なので、少しずつでもデフラグしていきたいなー、と思っておるのです。
ちなみに。
私のハイヤーでもあって、上のヒトでもあって、過去世の人でもあるタミエルが、だいたいいつも上機嫌でヘラヘラしてましてね、
あたしゃ自分のハイヤーみたいになりたいのか、と、アレが人生の目標なのか、と、気づいた時は笑ってしまいました。
ぷぷぷ。
でも、人生の目標があるって、いいことかな、と思いますわ。
それもある意味すげぇ身近なところに目標がいるなんてね。
「絵本」が届いた。
今朝、月子さんからどっさりお届けものがありまして。
郵便局員さんが朝イチから届けてくれました。
そのメインが、これ。
http://nelteatro.blog.fc2.com/blog-entry-42.html
結局なんだかんだでteruさんの生絵を見に行くことができなかったのですけど、
残念すぎるのですけど、
月子さんが絵本を届けてくれて、ひゃっほー♪ってなもんでした。
すごいね。
すごいね。
なんでこんな絵が描けるの?
その腕、くれ。
コピーでいいから。
そして、当然ですが、さつきのひかりさんの文章はキレイですね。
文章がキレイってのも、努力は当たり前なんでしょうけど、こーゆーのも生まれ持ってのセンスなんだろうなー、と思っちゃいます。
この絵本ですが、完売だそうです。
そりゃそうだろうなー。
でもまた何か生み出してくれると思いますんで、期待ししておりましょうそうしましょう。
「物語」というものの意義
自分が、この世界で、生きている。
…というのは紛れもない事実だとほとんどの人は言うのでしょうが、
では、「どうしてそう言い切れる?」と言われたら、ちょっと返答に困るのではないかと思います。
当たり前のことすぎるから。
しかし、
今ここで生きている自分の「意識」を通して「この世界のこの私」を観ているのがデフォルトではあっても、
それだけが「自分自身」ではなく、さまざまな自分が違う世界に存在していて、
さらにそれを垣間見ることもできる……というのが、この数年で私が体験してきたことでした。
過去世であったり、ここより少しばかり高い次元にある意識体であったり、
ここにいる私とは別の、けれども、私としか言いようがない者たちの「物語」を知っていくことで、
魂というものの輪郭がうすぼんやりとではありますが、見えてきました。
そしてそれは、この世界で生きている肉体の私の意識にもフィードバックされ、肉体を持つものとして生きることの意味を問われ続けることになりました。
「物語」を通して、魂は少しずつ成長するのかもしれません。
そのひとつの物語が、この肉体を得て生きることで紡がれているものであり、
しかしまた同時に平行して別の物語もたくさん存在しているのだろうと、私は思います。
ですから、基本の軸足は「この肉体のある世界で生きている私の人生」にあるのは当然ですが、
ちらりちらりと他の物語も覗き見し、バランス良くフィードバックをかけることが理想的だと思っています。
なんでも一方に偏りすぎると、後からバランスを取り戻すために、大きく反対方向にぶおんと振られるような精神状態に陥ることも多いと思うので、そこらへんの塩梅はとても大切だと感じます。
(科学的に思考することをちゃんと学んだおかげだと思うんですが)どうやら私は意識していなくてもそのあたりのバランスはそこそこ良い塩梅になっているみたいなのですが、
これは別の言い方をするとですね、私は一方につっこみたくてもできないんです。
ですから、全体の歩みとして亀のごとくでして、兎さんが羨ましいなぁ~感じることも多々あります。
魂からしたら究極的にはどっちでもいいと思うんですが、さまざまな危険性を回避するという意味では、歩みは遅くても亀さんの方がベターだと思うので、これでいいや、と納得はしています。
だーーっと走っていくと、落とし穴にどーーーんと落ちたりしやすいですもんね。
ちょっとした何かがキッカケで「もう【上】と関わるの、やめた!」とスパっとやめちゃったり、いなくなったりした人を何人も見かけましたけど、それは無意識にバランスを回復しようとしている行為なんだろうなー、といつも思いながら傍観しています。
だいたいそーゆーのってドラスティックなもので、振り回される人が不憫だったりするんですよね。
そういう意味でも、亀もいいよね、なんて思ったりしてます。
これからも私はノロノロ歩いていきます。
さて。
「物語」というものの意義については、亡くなられた河合隼雄さんがいろんなところでお話されていますが、
こちらを見つけましたので、リンクを貼っておきます。
ちょっと長いですが、すごくおすすめです。
http://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_835.html
お茶でも煎れて、それからじっくり読んでみてください。
字はキレイな方がいいよね。
会社員時代のことです。
何度かこっそりガッカリしたことがあります。
頭も良くてキレイな女の人なのに、字が下手っぴ………。
私としては、これはかなりガッカリ度が高かったのです。
(聴覚など他の感覚よりも)視覚派なせいかもしれませんが、文字の印象ってすごく強く入ってくるんです。
私には。
なので、もっさい男性なのにめっちゃキレイな字の場合は、無駄にテンション上がっとりました。
赤文字で修正入れられまくりの下書きのレポートををじぃぃぃっと眺めて、うおーうまい字だー、ってニヤニヤしたりしてました。
そいえば、私はお勤め時代の半分以上がソフトウェアのマニュアル制作をしていたので、開発の人たちに査読をしてもらって赤ペンをたっぷり入れてもらっておったのですが、
いつも査読をお願いするリーダークラスの方たちだと、文字を見るだけで「○○さんの指摘だな。」と分かったりしました。
文字の印象って、やっぱり大きいです。
さて。
ほぼ日で、こんなのがありました。
http://www.1101.com/21c_working/nemoto/2013-02-28.html
性格を変えたかったら、文字を変える努力をするというのはアリかも!と頷きながら読みました。
やはり、ほんとうのことを知りたいし、ちゃんと評価したいし、ちゃんと学びたい。
以前、こんな日記を書きました。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-590.html
すると、その後、たまたま本屋でこの本を見つけまして、買って読んでみたんです。
阿川佐和子の世界一受けたい授業―第一人者14人に奥義を学ぶ (文春MOOK) (2012/10/10) 阿川 佐和子 |
河合隼雄さんと養老孟司さんとの対談目当てだったのですが、
李登輝さんとの対談もあったんです。
読んでみたら、やはり日本が統治してる時に教育、公共衛生、治安、財政……と、さまざまなことで台湾に貢献して、新しい台湾を作り上げた、と言ってるんですよね。
元・台湾総統が。
こういうことって、日本の歴史の授業で教えてもらえませんよね?
少なくとも私は聞いた覚えがありません。
そして、本屋さんで最近見かけたので、これを読んでみました。
台湾生まれの方が書いています。
日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか (2012/08/10) 黄文雄 |
この人も、リンク先の韓国の方と同じようなことを言ってました。
日本統治のおかげで、朝鮮は国家破綻寸前ところから立ち直ったのだ、と。
また、自然環境や歴史背景が違うと、こうも国民性が違ってくるのか、と考えさせられました。
すごく興味深かったです。
もちろん、本に書いてあることを鵜呑みにしてはいませんけどね。
「従軍慰安婦問題」や「南京大虐殺」が「でっちあげ」と言うのは言い過ぎじゃないか、と思いますし。
(規模をめっちゃデカくして韓国や中国の人たちは言ってるだろうな、とは思っとりますが。)
日本がしてきたことを全て正当化しろという意味じゃなく、
客観的に何があったのか、を知りたいですし、良くも悪くもちゃんと評価したいですよね。
そうじゃないと、歴史から学ぶことができないですもん。
言語外のところで培ったものを、言語化できるかどうか。
朝からツイッター経由で面白いブログ記事を読みました。
これです。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2012/11/10/013625
ふつーにどーでもいい会話をするだけなら、理論なんて要らないし、その人の表情や空気で何が言いたいのかもなんとなる分かるけれど、
「仕事」となると、そんなわけにはいかないですね。
具体的に教えてもらうだけじゃなく、先輩の仕事の仕方を見ながら、自分の中で「仕事のやり方」を言語外のところで構築していく……ものなんだと思いますが、
じゃあ、それを「論理的に言語化できるかどうか」で、確かに下の人間をうまく育てられるかどうか、というのは大きく左右されるよな、と思います。
そして、仕事だけじゃないんですよね。
ネットを通じての濃いやりとりをよくやってるのですが、「自分の中の暗黙知をどれだけ論理的に言語化できるか」というのがすごく重要だよなー、と思います。
すみません。
ちょっと上から目線な物言いになります。
自分が十全にそれができてるとは決して思ってはいないのですが、一時的に棚上げします。
一見すると自分の言いたいことをそれなりに文章にしてるように見える人でも、意見のやりとりをしてみると、その部分がすごく弱いなぁ~と感じる場合が残念ながらあります。
その場合の「やりとり」は私からすると暖簾に腕押しみたいな感覚になって、正直ガッカリしてしまいます。
自分の中の「言語外のところ」で豊かに多くのことを培うための知性と感性はとても重要だけれど、
それを上手にアウトプットするための知識と教養も同じくらい重要だ、ということだと思います。
アホ男子の姉だった私は、おなかかかえて笑った。
これですよ。これ。
http://togetter.com/li/398997
アホ男子が兄弟にいるねーちゃんたちや、アホ男子をまさに育ててる最中のオカンたちは、きっとめっちゃ笑うハズ!