私が私だと思っている私。

今日のは自分用ログという面が95%です。
残り5%は数人の友人のため。
なので、いつもに増してワケ分からん、と思います。
すんません。
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4月になってから体調が思わしくない日が多く、家事をしながら「あー、しんど。」と言うことがしばしばでした。
しんどいと言っても、最悪だった頃に比べたら楽なもんなのですが、しんどいのを我慢し過ぎたのか、ここ数年は少ししんどいだけでもものすごーーーーーく気が滅入るのです。
数週間前にも数日間しんどかった時にどよーんと気が滅入りまして、ある日洗濯物を干しながら
「こーゆーのも過去(世)からの因縁で消えていく姿やってーのは分かってるけど、業性の私はいい加減イヤんなってるんやなぁ~……。あーあ。。」と、独り言がつい口をついて出ました。
ほんとに気が滅入るんです。
そりゃね、世の中には病気でもっともっとしんどい思いをずーーーっとしている人もいるってくらいは簡単に想像できますけど、誰かと比べてどうのこうの、ではないんですね。
多分、良いことも悪いことも、他人と比べてどうのこうのと考えるのって意味が無いんだと思います。
だから、「私よりしんどい人はたくさんいるんだから、これくらいで気が滅入っていてはアカン。」と自分に言い聞かせるのはナンセンスで、そーゆーやり方では何も進展がないな、と分かっているのです。
人間は、主観の中でしか生きていませんもん。
こと健康面に関しては、元気で丈夫な人を内心えらいこと羨ましがってました。
そして、その分「自分よりしんどい病気の人も多いんだから。」と思うことでバランスを取ってたんだと思います。
けどね、それは大間違いだったわけであります。
だって、私は、今の私以外の何者でもないからです。
でもね。
ここで『私』と言っているのは、『業性の私』または『エゴ(自我)の私』であって、しんどいのも気が滅入ってるのも『業性の私』でしかなく、『真我(神の分霊)の私』はちっともしんどくないし、気が滅入ることも全然ないはずなのです。
五井先生の本を何冊か読ませてもらって、そういうものだということは理解できたのですが、いつも自分自身を『私』だと認識している『私』は、本当の『私』ではない、ということを心から感じることはあまりありませんでした。
が、このところの体調不良がキッカケで洗濯物を干しながら口をついて出た言葉により、じわりじわりと意識するようになっていったのです。
頭で理解するのと、身体の奥から感じるのでは『同じことがら』とは思えないほどの開きがあります。
『私』は『業性の私』であると、じわりじわりと意識し始めた時の『うっすら気の遠くなるような感じ』というのは、一種の恐怖感でもあります。
何かと乖離していくような感じ、とも言えます。
真我が働くようになるには、自我をダンマリと黙らせなくてはなりませんが、想念停止なんてことは凡人にはなかなかできません。
今の私には到底無理で、チビチビとお祈りをするのが精一杯よね、と思っていました。
もちろん、その読みは順当だと思うんですが、あ、ちょっと違うぞ、と感じたのです。
五井先生の教えを知って、とても有り難く嬉しく感じているのも、私。
私はまだダメダメだと思っているのも、私。
それじゃあ、何年経っても何回生まれ変わっても、ダメじゃん。
自我がやりたい放題やってるだけじゃん。
『私』だと思っている『私』が、大事なところでいつもこっそり『私』の足をひっぱってるんだ、ってことが、じんわりじんわりと感じられるようになってきたのです。
なんかね、犬が自分の尻尾を追いかけてる感じ。そんな感じ。感覚的にね。
ぐるぐるしてるだけ。
以前、自分の過去世を退行催眠で観た時から、『あの人の人生はあの人のもので、私のものではない。同じ魂だけど、違う人生なんだ。』という強烈な感覚に、ぼんやりと、それでも延々と続く不思議な感覚も同時に生まれてきました。
「では、今ここにいる『私』って、何?」
魂の記憶装置に溜め込まれる情報なの?
だとしたら、魂は永遠だけど、やっぱり『私』という『ここに在るもの』は実体を失うの?
自我にしたら、恐ろしいことですよね。
なので、ふと思い出しては、なんだかすぐにモヤモヤしてきて、訳がわからなくなっていたのでしょう。
『私』は『業性の私』であって、消えていくものだ、なんて気づきたくないですもん。
…あ。やべ。気づいちゃった。
主観というのは、自我の内部に閉じこもっている世界なんでしょう。
だから、私達は『本当の世界』をまだ見たことがないんです。
閉じこもった自我の中だけの世界しか見ていないのです。
『私』が私だと思っている『私』が薄くなって消えて行ったら、本当の世界が見えてくるんでしょう。
んー。
ヤバいな。
ちょっとコワいな…。やっぱ。(自我の私の本音。)

“私が私だと思っている私。” への3件の返信

  1. あつきさんにメールを頂きながらなかなかお返事できず申し訳ありませんでした。
    偶然奥さんの文章を読ませていただき、非常に自分が最近考えていることと共鳴しましたので、コメントさせてください。
    僕もかつて「自分が自分だと思っている自分」にとことん愛想が尽きてしまい、心の底から徹底的に「自分」が嫌になってしまったことがありました。死んでしまう勇気も気力もなく、とにかくしんどくて、「ああいやだ、もういやだ」とつぶやいていました。
    横になってただつぶやいてぐったりしていたのですが、ある瞬間その心のつぶやきの声色というか、響きが他人の声のように聞こえてしまいました。
    「もう嫌だと言うこの声を聞いているのは誰なのか」
    この疑問が生まれたとたん、ものすごい力で自分の奥深い場所に引きずりこまれそうになり、目の前はぐるぐる回って、とにかく何かにしがみつこうとしました。手を放そうかとも思いましたが、リアルな『死の恐怖』がやってきたので放せませんでした。
    今思えばあの時逆らわず、手を放していればよかったと思います。
    おそらく放しても大丈夫です。
    死ぬのは幻想だけです。
    もともと自我と言うのは幻想だと思います。時間の観念が作り出した幻想です。はなからあるはずのないものに振り回されるのはばかばかしいです。しかも死ぬといっても、その幻想を超えて一段高い所に逝くだけだと思うのです。
    好きな時にその役に戻ればいい。
    川口さんに直接聞いたことがあるのですが、「個としての自分と、全てと一体であるという自分の、両方の次元に同時に立たなければいけません。」と言う答えが返ってきました。
    個としての自我も大切にし、しかもそれを越えていく
    本当の世界を見るために、自分自身を、我が子を見つめる眼差しでただただ何の評価もせず眺めていたい思います。
    それが実は「全てを知っている自分にチューニングを合わせる方法」だと思うからです。
    実は僕も貴方も、本当の世界を知っているのではないかと思います。
    知らないふりをして道草をして遊んでいるだけだと思います。
    ただその道草に飽きてしまったら、答えを生きていけばいいと思います。
    その答えは、母の我が子を見る眼差しにあると思うのです。

  2. 山岡さん

    コメント、それも長文のコメントをありがとうございます。
    記事を書いた後、台所でお米を研ぎながら
    「あ。大事なことがひとつ抜けてる。」と思いました。
    それが、『個としての自我も大切にし、しかもそれを越えていく』です。
    消えていく幻影のような自我だと気がついたからこそ、大切にしなきゃな、とも思ったんです。
    幻影だからと否定するのはきっと正しくないよな、と。
    そして『大切にする』からこそ、『自分自身を、我が子を見つめる眼差しでただただ何の評価もせず眺める』ことが可能なんですよね。
    山岡さんに大事なところを押さえてもらって感謝感謝です。
    ありがとうございます。
    いや、ほんと。なんかスゴいなぁ~。こーゆー『タイミング』って。

    ただ、私の場合は自我の抵抗が強くて『純粋な観察者』になろうとしても非常に非常に難しく、すぐに想念の洪水にのまれてしまいます。あっぷあっぷですわ。
    やはりそんな私の場合は五井先生のお祈りが一番の近道だと感じています。
    自然農をされている方たちは、『評価をせずに眺める』というのが実践(自然との関わり)を通して、少しずつでも染み込むように身につきやすいのかなぁ?と思いました。
    実は数日前にうちの旦那さんもそう言ってたんで。

    しかし、手を放さなかったのは残念でしたね~~。真我にチラっとでも会えたでしょうに。
    (でも、手を放せなかった気持ちはとても分かります。)

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