表層意識の「私」と、神なる「私」と。

先月の月食(満月)から、今月11日の日食(新月)の間って、体調不良で頭痛とか消化器官の不調とか、そーゆーのが多くなるって、なんかに書いてあったわー。
てことで、頭痛はそのせいってことにしておこう。
そうしよう。
でさ。
この不安定な(?)時期の間に、内観が進む……みたいなことも書いてあったのを読んだ覚えがあるけど、
なんかねー、
不思議なんだけどねー……
あたし、別にいつ死んでもいいよな
って、すげー深いところから湧いてくるんですよ。
いや、別に今すぐ死にたいとかってんじゃないですよ。
ただ、生きてることに執着してないなー、って感じ。
深い部分の「私」は。
でも、表層意識の「私」は、
痛いのとか苦しいのとかはイヤだー、
子供がまだ小さいからまだまだ死ねんがねー、
一度は松潤を生で見てみたいがねー、
お金、やっぱもっと欲しいなー、
お肌、つるつるになりてー、
とかとか、いろいろ騒がしいし、それらはもちろん当然だよねー、って思うんですが、
そことは別に、深いところの……「神なる私」に近いところの「私」は、
何かを成し遂げたいとか、何かをしたいとか、こういう自分でありたいとか、そーゆー自己実現を超えた存在
なんだな~、とぼんやりとながら「実感」できるんです。この数日。
ただ、在るだけで十分、みたいな感じ。
だから、別にいつ死んでも問題ナシ、って感じなんだろうなー。
小3の時に、突然「世界がクリアに見え始めた」時から、自己実現の欲求は強かった私ですが、
20歳直前から身体をこわして、ずーっと自己実現というのもから遠ざかってしまいました。
これって、どういう意味があるのかしら……と、時々ふと思うこともあったけど、
この数日は、
「ほんとに、これって消えていく姿だったんだなー。業を出しちゃって、お掃除してるんだなー。自己実現の欲求さえ業だったのねー。」
と、なーんかほんとに深い部分で思うんですよ。
いや、だからね。
しつこいようだけど、表層意識の私は、生松潤に会いたい~とか、そーゆー煩悩まみれのカワイイ奴なんだけどね。
それを否定してるわけじゃないっす。
ここんとこ、洗顔や歯磨きの時、鏡を見ながら、
「我即神也。私は神だよ。」
と、声に出して言うようにしてたんですよ。
そのおかげで、いつもより神に近い部分の「感覚」がすこーしばかり滲み出てくるようになったのかなー、とも思うんですが、時期的なものもあるのかしら。
はてさて。
神なる「私」の感覚と、表層意識の「私」の感覚が、どこかでバチっとリンクしたら、その時は、スーーーっと雲が晴れるような感じになるのかもしれんね。
今は、まだ別々だなぁ~。

“表層意識の「私」と、神なる「私」と。” への2件の返信

  1. さちえるさんチから、タイトルに惹かれてお邪魔しました。
    はじめまして。
    私もいつ死んでもいい…と思っています。
    たみえるさんがそう書かれていらっしゃるのを見て、思わずコメント書き入れました。
    いつ死んでもいいけど、心残りは息子…だろうな。
    それだけ。

  2. > さちえるさんチから、タイトルに惹かれてお邪魔しました。
    > はじめまして。
    はじめまして~~。
    でも、むかむんむんのところでお名前拝見しとります~。
    > 私もいつ死んでもいい…と思っています。
    > たみえるさんがそう書かれていらっしゃるのを見て、思わずコメント書き入れました。
    > いつ死んでもいいけど、心残りは息子…だろうな。
    > それだけ。
    向日葵さんもですか~~。
    いつ死んでも「ま、いいかー。」みたいな感覚なんですよね。
    進んで死にたいというんじゃなくて。
    やはり「奥の方の自分」の感覚なんでしょうね~。これって。
    でもやっぱり、子供のために元気でニコニコしながらそこそこ長生きしなきゃな、とも思う自分もアリだよな、って思うです。
    子供って、やはりスゴい存在ですよね。
    肉体界での偉大なるアンカーですねぇ。

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