2012年1月20日は、雨。

そして、43年前の岐阜は雪。
生まれた日は雪の日だったそうです。
大寒の雪の日に生まれたんです。私。
時系列的にはおそらく1つ前の過去世となる女性は、愛した男に銃で撃たれて雪の中で死にました。
自らの選択でした。
雪の中で死んで、雪の降る日に生まれた「私」。
そして、今日は雨。
冷たい雨だけど、乾燥が続いてたところへの、恵みの雨。
なんだか、ちょっと不思議な、それでいてその優しさに泣きそうになるような、そんな雨でした。
今日は、子供たちが(おとーちゃんのサポートありありで)、私のためにホットケーキを焼いてくれました。
生クリームでデコレートもしてありました。
子供たちは得意気なキラキラな笑顔をしていました。
生きてるって、いいですね。
やっぱり。

☆民絵屋 4年目突入☆

民絵屋4年目突入
本日、1月19日で、民絵屋をオープンして丸っと3年経ちました。
ありがとうございます。
これもみなさまのご愛顧のおかげと感謝しております!
これからもどうぞよろしくお願いします☆

そして、弟1号よ。誕生日おめでとう。

地球という惑星

火山学の授業で、先生が
「火砕流って言葉は、一般の人は知らないでしょうけど…。」と言ってたのをなぜかすごく覚えてて、
その数カ月後だったはずです。雲仙普賢岳で「火砕流」 が発生したのは。
「こんな形でみんなが『火砕流』という言葉を知るなんて…。」と残念でなりませんでした。
しかし。
ああ、あれくらいはほんとに小規模な火砕流だよなぁ…。
飛騨地方の火砕流堆積物の大きさを考えたら、あれくらいはほんとにごくごく小さな変動でしかなよな…。
そんな小さな変動でも、人間はあっけなく死んでしまうんだよな…。
と、死んでしまった人たちへの哀悼の気持ちを持ちつつも、テレビを見ながら、自然の驚異のほんの「片鱗」を見てるんだな、という自分がいました。
そして。
17年前の朝。
寝ぼけた目で見たニュース番組の映像は、一瞬私の頭をフリーズさせてしまうほどのものでした。
それでも、あれすら「片鱗」でしかないとも思いました。
活断層が動いただけだもの。
プレート境界型が起きたら、これくらいじゃ済まないだろう…と思いながら見てる自分もいたのです。
あの津波でさえ、そうです。
地球上の生命は、幾度となく大量絶滅を経験しています。
ペルム紀末の大量絶滅においては、地球上の95%近くの種が絶滅していると言われているほどです。
それほど「地球」は変動が激しい惑星なのです。
そんな惑星に生まれて生きているというだけで、人間ってのはなんとも悲しく逞しく愛しい存在だよなぁー…って思います。
多くの癒しがもたらされますように。

言語の役割

人間の脳は、右と左の2つに分かれていて、その右側を右脳、左側を左脳といいまして、その間は脳梁と呼ばれる神経線維でつながれてます。
そいえば、この脳梁って女性の方が太いので、女性は平行していろんな家事ができるけど、男性は1つの仕事しかできない…なんて言われたりもしますね。
でも、右脳と左脳の役割については、まことしやかにいろいろ言われてますが、医学的には根拠は無いんだそうです。
まだよく分かってないってことですね。
で、
右脳は体の左半分を制御し、左脳は右半分を制御しているわけですが、
言語を司る言語中枢というものがどちらか片方に入っているんですね。
これが、不思議なんですが、
●右利きと左利きでは、右利きの人の方が圧倒的に多い
●右利きの人のほとんどは左脳に言語中枢がある
●左利きの人の4割が右脳に言語中枢がある
●ほんとに珍しい例だけど、左脳にも右脳にも言語中枢がある人もいる
ということらしいのですね。
だから、「言語中枢は左脳にある」とざっくり言われがちなんだそうです。
左脳に言語中枢がある人の方が多いから。
でも、左利きの私はもしかしたら言語中枢が右にあるかもしれんのかー、と思ったら、ちょっとワクワクしちゃいました。てへ。
(にのちゃんは、右脳に言語中枢がありそうだなぁ。なんとなくだけど。)
と、いうのをふまえてこちらを。
http://plaza.rakuten.co.jp/siriun/diary/201201140000/
左脳が…っていうより、言語中枢が破壊されたことで起こった変化ということですね。
たしかにね。
私が17歳の時にオーストラリアに1年間、交換留学で行った時に、
もともと英語がそんなに得意でもなかったので、最初はうまいこと言葉が聞き取れないし話せない状況に置かれてしまったのですね。
そうなんです。
まるで日常生活から「言葉」の力がすーっと消えてしまったような感覚に陥ったんです。
すると、不思議なもので、五感も五感以上もなんですが、「感覚」が冴えてきたんです。
いろんなことを「まるごと」で捉えて、そこからいろんなことを自分の中に落としこむ…みたいな感じですかね。
あの時に、いかに人間は「言葉」にべったり頼ってるかということを体験を通して理解させられたんだなー、と今更ながらに思います。
おそらく、「言語」というのは、「分離」するというのが仕事なんだと思います。
なにもないところに、水平の線を1本ひいて、空間を分離し、「上」と「下」という概念を生み出す……みたいな。
それが「言語」の役割なんだろうな、と思います。
分離して1つ1つを規定していくことが。
なので、言語にべったり頼っていながら「統合」に至ることは難しくて、だから「頭で考えてるだけではダメ」なんでしょう。
そして、自身の存在そのものまるごとで体感するということを通して到達した境地のことを言葉で語るというのは最初っからできないことなんだろうな、と思います。
でも、私は、こうやって言葉を使って何かを伝えようとすることを止められないんですねぇ…。
えへへ。

癒しの大天使ラファエルをもってしても……

もうすぐ5歳になる娘。
3歳の頃から、嵐の翔くんが好きで、次点が相葉ちゃん。
で。
おかーちゃんが去年の夏過ぎから関ジャニ∞にいきなりハマりこんでしまい、あれやこれやを見せられ聴かされてるうちに、すばるくんが大好きと言い出した。
翔くんとすばる、どっちと結婚しようか困る~、とまで言い出した。
義理の息子になってくれるなら、おかーちゃんはどっちでもかまへんよ!ばっちこーい!!
さて。
昨日、保育園から帰ってきた時に、そんな娘が車の中でいきなり言い出した。
「翔くんと相葉ちゃんとすばるのことをいっぱい考えちゃうよー!困るよー!ラファエル、なんとかしてよぉぉー!」
………えーと。娘よ。
その症状は、「恋の病」というものではないかのぉ?
だとしたら、癒しの大天使ラファエルをもってしてもなんともならんぞ。

私が「素敵な私」なることは、私のためだけじゃないと思うのだ。

お客様からのメールに時々、
「私も天使の声が聞こえるようになりたいです。」
とか、
「私も過去世を知りたいです。」
とか書かれていることがあるんですが、
その気持ちはすごーーーーーく分かるんです。
ええ、もちろんめっさ分かるですよ!
………分かるんですけど、なんのためなんでしょうね?それって。
迷ってばかりで辛いから、教えて欲しい天使に指示して欲しい……というものなら、場合によってはそれって「自分の人生を放棄する」になるかもしれないですよね。
「ゆだねる」と「放棄する」は似ていて全然違うんですもん。
なので、「よく分かんないけど、なんだかそれって素敵そうやん?」ってくらいの気持ちで「天使の声が聞こえるようになりたいで~す。」って言う方がいいんじゃないかなー、って思うくらいです。
なので、過去世を知りたいっていうのも、「なんか面白そうやーん?」ってくらいのかるーい感じの方がいいような気がします。
……まぁ、実際に過去世を知るというのは、どっぷり深い感情の波がどかーんとやってくるものなので、そうそうお気楽ではおられんですがね。
へっへっへっ。
で。
「ああ、こんな過去世やったから、今の自分にこういうところがあるんやー。」という「解釈の発見」も漏れなくついてくることになると思うんですが、
知ったからふっきれた、ということもあるだろうし、
知ったからこそ余計に途方にくれることもあるだろうし、
結局は、その時その時の「今の自分」の器のデカさ、人間としての深さによって、その「素材(解釈)」をいかに自分の成長の糧にできるかが決まってくるんやろうなー、と思います。
振り回されるばっかりというのなら、そんなもん知らん方がいいと思いますもん。
(でも、それをほんとうに自分を知るキッカケ・成長の糧にできるというのなら、こんな素晴らしいギフトは無いと思います。)
そもそも、過去世というものも、「同時存在する、同じ魂の別の自分」みたいなものと捉えるなら、
それぞれがそれそれぞれと深いところで影響しあっていると考えてもおかしくないと思うのです。
「今ここにいる私」が、「今ここの世界」に表出している唯一の存在であるというだけとするなら、今ここにいる自分の変化は魂全体に波及していき、どこぞの別の誰かの変化は自分にも影響するというわけですね。
魂は表層意識の私が考えるよりもっともっとバラエティ豊かな表現方法でもって、その存在をどんどん大きく深くしているんでしょう。
なので。
ガッツリと「過去世の物語」に入り込んで、そこから「なにか」をつかみ取ってきたら、
それをどう解釈するか、を、ちょいと引いた視点から見てみる…みたいなスタンスでいます。私は。
(それでも、ばりばり感情は動き続けてるんだけどね。)
でも、きっとそのうち解釈すらも不要になってきて、「ただそれを十全に感じるだけ」になっていくんだろうなー、と思ってますがね。

だから。たとえば。

そう。
だから。
たとえば。
誰かが、過去世のタミエルを知っていて、そしてあたしの中に彼を見つけたとして、
私の性格の一部や、言動の一部、見た目の一部、ふとした瞬間の雰囲気……などに、彼を見いだすこともあるのかもしれないけれど、
でも、あたしはタミエルそのものじゃないから、彼じゃないあたしの部分を見て、もしもガッカリされたら………
笑っちゃうよね。
どうしたって、私は私なのだし。
でも、私にはたくさんの「わたしたち」が一緒にいて、だからこその唯一の私なのだから、
すべてのわたしたちを愛して、
すべてのわたしたちが愛した人たちを愛して、
そうして、『いつか天を跳ぶ』のだ。

私と、「わたし」たち。

別に、過去世の自分の所業に今の自分の在り方の原因を見つけようとしたわけでもないし、
そこに今の自分の中にあるさまざまの責任を押しつけようとしたわけでもないのだけど、
この私という存在は、おそらくは「同時存在」である多くの「わたし」たちとこんなにもこんなにも干渉しあっているのか、と気づかされ、
魂というものの壮大さ、繊細さ、悲しさ、美しさを少しだけ垣間見たような気がした。
そして、どんなカタチであろうと、たとえ逆さにひっくりかえったものであろうと、やはり誰かを愛するという想いが、己の魂の姿を探すための導き手となるのだろう。
……細かいことをアレコレ書いておきたいのだけれど、さっぱり指が動かん。
これがやっと。

「あの子」

タミエルの目の前で失われた「あの子」って、こんな感じかな。
あの子
描きながら泣きそうになっとりました。

どうか、笑っていて。

高校2年の夏に出会った同い年の男の子に私は恋をして、
お付き合いをすることにはなったけれど、
私が彼を想うほど彼は私のことを想ってはいなかったので、冬には
「友達に戻ろう。」と言われてしまいました。
その夜は、お布団の中でいっぱい泣きました。
そして、それから少しして彼が(結果的には彼女というわけではなかったのだけど)他の女の子と一緒に映画に行ったのを知り、
またその夜に、お布団の中でいっぱい泣きました。
私はほんとうに彼を失ったんだな、と思い知らされ、
心の半分以上をもぎとられるような、そんな痛みを経験したのでした。
多分、人生で初めて感じた「喪失感」というものだったのでしょう。
そんなふうに、心が離れるというだけでも「あの人を失った」という感覚は強烈で、ほんとうに胸が痛くて仕方がないのに、
突然彼氏が死んでしまったら、どれほどの気持ちなんだろう……と、泣いている友人を見つめるしかなかった大学生の時の私がいました。
私にとっても友人だった彼。
悔しくて仕方がありませんでした。
私にできたことは、お通夜の日に彼女の下宿先に泊まって一緒にいることだけでした。
他にも、高校生の時のその彼氏を紹介してくれた当時大学生だった友人も、出会って2年もしないうちに交通事故で突然逝ってしまいました。
お葬式では、私と同い年の彼の弟が、友人みんなの目の前でしたが、少し言葉を交わしているうちにどうしようもなくなったんでしょうね。
仲良しだった私にぎゅっと抱きついてきて身体を震わせて泣いてしました。
私には、彼をやさしく抱きしめることしかできませんでした。
突然、愛する人が死んでしまうということは、どれほどの痛みなんだろう…と、そんな友人たちを見つめながら思ったのを覚えています。
私は、叔母も父も祖母も病気で死んでいますから、「もうダメなんだ…。」という覚悟を持つことができました。
父の場合は、それはほんの数時間のことではありましたが、
だんだんと身体が死んでいくところに一晩寄り添っていられたので、
目の前で死を宣告されても、取り乱したりはしませんでした。
お医者さんの「ご臨終です。」という言葉を聞いてすぐに、私はそっと病室の窓を開けたくらいです。
お父さんの魂が早く行くべきところに行けるように、と。
叔母を失った時よりも、祖母を失った時よりも、父を失った時の喪失感の方がそれは比較にならないくらい大きいものでした。
どれだけ私は父を愛していたかを、その大きさで思い知らされました。
だからこそ、目の前でだんだんと死んでいくような死に方をしてくれて、ほんとうに感謝しました。
これが、突然失うような、そんな別れだったら耐えられないだろうな、と思いました。
事故などで、誰か恨むことができる相手がいたら、恨まずにはいられないだろうと思いました。
ですから、当時4歳で、まだ自分の名前も言えず信号も理解できず車が危ないものだという認識も持てていなかった息子がちょっとした隙から突然家から脱走していなくなった時は、冷静になろうとしてもなれませんでした。
どこを探してもいなくて、あの子をこのまま永遠に失うのではないかという考えが頭をよぎる度に吐きそうになりました。
あの小一時間ほどのことは、今でも軽く私のトラウマになっていて、出先で息子の姿をほんのちょっとでも見失うと必要以上に焦ってしまいます。
今世では、おかげさまで目の前で突然大切な人を失うという経験はしていません。
でも、タミエルが大切な「あの子」を目の前で突然失った時の気持ちを、少しくらいは想像できます。
そして、その絶望的な喪失感からくる生々しい感情の一部を感じたことにより、今世の私の「愛」がほんの少しでも深まったとしたら、
それも魂の癒しにつながるのかもしれない、と思いたいです。
もしも、タミエルの愛しい「あの子」が、今どこかの誰かとして生きているのだとしたら、
どうか笑っていて欲しいと、心から願っています。
そして、目の前で親友のタミエルを失った彼が、もしも今どこかの誰かとして生きているのだとしたら、
どうかその魂の傷が少しでも癒されていて、あの素敵な笑顔で愛する人たちと一緒にいますように、と心から願っています。