今日まで学校に行けない息子は、妖怪ウォッチのメダルを出し入れしたり、タブレットで「ぐるぐるマップ」(←グーグルマップのこと)を見たり、友達の名前をたくさん書いたりして遊んでおります。
しかし、おとーちゃんはお布団の中です。
実は、日曜日の午後からダルいと言い出し、月曜日に発熱しまして……。
インフルエンザA型でした。
多分、息子を休日夜間診療所に連れてってくれた時に罹ったんだと思います。
待合室に50人くらいいて、そのうち20人くらいがインフルエンザっぽいなー…と思ったそうですから、ちょっと喉が弱っていたおとーちゃんが罹ってもおかしくなかったと思います…。
おとーちゃんも熱は火曜日の朝から引いてるんですが、まだちょっとダルいみたいです。
お仕事をいろいろ抱えてて大変そうなので、与えられた休息と捉えてゆっくり休んでくれたらいいかな、と思います。
というわけで。
NOインフルエンザな私と娘が昨日は一緒にお風呂に入ったのですが、
娘が突然質問してきました。
「世界が平和であるように、と思ってることって、口先だけのことなの?」
学校で何かあったのかなー?と思いつつ、その疑問は横に置いておいて、湯船につかりながら娘の質問に答えていきました。
「もちろん、娘ちゃんが世界が平和であるようにと思って、何か行動したとしても、世界は平和にならんよね?」
「うん。」
「娘ちゃんがトランプさんみたいにアメリカ大統領になったとしても、それは簡単なことやないのは分かる?」
「うん。」
「ってことは、誰が平和を願って行動したとしても、世界はそうそう変わるもんやないのは分かるやんね?
でも、『自分1人が選挙で投票したって日本は変わらない。』と思ってたくさんの人が投票せーへんかったら、変わるもんも変わらんやろ?」
「うん。」
「だから、どうせ無駄だからって何も期待せんくて何もしないというのは違うってのも分かるやろ?」
「分かる。」
「そういう意味では、小学生の娘ちゃんであっても、世界を変える直接的な力が無いから無駄やと世界の平和を望まないというのは良いことやないってのは分かるよね?」
「うん。」
「でね。それとはまた別の意味でね、『祈り』と『願い』は違うんよ。」
「違うの?」
「違うんよ~。これが。願いは…娘ちゃんは立春にお稲荷さんの奥の院に行ったやろ?あそこでおじさんに『ダキニ天さんにお願いしてくださいね。』って言われたやろ?それで『ソロバンとトランペットが上手になりますように。』とお願いしたやろ?それはお願いなんよ。だから時間が経つとお願い事はどんどん変わっていくんよ。娘ちゃんが中3やったらきっと『第一志望の高校に合格しますように。』ってお願いするやろうし。」
「ああ、そうやね~~~。」
「でもね、お祈りは違うんよ。何歳になろうがどんなことが起ころうが、同じことを祈り続けるやろ?自分がお金持ちになったら世界が平和にならんでもいいや~、ってならんやろ?」
「ならんならん。」
「それにね、お祈りはね、あれは自分でしてるようで、自分でしてるんやないんよ。」
「どゆこと?」
「人間はみんな大元の神様から光っちゅーか、命をね、わけわけしてもらって生まれてきてるからね、みんな大元の神様とほそーーーい糸で繋がってるんよ。お釈迦様とかイエス様とかは、その大元の神様とずどーんと繋がったから糸がちょーーー太くて、体そのまんまの太さやけど、娘ちゃんやおかーさんはほっそーーーい糸くらいなんよ。あ、○○先生(←豊橋の霊能師さん)やと親指くらいの太さかもしれんね~。とにかく、普通の人はほっそーーーい糸で繋がってるんよ。でもね、大元の神様と自分の間に黒い厚い雲がどんよりかかってるとね、糸が繋がってることすら分からんくなってしまうんよ。」
「あー…。クラスメイトにそういう感じの子おる…。神様なんておらんって言う。」
「そうなると、大元の神様からの光がちゃんと届かんのよ。でも娘ちゃんはほっそーい糸やけど、ちゃんと届いてるから、世界が平和になりますように、って本気で思えるんよ。世界が平和になるようにって本気で思ってるのは、実は娘ちゃん自身やなくて神様からの光がそう思わせてんのよ。それが祈りなんよ。」
「あーーー!そうなんやーーー!分かった!すごい分かった!」
と、
娘は納得してくれました。
どうやら、学校で読んだ本の中に「そんなの口先だけだ。」という話があったようで、それで自分もそうなのかな?と疑問に思ったとのことでした。
ちなみに。
私は(入信はしてませんけど)五井先生の世界平和の祈りをずーーーーっと続けておるのですが、
五井先生も、それを教えてくれた豊橋の先生も、それこそ最初は口先だけでいいから続けてね~、と言ってまして、
それは娘に説明したことの「逆」のことが起こるからなんです。
口先だけで祈り言を言い続けると、それが少しずつ少しずつ大元の神様からの光を通してくれるようになって、いつしか口先だけの祈り言から「祈り」になっていくんです。
それはどんな宗教の祈り言でもそうなんですよね。
たまたま私は五井先生とご縁があったというだけで。
ですから、信仰というのは、「どんな状況であってもその祈り言をずーーーーっと言い続けることができるしぶとさ」とも言えるような気がします。
…とは言っても、これはやっぱり古いやり方なんでしょうね。
スピ的にはいろんなメソッドがあるようですし。
昔なら死ぬほどの修行でもせん限り知り得なかったことを本やネットで知ることもできますしね。(←あくまで「情報」という意味で、ですけどね。)
でも私は古いやり方が好きなんですよねぇぇぇぇぇ♪
そうかー。たみえさんの娘さんは、もう世界平和について本気で・・・すばらしっ。
私はいまだに信仰心ゼロな人間ですが、なんというのか、「いただいたご縁」というのを大切にしております。たとえば、私だったら、聖母マリアお師匠(ししょー)たちですかね。なんとなく、「彷徨っていたところを拾ってもらった感じ」というのがありまして。
神さまたちを信じることは、現代、特に日本ではかなり難しい部分ですよね。偏見と無理解が取り巻いている。でも、難しく考えなくても、私はもともとスピリチュアル愛に来た理由が、「現代社会の労働形態に心底疲れ果てた」-「ゲーム好きが高じて」-「ゲームで言われてた存在たちがまさか実在するの!? すげー!」って想ったのと、持ち前の人類愛が炸裂して、8年、スローに甘かじりしております。たみえさんの娘さんはまだ子供さんですし、「神さまが好きだから。」とか、「この存在さまが好きだから。」でも充分いいと想います。
>たみえさんの娘さんはまだ子供さんですし、「神さまが好きだから。」とか、「この存在さまが好きだから。」でも充分いいと想います。
いいえ、それではダメなのです。
それでは彼女が満足しないのです。
そのために私はこうして在るのだと思っています。
そして、私が子供に語ったことをシェアすることで、誰かの「お?」を引き出すことができれば、それでいいな、と思っています。
なんと、満足されない・・・!w なんというw がんばってくださいw
> なんと、満足されない・・・!w なんというw がんばってくださいw
はい。がんばります~~~~。