コレの続きです。
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「貧しく、苦しく、病んでいる人とともに生きることは、人間にとって最も素晴らしい生き方なのです。」
マザー・テレサはそう言いました。
あなたは見捨てられた存在ではない、あなたは愛されているのだ、と、死んでいく貧しい人たちに伝え続けるマザーたち。
一人一人が大切なのだ、とマザーは言います。
分かち合い生きていくこと。
それは、物質的なことだけではありません。
深い愛を、自分の中の美しいものを人と分かち合い生きていくことが、人間にとって素晴らしい生き方だということなのでしょう。
そして、その深い愛につながり続けるために、神の愛をそのままみんなと分かち合うために、祈りが日々の生活のなかでとてもとても大切だとマザーは教えてくれています。
けれど、マザーの言葉一つ一つに感じ入っていた私なのですが、翌日にお腹が痛くなりました。
何かが間違っているのです。何かが欠けているのです。私の中で。
それを守護霊さまが教えてくださっているに違いないのです。
下痢は一応収まりましたが、まだお腹がしくしく痛い状態で、洗濯物を干しに行きました。
ぐったりしながらも、頑張って洗濯物を干していました。
その時にぼんやりと思ったのです。
「守護霊さまや守護神さまは、こうやってお腹が痛くてぐったりしている私のことを、どう感じながら見てくれているんだろう……。」
たくさんある業をちょっぴり消すため、間違っていることを教えるため、『守護霊さまが私の身体をそうさせている』んだから、「あーあ。バカだなぁ。」なんて言いながら見ているわけはないよな。
きっと、私の考え方の癖や心の動きに寄り添いながらも、在るべき道へと少しずつ少しずつ導いてくださっているんだなぁ……。ありがたいなぁ……。
そうぼんやりと考えが浮かんだ時に、ハッとしました。
お祈りをちびちび続けたおかげで、少しは霊性の向上の道を進むことができていると思える私ですが、当然ですが、そんなもんは守護霊さま守護神さまから見たら幼稚園の年少さんが年中さんになったぐらいのチビっとな成長でしかないのです。
まだまだ霊的には幼稚園児なのです。
なのに、年少さんの言動を見て、なんだか違うなぁ…、と思っていたのです。
霊性の向上に伴う『差別感』みたいなものや『批判』は持たないようにしなければ、と常々思ってはいるのです。
五井先生やハトホルさんたちが教えてくれたとおり、これは大きな落とし穴だと【頭では】十分に分かっているからです。
それでも、です。
私はやはり心のどこかで批判しているんだ、と気がついたのです。(いえ、うすうす気がついてはいたのですが、どかーんと気がつかされたのです。)
守護霊さま守護神さまは決して幼い私を批判しながら見護ってくださってるわけではないのに。
幼い私の心の動きにも寄り添い共感しながらも、その想いの間違いを赦してくれているのです。
しかし、決してそれを是としているわけではないはずです。
間違いは間違いなのですから。
それは批判とは違うもののはずなのです。
私は、守護霊さま守護神さまの深い愛を想い、涙が出ました。
洗濯物を干しながら泣いてました。
そして、「どうしてお義父さんお義母さんは、おばあちゃんの心に寄り添えないの?」と悲しんでいた私自身が、愛を分かち合い共感し合い認め合いながら心を寄り添って生きることがちっともできていないんだ、ということに気がつき、さらに涙が出ました。
だからテレビを見ながら「なんだか違うよねぇ…。」とさらりと言えてしまうのです。
だから菜桜ママさんにも「気持ちは分かるけど、違う見方もできるよ。」なんて分かっていないのに言えてしまうのです。
たとえば、自分より身体的に劣る人、自分より勉強ができない人、自分より人間性が熟成されていない人、自分より霊性の開発が遅れている人……。
そんな人たちに対して、優越感を持つのはもちろんのこと、批判的であってはならないとは分かっているのですが、それでは「かわいそう。」と同情すればいいか、というとそうでもないというのも分かっていました。
それでは、どうなれれば良いのか。
それがイマイチ分からなかったのです。
今でも分かりません。
でも、分かったんです。
深い愛(神様の愛)に還っていく過程の中で、私もいつか守護霊さま守護神さまのように、マザーのように、本当に一人一人が大切だと、心の奥の奥から感じられるようになるんだ、ってことが分かったんです。
頭で理解しているだけでなく、本当にそう感じられるようになるんだ、ってことが。
今はほど遠いところにいるけれど、まだ「かわいそう。」「大変だな。」「早く気がつくといいね。」としか思えないけれど、私の中にある神様の愛に近づけば近づくほど、自然と本当の想いが湧いて出てくるようになるんだ、と分かったんです。
それが分かったからって、『今の私』が今すぐ大きく変われるわけではないけれど、深い愛が足りないために『こうなっている自分』を教えてもらえたことはとても大きなことだと思うのです。
それは、深い愛へとつながり続けるためのお祈りの大切さをあらためて教えられた喜びでもあるのです。
最後に本に書いてあったマザーの言葉をもう一つ。
「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもらたす存在、それがお母さんなのです。」
自分の子どもたちのためだけでなく、縁ある人たちのために、私はそうなりたいと思いました。
深い愛に還っていく過程の中で、そうなりたいと思いました。