『手紙~親愛なる子供たちへ~』

「くすりのミヤノ」という薬局の明子先生が、ご自身のブログで、この詩を紹介してくださいました。
ポルトガルの詩で、作者不明だそうです。

<手紙~親愛なる子ども達へ~ポルトガル 作者不明 訳 樋口 了一>
                         
年老いた私が ある日今までの私と違っていたとしても
  
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴のひもを結び忘れても
あなたにいろんな事を教えたように見守って欲しい
あなたと話すとき 同じ話を何度も繰り返しても 
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
               
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しいことではないんだ 消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしっまたり
お風呂にはいるのをいやがるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
嫌がるあなたと風呂に入った懐かしい日のことを
悲しいことではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱り 飲み込むことさえ出来なくなるかもしれない
足も衰えて立ち上がることすら出来なくなったら
あなたがかよわい足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのは辛いことだけど
わたしを理解し支えてくれる心だけを持って欲しい
きっとそれだけで それだけで 私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに私がしっかり付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き合って欲しい
あなたが産まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい
   私の子ども達へ 
   愛する子ども達へ

ウチのお父ちゃんのおばあちゃんが、ちょっとボケてきちゃってるんですね。
毎日お世話しているお義母さんにしたら、そりゃもーいろいろ大変に決まってます。
お義父さんも、実の母親のことなんだけど、イラっとすることが多いようです。
『毎日のこと』って、そういうことなんですよね。
でも、やっぱり、私はちょっと寂しい気持になってしまうことがあります。
この詩を読んで、涙が出そうになりました。

生きているって、なんだかスゴいことなのかも。

お彼岸だってーのに、お墓参りできてません。
ごめんなさい。
たとえば、阿弥陀さまやイエスに自分の『真』からおすがり(お任せ)することで、輪廻から脱出しちゃったよ、というご先祖さまは問題無いんですけど。
凡夫のまま迷いや執着や怨みや悲しみをいっぱいいっぱい抱えたまま幽界にいるご先祖さまには、生きてる子孫がガンガンお経をあげないと、いいところ(って、生まれ変わるためのサポートセンターのせいぜい入り口みたいなところやと思うんだが)に行けない……というのも、ある意味本当だと思うんですよ。
てのも。
幽界って、現象界よりも想念が「具現化」しやすいですから、迷いのある人には迷いのある世界が速攻で展開され、怨みのある人には怨みのある世界が速攻で展開されてしまうわけです。
無神論者で、死んだら何も無くなるんだ、と思ってる人が死んだら、「何もないところ」を彷徨い続けることになっちゃうわけです。
そうなると、なかなかそこから抜け出せないだろうな、というのは簡単に想像できますね。
「迷いの世界」「怨みの世界」「戦いの世界」「何もない世界」にいる本人(魂)が、ハタと気づく瞬間まで、延々と続くのです。
結局は、その人が「ハタと気づく」ことがないと、守護の神霊の手助けも受けられないんです。
自分を救うのは自分しかないということです。
生きてても死んでからでも同じです。
シンプルです。
んじゃ、「ハタと気づく」まで、周囲は待ってるしかないか、というと、これがですね、生きている子孫の祈り(お経)がそのご先祖さまが閉じこもってる『意識』の殻をちょっとずつちょっとずつコンコンとつつくことになるらしいんですよ。
で、カラにヒビが入ると、「ハタ」の瞬間がやってくるわけですね。
不思議ですよね。
現象界の我々って、一番ダメダメな魂やん、みたいな感覚になることが多いんですけど、実は違うんじゃないか、とここ数年は思うんです。
なぜ自分が、ここにこうして生きているのか、を、深く深く感じてみることは、いつもいろんな発見をもたらしてくれます。
人間って、面白いですねぇ~。

「なにが見えてる?」が本になります。

私が「遠足」だの「上」だのと言ってるのも、すべて「なにが見えてる?」というブログから展開されていることなのですが、なんと、じぇいど♪さんのこのブログが本になります。
予約特典もありますよ~。
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マンガは「青い月」さんが手がけてます。
青い月さんにはmixi方で仲良くさせてもらってますが、「上」では大人気「オブジェ職人」でもある彼女。
マンガもすごく楽しみです。わくわく。

それは十数年ぶりに還ってきた。

今夜は地域の寄り合いがありまして、お父ちゃんが出席しました。
お父ちゃんは、今夜も「布団屋のよっちゃん」といろんな話をしたそうです。
お父ちゃんはよっちゃんが大好きなのです。
この「布団屋のよっちゃん」(年上の方です)は、去年の夏至の日の息子脱走事件の時、息子を抱っこして連れて帰ってきてくれた人です。
実際は、クリーニング屋のおばさんが、ずーっと息子に付きあってくれていた(ウチの子だと思わなかったので、気ままに歩く息子についてくれていた)んですが、家まで連れてきてくれたのがよっちゃんだったのです。
よっちゃんが息子を抱えて歩いてくる姿を見た時、それまで吐きそうなくらい動揺していた私は、よっちゃんがスーパースターに思えました。
いや、ほんとに。
で。
今夜の寄り合い後、お父ちゃんはよっちゃんから本をもらって帰ってきました。
この本です。

地球/母なる星―宇宙飛行士が見た地球の荘厳と宇宙の神秘 地球/母なる星―宇宙飛行士が見た地球の荘厳と宇宙の神秘
(1988/11)
ケヴィン・W・ケリー

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「よっちゃんから本をもらったんだよ~。よっちゃんがとっても感動した本なんだって。」
と、嬉しそうに報告する酔っぱらいのお父ちゃんが小脇に抱えていたこの本。
パッと見て驚きました。
この本は、私が失くした本だったのです。
大学2年の時、奮発して買った写真集だったんです。
当時の私にとって5000円もする本を買うというのは、大決断だったのです。
でも、その後、ちょっと家の事情もあり、あれやこれやとありまして、この本がどこにあるのか分からなくなってしまったのです。
実は最近も、この本のことを思い出して、「どこにあるのかなー。こんな大きい本、なんで失くしちゃったのかなー。」とぼんやり思ってました。
その本を、お父ちゃんが手に持ってるではないですか!
「本が還ってきたーー。」
と、言いましたよ。ええ。本当にそう思いました。
「俺がよっちゃんからもらった本やぞー。」
と酔っぱらいは主張してますが、そんなの却下です。
私の本なんです。これは。
しかし、こんなふうに、またこの本を眺めることができるようになるとは思ってませんでした。
よっちゃん、ありがとう。
彼はやっぱりスーパースターです。

こういうのが、幸せ。

【3月7日(土)】
このところ雨がちだったけれど、今日は朝からずーっと良いお天気でした。
午後4時くらいだったかな。
明日も明後日も雨だし、今日のうちに畑に行って、脇芽として生えてきてるブロッコリーをぷちぷち収穫しておこうと思いました。
息子と娘を2人連れては畑に行けません。
2人がバラバラに走って行ってしまうからです。
今日はお父ちゃんがお仕事お休みで、子供たちといっぱい遊んでくれていましたが、ついでに娘をお願いして、息子だけを連れて畑に行きました。
お母ちゃんはブロッコリーをせっせと収穫していました。
息子は、ブロッコリーとキャベツと一緒に生えているカラスノエンドウの中に座り込んでいました。
草をちぎったりしながら、何かとお話していました。
自然農の畑で、こうしてカラスノエンドウがたくさん生えてくるのは、良い畑になっていっている証拠なんだそうです。
とてもふわふわの、優しい草です。
そのふわふわの草の中で育っているキャベツを、3つ収穫しました。
小さいキャベツですが、とても美味しそうなキャベツです。
息子が持っていた袋に入れてあげたら、「食べたい。」と言いました。
1枚、キャベツの葉を渡したら、息子はカラスノエンドウの中に座り込みながら、それは美味しそうに食べていました。
オレンジ色が少しばかり強くなっていた太陽の光が優しく感じました。
いいなぁ…。
と思いました。
こういうの、幸せだよなぁ。
と思いました。
細い農道を挟んで向こう側にある自然農の田んぼには、牧草のような草が一面に生えていました。
もうそんな季節です。
まだ柔らかい草は風に吹かれてキラキラしていて、田んぼが草原のように見えます。
その田んぼの中を、ドロ付きのままのニンジンを3本、片手で持ったまま、どんどん奥へと歩いていく息子の後ろ姿を見ていました。
これもまた、幸せだなぁ。
と思いました。
息子と一緒に収穫したお野菜も入れて、夕食には野菜スープを作りました。
こぼしながらスープを飲んで、大きな口を開けて、美味しそうにお父ちゃんが作ったお米のご飯をパクついている子供たちを見ていたら、
あんたたちのお母ちゃんになれて良かった。
と思いました。
今日はそんな小さな、でも大きな幸せをじんわりと感じられる余裕が身心共にあったようです。
ありがたいことです。

φとかπとかは「はみ出している」。

「フラワー・オブ・ライフ」の1巻のどこに書いてあったか、探してみても何故か見つからない(いい加減な探し方してるから?)んですが、
φ(黄金比率) について書いてあるところだったと思うんですが、
こーゆー「割り切れずにどこまでもどこまでも数字が続くやん!」というヤツは、「本当の世界」のものが、「この世界」ではオーバーフローしてんだよ。
みたいなことがさらりと1~2行で書かれてたんですよ。
なるほどねぇ、と思いました。
π(円周率)でもそうでしょ。
πなんて、「超越数」ってことで証明済なんですって。
超越してる数なんて、フラワー・オブ・ライフに書いてあることそのまんまのネーミングやん!
てなわけで。
i(虚数)にしても、「こりゃ、はみ出してる」と思えば、なんとなく感覚的に納得です。
高校生の時、初めて複素数を授業で勉強した時に、
「なんじゃこりゃ」
と、思いませんでした?
私は思いました。ものごっつ。
日常的な、実数の世界の住人の私にとって、虚数って「ありえん」わけですよ。
なのに、数学ではばんばん出てきて、
「存在しない数を扱ったって意味ないやーん。」
みたいな、それこそ虚ろな目にもなるっちゅーの。
んでも、あれは「はみ出してるのかー。」と、20年以上前からの不可思議さに対する一種の着地点を見出し、ほのかに嬉しささえ込み上げてきます。
でね。
ここからちょっと話が変わるんですが。
五井先生の本を読んでると、昭和30年代だっけ?
もうそんな昔から「宇宙子科学」ということをおっしゃってるんですよ。
なんかね、高次の方々がね、どかーーんと幾何学模様やらなんやらをデカい紙(?)に降ろしてくれたとかなんとか。
(ごめんなさい。記憶あいあまいで。)
これって「科学」なんですって。
宇宙の全ては波動でできているんだけど、モノとしての最小単位は「宇宙子」と言うそうで。
これをしっかり解明していくのが、昌美先生のお仕事だったんだそうで。
ああ、そうそう。
マイミクのピタゴラス先生が、この宇宙子科学の研究メンバーだそうです。
実はスゴイ御方なんですよ。
でもねーーー。
ただ単にお祈りをちびちびやって数年後、突然五井先生の本を読み始めた私には、宇宙人とか宇宙天使とか宇宙子科学とかって、トンデモみたいじゃん???と、すごーーーく戸惑いが大きかったんです。
まー、なにみえ読者なら、そーゆーのに多分大きく戸惑うこともないんでしょうけど、当時の私はね、宗教的信仰と、そーゆーのって別モノだという固定觀念があったんですね。
でも、おかげさまで、觀念の再構築も半年くらいかかってなんとかなりまして。
そいで、ですね。
お父ちゃんの実家のあるこちらの地方に引っ越してきて、ひょんなことからこちらの白光の方のおうちに招かれたことがあったんです。
そのおうちに、いろんな写真が飾られてあったんですが、なんとなんと、「どーーーーん」と降ろされた例のモノが見切れてる写真があったんですよ!
もちろん、何が描かれてるのかって、さっぱりでしたけど、てっきり数式みたいなものかと思ってた私には、ちょっと「え?」って感じでした。
……ただね、それがね、どんな感じのモノが描かれてたのかさえ、思い出せんのです。
「え?」って思った自分の感情しか思い出せんのです。
とにかくですね、「降ろされたモノ」があるわけなんですよ。
んで、それを研究して解明(?)する『だけ』なら、そんなに時間がかかるもんじゃないんじゃないのか?と思っちゃったりしたわけですよ。
凡人だから。私。
でもね。
なかなかそーゆーもんでもないらしいんです。
そっかー。
人間が理解できるように翻訳するのって非常に難しいんだなぁ……。
なーんて単純に思ったんです。
で。
フラワー・オブ・ライフのあの部分を読んでから、ちょっと経って、
あの「降ろされたモノ」のほとんどって、「はみ出してるモノ」なんじゃないか?
と、思ったんですよ。
そりゃ、えらいこっちゃ~~~。
具体的にはちっとも分からんけど、宇宙子科学のメンバーさんたちがやってることって、そーとーえらいこっちゃ~~~。
と、思ったんですよ。
というわけで、ピタゴラス先生は偉い人なんです。
(↑今日の結論)

ばけがく。

「タミエルっていう天使が本当にいたら面白いよねー。」
と、検索かけたら、堕天使にタミエルってのがいて、それも天文学が専門の天使さんと知り、地学科出身の私はかなりビックリしたわけですが。
地学って、ものすごく守備範囲が広い学問でして、時空をどかーんとまたいで勉強せんとアカンのです。
そして、物理・化学・生物もよく分かってないといけないのです。
が。
数学脳が機能不全の私にとって物理というのは厄介な相手でした。
いや、好きなんですよ。
好きなんだけど、道具である数学が使いこなせないので、歯が立たないことが多かったのです。
生物は、まぁまぁなんとでもなりました。
地史古生物学なんてすげー興味深かったしね。
で。
高校生の頃からなんですけど、実は一番得意だったのは化学だったんです。
それも特に無機化学。
教育学部の教員養成課程のため、専攻が地学でも物理・生物・化学の実験の単位や概論の単位は必須だったんですけど、無機化学はすご~くよく理解できて、テスト勉強もほとんどしなくてOKだったんです。
んじゃ、最初っから化学科にしとけばよかったやん、と言われそうですが、ところがどっこい。
化学は得意なんだけど、別にいいや…、って感じなんですよ。昔も今も。
数学脳機能不全という致命的欠陥があるにもかかわらず、地学が良いんです。愛してるんです。
これは、7歳の時に宇宙図鑑に載ってた星々の写真に魂を掴まれてしまった時から呪縛のようになっているので仕方がありません。
で、ね。
最近になって、「あ?」と思ったんですよ。
錬金術ってやつですよ。
過去世の人なのか、守護してくれてる方なのか、は分からんですが、なーんか錬金術やってた人と関わりがあるんじゃねーの?
って、思ったわけです。
私が化学得意だったのって。
あ。
でも、もう今は錆び錆びですよ。
使ってないからー。