★冬至のお祈り会★

もうすぐ冬至ですね。(そして天皇誕生日にクリスマス。年賀状も作らなきゃ~)
というわけで、今回も相棒のりすけと、ハイヤーさんのタミエルとの話し合いをしまして、
『冬至のお祈り会』をみんなでしよう!ということになりました。
よかったら、参加してくださいね♪

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そのまま育ってくれたらいいな、と思う。

保育園に息子を迎えに行って、帰る途中の道で、時間が合うとたまーにダウン症のAさんに会うことがあります。
彼女は、お父ちゃんが勤めているNPO法人が運営しているグループホームに住んでいて、授産所まで歩いて通っています。
彼女の帰宅時間と、お迎えの時間が合う時に、彼女を見かけることになるわけですが、
いつ見ても彼女はニコニコしながら歩いているのです。
田舎道をニコニコしながら歩いているAさんは、しょっちゅう農家さんからお野菜をもらってグループホームに帰ってくるそうです。
ニコニコしながら歩いている彼女を見ると、声をかけたくなる気持ちがよく分かります。
私は、息子にもそんなふうな大人になって欲しいなぁ、と思っています。
障害児の親は、子供の自立という問題を抱えています。
これは深刻な問題なんだろうと思います。
働く場所すら無いことが多いのですから。
けれど、私はあまり心配していないのです。
息子は、とってもとってもおいしそうに食事をするし、
とってもとっても嬉しそうに「ありがとう」を言うのです。
だから、誰かがきっと手を貸してくれると思うのです。
すごい単純な親だと言われるかもしれないけど、
本当にそう思うのです。

癒し合うために生まれてきてくれたのかも。

僕アニのこの記事
http://ameblo.jp/dragonest/entry-10400233255.html
を読み始めて、すぐに
「あー、これ、私と娘のことみたい~[emoji:v-12]」
と思いました。
息子は、育てやすい子です。
赤ちゃんの時なんて、ほんとーに育てやすい子でした。
ダウン症児だから、3歳過ぎくらいから、どんどんガンコになってきたし、身体は成長するけどオムツはとれない、とか、すぐに脱走するとか、大変なことは大変です。
でも、不思議とこの子は、
無条件でかわいい
のです。
そう感じるのです。
ガンコな時は真剣に腹も立つけど、それは単純に親の都合と息子の思いがぶつかり合ってる、という感じなのです。
でも、娘は違います。
2歳の娘は、赤ちゃんの時からとても癇が強く、そのくせ、ものすごーい怖がりで、たとえばいつまでたっても、お兄ちゃんの保育園のみんなを怖がったりしてます。
毎日お兄ちゃんのお迎えに行ってるのに、ですよ!
洋服を着替える時も顔が隠れるのがコワイコワイ。
お母ちゃんがちょっとでもいないと泣く泣く。
それにとにかく、お母ちゃんにベッタリで、私以外の大人は、お父ちゃんとオカンくらいにしか心を許していません。
息子は、誰にでもオープンなのに、全く逆なのです。
一時期、この子はアスペか?と疑ったことさえあります。
そこまで泣くか、という泣き方をするので、こっちもイライラします。
かーなーりイライラしてしまうと、怒鳴りつけることもあります。
または、無視しないとやってられない、という時もあります。
そんなことしても仕方がないのにね。
でも、そんな時は、抱きしめても抱きしめても、泣き止まないのです。
オカンも、「かわいそうだけど、この子は育てにくいねぇ。」と言っていました。
うん。
あたし、今から思うと、この子が2歳過ぎるまで、身体も心もちょっとしんどかったよ…。
そして、数カ月前のことです。
ふと、観音様に
「なんで、この子はこんなんなんですか?」
と聞いてみたら、
「この子は、昔、とても怖い目に合ってるんですよ。」
と、脳内会話で言われました。
あー。
じゃあ、仕方がないや。
と思いました。
私は、「娘」を産んで育てている間に、私の中の小さな子が癒されていくような感覚を持つ時があります。
「息子」では無かった感覚です。
そして、私がこの子を癒してあげないといけないんだな。
お互いに癒し合うために、今があるんだろうな。
と、思ったのです。
あー。
それでもそれでも、毎日のことだから、イライラしちゃうんですがねぇ。
言葉がどんどん増えてきて、自分の言いたいことを言葉にできることが増えてきて、少しずつ落ち着いてはきてるんですがねー。
けど、言葉が増えてきて、私が怒ると
「おかあしゃん、怒らないで~。」と泣きながら言うのは反則やと思うっ。
お前が怒らせとるんやないかーーーーー。

頭の中だけで、世界を捉えようとしてるから、相対的に「濃度」が下がっちゃうんだろうな。

mixiの記事なんですが、これを読んでいたら、
ふと、中学生の頃の感覚が蘇ってきました。
あの時、
私は、永遠と刹那は同等なものだと、根拠もなく、そう感じたのでした。
五井先生は、
私たちは生命(身体)を、瞬々刻々(神から)いただき直している
と、言いました。
上記リンクに書かれていることは、上から見た時の解説で、
五井先生の言葉は、人間の目線からの解説だな、と思いました。
量子の世界では、モノゴトは「とびとびの値」をとります。
割と身近な「電子」でさえ、原子の中にあって、エネルギー的に励起されると、「とびとびの値」で軌道を変えます。
学生の時、これが非常に不思議でなりませんでした。
なぜ、連続していないのか?
不思議でなりませんでした。
しかし、もしたしたら、物質世界においては、すべてが「非連続」なのかもしれないな、と、思うようになりました。
まるでアニメーションです。
時間が流れるのではなく、我々の意識が動くことによって、世界は「連続」しているように感じているだけなのかもしれません。
だとしたら、「永遠と刹那は同等」である、という、あの時の感覚も、あながち間違いではないよな、と思うのです。
スピリットは偏在し、過去も未来も現在も、すべてが同等で、
それらをハイヤーセルフが「残らず」チューニングしているとしたら、
「転生」という考え方すら幻想でしかなく、
すべての人生は、平行して同時存在しつつ、お互いが共鳴しあっているものなのかもしれません。
と。
こーゆーことを考えていると、
私の場合は、どちらかと言うと、空虚感に近いものがじんわりと湧いてきます。
自分が今持っている「濃度」が、現在の「生」の中だけで保持し続けたものなので、概念だけであっても、一気にパンと世界の方が広がると、相対的に「濃度」が薄まるんでしょうね。
まー、私には五井先生のお祈りがあるからまだいいけど、
一気に相対的な濃度がぐんと下がって、そこに「ヴォイド」を感じる…なーんてこともあるんでしょうねぇ。
それって、コワイよねーーーー[emoji:v-356]
(ふつーの人間の精神では耐えられんかもしれん、という怖さね。それそのものがコワイというわけではないよ。)
なので、宗教的にもスピ的にも、すべては愛だーーー、光だーーーー、喜びだーーー、と、口を酸っぱくして言うんでしょうなぁ~…。

へんなかんじー。

「なにみえ遠足」の第4回の前に、さつきのひかり先生のレインボーエナジーフレーム(REF)を受け取り、
『じわーっとだらだらネガ出し状態』が1週間続きました。
そして、またまたREFを受け取ったら、そのネガネガが浄化されたかのように、浮上に転じたのでした。
が。
今度は、ネガネガではないのですが、なーんか変な感じなのです。
うーん……。
どこか、自分の中に「散らかってる部屋」みたいなのがあって、それをとうと片づけなくてはならないんだけど、どこから手をつけていいか分からない……みたいな感じと言いますか、
または、自分の中に、「コリコリ」したものがあるみたいで、それをムニムニとほぐしてあげなきゃと感じるんだけど、どこにあるかが分からない……みたいな感じと言いますか、
歩き出さなきゃなきゃならないのは分かってるんだけど、「歩くって、どうやるんだっけ?」って分からんくなってる……みたいな感じと言いますか。
なんなんでしょう???
こーゆーのって。
不思議な感じでござる。
そんな時、ぴんぐさんのコメントを読んで、
「あー。大丈夫かーーー。そっかー。」
と、なんだかちょっとホッとしました。

あの時に、抱きしめてあげれば良かったのに。

去年の秋、
ともこさんから送られてきた、1枚の絵の画像がキッカケで、
彼女が私の過去世の妹だということを思い出しました。
以前にも日記に書きましたが、
古代エジプトで2度、姉妹と兄妹という立場で出会っています。
(もっとその前にも、まるで兄妹のような関係であったこともあります。ひのこ☆ねーさんに教えてもらいました。)
その姉妹の時。
巫女さんだった妹は、みずから進んで儀式の生贄になったのですが、
姉の私は、とにかく怒っていました。
こんな儀式をする神官たちに、
わざわざ志願して死にに行く妹に、
そして、神様に。
さて。
今朝、ともこさんからメッセージが届いていました。
読んで、泣きそうな気持になりました。
日記に載せてもいいと、ともこさんが言ってくれたので、転載します。
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この前の広島お祈り会の時に、私が遅刻した事なんですけど。。
どうも、ずっとひっかかってたんです^^;
10分前くらいには、ちゃんと覚えてたのに、なんで忘れちゃったんだろう?って。
そしたら、ある時急に
「お姉ちゃんに怒られる。絶対に許してもらえない。」
という思いが出てきて、本当に悲しくなったんですね。
でも、たみえさんは怒らないし、絶対許してくれるって、私は思ってるんです。
変ですよね?^^;
変だなぁ。この思いは何なんだろう?
って考えてると、ふと、エジプトの過去生のお話を思い出しました。
この気持ちは、もしかしたら、あの巫女さんの、お姉ちゃんに対する気持ちなのかもしれないな~と思いました。^^
あの巫女さんも、自分の好きな道を選びながらも、悲しさや、さみしさがあったんですよね。
その時代でも、きっとお姉ちゃんの事が大好きだったんだと思います。
だって、あんなに悲しい気持ちになったんですもん。
好きでもない人に嫌われても、そんなに悲しくないですもんね^^;
と、感じました^^
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あの時、最後に、妹を抱きしめてやれば良かった……、と思いました。
これは、あの時の私の後悔の気持だったのかな。

お祈り会【広島編】を終えて。

いろんな方々に参加してもらったお祈り会でした。
みなさんからのメールやコメントを読んでいて、
ああ、たまこさん……というか、たんたんさんの言ってたことって、こういうことなのかなー、と思いました。
お祈りの直前になって、イライラしたりムカムカしたり悲しくなったり…という人もちらほらといらっしゃいましたしね。
たまこさんが、会の前に、またまた私のことを心配してくださってメールをくれたのですが、その中にこのように書かれてました。(もちろん転載の許可をいただいてますよ)
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以前たんたんさんのセッションを受けたとき、私たんたんさんに質問してみたことがあるんです。
人の集合意識がこの世界の動向を決めているなら、その集合意識を少しでも平和な方向にいってもらう意味も含めて皆で平和を祈る機会とかもうけるとどうなるんでしょうか?・・・って。
するとたんたんさんは
「そういった時は、まだそれぞれの中で解消しきれていない感情も浮上してくるんだよ。だからこういったセッションや他の方法ででまずそういう感情を解消していくんだよ」
って教えてくださいました。
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あーー、もしかして無謀なことをしてんのかなー?あたしたち。
とも思ったんですけど、自分に関しては上から降りてきたようなもんだしなー。この仕事も……と、開き直りました。
でも、人によっては、お祈りをしようと思っただけなのに、解消しきれていない感情が浮かび上がってきて、辛くなっちゃった…という人もいると思います。
「なんでかなー?」と不思議に感じていた人もいたかもしれませんね。
でも、そういうこともあるらしいです。
違う表現をするなら、今回出てきた不快な感情は、リリースする準備に入った感情、とも言えるかもしれませんね。
さて。
私個人としましては、今回のイベントを通して、
「適材適所」
というのはほんとーに大切だなぁ、としみじみと感じました。
私は、「クレア」がそんなに開いてるわけじゃないし、エネルギーもよく分からないし、サイキック能力もあるわけじゃないし…。
なので、そういう能力が必要な準備は、そういう能力が開いてる同級生にお願いして、任せっきりにしちゃいました。
では、私の仕事は何だったか、というと、非常に「肉体界的なお仕事」だったと思うのです。
主に文章を書くことが、私のお仕事でした。
でも、まだまだ未熟な私の文章であっても、私の言葉が誰かの心の中で何かを感じ考えるキッカケになったということが、いろんなコメントやメールから伝わってきました。
あー、それもまた、大事なお仕事だよなー、と感じたのです。
文章って、言葉って、コワイんですよね。
どんなに飾ろうとも、その人そのものが、どこかに出るからです。
私そのものを、ある意味さらけ出しているようなものです。
だからこそ、背伸びしても仕方がないし、と思って書いてきました。
でも、そんな私の言葉だからこそ、誰かの心の中で響くことができたんだろうなー、と思ったのです。
私の言葉は、みんなを導くような壮大な言葉ではないけれど、
たとえたった1人だけだとしても、その誰か1人の心に響く何かは秘めているんだなぁ、と、思えたのです。
私は、やっぱり書いてていいんだ、と思えたのです。
素直に、そう思えたのです。
タミエルたちの意図通り(だといいけど)、お祈り会を催すことができたご褒美をもらったような気がしました。
あるがままの自分を認めて、受け入れないと、
そこから真っ直ぐ成長していけないもんね。
くねくねと成長していくのもいいけれど、真っ直ぐな潔さみたいなものに惹かれるようになってきたんですよ。
ここんとこね。

★お祈り会【広島編】にご参加ありがとうございました★

肉体の私とのりすけちゃんが「やるかー。」を言い出した頃には、すでに上ではかーなーり綿密な打ち合わせがあった「お祈り会【広島編】」ですが、
想像以上にたくさんの方々に参加してもらえて、ビックリしました。
本当にありがとうございました。
お祈りをしたら、なんだかスッキリした気分になったよ、とか
お祈りをしたら、ハートが温かくなったよ、とか
よく分からなかったけど、とにかく参加しました、とか
なんでも結構ですので、もし感想等がありましたら、この日記のコメント欄にぜひぜひ書き込んでくださいね。
今回のお祈り会では、なにみえ遠足同級生の水都輝ちゃん、さちえる、あいりん♪、凛々さん、かさねさん、かめ☆ちゃん、yukittyちゃん、そして二期生のたまこさんが裏方として、みんないろいろと忙しい中、頑張ってくれました。
私はスカウトしただけで、お仕事はほとんど任せっぱなしだったんですが、場の浄化から何から……もう、スゴかったです。
そして、さつきのひかりさん、じぇいど♪さんにも、遠足前でお忙しい中、サポートしてもらいました。
ほんと、ありがたかったです。嬉しかったです。
ありがとうございました。
……また何か、私のハイヤーさんであるタミエルから仕事が降りてきたら、その時はみなさん、またまたよろしくお願いしますね。(どきどき)

私は、祈らずにいられない。ただそれだけ。

1発の核兵器がもたらす被害があまりに大きいし、
土地や人への後遺症があまりに大きいから、
特に目立つことでもあるし、最優先課題の1つであるんだけど、
でも、先の戦争で、日本人だって加害者になって、ヒドいことをいーーーーっぱいしてるんだよね…。
ていうか、太古から、「戦」というのは、殺し合いというだけでなくて、征服した土地への強奪・凌辱が行われ、多くの血と涙が流されてきているんだよね。
中東とか、チェチェンとか、いろんなところで民族紛争が続いてるよね。
アフガンやイラクでは、国がぐちゃぐちゃになってるよね。
今だに多くの血と涙が流れてるよね。
みんながお互いを許し合うって、本当は血反吐を吐くような、そんな道のりのなかもしれないね。
でも、それでも、平和な世界を祈らずにはいられないんだよ。
私は、ただそれだけなんだ。
ほんと、ただそれだけなんだ。

そんなつもりじゃないんだけど。」というのは、よく起こりやすいことだとは思いますが…。

じぇいど♪さんがお祈りの会のことをブログで紹介してくれました。
http://plaza.rakuten.co.jp/californiajade/diary/200910290001/
そのコメント欄に、りとる☆すのーさんが、「憤りを感じます」と、コメントしていらっしゃいます。
ご自分で被爆2世だと書いてらっしゃるので、原爆に対する想いも、私なんぞとは比較にならんほどの強いものをお持ちだと思います。
そんな強い想いがあるがゆえに、じぇいど♪さんや私の発言に対して、軽々しいものを感じたのかもしれません。
でも、もちろん、じぇいど♪さんも私も軽々しくなんて考えてませんし、資料館が無くなればいいなんて微塵も思ってません。
人間の視覚情報というのは強烈なものだと思うのですが、
多感だった高校生の私にとっては、写真に写っている全てにショックを受けて「気持ち悪くなった」というのも確かにありました。
しかし、それ以上に、核兵器も含めて、どうして人間はこんなに残酷なことができるのだろうか?どうしてこの人たちがこんな目に合わなくてはならなかったのか?……というさまざまな思いがガンガン沸き上がってきて、すごく「気持悪くなった」のです。
途中で館外に出ないと、このままでは倒れてしまうと思うくらいのぐるぐる具合でした。
そして、その頃は「想念」の力や、エネルギー的なことを何も知りませんでしたので、その想念がどこに向いてるのかも自分では分からないような、行き場の無い激しい虚無感や怒りを、どのように扱うべきかも、どうしたら良いのかも分からず、ただただ「どよよ~ん」としていました。
ですから、私が資料館で学んだことは非常に大きいです。
戦争経験者が身近にいないことが多い今の学生さんには、ぜひ見て欲しいと私も思います。
しかし、それと、エネルギー的な話はやはり別だと捉えていただきたいな、と思うのです。
資料館に行った人の多くが、写真や資料としっかり向き合うからこそ、怒りや憤りなどを強く感じるわけです。
それは、人間の「善なる部分」が反応しているとも言えると思います。
原爆資料館だけではありません。
日々の戦争のニュースや、子供への虐待、殺人事件などのニュース……に、私達の多くは心を傷め続けています。
けれど、だからと言って、怒りや憤りという想念を垂れ流しにしていて良いというわけではない、ということを、
そういう想念が決して平和へは繋がらないことを、
我々は、もう知ってしまったのです。
知ってしまったからには、我々には責任があるのです。
すべきことをしなければならないのです。
知らずにしている人たちは責められるべきではありません。
みんなが怒りの想念をだだ漏れにしているから、広島のグリッドがなかなか修正しきれないんだよ、なんて、誰も責めてはいませんよね。
ちゅまちゃんも、ただ知っている「事実」を話してくれているだけです。
けれど、知ってしまった私達は、だだ漏れにしてはならないのです。
そして、今自分ができることを、したいと思うことを、するしかないと思うのです。
以前、私がとあることをmixiの日記に書いた時に、たとえとして「インディゴの人が…」と、書いたら、何人かのマイミクさんたちが、その部分ばかりにコメントをつけてきた、ということがありました。
本筋のことは、何も触れずに、です。
人間は、みんな自分の世界の中で生きています。
強い想いがあればあるほど、枝葉が気になって仕方がないという状態に誰でもなります。
私だってそうです。
けれども、できることならば、本筋をしっかりと見ていきたいなぁ、と私はよく思います。
そして、そういう行き違いは、常にどこでも生まれやすいものだ、と肝に銘じなければなりませんね。
今回は、りとる☆すのーさんにイヤな思いをさせてしまったことを申し訳なく感じたのですが、本意を分かってもらえたらなぁ、と祈っています。