魂の癖

おそらく。
魂の癖…というのは、ほんとうにあるんだろうな、と思うのです。
なので。
今の人生の問題点というのも、ざっくり言えば魂の癖由来なんだろうな、と思うのです。
誰しも。
生まれ育った環境の影響で、「その人」となるのは、5歳とか6歳だという人もいますけど、
三つ子の魂百までとも言いますし、そういうものなんでしょう。
そういう親、そういう環境を選び、そういう自分を確立したうえで、
「さて。自分の魂の癖と、どう向き合う?」
と、問われているのだろうと思うようになりました。
しかし、「魂の癖」というのも、そうそう簡単に見抜けるものではないように思います。
たとえば。
「自己肯定感が低い」といっても、
それまでもそういう人生をたくさん生きてきた影響なのかもしれないし、
「自己」に対してよりも「他人」にエネルギーを注ぎ過ぎる癖を正すためのバランスが働いたせいなのかもしれないし、
毒親だったことがあるせいで、そういう親の子供の立場になることを選んだのかもしれないし、
十人十色、人それぞれなんだろうな、と思います。
さて。
このブログ記事
http://takakonotorikumi.blog.fc2.com/blog-entry-31.html
から一部をコピペさせてもらいます。
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おかあさんは、私がいらない。
おかあさんにとって、私は産まなきゃよかった子で、おとうさんともけっこんしなければよかった人で。
わたしがいなければ、しあわせになっていたのに、おとうさんとけっこんしたのはしっぱいで、自分が不幸なのは私達のせいだって、いった。
あたしがいなければよかったの。
あたしはいてはいけないこなの?
あたしはどうすればいいの?
あたしはどこへいけばいいの?
だれもわたしのことはひつようないの?
だれにもすかれないようなこなの?
おかあさん、わたしはどうすれば、いいの?

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お母さんに、「お前なんて産まなきゃ良かった。あんたたちのせいで私は不幸だ。」と、機嫌が悪くなるたびに言われ続けて、どれだけたくさんの傷が小さな心に刻まれていったのだろう、って想像するだけでキツいです。
小さい子供を育ててる最中の母親としては、とてもせつない。いたい。
このブログ主さんは、私のマイミクさんなのですが。
なんかね。
私は彼女を見てると、「戦士みたいだなぁ。」と感じるんです。
外に向かって怒ってる姿が、じゃなくて、自分の中の巨大な敵と常に戦ってるみたいに見えるから。
彼女の魂がなぜそんな母親を選んで生まれてきたんだろう?って考えてみても、己の弱さを克服しようとする戦士気質のせいなのかしら??とか思っちゃうし。
まさに、魂の癖みたいなものか、と思えちゃうのです。
今の人生で、初期値をかなりハードな設定にして生まれてきたとか、圧倒的に足りないものがあるとか、なかなかクリアできない想い癖があるとか、
そういうのって、魂の癖というか、魂の「骨格のゆがみ」みたいなものかもしれないなー、って思うんです。
背骨がゆがんでたり、骨盤がゆがんでたり、歯のかみ合わせが悪かったりすると、筋肉の一部に常に過剰なストレスがかかって、どんどん症状が悪化しますもんね。
じゃあ、どうしたらいいか、っていうと、そんなこと私もよく分かってないのですが、
でもね、
魂のゆがみを丹念に確認しつつも、その「魂の次元」よりもさらに高次の自分は光そのものの存在なんだ、と自分にずーーーーーーっと言い聞かせるしかないのかなー、と思うんです。
納得できなくても、そういうもんなんだってーとお念仏のように毎日自分に言い聞かせることで、だんだんとその光で魂のゆがみも補正されていき、魂のゆがみが補正されていくにつれて、だんだんと現象界の我々の凸凹も補正されていくんじゃないかなー、と思う……というか、そうだと信じたい……というか、そういうもんじゃないの?という感じです。
……長い道のりだけど。
それで、ですね。
私の魂の場合も、いろいろ癖はあるみたいなのです。
その中の1つが、
「大事な人を助けるためなら、自分はどんな苦しみでも引き受けますよ。」
「私のエネルギーを、あなたに差し上げましょう。」

みたいな反応をしがちだというものです。
これがですね、肉体意識の私はあまりそーゆーことを思わないというか、苦しいのやだーって人間なもので、
そのために深いところではそういうモノを持ってるなんて思ってもいなかったし、そういうモノを持っていると気づくのに40年以上かかったのです。
魂の癖は無意識に癖に合わせた状況をさまざまな形をとって現実に引き寄せるということになりますからね。
現世でも過去世でもいろいろありました…。ええ。
一昨日の夜も、お風呂の中でのんびりしながらちょっといろいろ考えていて、
「代わりに引き受ける」というのは、一見すると美しいけれど、根本解決にはなってないよな!
って、つくづく思ったんですよ。
そしたら昨日、たらたら眺めてたツイッターでこれがピタリと目に留まりました。
http://kusohuku.blog.fc2.com/blog-entry-2425.html
おじいさん、かっこいいです。
ほんと、かっこいい。
愛が深い。
それはほんとうにほんとうにそう思う……んだけど、だからこそやはり「……その代わりに自分が苦しみを引き受ける」というのは、もう違うんだって、思ったのです。
少なくとも私はもうそこから卒業しなければならないんだ、と思わされたのです。
それは、咄嗟の時に子供をかばって母親が犠牲になった…などとは違うんです。
そういうことじゃなくて、
「自分を差し出せばいいんだ、自分が苦しめばいいんだ。」が魂に染みついてるのがダメなんです。
なので、
「私はもう代わりに引き受けるという愛し方はしない。」
と宣言すると同時に、私のうんと高次の処からの光でこの凸凹は補正されていくんだ、と自分に言い聞かせておりました。
早くその癖が補正されるといいんですけどね~。

“魂の癖” への14件の返信

  1. こんにちは。引用されてらしたブログ記事の境遇、自分にそっくりでした。そのため私の場合、無条件で「愛してるよ」と言ってくれる人を試してしまいます。「これは条件つきの愛にちがいない」と猜疑心が止まず、壊れるまで「愛」を叩き続けます。壊してしまった後で、「やっぱり偽物だった」と言うわたしは、なぜかそうなるのを最初から望んでいたみたいです。
    「わたしがただここにいることだけ」を認めてほしいけど、そんな現実はありっこない。無条件の愛は信用できない。と考えてしまう、このぐるぐるが魂の癖なのかなと思います。だいぶ客観視できるようになりましたが。紙をくしゃくしゃにしたシワが、延ばしても元に戻らないのと同じで、傷はなくならないんですよね。魂が選んできたなら、しょうがないのかなー。

  2. はじめまして。(じゃないかもしれないです;)
    私は引用された方のような気持ちや、Mさんの仰る事そのまま自分の言葉のようだと思う面があり、またどうやら民絵さんのクセに似た「あなたのためなら~」という面も持っていると気付いたものです。
    私は「真剣にぶつかれる存在」を作ることを自分に許していないのか、今現在、周りにこんな風にかかわってくれる人はいません。
    だから…上手く言えないのですが、
    シェアをありがとうございます。
    自分の中で気付いたことがあって、それはこの記事のおかげです。
    ご本人たちにとっては本当に辛くて苦しくて、カヤの外からなんだ?と思われるかもしませんが。

  3. コメントありがとうございます。
    親の愛だって、ほんとうに無条件かというと、そんなことないよなー、と思うんです。
    自分が親になってみてそう思います。
    イライラしてる時に、子供がちょっとしたことでギャーギャー泣きだすと、本気で腹が立ったりしますもん。
    ただそこで、自分を客観視して理性の力でぐっと我慢して子供の気持ちに寄り添うことができるか、怒りを子供にそのままぶつけるか、の違いがあって、毎回親が自分の感情をコントロールできれば「無条件の親の愛」に見えるのかもしれません。
    肉体の本能的な部分において、強い生存欲求があるという「しばり」がある我々にも「無条件の愛」が備わっていると思うのは、一面においては幻想だと割り切ってもいいのではないかと思うのです。
    だからこそ、そこに近づけるために、「愛を育てる」のではないでしょうか。
    愛は多分、育てるものであって、試すものではないと思います。
    Mさんの深すぎる傷が、この人生で癒えるのかどうかは分かりませんが、客観的にご自身の問題点を理解されているご様子なので、同じことを繰り返そうとするたびに、ぐっと理性を働かせてストップさせて深呼吸する…というのを続けていくしかないんじゃないでしょうかね。
    そして、「人間には無条件の愛なんて無い」けれど、それに近づこうとするから美しいのだと、視点をぐるりと180度変えてみること、
    うんと高次の存在は無条件の愛でしかないんだから、そこからの愛でもって魂の凸凹は少しずつでも補正されていくんだ、と自分に言い聞かせていくことで、少しずつでも前に進む努力をすることが大事なんじゃないでしょうかね。
    同じことを繰り返してばかりじゃ、生まれてきた意味がなくなっちゃいますもん。
    ご自身の存在を認めることができずに、他人にそれを求めても、虚しいだけですよね。
    親の大きな仕事は、子供に「自己肯定感を植えつけること」だと私は思っているのですが、それをしてもらえなかったMさんは、大きなハンデがあるようなものだと思います。
    私の息子はダウン症で知的障害があり、生きていくのに大きなハンデがありますが、そういうものと同じようなものかもしれないと私は思うことがあります。
    だから、そんな大きなハンデがあっても、Mさんが自分は存在していていいんだ、と(「他人の承認」なんて借りずに)認めてあげられるようになっていくことが、一生かけてとりくむ課題なのかもしれませんね。
    と。
    私自身はそういう課題の人生じゃないみたいなので、Mさんや私のマイミクさんの辛さをほんとうには理解できていないはずで、言われたってできないからしんどいだ!とイライラされるかと思いますが、
    でも、頑張ってねー、と言わずにはいられなかったので、長々とコメレスさせてもらいました。
    失礼しました~。

  4. > その凸凹があった分、その謎が解けたときに、ギフト化するのだと思います。そんな方々を何人も見てきました。
    そうですね。
    きっとそうなんだろうな、と思います。
    でも、そのプロセスの途中は真っ暗な暗闇だから、「その謎が解けた時にギフト化するんだよ。」という言葉を素直に受け入れられないことが多い気もします。
    その時その時で、希望の光となる言葉は違うんだろうな、って思いますね。

  5. コメントありがとうございます。
    > 私は「真剣にぶつかれる存在」を作ることを自分に許していないのか、今現在、周りにこんな風にかかわってくれる人はいません。
    真剣にぶつかるというのは、ほんとうに多くのエネルギーが必要となりますものね。
    ものすごく痛いし、ものすごくしんどいし、ものすごくキツいし。
    でも、そこで得るものはものすごく大きいです。
    エネルギーがごぼりごぼりと動くことなので、nさんはエネルギー不足でそういう存在と建設的にぶつかり合うということがまだできないのかもしれませんね。
    どこかに穴が空いていて、エネルギーがだだもれになっている……のかも。
    まずはその穴を塞ぎ、使用可能なエネルギーを溜めることが先決なのかも、なんて思っちゃったりしました。
    > だから…上手く言えないのですが、
    > シェアをありがとうございます。
    > 自分の中で気付いたことがあって、それはこの記事のおかげです。
    こちらこそ、そんなふう言ってもらえて、ありがたいです。
    > ご本人たちにとっては本当に辛くて苦しくて、カヤの外からなんだ?と思われるかもしませんが。
    いえいえ、そんなこと誰も思わないと思いますよ~。

  6. >でも、そのプロセスの途中は真っ暗な暗闇だから、「その謎が解けた時にギフト化するんだよ。」という言葉を素直に受け入れられないことが多い気もします。
    >その時その時で、希望の光となる言葉は違うんだろうな、って思いますね。
    本当にそのとおりですね(>人<)
    「じゃあ、どうすれば」も、たみえさんが記事の中でふれていらっしゃるし、、、。
    余計なことを書いたと反省中です。

  7. 私のことを気づかってくださって、ほんとにありがとうございます~~。
    お互い、弱点をうまいこといい塩梅にしていって、もっともっと「イケてるぜー。」って人生にしていきましょうね。
    やればできますっ!きっと!

  8. > 本当にそのとおりですね(>人<)
    その時の苦しみって、その人にしか分からないですもんねぇ…。
    でも、そのトンネルを抜けると、「ああ、あの時言われたあの言葉は、こういう意味だったのか~。」ってじわじわ~~って分かるんですよねぇ。
    > 「じゃあ、どうすれば」も、たみえさんが記事の中でふれていらっしゃるし、、、。
    > 余計なことを書いたと反省中です。
    いえいえ、ぜんぜん余計なことじゃないですよ~。
    反省なんてする必要ないですよぉぉぉー。
    逆に私の書き方が悪かったんでしょうね。ごめんなさいねぇぇぇぇ。

  9. おわっ!早速の返信ありがとうございます(^^)うれしいです♪
    「なにみえ」系(?)の皆様のブログは、いつも勉強になるし、助けられています。
    関係ないですが、投稿時間が0や3のゾロ目になって、自分にしてはネットでゾロ目は珍しいので、ほっこりうれしかったです。
    これからも記事を楽しみにしています♪

  10. たみえさん、ももんがさん、nさん、ありがとうございます。
    わたしにとっては、どなたの言葉も、嬉しく、心強かったです。
    「無条件の愛はなくても、そこへ近づこうとするから美しい」
    はっとしました。
    そうですね、そう思います。
    私は、少し前まではnさんのように「真剣にぶつかれる存在」は作ることができないのだと思っていました。ザドキエルさんから慈愛の杖をもらい、そのことをずっと考えてきたのです。
    そして最近、「実はそのように真剣にぶつかってくれる人はずっと傍にいたのに、自分から壊してしまっていたのだ」と気づいたのです。「いつも必ず見ているよ」と繰り返し伝えてくれる人でした。その人は、たみえさんがおっしゃる通り、「自分がよければいい。他人の承認なんて必要ない。虚しいだけ」と何度も言ってくれていたのに、その意味が全く理解できなかったんですね。この人いったい何を言ってるのか(笑)と。人に認められなかったら意味ないじゃん、と。
    ただずっと考えてきて。もしかして自分のほうが、人と違うのかなと。
    そして、ついこの間。その人に対して前と同じことを繰り返してしまったときに、「もう二度と同じことを繰り返したくない」と思いました。
    でももう、やらかしちゃったので、今後どうなるかはわからないのですが、変わりたいなと。
    >愛は多分、育てるものであって、試すものではないと思います。
    そうか!
    がつーん、となりました。気づかないんです。言われるまで。(だからハンデ?)
    でもちょっと、前に進めそうな気がします。
    ももんがさんのおっしゃるように、わたしのギフトになり、「わたしってすてき!」と思えますように。
    宣言や問いかけも、やってみようと思います。
    長文失礼しました。

  11. > 「なにみえ」系(?)の皆様のブログは、いつも勉強になるし、助けられています。
    あははは。
    あたしもそのくくりにしていただき、ありがとうございます。
    > 関係ないですが、投稿時間が0や3のゾロ目になって、自分にしてはネットでゾロ目は珍しいので、ほっこりうれしかったです。
    わかりますわかります。そういうの嬉しいですよね。
    > これからも記事を楽しみにしています♪
    ありがとうございま~す♪

  12. > たみえさん、ももんがさん、nさん、ありがとうございます。
    > わたしにとっては、どなたの言葉も、嬉しく、心強かったです。
    おお~、それは良かったです。
    Mさんへのコメレスがあれで良かったのかなー?と、月子さんに相談してみたところ、
    Mさんのような状態の方はダブルバインドと言うそうで、その対処方法は私がレスしたもので良いそうです。
    (月子さんは、以前、何かの折りにさつきのひかりさんに教えてもらったんだそうです。)
    どれだけ言われても、自分で「はっ。」と気づく時がくるまでは、その言葉の意味がほんとうには分からないものですものね。
    それで人を傷つけてしまうのですが…。
    これから少しずつご自身の「癖」を直して、愛情深い豊かな人間関係を築いていかれますよう祈っております。
    がんばってー!

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