最近よくチェックしてるヒーラーさんのブログのこの記事
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-813.html
を読んで、「お。」と思いまして、忘れんうちに書いておこうと思いまして。
だいたい、スピ系のいろんな読み物に目を通してると、「ジャッジしないこと」という話がよく出てくると思います。
確かにそうだよなー、と思うんです。
読むたびに。
でもって、あまりに「ジャッジしたらアカンよ。」という文面をよく見かけるせいか、
ちょぴっとは
「あー、そういう見方もあるのかー。そういう考え方もあるのかー。」
と、賛同はしかねても、否定したり批判したり…という気持ちが減ったりもしました。
ほんとにちょぴっとだけどね。
でもね。
そうは言っても、やっぱり刻々とジャッジしまくりなんですよ。大なり小なり。
しゃーないよなー。人間デキてないし。
と、苦笑するしかなかったんですが、ふと思ったんですよ。
「ジャッジ」って言葉だと重いけど、これって好きか好きじゃないか、ってことやん、って。
これは好きか、好きじゃないか。
それは「自分がより快適に生きるための選択」とも言えるような気がしたんです。
もちろん、好きと好きじゃないの選択が存在する時点で、霊性進化的に言えば「まだまだえらいことお子ちゃま」なんだけど、とりあえず「ジャッジ」という言葉より楽な気がして、
大人になれば好きじゃないピーマンとかニンジンとかも食べられるようになるように、そのうち私もなんとかなるだろう~、
と、思うようになりました。
で。
冒頭の記事を読んで、です。
ああ、そうか、と思いました。
好きか好きじゃないか、ってーのも、それを分ける「何か」があって、それが「信念体系」だったりするんだなー、って。
なので。
ジャッジするなー、ってったって、そんなもん凡夫の我々にはなかなか難しい話なので、
これは好ましい、これは好ましくない、と判断をした時に、精神的に余裕が少しあるならば、それを判断した「自分の中の信念体系」は何なのか、ってのをチラリとだけでも探ってみるといいかもな、と思いました。
すると、そのうち「自分」ってものが違う角度からけっこーハッキリと見える瞬間が来るかもなー、と思いました。
そして、そうなることで、もしかしたらその部分に関する「ジャッジ」は消えていくことになるかもしれないなー、と、なんとなくそう思いました。
何が出てくるやら~~~~
ちょっとコワイねー。