「光に住して、光に囚われず。」

タイトルの言葉は、五井先生の言葉っす。
以前にも紹介した覚えがあるっす。
忘れてたよ。
ああ、そうかって、思ったよ。
光に囚われた瞬間に、闇とかなんだとかという「解釈」が始まって、なにかしらと「戦う」という状況になっていくんだ。
敵なんていないのに。

φとかπとかは「はみ出している」。

「フラワー・オブ・ライフ」の1巻のどこに書いてあったか、探してみても何故か見つからない(いい加減な探し方してるから?)んですが、
φ(黄金比率) について書いてあるところだったと思うんですが、
こーゆー「割り切れずにどこまでもどこまでも数字が続くやん!」というヤツは、「本当の世界」のものが、「この世界」ではオーバーフローしてんだよ。
みたいなことがさらりと1~2行で書かれてたんですよ。
なるほどねぇ、と思いました。
π(円周率)でもそうでしょ。
πなんて、「超越数」ってことで証明済なんですって。
超越してる数なんて、フラワー・オブ・ライフに書いてあることそのまんまのネーミングやん!
てなわけで。
i(虚数)にしても、「こりゃ、はみ出してる」と思えば、なんとなく感覚的に納得です。
高校生の時、初めて複素数を授業で勉強した時に、
「なんじゃこりゃ」
と、思いませんでした?
私は思いました。ものごっつ。
日常的な、実数の世界の住人の私にとって、虚数って「ありえん」わけですよ。
なのに、数学ではばんばん出てきて、
「存在しない数を扱ったって意味ないやーん。」
みたいな、それこそ虚ろな目にもなるっちゅーの。
んでも、あれは「はみ出してるのかー。」と、20年以上前からの不可思議さに対する一種の着地点を見出し、ほのかに嬉しささえ込み上げてきます。
でね。
ここからちょっと話が変わるんですが。
五井先生の本を読んでると、昭和30年代だっけ?
もうそんな昔から「宇宙子科学」ということをおっしゃってるんですよ。
なんかね、高次の方々がね、どかーーんと幾何学模様やらなんやらをデカい紙(?)に降ろしてくれたとかなんとか。
(ごめんなさい。記憶あいあまいで。)
これって「科学」なんですって。
宇宙の全ては波動でできているんだけど、モノとしての最小単位は「宇宙子」と言うそうで。
これをしっかり解明していくのが、昌美先生のお仕事だったんだそうで。
ああ、そうそう。
マイミクのピタゴラス先生が、この宇宙子科学の研究メンバーだそうです。
実はスゴイ御方なんですよ。
でもねーーー。
ただ単にお祈りをちびちびやって数年後、突然五井先生の本を読み始めた私には、宇宙人とか宇宙天使とか宇宙子科学とかって、トンデモみたいじゃん???と、すごーーーく戸惑いが大きかったんです。
まー、なにみえ読者なら、そーゆーのに多分大きく戸惑うこともないんでしょうけど、当時の私はね、宗教的信仰と、そーゆーのって別モノだという固定觀念があったんですね。
でも、おかげさまで、觀念の再構築も半年くらいかかってなんとかなりまして。
そいで、ですね。
お父ちゃんの実家のあるこちらの地方に引っ越してきて、ひょんなことからこちらの白光の方のおうちに招かれたことがあったんです。
そのおうちに、いろんな写真が飾られてあったんですが、なんとなんと、「どーーーーん」と降ろされた例のモノが見切れてる写真があったんですよ!
もちろん、何が描かれてるのかって、さっぱりでしたけど、てっきり数式みたいなものかと思ってた私には、ちょっと「え?」って感じでした。
……ただね、それがね、どんな感じのモノが描かれてたのかさえ、思い出せんのです。
「え?」って思った自分の感情しか思い出せんのです。
とにかくですね、「降ろされたモノ」があるわけなんですよ。
んで、それを研究して解明(?)する『だけ』なら、そんなに時間がかかるもんじゃないんじゃないのか?と思っちゃったりしたわけですよ。
凡人だから。私。
でもね。
なかなかそーゆーもんでもないらしいんです。
そっかー。
人間が理解できるように翻訳するのって非常に難しいんだなぁ……。
なーんて単純に思ったんです。
で。
フラワー・オブ・ライフのあの部分を読んでから、ちょっと経って、
あの「降ろされたモノ」のほとんどって、「はみ出してるモノ」なんじゃないか?
と、思ったんですよ。
そりゃ、えらいこっちゃ~~~。
具体的にはちっとも分からんけど、宇宙子科学のメンバーさんたちがやってることって、そーとーえらいこっちゃ~~~。
と、思ったんですよ。
というわけで、ピタゴラス先生は偉い人なんです。
(↑今日の結論)

【mixiより転記】オーバーラップする『世界』

【mixiより転記 5月4日】
小学校に上る前のこと。
お月さまはいつも私と一緒でした。
私が歩けば一緒についてくるし、私が止まればお月さまも止まる。
ある時、その当たり前だった事柄を疑問に思うようになりました。
なんで、お月さまは「私」と一緒なんだろう?
そこで、隣の家に住んでた1つ年上のマーちゃんと、私の2つ年下の弟のタカちゃんにお願いしました。
「タカちゃんはここにじっとしとって。マーちゃんはあっちに走ってって。私はこっちに行くで。みんなお月さまがどうなったか見とってね。」
そして、マーちゃんと私がタカちゃんのところに戻ってきました。
「マーちゃん、お月さまはどうやった?止まっとった?マーちゃんについてきた?」
「ぼくについてきたよ。」
「タカちゃんは?」
「お月さまは止まっとったよ。」
「……おかしいなぁ。お月さまは私についてきとったのに。」
大きくなって、それがどういうことかの謎解きはできたのですが、あくまで現象としての謎解きです。
この出来事は、忘れることなく私の中にずーっと在りました。
そして、今日になって、分かりました。
そうか。
お月さまは、いつも「私」と一緒なんだ。
「私」が止まれば止まる。「私」が走れば走る。
その認識で良かったんだ。
タカちゃんの月も、マーちゃんの月も同じ月だけど、「私」と「私の月」との関係は、唯一のものだったんだ。
そして同時に、「タカちゃん」と「タカちゃんの月」との関係も、「マーちゃん」と「マーちゃんの月」との関係も、それぞれが唯一のものだったんだ。
あの時、私とタカちゃんとマーちゃんが同じ『世界』に存在していたのではなく、「私の『世界』」と「タカちゃんの『世界』」と「マーちゃんの『世界』」がオーバーラップしていたのだ。
オーバーラップすることで、お互いの『世界』はより豊かになるのだけれど、私は「タカちゃんの『世界』」にも「マーちゃんの『世界』」にも決して【介入】することはできないのだ。
なぜなら、タカちゃんは止まっていて、マーちゃんはあっちに走っていて、私はこっちに走っているから。
こっちに走っている私が、タカちゃんの月を動かすことなんてできっこないのだから。
だから、「私」は、「私の『世界』」に責任を負う者、「神」なんだ。
と、今日になって気がついたのです。
ですから、まずは「私の『世界』」の調和を祈り、そして、それぞれの『世界』がオーバーラップする『超・世界』が大調和するように、「世界平和の祈り」で祈っているんだなぁ、と、いまさら……ほんとに今頃になってハタと分かったのです。
何年、お祈りしてるんだかね~~。てへへ。

【mixiより転記】守護霊さま主催の強化合宿か?

【mixiより転記 4月22日】
ちゃんと記録用にここの日記に書こうと思ってたんですが、えらいこと長くなるので、とりあえず「ハッピーダイアリー」にメモを書いて残しておきました。それでも長くなったー。
詳細はざっくり省きますが、22、23、24日の3日間は「守護霊さま主催の強化合宿か?」って思うくらい濃い学びの時間でありました。
それで。
強化合宿の成果は、というと。
「我即神也」「人類即神也」の印を組みながら、「この印を組んでいる私は阿弥陀さまなのだ。阿弥陀さまの光がこの3次元の世界に私の体を通して放射されているのだ。全ての人がアセンションするのだ。」と、心の底から思うことができました。
そして、心の底からそう思えた時、印を組みながら『ぞわぞわ』しました。
まるで細胞1つ1つが細かく振動しているかのような感覚でした。
1つ高い視点へと引き上げていただけたんだ、と実感しました。
そして、思ったんです。
今回の強化合宿で私が1つ高い視点へと引き上げてもらったように、それぞれの人がそれぞれの道筋で成長されているんですよね。
体験そのものは非常に個人的なものだけれど、近づいていく「真理」は普遍的なものなんだな、と。
だからこそ、自分だけの道筋において、自分だけの体験および感情・感覚を深く味わっておかないと、広い宇宙の中で誰も経験できないことをしてるんだから、勿体なさ過ぎるよな、って。

【mixiより転記】「消えてゆく姿」

【mixiより転記 2月26日】
んなもんねー、私ごときがでもですよ、五井先生の教えについて語ろうと思ったらですね、1時間はかかるってなもんでしてね。
それでも、すんげーー要約しますとね。
まず、五井先生って何者かと言いますと、過去世でどえらい修行をいっぱいされて、もう転生せんでもええよってくらいの方だったんですが、救われていない人たちのために、わざわざ再び肉体の世界に来てくださった方です。
そうは言っても、受肉というのは「忘却の河」を渡ってくるわけですから、肉体の先生も忘却されてることがいっぱいで、そのために苦しい修行をされ、肉体があるまま「神我一体」に至ったのだそうです。
神我一体については、五井先生が唯一そうである、というわけではなくて、霊性進化を続けていけば誰でも至るところではあるのですが、今の私からするとエベレストの頂上くらい果てしないところであります。
『あるヨギの自叙伝』を読まれると、そのあたりについてはよく分かると思います。
インドにはそういう人が比較的多くて、ビックリしちゃいます。
ずっと昔から現在まで、いろんな場所でいろんな聖者が、いろんな方法(教え)で人々を救おうとされてきているんですもんね。
しかし、インドは多い気がするーー。
さて、そんな五井先生が我々のために神界との約束をとりつけてくださいました。
『世界平和のお祈り』をすると、救世の大光明がさーーっと降りてくる、というものです。
ただし。
我々の側に大問題がありまして、いわゆる負のカルマがたんまりあって、それが分厚い雲のように覆っていて、なかなか大光明が届かないのです。
なので、お祈りをしたからと言って、たちどころに清められるというわけではないのですが、徐々に雲が少なくなっていき、我々にも「ああ、光が差し込んできたわ。」と感じられるようになってくるのです。
私の場合で言いますと、私は10年ちかくちびちびとお祈りをさせてもらってますが、最近気がついたら『私の真ん中でいつも世界平和の祈りが響いている』と感じられるようになってきました。
そうやって、徐々に清められていき、人生もどんどん変わっていくわけです。
そして。
もうひとつ言いますと、五井先生の教えには「消えてゆく姿」というのがあります。
人間はもともとは神そのものであったのですが、神界から霊界、霊界から幽界、幽界から肉体界へとディセションするに従い、波動が粗くなりますね。
その粗い波動の世界に降りてきて使命を完うしようとしてるうちに、神様とのつながりを忘れてしまったわけです。
神様と隙間ができてしまったわけですね。
それがキリスト教で言うところの『原罪』なんでしょう。
そこから負のカルマを生み出されていくわけですが、人間のそういうよろしくない想念や行為は全て幽界に溜まっていくのであります。
過去世からの負債がどれだけあるかって想像するだけでゾゾ~っとしますね。
あまりに我々の負債が大きすぎるので、守護霊さま守護神さまが肩代わりして消してってくれてるそうなのですが、もちろん全部を肩代わりしてくださるわけではありません。
返さなければならないものは返さなければならないのです。
つまり、その溜まっていったものが、いろんな条件がそろうと、ぼろっと現れてくるのです。
それが病気だったり事故だったりケンカだったり…と、さまざまなのですが、ありがたいことに、それらは『消えるために』現れるのです。
そうなんです。実はありがたいことなんです。
消えてゆく姿、なのです。
しかし、残念なことに我々は消えていこうとして現れるそれらに怒りなどを感じて、また掴んでしまうことが多いのです。
そこで、先生は「消えてゆく姿(に対する負の感情)は、お祈り(救世の大光明)の中に入れてしまいなさい。」と教えてくれているのです。
それは感情を押し込める、という意味ではないのです。
感情はちゃんと感じて、それを掴まないようにしなさい、ということなのです。
が。
それが、実際にはなかなか難しいのです。
簡単ではないからこそ、少しずつでも日々お祈りを続けて、救世の大光明が届きやすい自分になっていくこと、守護霊さま守護神さまがお助けしやすい自分になっていくことが必要になっていくわけです。
そうすると、「消えてゆく姿」に対しても上手に対応できるように徐々になっていけるのです。
あー。長かった。
すんげー『はしょった』けど、それでも長いよーー。
なんでこんな説明をしたかというとですね。
実は一昨日の日記の補足があるのです。
観音様に過去世の残った想いを光で包んでもらった…と書きましたが、『お金が無くて子どもを育てられなかった』という想い以外にも、いくつか思いついたものがあり、次々と光で包んでいただいたのです………が。
朝起きたら、思い出せないのです。
ちゃんとしっかり意識はあったんですよ。
なのに思い出せないのです。
どうやっても思い出せないのです。
そのことについて、今日弟1号に話したところ、
「消えてゆく姿やね~。消してもらえたんやね~~。良かったね~~。」と嬉しそうに答えてくれました。
おお。
そうか。そうなのか。
消えてしまったから思い出せないのか。
……うわー。
それって、すごいことやん。
弟に言われて、観音様のお慈悲に感激を新たにしたお母ちゃんなのでありました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
*****
なんとなく、世界平和のお祈りをしてみてもいいかな?と、思ったら、今すぐお祈りしましょう。
宗教宗派に関係ないお祈りですんで。
世界人類が平和でありますように。
日本(自分の国名)が平和でありますように。
私たちの天命が完う(まっとう)されますように。
守護霊さまありがとうございます。
守護神さまありがとうございます。