子どもは親をよーく見てるもんですな。
ちょっと前のことです。
息子が台所の棚に置いてある小さいホウロウのミルクパンを、さも大事そうに抱えて持ってきました。
そして、そのミルクパンを、小さめだけど軽くて重宝している踏み台の上に乗せて、何やらごにょごにょ言いながらミルクパンを動かしているのです。
あ、これはもしや……。
と、思った母は、木製のヘラを渡してあげました。
すると息子はそのヘラでミルクパンの中(に何かがあるかのように)をがちゃがちゃとかき回し、そして、ヘラをパクリを口にして、「んまい。」と言いました。
そしてそして、手を合わせて『ごちそうさま』をすると、床に転がって「ぐーぐー。」と寝たふりをしました。
この一連の動作を、何度も繰り返したのです。
まんまを作って、まんまを食べて、寝る。
その繰り返しです。
そのうち、母にも「まんま。」と言いながらヘラを渡してくれるようになったので、一緒に「うまいねー。」と言いながら笑って遊んであげました。
ごっこ遊びをする息子を初めて目撃した瞬間でした。
母、ちょっと感動。
そして、昨日の夜。
もらいもののお菓子の缶の蓋を使って、突然息子が「まんま。」と言いながら『ごっこ遊び』を始めました。
缶の蓋の上で何やら手をせわしなく動かして、どうやらまんまを作ってるつもりの様子。
そして、続いて蓋はお皿に早変わりし、そのお皿を「えいしえいし。」と私や旦那さんのところまで運んできては、一緒にまんまを食べろ、と催促をしました。
「まんま、うまいねー。」と一緒に笑った後、今度は蓋を縦にしながら、片手を上下に動かしました。
どうやら、お皿を洗ってるつもりのようです。
この一連の動作も数回リピートしてました。
お母ちゃんがまんまを作るところ、お皿を洗ってるところ、そんな日常の動作を見ていないようで見てるんだなぁ、と感心してしまいました。
そいえば、私が洗濯物を干している時、横で洗濯物をパンパンとやってる(つもりでも、ちゃんとはできなないけどね。)しなぁ。
洗濯物を伸ばしてから干す、というのも見てるんですよね。
自分自身を振り返ってみても、そういえば知らず知らずのうちにオカン……というか、死んだおばあちゃんの家事仕事の仕方の真似になってるんですよね。
死んだユリエさんは、それは几帳面な人だったので、家事仕事もそれはそれはキチンとしてました。
なので、私の中にもそれらがインプットされてはいるのですが、ユリエさんとは違って根が怠け者の私はなかなかあそこまで日々キチンとできないため、常に『私はダメ主婦だな~。』という感覚があります。
罪悪感とまでは言わないけど、高い理想像ができあがっているので仕方がありません。
それよりも、キチンとする日々見せてもらったことを、今頃になってとても感謝しております。
ユリエさんが生きている時はそーゆーことに感謝する心が持てなかったのよね……。ごめんね。おばあちゃん。
無理は続かないので、できる範囲での話になっちゃうけれど、それでもやっぱりできるだけ丁寧に暮らしていくことって大切なんだろうなぁ、と、ごっこ遊びをしている息子を見ながら、あたらめて思いました。
たとえば、食育って言葉を最近よく耳にするけど、母親に時間的にも精神的(健康面も含む)にも余裕がなかったら難しいことだろうなぁ、と、子どもを持ってみてよく分かるようになりました。
かと言って、子どもの教育のためってだけで無理しても母親にとってはストレスが溜まるだけだし。
手をかけること。
丁寧に暮らすこと。
これらを母親が『楽しめる』ようでなくちゃ、食育もうまくいかないんじゃないかなぁ~、と、息子の姿を見ながら思った次第であります。
美輪さまじゃないけど、『女の仕事って楽しいものなのよ。』です。
『女』として成長してないと、その喜びが分からんのですね。(人格的な成熟という話とはまた別ね。)
そんな私も、37歳にして、ほんとうに最近になってようやく少しずつ楽しめるようになってきたんですよね。
やっと女になってきたのかな?
今までは義務感の方が圧倒的に強くて、楽しいなんて思ったことはあまりありませんでした。
でも、チビすけを妊娠してから、どんどん変わっていってんですよ~。
この子は、アキオとは違った方向で私に変化をもらたしてくれる子なんだなぁ、と、感謝感謝であります。
…とは言うものの、面倒がりであることには変わりはないんだけどね。てへ。