さて。
ちょっとだけ時間を遡ります。
2月の中旬にMAPセションをしていたら「ああこういう想念があったのかー。」と気づいたことがありました。
すると、(自律神経失調や更年期障害ではない)持病の方の塩梅が2カ月間ほどではありましたがちょっとばかしいい感じになったのでした。
でもそれすらも、比較的浅いところにあったものだったのだろうなぁ、と後から思いました。
やはり根本的なところはそうそう簡単には辿り着けるものではないようです。
おそらくこういう「ちょっとした気づき」は「断片」でしかなく、
今までどおり、こういう「断片」をコツコツ拾い集めていくしかないのかー、と少し途方に暮れそうにもなりました。
それでもですね。
アクティブ仙骨ワークの1回目の日。
お昼頃にぼんやりあれこれ思いめぐらせていたら、こんなことをしみじみ思いました。
私は自己肯定感はあるけれど、自己信頼を失っている。
って。
これは、ブログでも以前どこかで書いたような気がしますが、どうしてもここに戻ってきてしまうのでした。
問題もちょいちょいある両親ではありましたが、私の自己肯定感はちゃんと育ててもらえていました。
とてもとてもありがたいことだと感謝しています。
しかし、私は自己を信頼していないのです。
己は肯定していますが、己を信頼してはいないのです。
私が、私の何を肯定していて、私の何を信頼していないのか、を考えると、途端に雲を掴むような感覚になってボヤけてしまうのですが、でもそうなのです。
そして。
私は、相反する想いを持っていて、まさしくブレーキをアクセルを同時に踏んでるよな~、というのも前々から分かっていました。
いろんな人に私の絵をもっと知ってもらいたいと願う自分もいるくせに、目立つのが怖くてイヤだと強く思う自分も同時に存在しています。
顕在意識では健康になりたいと希求してるのに、同時に癒されたくない自分がちょっと深いところにもいたわけです。
見事にアンビバレンスですね。
さらに、
ここ
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1028.html
で書いたように、自分が何をしたいのかどうなりたいのかどう在りたいのかが、ぼやーんとしたままなのです。
自己信頼を失っていることを自覚し、アンビバレントな自分を自覚し、自分の欲求がぼんやりしていることを自覚してみると、まるで自分はドーナツみたいだと、感じたりもしました。
虚無の周りをぐるぐるしているだけのように感じたからです。
すると、
3回目のアクティブ仙骨ワークの後、数日経ってからMAPセションをしていたら、ビジョンが浮かんできました。
石の塔のような、そんな牢屋に、手足を重い鉄の鎖でつながれて、閉じ込められてる女性。
自分の排泄物で全身汚れていて、動くこともままならないけれど、長い髪の隙間から見える目だけは異様に光っている。
私はビジョンが見えても音やニオイなど他の感覚は感じないのですが、初めてニオイも感じました。
排泄物の臭いがしたのでした。
過去世の「石の牢屋に閉じ込められた双子の妹」というのは観たことがありますが、
モチーフは似ているのですが、これは過去世ではないな、と直観で思いました。
これは、悪魔だな、と思ったのでした。
石に囲まれて閉じ込められた不浄の女悪魔…が象徴する何かが私の中にあるんだろうな、と思いました。
と、そこに。
月子さんが、一緒に参加した鏡リュウジさんの講演会で購入した「土星の心理占星学」を読み直してみたら?とアドバイスをくれました。
私のプログレスの月がネイタルの土星とうんたらかんたら~ってのが月子さん的にはちょっと気になったようで、そう言ってくれました。
この本。
読みにくいんです。
翻訳本ならではの読みにくさに加えて、内容がとても抽象的なので、自分の土星の部分だけ読んでても「……で?」となっておりました。
しかし、今回は、ちょっと違ってました。
私の出生図の土星は、牡羊座で12ハウスにいます。
「私は私だー。」という火の牡羊座に(成長を促す目的で)厳しく抑制を課す土星が座するというのは、土星が「失墜」すると言われてますが、それは同時に「私は私だー。」というアイデンティティそのものに抑制や制限などがかかるということでもあると思います。
この本の100pにこんな説明がありました。
火の星座かハウスにいる土星の影響は「精神的な停滞」とされるが、これは適切な表現といえよう。日常生活においては、自発性と自己表現の欠如、生命力への内的信頼感の欠如、目的の喪失感といったカタチで現れる。
どうやら、第1ハウスまたは牡羊座に土星がいることで、表面的なパーソナリティと豊かな内的人格との接点が欠落してしまうから、生命力への内的信頼感が欠如としてしまう、らしいのです。
私が私を信頼していないというのは、これなのだろうな、と思いました。
そして、本を読んでいて、あの女悪魔の姿がチラチラとよぎりました。
私は多分、肉体というものを愛していません。
ものすごく重たい鎧のように捉えているフシがあります。
事実、身体が軽いと感じることは、年に数日間ほどしかありませんし…。
そして、美しい造詣や機動性の高い筋肉や賢い脳を好み、それが自分に備わっていないことを嘆くのも、身近にそういう人たちがいたために発生したコンプレックスだと思っていました。
しかし、そもそも「この現象界における魂の乗り物としての肉体」への敬意が私には足りていないからなのだろうな…と、女悪魔の姿を思い出しながら、そう思いました。
だからこそ、そのような状況・環境をデザインしたのでしょう。
表面的なパーソナリティと豊かな内的人格との接点が欠落して、石(意志?)に囲まれ閉じ込められた「生命力への内的信頼」が、動けずに自分の汚物にまみれて不浄の悪魔のように(見かけ上)なってしまったかのように感じたのでした。
私は、自己に関して失ったものを取り戻さなければならないのでしょうね。
自己信頼を失ってるから、恐怖に立ち向かうのが難しいし、だからアクセルとブレーキを同時に踏むようなことになるんでしょうしね。
アクセルとブレーキを同時に踏み込んでたらアカンよねー。
そりゃ、交感神経(アクセル)と副交感神経(ブレーキ)がめちゃめちゃになるわー。
けれども、
私の土星は同時に12ハウスにいます。
魂のハウスです。
この本によりますと、12ハウスに土星がいる場合、1ハウスから順番に形成してきた「自己」を(全体へと)投げ出してしまわなければならないというのです。
私のイメージとしては、サナギになった青虫がどろどろに融けてしまうのと同じようなものに感じました。
葉っぱをいっぱい食べて育て上げた自分を一度どろどろに融かしてしまわないと、次のサイクルに入れないのでしょう。
そしてさらに、
12ハウスのところを読んでいたら、今年になってからいろんな経路を通じて言われ続けてきた言葉が頭に浮かびました。
「おまかせしきればいい。」
「委ねきる。」
「自我が降参したところで、目が覚める。」
分かってます。
分かってます。
頭では十分に分かってます。
五井先生も何度も何度もそう言ってましたから、頭では分かってます。
自己を、意志を、「大いなる働き」に投げ出してしまうことしか、最終的には進む道が無いのは頭で十分に分かっています。
息子がアレのおかげで、部分的にはそれをせざるを得ませんでした。
息子に導かれたおかげです。
でもそれは自己のほんの一側面だけです。
とてもじゃないけど自己を委ねきることはできません。
(そして私はまずその投げ出すべき自己の回復をしなければならない!)
自分の身体のこととなると、しんどいのってほんとーーーにイヤなんですもん!
投げ出すことなんてどうしてもできません。
今朝もちょっとしんどかったのですが、とてもそんな心境になれませんでした。
ほんとは分かってます。
それすらも委ねて「おまかせ」してしまうことができたら、すべてはぐるりとひっくり返るだろうと。
でもできません!
「ほんとうにおまかせしきる」という絶対他力には、とてもじゃないけどなかなか至れないものだ、と五井先生は言ってましたが、
頭では分かっていたけど、今ここにきてその言葉がすごくすごく重いです…。
養老孟司先生が著書の中で確か書いていたと記憶してるんですが、
人間は自然をコントロールして、自分にとって推測可能な世界を、つまり「脳内の世界」を現そうとしてるけど、
実は自分の身体が一番の「自然」であって、コントロールできないというジレンマを持ってる…と。
だから私はしょっちゅー「初音ミクになりたい。」と喚くんでしょうが、
ほんとにどこまで肉体への敬意が足りないんだ私。
まずは「立派な青虫」にならないとですね。
サナギになるのはその後。
どうしたらいいか分からないけど、とりあえず、自分の肉体に敬意が足りないことを謝ります……。
ごめんなさい。
おれは立派なお猫だけどな。