子供の障害を受容するということ

NPO法人パルクさんから原稿依頼をもらいまして、昨年書いたものです。
子供の障害を親が受容するというテーマでしたので、実体験を書きました。
利用者さんのご家族等に配布する年4回発行のお便りに載せてもらいました。
掲載がコンプリートしましたので、このブログにもアップしておこうと思います。
ちいさいちいさい私の子供たち
【その1】
息子がまだマメタロウと私に呼ばれていた頃、それもまだとてもとても小さい頃、私は夢を見ました。
マメタロウは夢の中で、たった12週なのに生まれてきてしまったのです。
生まれてきてしまったマメタロウを、私は慌てて水をはった洗面器の中に入れました。
水の中からこちらをじーーっと見ているマメタロウの目は、それはそれは綺麗な青色をしていました。
さすがに12週で生まれてしまったのはマズいと思い、私は股の間から子宮へとマメタロウをするんと押し込みましたが、すぐにお腹の中でボコボコ動き出したマメタロウは再びつるりと出てきてしまいました。
二度目に出てきたマメタロウはもう青い目ではなく、つやつやの黒い目をしていました。
「お腹に戻ろうよ。マメちゃん。12週で生まれちゃうと、何か障害が出ちゃうかもしれんで…。」と、私はマメタロウに言いましたが、マメタロウは
「目が見えんでも、耳が聞こえんでも、そんなのはたいしたことやあらへん。俺が生まれたいんや。」と、言いました。
「でも、やっぱり…。」と、私がまごついているうちに目が醒めました。
息子は一カ月検診の時に聴力検査でひっかかりました。その上で、「もしかしたらダウン症かもしれないので染色体検査をしませんか?」と小児科の先生に言われたのでした。
その瞬間、私は高校生物で学んだダウン症についての知識を猛烈な勢いで自分の記憶の中から引っ張りだしていました。
『何番だったかの染色体が1本多いんだよね。1000人に1人くらいの確率だったはずだよね。独特の顔つきになるんだよね。いろんな合併症があるんだよね。そして知的障害があるんだよね…。』
今振り返ってみると、自分の中で大きな雑音がガーガー鳴っているような感覚の中で、その記憶を反芻することで自分を見失わないようにしていたように思います。
しかし、先生の話が終り、聴力検査のための大学病院への紹介状を書いてもらっている間に、だんだん涙が溢れ出てきてしまいました。
驚きと、申し訳ないという気持ちがいっぱいになって、涙が止まらなくなりました。
家に帰っても、ずーっと涙が止まりませんでした。
「目が見えんでも、耳が聞こえんでも、そんなことたいしたことあらへん、って言ってた子やもんなぁ…。」と、思いつつも、やはり涙が止まりませんでした。
人間は、過不足なしで生まれてくるものだと、私は思っています。
もし、なんらかの障害があるのなら、それは必要だから持って生まれてきたものだと思っていましたし、息子がたとえダウン症だったとしても、息子に対する私たちの愛情が変わるわけでもないし、彼がかわいそうな子になるわけでもないのです。
でも、私は泣けて仕方がありませんでした。
すごく不安だったのです。
【その2】
しかし、泣きながらも、私は何を不安がっているんだろう?と、ふと思ったのでした。
そしてそれは、息子がダウン症じゃないことを願っているからこそ、不安が生まれるのだとすぐに気づきました。
では、私は息子がダウン症じゃなければいい、健康な普通の子であってくれ、と何故願っているんだろう?と、考えました。
ダウン症やその他の障害を持っている人を差別しているつもりはありません。
けれど、自分の子供は普通の健常児であって欲しいと願う気持ちは、一体何なのでしょう?
親だから?
母親だったら当然なのでしょうか??
「普通」に産んでやれなかったとしたらとても申し訳ない、と思う気持ちが自分の中でこんなに強いものだと知り、戸惑いにも似た気持ちにさえなりました。
「頭で知っていること」と「当事者の感情」があまりにも乖離していたのでした。
けれども、実家の母親と電話をして会話しているうちに気がつきました。
「ああ、これって、『親の欲』なんだなぁ。」と。
親の『愛』ではなく、親の『欲』だなぁ、と。
だから『涙が止まらないような感情』が生み出されているのか、と分かりました。
そんな不安の中、染色体検査の結果が出たので、小児科の先生の説明を聞きに行きました。
縞々模様の小さな21番染色体が3本ありました。
その写真を見た瞬間、私は自分の心臓がドクンと音をたてるのを聴きました。自分の心臓の音をあんな大きな音で聴いたのはこの時が初めてでした。
もちろんショックでした。ぼろぼろ泣きました。
それでも、あの夢のことも、知り合いの霊感の非常に強い方に「この子にはかなわんよ。だって、修行したお坊さんが隣にいるようなもんだからね。この子は余計なことを悩まずに、やるべきことをして生きていけるよ。」と言われたことも、私の中の半分では『息子はダウン症なのだろう』という予感となっていたので、それがまるで緩衝材のようになってくれました。
そしてなにより、息子に大きな合併症が無く、毎日元気におっぱいを飲んでくれることが、母親の私に安心感を与えてくれていました。たとえそれが一時的なものだとしても、我が子が元気であることが一番の癒しとなってくれていたのです。受容のプロセスの最初の段階で、すでに私は息子に助けられていたのでした。
しかし、それでも私も主人もこの「親の欲」に2年間ほど試練を与えられることになっていきました。
【その3】
母親というものは、今子供に食べさせてやらないと…というのが常に命題としてあるため、場合によっては強いのかもしれません。
私の場合も日常の育児のおかげで、ぽろぽろと涙が零れてしまうことよりも、落ち着いた気持ちでいる時間の方が少しずつ少しずつ増えていきました。
つまり、私は目の前の命題優先で先々のことに思いめぐらせることがあまりできなかったのですが、父親というものは違うようです。
元々の役割として、父親は『子供が自立して生きていけるようになるために、今すべきことは何か』を考えることが多いような気がします。
だからなのでしょう。主人はネットでいろいろ調べていくうちに、どんどんダメージが深くなっていったようでした。
息子がかわいくて仕方がない主人は、息子の将来のことを考えると、たまらなく不安になるようでした。
しかし、主人はその大きな不安と真正面から向き合い、その結果として自分の人生を大きく転換させたのでした。
当時、あるダウン症の子を持つ親のサークルのサイトに医師による講演の記事が載っているのをたまたま見つけました。子供が何らかの障害を持っていると分かった時、親の心は以下のプロセスで回復していくと書いてありました。
1)ショックを受ける。
2)事実を否認する、認めない。
3)悲しみとか、怒りとか、不安が錯綜する。
4)事実を受け入れる事が出来る。
5)再起、新たな価値を見つけて取り組む、前進する、立直る。

これらは、配偶者を亡くした時の心のプロセスと同じなのだそうです。喪のプロセスです。
障害児の親というのは、「自分が思い描いていた健常な子供のイメージ、自分にとって大切なものを失う。」「健常な子を産めるはずだった自分というものを失う。」と、二重の喪失を味わい、心に深い傷を負うのだそうです。このような喪失による心の傷が回復するのに、個人差はもちろんありますが、およそ2年かかるのだそうです。もし、このプロセスのどこかで無意識に感情を押さえ込んだりすると、いつかどこかで破綻するのだそうです。心が。
私の場合は2)を理性がねじ伏せてしまったために、その歪みが『あれだけ幸せだった妊婦生活に嫌悪感を感じて振り返ることができない』という形で後からじわじわと出てきました。
その点、主人はこのプロセスをより深く経験し、5)において、まるで惑星探査機が惑星の重力を利用して軌道を変更し加速する「スイングバイ」みたいなことをしたんだなぁ、と振り返る度に私はそう感心します。
ですから、今このプロセスの中にいる方には、非常に辛いでしょうけれども、逃げずに立ち止まらずに深く深く体験し、新しい自分自身に出会っていただきたいと願うのです。
【その4】
回復のプロセスを経て、息子が2歳になる頃には私も息子の障害をほぼほぼ受け入れることができていたように思います。この経験があったおかげで、小3で娘がディスレクシア(読字障害)であることが判明した時も、心の中は大嵐ではありましたが、同時に客観的な眼差しを自分自身に向けつつ、不安や悲しみや怒りが発生する根源を己の中に探し出し、それを比較的短時間で受容していくこともできました。
しかし、です。
しかし、息子の障害については完全には受け入れていなかったのだ、と最近になって気付くことになりました。
だんだんと成長していき、体もどんどん大きくなっていく息子は、同年代のダウン症の子たちの中でも大きい方だと思います。ガッチリした体で肩幅も広いです。小さな頃から笑顔がチャーミングで、自分よりも小さな子にとても優しいです。コツコツと勉強もします。
「この子の染色体が46本だったら、きっと背も高くて肩幅もあって優しくて賢くて、いい男になっただろうなぁ~。」と、最近になって私が冗談半分で主人に言うようになったのです。
ええ。冗談半分。半分は本気です。
バカなことを言ってるなー、と主人は笑っていますが、私は半分本気なのです。
「自分が思い描いていた健常な子供のイメージ、自分にとって大切なもの」を失ってしまったことを、私は完全には受け入れていなくて、ちびりちびりとこうして漏れ出てくるようになったのです。この件のみならず、人生に「たら・れば」を適用してもそこに前向きな創造性は生まれません。ちょっと切なくなるのが関の山です。それが分かっていても冗談半分で言ってしまう自分がいて、ハッと気がついたのでした。完全には受け入れていなかったのだな、と。
けれども、よくよく考えてみれば、私は自分自身の人生ですら完全には受け入れていないのですから、息子の障害だけを完全に受け入れることができているわけがないのです。私はとても往生際が悪いのだということを忘れていました。
ですから、きっと私はまだまだ息子の障害を完全には受け入れることができないのだろうと思いますし、それでもいいと思うのです。一生かかって成していくことなのだろう、と開き直りました。
子供の障害を受容するということは、一般的なプロセスを経ることが多いとは言え、非常に個人的なものであり、同じケースというものは有り得ないと思います。それは実は人生そのものであり、生き方そのものであり、それこそ「個人の神話」だと私は確信しているからです。一生かけて織りなす神話の登場人物に我が子たちがいてくれて良かったと最期に心から感謝できれば、それで十分なのではないか、と思えたのです。そしてそうありたいと願いつつ、今日も今日とて子供たちを可愛がりまくる親バカなお母ちゃんとして生きております。

どうしても受け入れがたくて、泣いてしまいました。

昨日の夜、これを見てたんですよ。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2014-06/05.html
出生前診断についてとか、受精卵の選択とか、
そーゆーことについて、さまざまな立場の人のさまざまな意見を聞くことができました。
出生前診断については、今は妊婦さんの血液から染色体異常の赤ちゃんの可能性ってのが分かるそうで、
その多くはダウン症ってことになるんでしょうね。
ダウン症児の母親としては、ひじょーーーーーに複雑な思いを抱いてしまうテーマです。
でもね。
障害児を育てるのは大変だろうというのは、私は子供の頃から知ってました。
出産時の酸素不足で脳性マヒになった親戚の子もいましたし、脳性マヒの同級生もクラスにいましたし、
近所には耳の不自由な子もいたので、子供ながらにも障害児を育てるのは大変だというのは簡単に想像がつきました。
うちの息子は手のかからない方だと思います。
それでもいろいろあります。
もっともっと障害の程度が重い子供を育ててるお母さんたちは、どれだけ大変だろう、と思うこともあります。
けれど、私は第二子の娘を妊娠しても、羊水検査はしませんでした。
不安が全く無かったわけではありませんが、羊水検査はしませんでした。
授かった命が生まれてくるのなら、育てるのが親の役目だと思っていたからです。
…というと、かっこいいですね。
ほんとはね、私は中絶するという選択ができないなーって思っただけなんですよ。
チキンなんですよ。
だったら検査する必要なんて無いですもんね。
ゆうべ見たハートネットTVで、検査を推進してる方(産婦人科の先生だったかな?)が、今までに接してきた方々の中で、
ダウン症の子が施設に入ることが決まって、これから自分の第2の人生が始まります、と、報告してきてくれた親御さんがいたと話していました。
そういう人がいるから、検査は必要だと思っている……みたいなことを言ってたんですが、
それを聞いて、泣けちゃったんです。
確かに、ダウン症でも知的障害がとても重い子だと、育てるのがとても大変なのは、知っています。
ダウン症の子は感性が豊かで優しくて…と、いい面をいろいろ言ってはもらえますし、そういうのも確かなんですが、
そういう子ばかりじゃないんです。
だから、親が、特に母親が自分の人生をその障害児のお世話で費やされてしまう、という場合もあると思うんです。
でも、それでも、『子供が施設に入ることが決まったから、これから第2の人生が始まる』という言葉は、リアルタイムでダウン症児を育ててる私には、どうしても受け入れがたいものでした。
そういう考えもあるよね、と、どうしても思えずに泣いてしまいました。
そのお子さんが生まれてきて、その親御さんは幸せだと思ったことが無かったのか?責任感だけで育ててきたのか?と考えてしまって、泣けてしまったのです。
悲しすぎたんです。
そういう悲しいことを、検査をすることで減らす、というのは、
障害のある赤ちゃんは中絶して、生まれてこないようにする、ということですよね。
全く理解できない、というわけじゃないんです。
そうなんです。
全く理解できない、というわけじゃないので余計にもにょもにょするんですが、
でもね、やっぱりね、そこには命というものに対しての、人間の傲慢さを感じてしまうのです。
「それでいいの?ほんとにそれでいいの?」って、もにょもにょもにょもにょし続けてしまうのです。
科学進歩、科学技術の進歩は、その技術を使う人間の、人類の、その資質をシビアに問い続けているように思います。
それは、原発事故とその後のアレコレが如実に示していますよね。
私達は、どうあるべきなんでしょうね。

おれは素敵お猫として生きるだけさ。

ダウン症児の親としては、この世界を信じるしかない。

台風と秋雨前線のせいで、京都と滋賀と福井は大変なことになってましたね。
こちらはというと、どうやら台風のど真ん中あたりが通過したらしく、ごごごーっというすごい風がすっと止み、
あれ?もう通りすぎたのかな?と呑気に思っていたら、またごごごごごーっとすごい風が吹いてきました。
風向きが逆になっていたので、あれれ?もしかして目の中にいたのかしらー?と後々になって思ったのですが、
実は朝から昼まで5時間半も停電していたので、豊橋上陸という情報だけはラジオで聞いてましたが、その後の進路がよく分かっていなかったのです。
停電が復旧してから、NHKのニュースで経路を見て「おおおー。がっつり通ってったやーん。」と知ったくらいでして…。
そんなわけで、「中部電力のおじさーん。復旧作業がんばってー。」と家の中で子供たちと応援しておりました。
復旧直後は「わーい。やったー。電気きたー!中電のおじさーん、ありがとー!」と子供たちと万歳しました。
これが夜じゃなくてホントに良かったです。
(てか、夜じゃないので、外は台風だし、家の中でゴロゴロまったりしてて、冷蔵庫の中身のこと以外そんなに困ってなかったんだけどねー。おかげさまで洪水の心配は無かったし。だってーダムが渇水で困った!って状態だからさー、大雨歓迎だったのよー。このあたりは。)
さて。
話はガラリと変わります。
今日のお昼に農協スーパーに行ったんですけど、お惣菜コーナーのところで、お客さんに丁寧に優しく話してる店員のおばさんがいて、ふと見ると、お客さんが大人のダウン症の人でした。
お弁当やお惣菜を買うのに、店員さんが「これは○○だよ。△△円だけど、どうする?これで合わせて□□円になるよ。」と、すごーく優しく丁寧に対応していたのです。
お惣菜はその人に代わってパックに詰めてあげていました。
それに対してダウン症の人がお礼を言うと、店員さんは、
「いいんですよ~。こういうお手伝いもお仕事ですからね~。」と、心からの親切さが伝わる笑顔で答えていました。
私はそんなやりとりを見ないフリして見ていて、泣きそうになりました。
涙を堪えるのに必死になってしまいました。
知的障害のある子供を持った親は、この子が将来どのように生きていくのだろう、と案じて不安になることが多いと思います。
自分で生き抜く力をつけてあげたくても、必ず誰かの、社会のお世話にならないと生きていけないのが明らかだからです。
だから、ダウン症の人に親切に接している店員さんを見て、自分の子供のことでもないのにありがたくて心の中で手を合わせるかのような、そんな感謝の気持でいっぱいになり、泣きそうになったのです。
うちの息子も、成人後もこうやって誰かの親切をたくさん受けて生きていくのです。
なので、私はどんなにヒドいニュースだらけでも、この世界を、人間を、信じて生きるしかないのです。
そうじゃないと、不安だらけで身動きが取れなくなるからです。
どこかでふっきって、「きっと大丈夫。」と信じるしかないのです。
とは言っても、
息子を残して死ねないなぁ…と、ついつい思ってしまって、きっと大丈夫と自分に言い聞かせて深呼吸をひとつする…ということが今でもよくあるんですけどね。

当たり前なんだけど当たり前じゃない。

24時間テレビはチラっと見るくらいで、ほとんど見ないんですけど、
今年の夏ので、障害児たちが演奏をするというのがあったんですね。
たまたま動画サイトで見つけたんですが。
http://www.youtube.com/watch?v=hG780gnvRJE&feature=player_embedded
これを見てみたら、何人かダウンちゃんが映ってました。
障害が重そうな子が何人かいて、言葉が出てないかもなー、と思いました。
ダウン症の多くは21番染色体が3本あるために発症するものだけれど、
同じように3本持ってるのに、障害の重さはさまざまなんですよね…。
ほんとーにさまざま。
だいたい半分の子は心臓に欠陥があって赤ちゃんの時に手術しないといけないし、
白血病になる子もいるし、
消化器官が細くて手術をいっぱいしないといけない子もいるし…。
ウチの息子みたいに入院経験がないダウン症児というのはかなり少数派みたいです。
そして、知的障害の度合いもさまざまです。
ウチの息子の場合は、ダウン症児の知的障害レベルで言えば平均的なところにいると思うんですが、意味のある言葉を発するようになったのは3歳頃だったと思います。
しかし、障害が重い子の中にはずっと言葉が出ない子もたくさんいます。
言葉が出るか出ないか、は大きな分かれ目だよなぁ、と思います。
言葉でコミュニケーションが取れるということのありがたさ、というのは、息子が成長するにしたがって、ものすごくものすごく感じます。
なので、私にとってはは当たり前のことなんだけど当たり前のことじゃないんです。
息子が、ニコっと笑って、「おかーしゃん、ありがとね。」と言ってくれることって。
息子たちが「できてあたりまえ」というものは無いんだよ、ということを教えてくれているのは、すごい恩恵だよなぁー、と思います。
ほんとに。

色白で肌が薄くて、なんかキレイ。

溶連菌騒ぎも収束し、やれやれと思っていたら、また息子が風邪を拾ってきました。
今回も熱はたいしたことないのですが、鼻水だらだらの風邪です。
もちろん、娘もだらだらです。
しかし、喉が痛くて食べられないよ~という状況よりはマシなので、あまり心配してません。母。
ところで。
溶連菌騒ぎの時に子どもたちは抗生剤を飲んだんですが、息子は4歳半にして初めての抗生剤でした。
そしたら、顔がキレイになったんです。
というのも。
ダウンちゃんは色白で肌が薄い感じの子が多いのですが、息子は違うのです。
いえ、名古屋にいた頃はそうでした。
でも、田舎に引っ越してきて、ワイルドな児デイとワイルドな保育園に行くようになって、夏は黒くなり、冬は常にハナ垂れ小僧でほっぺはかさかさの真っ赤っかなのです。ええ。田舎の子なのです。
暑くても寒くても外でガンガン遊んでるので、そうなっちゃうわけですが、あのキレイな色白の肌にお目にかかることがなくなっていたのです。
それが、抗生剤のおかげで3日間ほどキレイな色白のアキオに戻ったのでした!
ああ、なんかいいぞ。いい感じだぞ。[E:happy01]
しかーし。
風邪をまた拾ってきたので、いつもの田舎の子フェイスに逆戻り…。
お父ちゃんは、「色白の方がイヤだ。それに小さい頃から常にいろんな菌に触れてるってのは丈夫になるからそれでいいんやー。」と言うけれど、そりゃキレイな方が見た目はいいやん?
と、思うのはお母ちゃんだけのようであります。[E:bearing]

「アキオ。」

4歳と1カ月で、息子は自分の名前を言うようになりました。
父「ユリコ~。」
母「ユ~リコ。」
息子「……アキオ。」
お父ちゃんとお母ちゃんがユリコの名前ばかりを呼んでいると、自分で「アキオ。」と言います。
「おお。そうだね。アキオ~~。」と呼んであげると息子はニコニコ。
自分の名前がちゃんと言えるようになるって、息子にしたら大きな進歩だったに違いありません。
食事の前に私が息子に「お箸を並べてきて。」と3人分のお箸を息子に渡しますと、お父ちゃんの話では、1本1本「とーちゃん。」「かーちゃん。」「アキオ。」「アキオ。」「かーちゃん。」「とーちゃん。」と言いながら並べるんだそうです。(お母ちゃんは台所にいるので現場をほとんど見ていない。)
お父ちゃん曰く
「お父ちゃんの箸とお母ちゃんの箸の色が似てるから、すげー考えるんだよ。」だそうです。息子。
そんな姿がカワイイんだそうです。
今朝は「スリッパ。」としっかりした発音で言えたそうです。お父ちゃんが嬉しそうに言ってました。
うん。「スリッパ」なんて、ちょっと難度高そうやん。発音、簡単じゃないよね。息子、偉いぞ。
ダウン症の子は、言葉を認識できていても発話が遅いのです。
自分の意志を言葉で上手に伝えられないストレスというのは、見ていてかわいそうになります。
でも、こうやって発音が上手にできる言葉が増えていくんですね。
あ。
そうそう。
そんな発話の遅い兄に比べ、妹は8カ月だというのに、
「かーたんたん。」(に近い発音)
「とーたんたん。」(に近い発音)
と、言います。
本当なんです。嘘じゃないんです。
普段は「あんぶーばー。」ってばかり言ってるのに、お父ちゃんとお母ちゃんに向かっては、冷静になって聞いてみても、やっぱり意図が感じられる発音をしてるんです。
それもちゃんと区別してるんです。
ビックリですわ。ほんと。

妹の名前

息子からうつった厄介な風邪が、まだ私にコンコンと咳をさせています。
人生で最大級の量だった鼻水は治ったけど、まだ声が元に戻ってません。
風邪だけじゃなく、アチコチ日替わりで調子っぱずれてます。
……そーゆー時期っちゅーことで。
ところで。
アキオはユリコが嫌いな時もあるけれど、基本的には大好きなようです。
まだユリコが寝てるってーのに、自分が起きると、必ずユリコを起こしたりしてます。
そのアキオさん。
最初はユリコのことを「リコ。」って呼んでました。
ユが上手に発音できなかったのね。
そもそもダウン症児は発話が遅いだけでなく、単語を1~2音に省略したりするし発音も不明瞭なので、めっちゃオシャベリな息子なんですけど、母の私でさえ何言ってんのか分からんことだらけなのです。
それでも息子は妹を呼び続けます。
そのうち、「ユリコ。」に近い発音で呼ぶようになったのですが、一時期「ユッコ。」って呼ぶようになりました。
リコでもユッコでも、なんだかカワイイからいいや、と思ってました。
そしたら、ここ数日は
「イヤコ。」
と呼ぶようになっちゃいました…。
イはユとイの間のような音なんですが、さすがにイヤコは母がイヤなので、「イヤコじゃないわー。ユリコやわー。」と訂正し続けております。

今から思うと…。

ユリコの一カ月検診で吉村先生に診てもらった時に、
「なんの異常もありません。それにこの子は精神的に非常に安定してますなぁ。」
と、言われました。
非常に嬉しい言葉でした。
ですので、ほぼ確実にダウン症ではないと思っておりますが、実感としても「ダウンちゃんと、そうじゃない子ってのはやっぱり違うなぁ~。」と、最初っから感じていました。
というのも、アキオが新生児の頃は、横抱きでオッパイを上手に飲ませられなかったんです。
なので試行錯誤の末、縦抱きで飲ませてたんです。
今から思うと、やはり身体(筋肉)が柔らかかったから上手に抱けなかったんですね。
それが、ユリコは最初っから横抱きでも大丈夫だったんです。
お父ちゃんも言いました。
「この子、しっかりしてるねぇ。」
お肉もどんどんついてきて丸くなってきているユリコを抱っこすると、まるで小犬を抱っこしているように感じます。
アキオはそれと比べてどうだったかと言うと、猫を抱っこしてるみたいでした。
それくらいの違いがあります。
ユリコはすでに少し首も座り始めているし、成長スピードの違いにもこれからますます驚かされるんだろうなぁ、と思っています。
第一子がダウン症児だと、それがスタンダードになっちゃいますからねぇ。
「ユリコは赤い彗星だ~。3倍速いぞ~。」なんて夫婦で冗談言ってます。
その我が家のスタンダード君ですが、実は先日の療育手帳の際判定で、C判定からB判定になりました。
療育手帳とは18歳以前に知的な遅れがみられる人に対して交付される手帳です。
知能指数の程度により、重度(愛知県ではA判定、IQ=35以下)、中度(B判定、IQ=36~50)、軽度(C判定、IQ=51~75)に分かれます。
ずっと軽度でいられるとは思っていなかったので、お父ちゃんから結果を聞いても「そっかー。」と反応しただけなんですが、心の一部分では何やらひっかかりがあったようで、ちょっと妙な感じが続いてしまいました。
自分でもイマイチよく分からんのですが、ユリコが生まれていなかったらひっかからなかっただろうな、というのだけは分かっています。
こーゆー感じって、同じような立場の母親だったら分かってくれるような気がしますが、やっぱりなんだか上手に言語化できません。
ま、それでもね、続いていた妙な感じはだんだん収束していったので、このまま言語化されずに放置されちゃうんでしょうけど、何かの拍子にまたひょっこり顔を出す類だな、とも思ってます。
若干、厄介…っぽいなぁ。
我が子が障害を持って生まれたというのは、母親にしたらやはり非常に重たいものなんだってことですねぇ…。
時々、思いがけずにチクンチクンとやられるのです。
その重みに。
というわけで、今日は覚書の日記でありました。

新聞記事より。

Yahoo!ニュースにこんな記事が。
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脳神経回路維持の仕組み判明、ダウン症解明に光
一度出来上がった脳神経の回路を維持・管理する仕組みを、国立遺伝学研究所の榎本和生・助教授らの国際研究チームが、ショウジョウバエを使った実験で突き止めた。
ダウン症候群などについて、脳神経の障害が起きるメカニズムの解明につながる成果。
英科学誌ネイチャー電子版に発表した。
脳の神経細胞間の配線は成長の過程で一度作られると大きくは変化しないが、ダウン症候群などでは、配線を作っている神経細胞の突起が委縮したり、消失したりすることで、神経症状が起きると考えられている。しかし、その発症メカニズムはほとんどわかっていなかった。
榎本助教授らは、細胞の増殖を抑える「ワルツ」と「ヒポ」という2つのたんぱく質(リン酸化酵素)が脳神経細胞でたくさんできていることに着目。
(読売新聞) – 8月15日20時58分更新
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これだけの記事ではちっともよく分からんのですが、とりあえずコピペしときました。

お母ちゃんも少し泣きたい気分になってしまう。

2歳7カ月だと、もう母親と言葉でのコミュニケーションがかなりとれるみたいですね。
でも、息子には難しいです。
ダウン症の子は、言葉の発達も遅いのです。
特に発話が遅いです。
言葉は理解できるけれど、発話が遅れるため、本人も結構イライラするみたいです。
最近、そーゆーのが多いような気がします。
もちろん、少しずつではありますが、言葉は増えています。
でもね、自分の意志を伝えるには圧倒的に足りないのです。話せる言葉が。
そして、あまりにイライラが募ると、大泣きをしてしまいます。
もともとあまり大泣きをしない子だったので、余計に切ないです。母は。