8月の終わりの真夜中に息子に「お母さん、お水…。」と起こされ、そこからなかなか眠れなかったので、スマホを開けたらこんなツイートが目に入りました。
家を愛してしまうタイプなんだけど、いまだに前に住んでたアパートでの暮らしのひとコマひとコマ思い出す。
老朽化で取り壊すから出て行ってくれ、と言われて何十万円も大家が出してくれて。
条件は良かったけど、うつ伏せで床を抱きしめて寝たりするほど好きで。
そういえば猫が毎年仔猫産んでて。— usamimi (@usamimix) 2017年8月30日
今より貧しくて思考も波動も可哀想なくらいで、不幸で苦しくてつらかったのに、あの頃の方が?、いちいち感動したり物事を慈しんでたり。幼かったと言ったらそれまでだけど、悪い意味でガキだったけど、たまらなく愛おしい。
愚かだけど純真で不幸なのに生きてる感しっかりあって記憶に残ってる。— usamimi (@usamimix) 2017年8月30日
だから、スピリチュアルなワークやってクリアリングなんて、やってもやらなくても同じこと。もしかしたら失うものの方が大きいかもしれない。
どっちでもアリ。どっちもそれ相応にかけがえがなくて。
あくまでも本人の選択。
どっちが間違ってたとか正しかったとか、ない。— usamimi (@usamimix) 2017年8月30日
あの頃のある時期に、本当に強くなるというよりは、感受性を捨てることで苦しまなくて済むというほうへ行くために、何か人間的な感性を捨てた感じがある。
もう、何かを人間的に感じようとしてもできない。早まったかな。
演技力の方が伸びて、いかにも普通に感性あるふうに振舞ってるだけ。— usamimi (@usamimix) 2017年8月30日
それでこんなツイートをしたのですが。
「分かる」なんて軽々しく言えないくらい沁みる。
— たみえ✡ (@TAMIEYAtamie) 2017年8月30日
今もオカンが住んでいる実家は小さな借家なのですが、小学生の頃、どうして私はこんなにこの「家」が好きなんだろう…と、自分でも不思議に感じていたくらい「家そのもの」が好きでした。
単なる愛着だったのかもしれませんが、そんな気持ちがとても強く在りました。
とっくの昔にどこかに置き去りにしてしまったそんな自分を遥か遥か遠くから眺めるように思い出し、
さらに、高校生の頃に「強くなりたい」と願ったら、ふと気が付くと、『とても繊細だった感受性の先端がすべて無残に折れてしまった』かのような自分になっていて、取り返しのつかないことをしてしまった…と、ひどく落胆したことも思い出し、
真夜中にお布団の中で、ため息を1つ吐き出していました。
この世界の仕組みを知りたいという子供の頃からの願いの上に、健康問題をなんとかしたいという切羽詰まった思いが乗っかったがために、なんだかんだとここまで来ることになったわけですが、
ここに来て、「わざわざ人間に生まれてきたことの意味をもう一度問う」みたいな流れになっていたのです。自分の中で。
クリアリングしていくことの意味や、霊性を高める努力をする意味などを、あらためて問う必要性があるのでしょう。自分の中で。
そんなタイミングのようです。