自然農の全国大会から帰ってきた旦那さんに、全国大会で印象に残った話をいろいろしてもらいました。
その中の話の1つです。
川口先生が請われて自然農を教えるようになってから、(ウチの旦那さんのように)仕事を辞めて自然農を始める人も出てくるのですが、そんな人の話でした。
自らの生き方を得たような思いになり、先生に感謝し、自然農での暮らしに入っていったある人は、自然農だけで生活していくことが困難となり、バイトをしながら頑張ったそうなのです。
しかし、疲れ果てて自殺してしまったのだそうです。
奥さんが、その人が先生に宛てた遺書を持ってきたそうです。
先生は、この時ばかりは自然農塾を止めたいと思ったそうなのですが、1人でも教えて欲しいと言う人がいる限り、塾は続けようと思ったのだそうです。
話の内容はこれだけです。詳しいことは何も分かりません。
この話を聞いていて、なんだかとても心にひっかかってしまいました。
旦那さんはすぐに次の話に移って行ったのですが、私はそこで停まっていました。
何がどうひっかかるのかも、もやもやしていました。
「んーー。どうして死ななきゃならんかったんかなぁ…。」と、ひっかかってるモノが何かも明確にならないまま、私が再び話を引き戻しましたが、一緒に聞いていたオカンの意見を聞いても、やはりもやもやしたままでした。
その後、しばらくしてから弟1号が仕事から帰ってきました。
旦那さんと弟が話を始めました。
弟1号なら、なんて言うだろう?と、ふと思い、旦那さんにさっきの話をまたしてもらいました。
すると、弟はごく当たり前のように言いました。
「その人は、『やらざるをえない』人じゃなかったんやね。頭で考えるっていうか、『自分がやりたい』人やったんやなぁ。『やらざるをえない』人じゃないから上手くいかんかったんやて。天命って、そーゆーもんやん。やりたいとかやりたくないとかじゃなくて、『やらざるをえない』やん?」
うわ~~、っと思いました。
腹にストンと落ちました。
この話の前に、旦那さんがしていた話が、『勇気が出ない』という人の話でした。
会社を辞めて自然農をやりたいと思っても勇気が出ない、と。
「じゃあ、さっきの勇気が出ない人ってのは…。」
「うん。『やりたい』人であって、『やらざるをえない』人じゃないから、やらなくていいんやわ。」
弟1号は至極簡単に言ってのけましたが、コレってものすごく深い回答だと思うのです。
確かに、旦那さんや旦那さんが新しく知り合いになったある人は、『やりたいからやり始めた』には違いないのですが、『やらざるをえない』人でもあったと思うのです。
そういう人は、もちろん頭で考えているんですが、なんてーのかなーーー、やはり直観に導かれているんですね。
そして、そういう人は、自然と環境が整って行くんです。
まるで、『与えられた場所』なのです。
『やらざるをえない』人は、たとえ苦労が多かったとしても、それが『天から与えられたお仕事』なのですから、上手く行かなくて自殺する…ということにはならないのです。
やはり、どこか無理をしている場合は、『やりたい』だけのことが多いのかもしれません。
「あれ?なんかとんとん拍子で進んでいくぞ。」ということは、『やらざるをえない』ことだと思って良いような気がします。
ですから、無理して勇気を絞り出さなくても、『やらざるをえない』時はどうしたって『やらざるをえない』のでしょう。
では、天に与えられる、または自分が生まれる前から決めてきた『やらざるをえない』ことを知るには、または導かれるにはどうしたらいいのか?というと、やはり『感謝する』ことに尽きると思います。
誰かに親切にしてもらったことを感謝する、てだけでは足りません。
「神様」または「自然」、「地球」や「宇宙」など、言葉はいろいろありますが、自分を生かしてくれている「何か」に常に感謝する心が大切だと思うのです。
「神様」でも「宇宙」でもいいけれど、その「何か」は、与えて与えて与えつくしてくれていますよね。私達に。
その「何か」からその謝礼を要求されたことってありませんよね。
「太陽の光を与えてるんだから、代わりに●●してよね。」なんて神様から言われたことありませんもん。
それを考えただけでも感謝の気持ちは湧いてくると思います。
そうやって感謝をしていたら、直観に導かれて『生まれる前に決めてきたお仕事』を『やらざるをえない』ようになるわけです。
(あのですね、自分の経験から言うと、ただ自分がやりたいと思ってることと、やるべきことって、同じ『やりたい』という気持ちなんだけど、やっぱりちょっと違うんですよ。感覚的にも違うの。その違いが分からないという人は、多分『やらざるをえない』ことに導かれたことが無いか『内なる声』を無視し続けてるんだと思う。)
「そーゆーわけで、俺の場合は『哲学をやらざるをえない』からやってるんだなぁ。」と、弟1号はニコニコしながら言いました。
弟1号は長男です。
親父さんが死んだ時もまだ大学(院やったかな?)に行ってました。
普通、(資産ゼロの)親父さんが死んだら勉学を諦めて就職しますよね?生きていかんならんもん。
しかしウチの場合は違ってました。
どんなことをしても勉強を続けたい兄を、弟(2号)がずーーーーーっと支え続けていくことになったのです。
このことについて、弟2号が文句を言ったことは無いと思います。そんな言葉、聞いたことがありませんし、オカン経由からでも聞いたことがありません。
弟2号にしたら、兄を支えることは『やらざるをえない』ことなのでしょう。
弟1号は、日常生活においては、お子さまな部分が残っていて、それにイライラさせられることも非常に多いのですが、霊性進化で言えば、おそらく私なんかよりかなり先を行っている先輩だと感じるのです。
無駄に霊媒体質では無いのです。
ですから、きっと将来は何らかの形で人を助けるお仕事を『やらざるをえない』ようになるはずです。
そのための準備として、哲学を『やらざるをえない』のだろうと、姉は感じているのです。
なので、弟2号に以前言いました。
「お兄ちゃんは、いつか人を助けるようになると思うんよ。それはアンタにもなんとなく分かると思う。その時、お兄ちゃんが誰かを助けた時、それはお兄ちゃんが助けただけやないんやよ。アンタが半分その人を助けとるんやよ。」
弟2号も、日常生活においては、まだまだな部分が目につきますし、オカルト一家の中で育っていながら実はそんなに霊性に目覚めていない(どっちかって言うと『うたた寝してる』)のですが、私より魂の進化は先を行ってるのかなぁ、と感じることがあります。
じゃなかったら、あんなふうに自分の役割を引き受けられないと思うもんなぁ~。
ほんと、あの子は偉いと思う。
しっかり目覚めちゃったら、スゴい兄弟になっちゃったりして…。(姉としてはちょっと楽しみ~。)
……。
え?私ですか?
私の『やらざるをえない』ことですか?
多分、『神様系の情報をゲットしてきて、家族や友達にお知らせすること』だと思いますわ。
神様に導かれております。ほんとに。
ありがとうございます。ありがとうございます。
妙なる畑の会
連休に行われた自然農の全国実践者の集いに参加してきました。 初日は川口さんの田畑