このところのアレコレ…その3★自己信頼の欠如

さて。
ちょっとだけ時間を遡ります。

2月の中旬にMAPセションをしていたら「ああこういう想念があったのかー。」と気づいたことがありました。
すると、(自律神経失調や更年期障害ではない)持病の方の塩梅が2カ月間ほどではありましたがちょっとばかしいい感じになったのでした。
でもそれすらも、比較的浅いところにあったものだったのだろうなぁ、と後から思いました。
やはり根本的なところはそうそう簡単には辿り着けるものではないようです。
おそらくこういう「ちょっとした気づき」は「断片」でしかなく、
今までどおり、こういう「断片」をコツコツ拾い集めていくしかないのかー、と少し途方に暮れそうにもなりました。
それでもですね。
アクティブ仙骨ワークの1回目の日。
お昼頃にぼんやりあれこれ思いめぐらせていたら、こんなことをしみじみ思いました。
私は自己肯定感はあるけれど、自己信頼を失っている。
って。
これは、ブログでも以前どこかで書いたような気がしますが、どうしてもここに戻ってきてしまうのでした。
問題もちょいちょいある両親ではありましたが、私の自己肯定感はちゃんと育ててもらえていました。
とてもとてもありがたいことだと感謝しています。
しかし、私は自己を信頼していないのです。
己は肯定していますが、己を信頼してはいないのです。
私が、私の何を肯定していて、私の何を信頼していないのか、を考えると、途端に雲を掴むような感覚になってボヤけてしまうのですが、でもそうなのです。
そして。
私は、相反する想いを持っていて、まさしくブレーキをアクセルを同時に踏んでるよな~、というのも前々から分かっていました。
いろんな人に私の絵をもっと知ってもらいたいと願う自分もいるくせに、目立つのが怖くてイヤだと強く思う自分も同時に存在しています。
顕在意識では健康になりたいと希求してるのに、同時に癒されたくない自分がちょっと深いところにもいたわけです。
見事にアンビバレンスですね。
さらに、
ここ
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1028.html
で書いたように、自分が何をしたいのかどうなりたいのかどう在りたいのかが、ぼやーんとしたままなのです。
自己信頼を失っていることを自覚し、アンビバレントな自分を自覚し、自分の欲求がぼんやりしていることを自覚してみると、まるで自分はドーナツみたいだと、感じたりもしました。
虚無の周りをぐるぐるしているだけのように感じたからです。
すると、
3回目のアクティブ仙骨ワークの後、数日経ってからMAPセションをしていたら、ビジョンが浮かんできました。
石の塔のような、そんな牢屋に、手足を重い鉄の鎖でつながれて、閉じ込められてる女性。
自分の排泄物で全身汚れていて、動くこともままならないけれど、長い髪の隙間から見える目だけは異様に光っている。
私はビジョンが見えても音やニオイなど他の感覚は感じないのですが、初めてニオイも感じました。
排泄物の臭いがしたのでした。
過去世の「石の牢屋に閉じ込められた双子の妹」というのは観たことがありますが、
モチーフは似ているのですが、これは過去世ではないな、と直観で思いました。
これは、悪魔だな、と思ったのでした。
石に囲まれて閉じ込められた不浄の女悪魔…が象徴する何かが私の中にあるんだろうな、と思いました。
と、そこに。
月子さんが、一緒に参加した鏡リュウジさんの講演会で購入した「土星の心理占星学」を読み直してみたら?とアドバイスをくれました。
私のプログレスの月がネイタルの土星とうんたらかんたら~ってのが月子さん的にはちょっと気になったようで、そう言ってくれました。
この本。
読みにくいんです。
翻訳本ならではの読みにくさに加えて、内容がとても抽象的なので、自分の土星の部分だけ読んでても「……で?」となっておりました。
しかし、今回は、ちょっと違ってました。
私の出生図の土星は、牡羊座で12ハウスにいます。
「私は私だー。」という火の牡羊座に(成長を促す目的で)厳しく抑制を課す土星が座するというのは、土星が「失墜」すると言われてますが、それは同時に「私は私だー。」というアイデンティティそのものに抑制や制限などがかかるということでもあると思います。
この本の100pにこんな説明がありました。

火の星座かハウスにいる土星の影響は「精神的な停滞」とされるが、これは適切な表現といえよう。日常生活においては、自発性と自己表現の欠如、生命力への内的信頼感の欠如、目的の喪失感といったカタチで現れる。


どうやら、第1ハウスまたは牡羊座に土星がいることで、表面的なパーソナリティと豊かな内的人格との接点が欠落してしまうから、生命力への内的信頼感が欠如としてしまう、らしいのです。
私が私を信頼していないというのは、これなのだろうな、と思いました。
そして、本を読んでいて、あの女悪魔の姿がチラチラとよぎりました。
私は多分、肉体というものを愛していません。
ものすごく重たい鎧のように捉えているフシがあります。
事実、身体が軽いと感じることは、年に数日間ほどしかありませんし…。
そして、美しい造詣や機動性の高い筋肉や賢い脳を好み、それが自分に備わっていないことを嘆くのも、身近にそういう人たちがいたために発生したコンプレックスだと思っていました。
しかし、そもそも「この現象界における魂の乗り物としての肉体」への敬意が私には足りていないからなのだろうな…と、女悪魔の姿を思い出しながら、そう思いました。
だからこそ、そのような状況・環境をデザインしたのでしょう。
表面的なパーソナリティと豊かな内的人格との接点が欠落して、石(意志?)に囲まれ閉じ込められた「生命力への内的信頼」が、動けずに自分の汚物にまみれて不浄の悪魔のように(見かけ上)なってしまったかのように感じたのでした。
私は、自己に関して失ったものを取り戻さなければならないのでしょうね。
自己信頼を失ってるから、恐怖に立ち向かうのが難しいし、だからアクセルとブレーキを同時に踏むようなことになるんでしょうしね。
アクセルとブレーキを同時に踏み込んでたらアカンよねー。
そりゃ、交感神経(アクセル)と副交感神経(ブレーキ)がめちゃめちゃになるわー。
けれども、
私の土星は同時に12ハウスにいます。
魂のハウスです。
この本によりますと、12ハウスに土星がいる場合、1ハウスから順番に形成してきた「自己」を(全体へと)投げ出してしまわなければならないというのです。
私のイメージとしては、サナギになった青虫がどろどろに融けてしまうのと同じようなものに感じました。
葉っぱをいっぱい食べて育て上げた自分を一度どろどろに融かしてしまわないと、次のサイクルに入れないのでしょう。
そしてさらに、
12ハウスのところを読んでいたら、今年になってからいろんな経路を通じて言われ続けてきた言葉が頭に浮かびました。
「おまかせしきればいい。」
「委ねきる。」
「自我が降参したところで、目が覚める。」
分かってます。
分かってます。
頭では十分に分かってます。
五井先生も何度も何度もそう言ってましたから、頭では分かってます。
自己を、意志を、「大いなる働き」に投げ出してしまうことしか、最終的には進む道が無いのは頭で十分に分かっています。
息子がアレのおかげで、部分的にはそれをせざるを得ませんでした。
息子に導かれたおかげです。
でもそれは自己のほんの一側面だけです。
とてもじゃないけど自己を委ねきることはできません。
(そして私はまずその投げ出すべき自己の回復をしなければならない!)
自分の身体のこととなると、しんどいのってほんとーーーにイヤなんですもん!
投げ出すことなんてどうしてもできません。
今朝もちょっとしんどかったのですが、とてもそんな心境になれませんでした。
ほんとは分かってます。
それすらも委ねて「おまかせ」してしまうことができたら、すべてはぐるりとひっくり返るだろうと。
でもできません!
「ほんとうにおまかせしきる」という絶対他力には、とてもじゃないけどなかなか至れないものだ、と五井先生は言ってましたが、
頭では分かっていたけど、今ここにきてその言葉がすごくすごく重いです…。
養老孟司先生が著書の中で確か書いていたと記憶してるんですが、
人間は自然をコントロールして、自分にとって推測可能な世界を、つまり「脳内の世界」を現そうとしてるけど、
実は自分の身体が一番の「自然」であって、コントロールできないというジレンマを持ってる…と。
だから私はしょっちゅー「初音ミクになりたい。」と喚くんでしょうが、
ほんとにどこまで肉体への敬意が足りないんだ私。
まずは「立派な青虫」にならないとですね。
サナギになるのはその後。
どうしたらいいか分からないけど、とりあえず、自分の肉体に敬意が足りないことを謝ります……。
ごめんなさい。

おれは立派なお猫だけどな。

このところのアレコレ…その2★それをデザインしたのは…?

「何やったってどうせ無駄。私ごときには効くわけない。」
ちょうど、この想念が出てきた頃に、こんなツイートを見かけました。
https://twitter.com/usamimix/status/592609657555849216
これがじわじわボディーブローのように効いてきまして、
「それは本人がその癒しを受け取るだけの正当な行いや在り方があってこそ。」ってことは、私は正当な行いをせず正当な在り方にないから癒されないのかなー?とか考え出すと迷路から出れなくなってきたので、
それでつい先日、mixiのつぶやきの方に、これがずっとじわじわきてる、と、書いたんです。
そしたら、さつきのひかりさんが以下のようなコメントをくれました。

ヒーリングを送っても、相手が癒されない場合っていうのが一定数あるんですが、「そもそも受け取るための器を用意していない」ときと、「器はあるけど蓋をしている」ときとある感触なんですよね。前者は不養生などで、うさみみさんはこっちを指されてると思います。
後者は養生したり内観したりで器はしっかりあるのだけれど、何かの理由によりブロックされている場合。それは、その「癒されない状態」が魂の課題に直結しているとか、何かのメリットがあってそれを望んでいる状態、あるいは癒しを自分に許していない状態なのだろうと思います。
ヒーリングとしては、ブロックされたところでエネルギーが消えるわけではないので(保存の法則)、その周辺に働いて、徐々にではあるけれど癒しを受け取れるように、課題をクリアできるように、自分を赦せるように、自然に養生したくなるように(笑)、少しずつ染みわたってゆくのがいいかなあと思っております。
なので、例えばヒーリングを受け取ってもすぐに効かないとかなかなか癒されないとかあっても、それはそれにちゃんとした個人(魂)の理由があるものだし、質の良いヒーリングであれば少しずつ全体的に変化してゆくものだし、たみえさんがご自分を責めたり気にされる必要は何もないと思います♪


ちょうどそのタイミングで、「神との対話」のbotがツイッターで
「起こることは全て完璧」
という言葉をパーンと投げかけてきたのでした。
すると、氣乃さんもブログでこんなことを書いていました。
http://ameblo.jp/kino-tasuku/entry-12025586643.html

その後程なくしまして、
同じ様に全国各地で「光話」と呼ばれるセミナーを行っていらっしゃる。
「食事も取らず」「眠らずにそのかわり一時間瞑想を行っている」
いわゆる【真我覚醒】されているという「噂の先生」の存在を知りまして、
なんだかもう( ̄ω ̄)パーそこに無性に行きたくなっちゃったもんですから(笑)、
速攻でその会場に参加させていただきまして暫く通っていた事がございます。
その先生は会場でヒーリングもされるんですけど、
【病気治しの事はあえてされない】そうでございます。
その昔は『難病をどんどんその場で治してしまうので』
全国からそのヒーリングを受ける為に連日朝から夜中まで、
300人という方にヒーリングを行っていらっしゃったそうでございますけど、
「治しても2~3年経つとまた同じ病気が再発して」戻って来るそうでございます。
その先生もその有り様を見ましてですね、
【病気になるのは、自身の悪行、悪癖、思い癖などの結果であり、今生での宿題なのだ】、と
病気になっている根本的な(心の)原因に本人が気が付かない限りこの現象は永遠に続いてしまうからという事でですね、
それでその先生の場合はですね、
【自分の中の神を実感してください】
と連日、全国(現在は海外まで)光話を行われていまして、
「独自の瞑想」を指導されていらっしゃいます。


ヒーリングをしてもらったり、何かに気づいたりして、症状がすぱーんと良くなる……というのは何度も体験しています。
でも、だいたい1カ月もすると元に戻ってしまうのです。
この先生のおっしゃるように、根本的な何か(←月子さんと私はこれをラスボスと呼んでますが)…を、ちゃんと見つけ出さないと、真には変われないのだと思います。
それはもうとっくに分かってはいたのです。
…でもね。
ラスボスがそうそう簡単に見つかるわけないんですよ~。
簡単に見つかるならラスボスやないってーー。

。・゜・(ノД`)・゜・。
健康問題だけじゃないですよね。
場所が変わっても人間関係でいつも悩む人もそうでしょうし、
常に家庭がゴタゴタしてて苦しい人もそうでしょうし、
仕事に恵まれないとか、経済的な問題がなかなか解消しない人もそうでしょうし、
嫉妬とか怒りが沸き上がりやすくて、その結果、孤独になっている人もそうでしょうし、
自分の中のわけのわからない衝動にさいなまれ続けてる人もそうでしょうし…。
何か同じことでぐるぐるぐるぐる何十年もイヤな思い、辛い思い、しんどい思いをしている、というのは、深い深いところ、とてもじゃないけど簡単には見つからないところにラスボスが居るんだと思います。
私ね。
思ったんですよ。
今までの人生を振り返ってみて、
人を傷つけたこともたくさんあるし、それは自覚してる部分だけであって、きっともっと傷つけてるだろうけど、
自分もキツかったことがたくさんあるし、
そしてそれらを身体がしんどいことが多い中で、なんとかできる限りのことをしてきて、
人生まあまあ頑張ってきてたんちゃう?って思うんですよ。
もっとできたハズ、ってのはそりゃありますけど、まあまあ頑張ってきたね、って素直に思うんです。
ほんとーに身体がしんどいことが多くて、それでもよくやってきたやん、って。
なので、このままの感じ……身体があちこちしんどいわー、と言いながら、落ち込みながら、それでもできる限り目の前のことをなんとかクリアしていく、という生き方を続けて、たとえば90歳で死んだとしても、
多分、まあまあ頑張ってきたやん、って、及第点はなんとかもらえるんちゃうか?って思ったんです。
身体がしんどい、健康に難がある、って、すごく分かりやすいハンデですよね。
しんどいのによく頑張ったやん、って言いやすいですもん。
(や、ほんとに頑張ってるんやけどね!)
大学時代の友人が言った言葉が、今でも忘れられないのですけどね。
彼女は頑張り屋さんなんです。
それは、いわゆる自己肯定感がとても低いために、いろんなことを頑張って「誰かの役に立つこと」でしか自分を維持できなかったからなんだと思います。
そんな彼女が結婚して、会社を辞めて、旦那さんの仕事の手伝いをするようになったのですが、イマイチ業績が良くなかったようでした。
それは彼女のせいではないのですが、彼女はそんなふうには思えなかったようです。
そして、お姑さんも働き者だったのですが、何かしらの持病があったそうなのです。
身体が丈夫だと言い切れないのに、毎日頑張って働いていたのです。
何年かぶりにみんなで会った時に、そんな話をしながら彼女は言いました。
「私も、こんなに身体が丈夫じゃなかったらよかったのに。」
丈夫な自分がフルに頑張っても、それは当たり前。
だったら、身体が丈夫じゃなかったら……つまりハンデがあったら、今の頑張りがもっと価値のあるものになるのに。
という意味で彼女は言ったのでした。
身体が丈夫じゃない私からしたら、ちゃぶ台をひっくり返したくなるような、「そこに立て!歯をくいしばれ!」と言いたくなるような、そんな言葉ではありましたが、
そんなふうに思うくらい、自分をダメダメだと思って見てるなんて、ほんとに不憫な奴だなーおい、と友人であるがゆえに、苦笑いしかすることができませんでした。
その時は。
でも、今は、なるほどねー、と思うんです。
健康に難アリというハンデがあることで、実際に自分は自分に「まあまあ頑張ってきたんちゃう?」って言えてるんですから。
この肉体に宿る一番表に出てる顕在意識の「私」にしたら、身体がしんどいのなんてイヤ過ぎます。
のし付けてお返ししますー、ってなもんです。
でも、絶対、魂的なところの「私」がデザインしてるに違いないんですよ。
ラスボスをめちゃめちゃ分かりにくいところに隠してるのも、(トータルとしての)私なんですよ。
これは単なる「大リーガー養成ギプス」なのか、
それとも、かくれんぼの鬼を捜してるだけなのか、
それともそれとも、ラスボスどころか「我等四天王の中で最弱」と言われるものに負け続けてるだけなのか。
なにがなんだか、ほんとにまったく分かりません。
でも、デザインしてるのは自分自身なのです。
それだけは間違いないと思うのです。
苦しかろうが何だろうが、今の自分になるようにデザインしたのは自分自身なんですよね。
私が、健康もお金もおっぱいもある叶恭子おねーさまじゃないのにも、ちゃんと理由があるってわけです。
でも、デザインした意図がさっぱり分からないってのは、ほんとにトホホな気分に違いないわけです。
★もちょっと続く★

このところのアレコレ…その1★アクティブ仙骨ワークを受けました

ちょいとばかし、このところの自分のアレコレを書いておきたいと思います。
20歳になる直前に胃腸風邪をこじらせてから、25年以上自律神経失調が続いてるわけですが、
なんとかならんもんか、と私になりにもいろいろ試してきてまいりました。
もちろん病院も通いましたし検査もいろいろしました。
今も漢方薬は手放せませんし。
私の体調の不安定さが入り口となって、ご先祖様のご供養もけっこーさせてもらいましたし、
催眠療法も試しましたし、
ヒーリングも受けたりしておりました。
一番近いところでは、MAPがあります。
この体調の不安定さがなければ、五井先生のお祈りにも辿り着くことが無かったはずです。
いろいろなことをさせてもらって、まるでいろいろな垢を少しずつ落としてきたような、そんな感じがしています。
無駄だったことはひとつも無いと感じています。
でもですね。
どうしてもスッキリとは治らないのです。
体質だから仕方がない、と割り切ってしまえばいいのかもしれませんが、できることならこの不安定さをスッキリさせたいのです。
とにもかくにも、しんどくて苦しいのがイヤなのです。
もー、ほんとにイヤ。(←文字を大きくして主張してみた)
そしたらですね、
3月の下旬でしたかね。
氣乃 介(きのたすく) さんという知り合いのヒーラーさんが、アクティブ仙骨ワークというエネルギーワークのモニターを募集してるのを目にしたのです。
これです。
http://ameblo.jp/kino-tasuku/entry-12003754916.html
(現在はモニターを募集してませんのであしからず。)
彼は、長居和尚さんつながりで一度お会いしたことがありまして、
たった一度お会いしただけなんですが、それから何年後かに私が腰をちょいとばかし痛めちゃった時に、電話してきてくれまして、遠隔ヒーリングで腰の塩梅を良くしてくださったことがあるんです。
あれはねー、ビックリしましたねーーー。
まるで鍼だな、と思いました。
そんな方なので、ほんとーにエネルギーワークで仙骨の状態をいい塩梅にできるんだろうな、と思ったのです。
ちょうどですね、
こんなブログもたまたま見つけたんです。
http://karuna98.blog.fc2.com/
このブログのカテゴリ「姿勢から解くクンダリーニ活性」
http://karuna98.blog.fc2.com/blog-category-34.html
の記事が検索でひっかかって、それで読んだんです。
とーてーも興味深かったです。
それで、「仙骨って大事なんだなー。」と思っていたところだったので、モニター枠が空いてるならお願いしますー、とメールをしました。
おかげさまでモニター枠が空いていたので、4月10日、4月27日、5月7日と3回のセションを受けることができました。
氣乃さんは「普段は町人」とおっしゃっているように、日常は会社でお仕事をされているので、夜の10時からSkypeで会話しながらのセションとなりました。
仙骨ワークのエネルギーを流してもらったのは、ほんとに1分とかそれくらいの時間でした。
エネルギー自体はそうやってすぐに入れてもらえたのですが、氣乃さんに教えてもらったとても簡単な自己ワークをコツコツと毎日(気がついた時に)する、ということが大事だと言われました。
また、好転反応が強く出る人もいるので、それを和らげる「たすくゆ」というヒーリングエネルギーがいつでも呼び出して使えるように設定してくださいました。
この自己ワークは今もコツコツ続けてますし、たすくゆもよく使わせてもらっています。
とういわけで。
以下に私がノートに書いておいたメモを載せてみます。
◆4月10日◆
Skypeしながらヒーリングをしてもらった。
これといった体感は無かったけれど、途中で足の裏がぼわーーんとなった。
(ヒーリング前にチェックした時より)前屈が5cmほど深くなり、左右のねじれも深くなった。
寝入る直前、まさに仙骨のところがジンジンとした。
夜中にふと目が覚めると、とにかく足の裏がぼわんぼわんとなってて、足の指の間をぎゅうぎゅう揉まないと眠れなかった。

足の裏がぼわんとなるというのは、足の裏からネガが排出されてるからですよー、と氣乃さんがおっしゃっていました。
ということは、寝てる間にもどかんどかんと排出されていた、ということみたいです。
寝入る直前には、ほんとーーーにまさにドンピシャで仙骨のところがジンジンとしました。
これはビックリしました。(でもすぐ寝ちゃいました~。)
◆4月11日◆
朝から腰にハリがある。
腰痛というほどでもないけど、なっかなかのハリ具合。
右太股の前側にもハリがある。
ぼーっとしていた時に、ピンポイントで丹田のところがジジジジジー…と低く振動してるような感覚になった。

一度、かるーーーーいギックリ腰の手前みたいなものになった(←氣乃さんにヒーリングしてもらったやつね)ことはありますが、おかげさまで基本的に私は腰痛はほとんど無いのです。
そんな私ですが、これだけハリがあるというのは、仙骨ワークの好転反応としか考えられないなー、と思いました。
そして、丹田のところがピンポイントで低く振動しているような感覚になったのも、仙骨ワークの影響だよなー、と思いました。
だってこんなこと初めてでしたもん。
これは数分続きました。
あ、そいえば、丹田のところで黒い小さい珠が振動しているようなイメージも一緒に浮かんでいました。
◆4月12日◆
少し腰が張ってるくらい。
◆4月13日◆
夕方から腰が少し痛い。
◆4月14日◆
(この日は10時出勤だった)お父ちゃんが出勤した直後からしんどくなって、14時頃まで横になったいた。
15時頃から動けるようになって、スーパーも行けた。

と、だんだん腰のハリは収束していったわけですが、14日はしんどかったです。
でも、この時にガイドに文句を言ったら、「これも好転反応だから。」と言われて、ほんとかー??と疑ってた…のですが、
確かにね、おとーちゃんが出勤してすぐにしんどくなって、子供が帰ってくる少し前に回復する…なんて、出来過ぎてるよな~、と思いました。
◆4月25日◆
夜中に目が覚めて、発作になりかけた。
朝からしんどかったけど、(土曜日で授業参観のため)なんとかお弁当は作って、その後ダウン。
お昼近くまで寝ていた。

発作になりかけた時に、自己ワークをしながらたすくゆを受け取りつつ、緊急MAPでWBHのチームを呼んだりしてました。
寝る前まで体調はちっとも悪くなかったのですけどね……。
とにもかくにも、発作にはならなかったし、しんどくてもお弁当は作れたし、お昼からは段々と楽になったので、ヨシとしました。
と、そんな体調変化がドカンとあってから翌々日に、2回目のセションを受けました。
◆4月27日◆
まだ少し身体が重く、お昼頃にしんどくて小一時間ほど寝ていた。
夜10時から2回目のセション。
氣乃さんがスキャンして確認してくれた。
 ・自己ワークは効いている
 ・たらいの法則を試す
 ・たらいの法則+自己ワークでみぞおちあたりの感情のブロックをじわじわ解消していく → 頭から抜けるようなイメージが浮かび、ほんとうにイヤな感情が減った
 ・たすくゆは病名ではなくて症状にフォーカスして受け取るとよい

私は、マイナスまたはネガティブな感情が沸き上がっている時というのは、みぞおちが張ったような、固くなったような、そんな感じになるのです。
そもそも、こーゆー「透明の栓」がみぞおちにあったくらいですし。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-176.html
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-177.html
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-178.html
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-179.html
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-180.html
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-181.html
すると、ネガティブな感情が溜まるのがみぞおちあたりで、それを自覚できているなら話は早い、といって、氣乃さんが「たらいの法則」を教えてくださいました。
えーと…氣乃さんのブログに「たらいの法則」の記事があったと思うんですけど、ごめんなさい。見つけられませんでした。
気になる方は、グーグル先生に検索を頼んでみてくださいませ~。
これを教えてもらってから、みぞおちあたりが固くなった時に、
「このみぞおちの緊張を引き受けます。」と心の中で言ってから、自己ワークをしています。
今もやってますー。
そして、先週になりまして、最後のセションとなりました。
1回目が15分ちょっと、2回目が30分ちょっと、3回目が1時間オーバーでした…。
氣乃さんにあれやこれや質問しまくってたので、めっちゃ長くなってしまいました。
申し訳なかったですが、とてもありがたかったです。
◆5月7日◆
3回目のセション。
セション前にフリーダムエナジー(←氣乃さんのオリジナルヒーリングエネルギー)を流してもらったら、足首より下がぼわんとした。
体感はそれくらいだけど、流してもららってる間ずーっと細く白い螺旋状のものが身体の中を通っていくイメージが湧いていたので、そのことを氣乃さんに伝えたら、フリーダムエナジーはほんとうに螺旋状のエネルギーだそうで、体感よりもインスピレーション優先ですね、と言われた。
体感は、身体の緊張が取れてくるとだんだんと分かるようになると思います、とのこと。
(確かに私の身体は無駄に緊張している。これは心療内科でも実証済み。)
MAPのエネルギーを氣乃さんに流してみて、と言われて、どうやったらいいか分からなかったけど、とりあえずWBHのチームに「私のセションの時のエネルギーを氣乃さんにも流してみてくださーい。」と心の中でお願いしてみた。
すると、かなりのエネルギーが流れていて、とても気持ちの良いエネルギーですね、と言われた。
キリスト、マリア、ミカエル、ラファエルなどを感じるとのこと。
私のチームはめっちゃたくさんの人(?)が関わってるというイメージは最初からあったのだけど、マリア、ミカエル、ラファエル、そしてガイドの2名くらいしか私自身は認識していないので、キリストがいるというのはちょっと嬉しかった。
(子供の時に2年ほどプロテスタントの教会に通っていたので、やはりイエス様はちょっと特別なのですよ。私にとって。)
これはとても気持ちの良いヒーリングエネルギーなので、ぜひ続けるべきとのこと。
たらいの法則で身体の緊張してる部分を引き受けてから自己ワークしてみたら、一時的にせよ、確かに身体が少し柔らかくなった。
これからもネガティブな感情が出てきた時に緊張していたりイヤな感じのする身体の部位を引き受けると宣言してから自己ワークすると良い、とのこと。
3回目の仙骨ワークのヒーリングではかなりのエネルギーが流れたとのこと。
私は体感無しでさっぱり分からず。
昔、オーラやチャクラには大きな問題はないが、エネルギー管が細くて詰まってると言われてて、ヒーリングを受けたこともあり、今でもそういうセルフイメージなのだが、と伝えたら、
そのヒーリングやちまちま使ってるREFにコツコツ続けたMAP、和尚さんに入れてもらったアレなどなどのおかげで(自分で思っているよりも)かなりエネルギーが通るようになったんだと思いますよ、だってほんとにかなりのエネルギーが流れたんですから~、とのこと。
かなりビックリ。
このところ鬱っぽいのは、実際の体調のアップダウンが激しいためにそうなってる部分が大きいと思うが、
仙骨ワークでネガが浮き出やすくなってるためかも。
また、いろんなヒーリングに対して、「何やったってどうせ無駄。私ごときには効くわけない。」という想念がちょっと深いところにあるのが2回目のセション以降だんだん分かってきた。
これも浮き出てきたのかも。

セションの後に、MAPのメモノートを読み返してみたところ、最初の頃のセションで、自律神経失調はエネルギー管の問題というより、破壊的細胞記憶の方が影響している、というメモがありました。
やー、すっかり忘れました。
セルフイメージを刷新していかないといけませんね。
自分で思ってた以上に、エネルギーの通りが良くなっていたというのは、ほんとに嬉しいです。
ちまちま使ってコツコツ続ける、って大事なんですね…。
あ、アリーナ席でエイトのライブに参戦するために、調整されてたのもあるしね!
と。
1カ月かけて、3回のセションをしてもらったのでした。
氣乃さん、ほんとうにありがとうございました♪♪
そして、2回目のセション以降に出てきた、「何やったってどうせ無駄。私ごときには効くわけない。」という想念が、なかなか厄介かもなー、と思ったのでした。
★続く★

すがすがしくない。まったくもってすがすがしくない。

「プライドが高い」というと、あまり良い意味では使われないと思うんですが、
「自分に誇りを持つ」というのは大事なこと……というか、これが無いとマズい流れに人生がどんぶらこ~としていくような気がします。
昨日、久々にMAPセションを行って、まぁ…いろいろ出てきたんですけど、
それらを眺めていたらですね、そのあたりのことも少しばかり見えてきたんです。
(メインの問題から少しだけ外れましたけど、こっちも同じところから派生した問題ではあるので。)
私は、「できないより、できた方がいい」と信念めいたものを持っているんですけど、
これって、できることが増えると自由度が増すからなんです。
当たり前のことですよね。
でもですね。
それはそうなんですけど、
どこかしらのポイントでね、他人と比較する視点が混ざりこんでいるのを、否定できなかったんです。
否定したいんですけどね。
他人と比較して、自分はこれだけできるんだよ。
という視点は、「プライドを高くする」方向に働くわけで、
それはねー、すがすがしくないです。
すがすがしくないので、そういう自分を自分の表層意識からこっそり隠したくて、自分に対してあの手この手で誤魔化してきたんだなー、と思いました。
うん。
多分、そう。
ほんとにすがすがしくないわーー。
そんなわけで。
プライドは高くなくていいので、
自分自身の在り方そのものに誇りを持てるように(そしてメインの問題点の解消も目指して)、自分の中から出てきたアレコレに対して、とりあえずね、「宣言」とかしました。
あとはね。
2日前から、遡りながらずーーーっとこれを読んでます。
2日前にたどり着いたブログです。
http://ameblo.jp/twinblueflame/
で、このブログのツイッターがこちら。
https://twitter.com/blueflame_bot
今、これが「湯治の温泉」みたいなものかも。

かーさんに抱っこされていると眠くなるのにゃ。

不機嫌なカナリアではありますが。

先週の雪の日とその翌日、2日間ほど寝込んどりました。
というか、救急車呼んでしまいました…。
や、だってね、ほんとにね、今までめっちゃしんどいのを何度も経験してるんですが、
おとーちゃんに仕事先から帰ってきてもらって、いつものクリニックに連れてってもらってけっこー長い時間かけて治療してもらって帰宅したのですが、やっぱりどうにもしんどくてですね、もうどうにもならなくてですね……シドロモドロ……。
死ぬ病気じゃないって分かってるんですが、更年期障害の症状から始まって、芋づる式にあれこれとなり発作も出て、めちゃめちゃになっとりましたが、
救急隊員さんが到着した時には、発作のピークがちょうど過ぎたところで、
確かにものすごく(本人的には死ぬほど)しんどくて動けなくて発作も起こしてどうしようもなかったのですが、死ぬ病気じゃないのに救急車を呼んでしまったことが申し訳なくて、なんとか出せる声で謝ったら、
救急隊員さんが、おとーちゃんから発作のことやら体質のことやらを聞き取りした上で、
「バイタルは安定してきてますが、ほんとうにもう大丈夫かどうか、ちゃんと病院で診てもらった方がいいから、かかりつけ医のところまで運びますね。」
と言ってくれまして、
さらに、
「こういう発作の時に呼んでもらってもいいんですからね。これからもどうしようもない時は呼んでくれていいですからね。」と、ほんとーに親身になって言ってくれたんです。
こういう言葉をかけてもらえるなんて、どれだけ救われたか。
テキパキしてる上に、とても親切で、ほんとーーーに親切な方たちで、
小2の娘がそれを観ていて、救急隊員ってすごいと心底感心していたそうです。(おとーちゃん談)
しんどいのはかなわんですし、こんな経験したくないんですが、娘がすごい人たちがいるんだなぁ、と間近で見ることができたというのは良かったかなぁ、と思いました。
結局、またいつものクリニックで治療してもらって、なんとか帰宅したのですが、
二度目の発作も出て、夜中には発作が出そうになりなんとか治まった…のですが、
そんな体調だったので、翌日はまったくもって「寝込んで」おりました。
うとうと眠っては起きて、水分摂って、またうとうと寝て……と、15時くらいまでそんな感じでした。
翌日もここまで使い物にならなくて寝込んでしまうほどヒドいのは初めてでした。
3日目は動けるなーと、朝から家事をしたら、ずっとちゃんと食べられなかったせいのエネルギー不足で途中で心臓ばくばくでフラっとなっちゃったしー。あー。(←もしかしたらお薬の副作用かもしれんですが。)
今年の冬至は新月(朔旦冬至)だそうで、山羊座さんにはちょっとキツいかもねー、と月子さんに教えてもらったので、
そういう星回りも関係したんだと思うことにします。ええ。
じゃないと、悲しい。
++++
と、ここまで書いて記事をそのままにしておいたら、
じぇいど♪さんから寝込んでたー、とメールが来まして、
「なんや!あんたもかいな!」と、ほんとに病院の待合室でバッタリ会ったおばちゃん同士みたいなやりとりをして、こんな絵を描いたわけですが、

やー、まさか彼女も寝込んでたとはね~。
http://nanigamieterujpn.blogspot.jp/2014/12/blog-post_22.html
で、ですね。
先週のはじめにこんな記事を書いてた私。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-991.html
これだけしんどいと、深いところで躊躇していたとしても、「んがーー!もうかなわんわー!」ってなりました。
いや、手放してない自分がバカバカしくなったといいますか、ちゃんと向き合わないと、と思いました。
なぜ手放せないのか。
だってね。
大切な人が苦しんでる姿を見てるのが辛いから。
そうなんです。
見てるだけというのが辛いから、自分で引き受けて苦しむ、という選択をしたがる思い込みが深いところにあるように感じてたわけなのですが、
それはね、母親になってみてすごく分かることでもありますし、
どんな過去世での出来事があったのかは分かりませんが、大切な人を亡くす(または自分が先に死ぬ)というパターンがよく出てくるので、どこかの時点でそういう強い思い込みや祈願を持ったとしても、それは仕方がない…というか、自然な流れだろうなー、とすら思うのです。
しかし、それはやっぱり少し歪んでるんですよね。
いくら深い愛情がそういう思い込みを生み出したとはいえ、今の私が人生をまっとうするのに邪魔になっている、というのではアカンですよ。
アカンアカン。
ですので、うつらうつらと寝たり起きたりしてる時に、ミカエルに
「この思い込みを持ってっちゃってー。」
と、お願いしたところ、胸のあたりからごぼごぼーとかなりデカい樹の根っこみたいなものが引っこ抜かれていきました。
ですので、ガイドたちに
「抜けたところを光で埋めておいてー。」
とお願いして、眠りました。
もう、苦しみを引き受けるってことはしないけど、
そのかわりね、あたしね、もっといっぱい喜びを与えられるようになるから!
精進するから!

でもね。
引っこ抜いてもらえたから、それですべてヨシ……ではないのだろうな、とは思います。
実際ね、今回ぶっ倒れて発作起こした時に、認めたくないけどよーーーーく分かったからなんです。
こうやって、「よろしくないもの」が抜けていってるんだな、と。

そしたらですねー、
これまたすごくいいタイミングで、この記事を月子さんが教えてくれました。
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-2022.html
もしかしたら、まだまだ抜いていかなければならないものがいっぱいあって、まだまだ寝込むのかもしれないし、
もしかしたら、そうは言っても、だんだんと楽になっていくのかもしれないし、
どうなるのかは分かりませんが、なんとなくではありますが、今回のことは「切り換え」の1つみたいなものだったのかもしれないなー、と思いました。
新月の冬至だしね!
あ。
ちなみに。
なんでか今年は「冬至の扉の絵」が描けなかったわけですが、
なんてかねー、描いたらねー、とんでもないのになってたのかもなー、と思ったりしなくもないです。
あたしじゃ「器」が小さすぎて、制御不能だったんだろうなー。

絵を描くとへろへろになる時期というのが周期的にありましてね。

振り返ってみますと。
絵を描くと、どぉぉぉーっと疲れる…という時期があったり、
描いてもそんなに疲れない…という時期があったりしておりました。
子供たちが夏休みの間は、天使の絵を描くのはお休みしていたのですが、
9月になって、天使の絵やその他必要な絵を描いていますと、どぉぉぉぉーっと疲れるようになりました。
夏休み前まではそこまで疲れなかったのになぁ~、と思いつつ、へろへろに疲れながらもスーパーに買い物に行ったり夕方からの家事を頑張ったりしておりました。
「嫁が欲しいぃぃ~。」とツイートするくらいでありました。
描く時間や集中力が変わってるわけではないので、
今までも、なんとなくそんな時期(周期)があるのね…くらいにしか思っていなかったのですが、
数日前に「あ。」と思いました。
今年の夏は、めっちゃ簡略して言ってしまえば、「ちょっとばかりシフトアップ」したようなものだったわけで、
てことは、もしかしたら絵を描く時に扱うエネルギーも質的・量的に多少は変化してるかもしれなくて、
そうだと仮定したら、慣れるまで身体がすごく疲れているのかも……と、思いました。
実際、夏休み前と夏休み明けでは、絵の「強さ」がちょっと違うように感じるんです。
何がどう、って具体的には言えないんですが、なんとなくの感覚なんですが、「強さ」がちょっと違うんです。
(決して『巧くなった』とかではありません。念のため。)
エネルギー的な器の大きいヒーラーさんたちからすれば微々たる変化かもしれなくても、
私にしたらへろへろに疲れる~嫁が欲しい~ってなるくらいの変化なのかもしれません。
こうして、少しずつ少しずつ扱えるエネルギーの質と量が変化していってるのかもなー、と思ったのでありました。

疲れたら寝ればいいんだよ。かーちゃん。

契約解除?なんの?

ここんとこちょっと体調がよろしくなくて、だらだらしてたんですけど、
昨日は特にイマイチでして、
ですので、今日のお昼前に子供たちには録画してあった「くるねこ」をたくさん見せておいて、
おかーちゃんはちょいと1人になって、MAPセションをしておりました。
すると、お花ちゃんが作るみたいな…石でできた小さな剣みたいなものが現れましてね、それが黄色く輝いてましてね、
でもってそれがお腹…第3チャクラのあたりに入りましてねぇ。
さらに、なぜなんでしょうか、脚に有った何かしらの「契約」をその剣で解除する…というイメージを観ましてねぇ…。
なんだったんでしょうねぇ…。
その後、寝落ちしてしまいまして、娘に起こされたんですがねぇ。
なんだったんでしょうねぇ。
なんの契約だったんでしょうねぇ。

おれもくるっとしてるから「くるねこ」だぜぇ。

怒りとか不安とかを、他人に押しつけないとすると。

【今日のちょっとしたデキゴト】
夕飯をごちそうさました娘。
お薬を飲ませようとしたら、ごはんとお味噌汁が少しずつ残っていたので、
「(大好きな)トウモロコシをおかわりして、ごはんとお味噌汁を残してるってのはあかんよ。そういうのあかんよ。分かっとる?あんたのためにゆーとるんやで?」
と、かーさんが娘にゆーたんです。
でも、『あ、最後のは完全なる蛇足やった。』と言った途端に心の隅でチラリと思ったんです。
すると、ちょっと離れたところでゴロゴロしていた息子が間髪入れずに、
「それ、違うと思うな。」
と、言ったんですよーーーーー。
「…え?あんたのためってゆーのが違うってゆーの?」
「うん。違うと思うな。」と、笑顔で言う息子。
ちょっとちょっとー。
「あなたのためなのよ。」という親の言葉は、ほんとうにそうなのか、というのはありがちなものですけど、
ここでそんなツッコミを何故入れる?息子よ!
なんかねー。
たしかに息子が言ったんだけどね、そのツッコミの言葉やタイミングや笑顔がね、息子なんだけど息子じゃないみたいで………
まるでミカエルのように見えたの!
こわいこわい。
夏のホラーですか?これは。
いや、夏の奇跡ですよね?
そうですよね。
そうだと言って。
+++++++++++++++++++++
さてここから本題です。
じぇいど♪さんがこんな記事を昨日アップしてましたね。
http://nanigamieterujpn.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9194.html
政治的な出来事にしても、個人のめっちゃ狭い範囲での出来事にしても、
怒り不安という感情が、関係性を非常に複雑にしてしまうものだ、というのはめちゃめちゃ明らかなことですよね。
今、イスラエルがガザ地区に武力攻撃をしていますね。
それでたくさんの市民が犠牲になってます。
多くの日本人にとっては地理的に遠い上に、歴史的にも宗教的にも自分にとっては身近な問題ではないので、
「もうやめようよぉぉ~。仲良くしようよぉぉぉ~。犠牲者を出すのはもうやめようよぉぉぉぉ~。」
って、単純に思える人が多いのではないかと思うんです。
でも、
「ご近所の国があんなことゆーたよ!こんなことしたんだよ!このままじゃご近所さんたちのやりたい放題だよ!」
って、自分たちのことになると怒りや不安がすぐに沸き上がってしまう人も多いと思うんです。
今現在、ドンパチをしてるかしていないか、という違いは大きいですが、心理状態においては同じようなカタチになっているというのは否めないと思います。
戦争はイヤ。
世界が平和になって欲しい。
誰も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくない。
でも、隣国は信用できないから、大切な人たちを守るために何かあったら戦わなきゃ。
三次元(現象界)の肉体を持った存在の、それも覚醒からはほど遠いところにいる私なので、もちろんその怒りも不安もあります。
そうやって人類は矛盾しっぱなしのまま、今まで散々戦い続けてきているのも、ある意味「人間の性」のようなものかもなー、と思ったりもします。
人類はこのまま自滅してくしかないのかもなー、と暗い暗い気持ちになることもあります。
たまたまこれも昨日なのですが、この記事を読みました。
http://lovegrace.exblog.jp/20669517/
これはサイキックアタックについて主に述べられていますが、目に見えないエネルギー的なことだけではなく、現象として現れていることも同じですよね。

相手が居るようで、実は居ない。それが、三次元マジック。
この法則がお腹に落ちると、全ての考え方が変わる。
けれど勿論、定着までに時間はかかる(何年、ゆっくりコースならば何十年とかかる)。そして、テストは たくさんやってくる。めげずに頑張ろう。笑  テストをしかけているのさえ、自分自身なのだから。。。


ほんとーーーーーーーーーにそうなんだよなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
と、唸っちゃいました。
いえね、ほんとに最近ね、めっちゃ矛盾してるんですよ。
出来事そのものはグローバルなものから、1対1の小さなものまで、さまざまなスケールさまざまな深刻度…と幅は広いのですが、基本構造は同じなんですよね。
現象界に生きるふつーの人間の、ふつーの反応としての「怒りや不安」から発生する言動に対する共感と、
ちょっと高い次元から観てるような視点から感じるモノゴトへの理解とが相容れなくて、バリバリ矛盾するんです。

「ちょっと高い次元から…云々」というのが、引用部分の「この法則がお腹に落ちると」なのだと思うんですが、
まだ完璧にはお腹に落ち切っていないんでしょうね。
だから矛盾するんです。どっちも分かるーって。
ちょうど、うさみみさんも今日、こんなツイートをしていました。
https://twitter.com/usamimix/status/489215376916348930
(下のリプライ欄も続きになってるから読んでね。)

自分の現実に登場する他人すら、大局的に見れば、自分という脚本家・小説家が書いた世界の一部なんだね。


「大局的に見れば」っていうのが、「この法則がお腹に落ちれば」とも「少し高い次元で見てるような視点」とも同義なんでしょうね。
だからって、誰か1人が気づいたことですぐに人類の集合意識を変えちゃって平和な世界を出現させることができる……なんて安易なことは考えてませんが、
そういう方向で1人1人が「あ、そうなのか。」とお腹の底から分かることでしか、平和を築くことはできないんじゃないかなー、とも思ってます。
お腹に落ちきってないなー、というのは分かるけど、
それが分かってるからって、お腹にすこんと落ちるかというと、そんな簡単な話ではなく、
逆にすげぇぇぇもにょもにょしてしまうんですけど、
こういうのもプロセスの1つなんだろうなー、と思って、がっつりもにょもにょさせてもらっております。
はい。
で、ですね。
ここからが本題の本題です。
昔、ブログかmixiの日記かは忘れましたけど、書いた覚えはあるのですが、探すのがメンドクサイので、書きます。
(そっちの方がめんどくさくない?というツッコミは無しの方向でよろしくお願いします!)
上記のブログに、

感情は、自分自身の物事への反応を通じて自らを知る材料として、自分の中で味わいつくそう。感情を否定 するのはよくない。抑圧が、別の問題を産む・・シャドウセルフやパラレルを生み出してしまう可能性もあ る。自然な反応である感情は、自分でまずは認める。そして自分の中で味わいつくす。決して相手にはぶつ けない。ぶつけたっていいのだけれど(その人の人生だから)。けれど、怒りや嫌悪感や批判精神などネガ ティブなものであれば、必ずそれは、アタックとして相手を攻撃するし、当然ながら跳ね返って自分に戻っ てくる。。。自分が、あえて傷付いたり、オーラを損傷して運気を下げたり健康を害したりすることを望む 人は居るでしょうか?
・・居ませんよね。だから、感情は、相手にぶつけずに自分が味わうことで消化して、できれば透明な水に なるまで、濾過できればベスト。純化してしまう。そのプロセスは自分自身を知る作業であり、認めたくな いことでも自分で受け入れて呑み込み消化することで、純化が完成する。モヤモヤっと立ちこめていたエネ ルギーがなくなる訳だから、何が起きるかというと、相手がコロっと変わったり、嘘のように現実にあった 問題が消えて行く。


とありますよね。
でも、『感情は自分で味わい尽くして濾過しちゃいましょう』と、言われても、それができないから困るんだよね~という人も多いんじゃないかと思うんです。
でもね。
これね、ほんとにそうなんですよ。
私はこれを五井先生の教えをいろいろ解説してくれる人の記事を読んで知りまして、自分でもやってみたんです。
コツをお教えします。
まず、世界のデキゴトとかそーゆーのじゃなくて、家族に対する「腹立つわー!」が良いと思います。
ここで不安や悲しみではなく、まず怒り、それも身近な、旦那やオカンなど、ちょー身近な人との頭がカッカするようなケンカの直後が良いと思います。
なぜならそーゆー怒りというのは、その増減がすごく分かりやすいからです。
そういう状況になったら、どこか1人になれるところに移動します。
そして、目をつぶって、じーーーーーーっと自分の感情のみを感じます。
この時に、『旦那が悪いのよっ。あんなこと言うからっ!』などと、言葉にして考えてはいけません。
思考(言葉)は横に置いておいて、ただただ沸き上がってくる怒りの感情のみを感じるのです。
感情に対してあれこれ思考を結びつけるので、感情を味わい尽くすことも濾過することもできないんです。
そして、おそらく感情を感情としてのみ感じる、ということは、言葉を獲得して使いこなすようになってからは、ほとんどしなくなっちゃったんじゃないかなー、と思うんです。自分を省みても。
なので、思考せずに(怒りの)感情だけを感じる、ということをしていると、そのうちものすごーーーーく居心地が悪くなったりします。
じっとしてられなくなったり、思考したくなったり、逃げ出したくなったりします。
でもここがガマンのしどころです。
それでも逃げずに思考せずに感情だけを感じていると、とある瞬間がやってきます。
まるでお風呂の栓がぽんと抜けたかのような、そんな瞬間がやってくるのです。
そうなると、しゅるるるるる~と(怒りの)感情が抜けていくのです!
ほんとうにしゅるるるるる~と抜けるんですよぉぉぉぉぉぉー。
その瞬間の感覚はまさにお風呂の栓が抜ける、という言葉でしか私は表現できませんが、なんとなく伝わるといいなぁ~と思いつつ書いております。
表現が貧困でごめんなさいねぇぇぇ。
もちろん、『感情を味わい尽くして濾過する』というのは、もっともっと深い意味なのだと思いますが、
一度この体験をしてみると、感情というものに対しての向き合い方や取り扱い方が変わると思います。
旦那さんや奥さんとケンカして怒りがふつふつと湧いて来ちゃうようなことがあったら、
すっと1人になって、試してみることをオススメします。
(旦那さんと仲良しでケンカなんかしないのー♡って人は……どうしましょ?)

お熱下がったねーちゃんに抱っこしてもらったぜ。
良かったな。ねーちゃん。

もう、ストッパーを外してもいいのかな…?

昨日の記事に、「私もたみえさんの絵と文章が好きですよ。」というコメントをいくつかいただき、
ありがたいなーありがたいなーー、と感謝の気持ちでいっぱいになっております。
エイトのみんなもこーゆー気持ちなのかなー、と思ったりしました。
もちろんその数は比べ物にならないくらい全然違うけれど、その気持ちは同じなのかな~、娘の言葉のとおりなのかな~、と、思ったりました。
ありがとうございます。
それでですね。
いただいたコメントの中に、楓さんからのこんなコメントがありました。

こんにちは。
あの、もしかしたら…なんですけど、送り手も受け手も同じくらいのエネルギーが双方向で流れているのではないのかな、とか思ってしまいました。
感謝を送る側も、感謝を受けとる側も、同じようにエネルギーを受けとる器ってのが潜在的にあるのかもしれないなって感じました。
私は、コンサートとかほとんど行ったことありませんが…友達に誘われて行った時に、エネルギーが循環しているのを感じました。
舞台上に立つボーカルに向かって流れるエネルギーが、ボーカルの歌声と共に青い光となって会場全体を包み込んでいました。
歌もすごく上手かったのですが、それだけじゃなくて声そのものにも凄い力を感じました。
10年以上前の事ですが、今でも鮮烈に思い出せます。
ただ自分にはそれだけのものを受けとる器なんて無いって信じているから、受け取り拒否していることもあると思うんです。
もしコンサートや総選挙みたいな非現実的な空間でなら受け取り可能だというのなら、ストッパーさえ外す事が出来たら…。


それに対して、私はこんな返事をさせてもらいました。

こんにちは。
コメントありがとうございます。
コンサートでアーティストとファンの間に双方向にエネルギーが流れている、というのは、私も多分そうなんだろうなー、となんとなくですが思ってました。
といいますか、感じていました。
やっぱりそうですよねぇぇぇぇ。
そして、「自分にはそれだけのものを受け取る器なんて無いって信じてるから、受け取り拒否していることもあると思う」というのも、そうだろうなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー、と思いました。
私だけじゃなくて、たくさんの人がそうなんだろうな、って思いました。
私は、諸事情であまりに大きなエネルギーが流れるとぶっ倒れるということを繰り返してきたので、そんな器じゃないと思うことは、まったく不必要なことだった…というわけでもないのかもしれないのですが、
もうそろそろそーゆーのは要らないのかもしれないなー、と楓さんのコメントを読んで更に思いました。


この記事に書いたように、月子さんから「蟹座エキス」を少し分けてもらったわけですが、
これは、まさに堅い殻が必要だからなんだろうなー、と思っているんです。
月子さんに言わせると「あっぱっぱー」な私ですが、その「あっぱっぱー」加減にもかーなーり変動がありまして、
「けっこー開いてる時」と「閉じ気味の時」というのが、数年周期に入れ代わります。
「けっこー開いてる時」というのは、新たな人とのつながりもどんどん増えていきますが、ずーっとこのモードではいられないようで、「閉じ気味の時」というのがやってきます。
実はこの2年ほどは「閉じ気味」だったんです。
オーバーフローを起こす前に閉じるのか、整理整頓をするために閉じるのか……ともかく、そういう変動があるんです。
このような変動があること自体を良いのか悪いのか…と判断することはできませんが、
絵を描くという今のお仕事をこれからも続けていく上では、変動は無い方がいいよな、と思っていました。
無い……というのは無理でも、変動の振幅はより小さい方がいいよなー、と思うのです。
そのために、自分に足りないものはなんだろう?と考えてみると、どうしても結論はコレになるんです。
境界がふにゃふにゃ
これです。
人間にはいろんな「境界」があるんだろうな、と思うんですが、
どこの部分かはハッキリ分かりませんが、どこかの一部がふにゃふにゃだよなーと、自分でも自覚してるんです。
(あ。りゅーらたんもだぞ!私だけじゃないぞ!)
殻がある・境界線がちゃんとある、というのは、自と他を区別するということで、
スピでいうところのワンネスの概念とは反することかもしれませんが、
この現象世界・物理世界で生きるということは、その境界をしっかり持つ、ということに他ならないのだと思うのです。
自と他の境界線を適度な強度で引くことで「自己の世界をより善く、より美しく創りあげる」ことができ、
そうすることで、「他者の世界も正しく尊重する」ということができるような気がするのです。
自分というものがちゃんとカタチを得てこそ、ワンネスを目指せるのではないか、と思うのです。
おそらく、境界の強度が強すぎるのも問題なのでしょうけど、ふにゃふにゃな部分がある私にしたら、蟹の甲羅のような「自と他を分けるもの」は必要な要素なのだろうな……と、ここ数年のアレコレを通して感じるようになりました。
柔らかい中身を守るために、エゴを強くするという方法もあるかと思いますが、それは賢い選択でないのは明白ですしね。
エゴはこの物理世界で肉体を維持するために上手に使うべき道具みたいなものかなー、と思うので、柔らかい中身を守るために使うというのは、用途が違うよなー、と思うんです。
なんでも用途を間違えると、うまいこといきませんよね。
それで、話を戻しますとね、
大きいエネルギーが流れるとぶっ倒れていた、というのは、
過去世からのさまざまなブロックがエネルギー管にどっさり詰まっていたためだったわけですが、
最近ではそれだけじゃなくて、境界の甘さもその要因の1つなのではないか、と考えるようになったんです。
もちろん「そうじゃないかなー?」と考えるようになったのは、ワームを取り除いてもらって蟹エキスを分けてもらってからです。
そんな感覚がジワジワ~っとするのです。
あ、そいえば私のホロスコープには蟹座の「惑星」って1つもないや~。小惑星とかは分からんけど。
そして蟹座の守護星である「月」は海王星とハードアスペクト取ってるしー。
そりゃふにゃふにゃだよなー。あっはっはー。

そこに楓さんのあのコメントだったので、
「もしかしたら、そろそろもうストッパーを外しても良さそうな時期に来てるってことなのかな?」
と、思ったのでした。
境界がハッキリしていれば、自分にとって良い影響を与えてくれるモノだけ受け取ることもできるようになるのかも、と思ったのです。
なーんてつらつらと思っていたら、mixiでPさまがこんな動画を貼り付けてくれていました。
他の方の日記に貼り付けてあったそうなのです。
バシャールの動画です。
http://www.youtube.com/watch?v=4ExfcLqJGrM
もうそろそろストッパーを外してもいいんだよ。
そして外したら、このように周波数のチューニングを「自分にとって望ましいところ」に合わせ続けなさいよ。
それができるなら、恐れることは何も無いんだよ。

と、言われてるようにビリビリと感じました。
今まで何度も何度もこーゆー言葉は耳にしてきましたが、今までとは少し違った感覚で私の中に入ってきました。
とりあえずー
ええところにチューニングを合わせにくくなったら、
ゆるゆる上機嫌なタミエルにチューニングを合わせるように心がけようと思いますー。
自分のハイヤーなんだから、合わせやすかろう!

おれはいつもゆるゆるだぜ~。

友人が育てたトウモロコシです。
今年お初です。
うまうまでした~♪♪

自分はそっち側の人間じゃないので関係ないと思いつつアレコレ考えていたら…

えー。
昨日の夜はですねー、
AKBの総選挙をけっこーな時間見てたんですよ。
……娘にせがまれましてね。
娘はまゆゆが好きなんです。
まゆゆが今年は1位になるのかどうか、が気になって仕方がなかったようです。
良かったね。まゆゆが1位になって。
てなわけで、見ておりましてね、
味の素スタジアムから生中継なのかー、あれー?すげぇー雨降ってんじゃねー?AKBオタのみなさん風邪ひかないといいけどなー……と、ぼんやり思ってたんですが、
すると、
あー、そいえば、エイトの大阪での野外ライブも雨だったよねー、エイターも雨の中ずーっとライブに参加してたんだよねー……と、DVDで観まくった2012年の野外ライブの映像がぽこんぽこんと浮かんできたりしました。
関ジャニ∞を好きになってから、初めてファンクラブなるものに入会しライブにも行くようになったし、
AKBもなかなかエゲつないようですけど、ジャニーズもけっこー上納金が必要になりましてね、お金をそれなりに貢ぐようになっておるんですね。
なので、AKBオタのみなさんの気持ちも分かるんです。
てかまー、オタクという方々の気持ちってのは、分野を越えて分かる気がしておるのです。
そしたらですね、
順位ごとに呼ばれて前に出てくる子たちが、ファンのみなさんに感謝の気持ちをスピーチしてる姿を、これまたぼんやり見ているうちに、あれ?って思ったんです。
私はAKBのファンでもなんでもなくて(あ、でも高橋みなみはすごいなーと思ってる。)、
でも、オタのみなさんの気持ちは分かるので、「バカみたい。」とかは思わないんだけど、
でもでも、やっぱり引いた目線で見てるわけです。
そうすると、メンバーがファンのみなさんに向かって話してる感謝の言葉が、なーんとなく不思議な感覚として感じられ始めたんです。
エイトがライブで私達エイターに向かって、熱量の高い感謝の気持ちを言葉にしてくれると、それはめっちゃダイレクトに私の中に響いてきて、素直にそれを受け取るんですね。
それは一方方向のものじゃなくて、双方向のエネルギーの流れとして感じられるんです。
個人に向けられた言葉じゃないんだけど、メンバーと自分との双方向の流れでもあり、同時にたくさんの「個人」が集まった「ファン(エイター)」という総体との双方向の流れだと感じるんです。
……や、言葉にするとそんな感じだよなー、と初めて思ったんですけどね。
いろいろぼんやり考えてて。
感覚としてはあったけど、言葉にしてみるとこんな感じだなー、と。
で、ですね。
おそらく、昨日のあの場にいたAKBオタのみなさんも、同じような感覚なんだろうなー、と思った……んですが、
端から客観的に見てると、そういう流れって、やっばりめっちゃ特殊なものなんだよなー、というのがイヤでも分かっちゃうわけです。
そうなると、ですよ。
エイトにしても、AKBにしても、他のいろんな有名人にしても、
「何十万人ものたくさんの人から好意を寄せられる人たち」が、「ファンのみなさんに熱く感謝の言葉を言う」時の感覚ってのは、一体どういうのものなんだろう????って、すごーーーく不思議に思ったんです。
私はそーゆー立場になったことがないので、
ステージの上から、不特定多数の「自分に好意を寄せてくれてる人たち」に対して、感謝の気持ちを伝える時の気持ちというのが分からないわけです。
よくよく考えてみたら、不思議なことですよね。
何かのやりとりがあって、誰かに対して感謝の言葉を伝えるというのは日常でもよくあることですが、
顔も名前も知らない大勢の人たちが、自分のことを大好きだと思ってくれて、お金もいっぱい使ってくれて、自分を応援してくれてる……って状況は、ものすごーーーく特殊なケースですもんね。
ごっそりひとまとまりにして、たとえば我々のような「エイター」という総体に対して、感謝する場合の感覚っていうのは、なんとなくですが分かるような気がするんです。
が。
そのひとまとまりになった「ファン」という総体は、それぞれさまざまな人生を歩んでる個人の集まりなわけで、
総体の向こうにいる個人個人に対して、顔も名前も知らないけれど、思いを届けようとする……みたいな感覚でもって感謝の気持ちを述べているとするなら、
それって、エネルギー的にめっちゃデカい器じゃないとできないことじゃね?
と思ったんです。
思った途端に、ゾッとしました。
その容量のデカさを想像して。
もしかしたら、そういうことが無意識にできるくらいじゃないと、有名人として売れないのかもしれないですね。
なーんてことを、総選挙を見ながらつらつら考えてたわけですが、
考えてることがつい漏れて、ぼそりとゆーたんです。
「こーゆー人たちって、ありがとうってゆーてるけど、たくさんのファンに対してどーゆー気持なんやろうなー?こーゆー立場になったことないから分からんなー。なんか不思議やわー。」
って。
すると、娘が間髪入れずに言いました。
「おかーさん!おかーさんの絵が好きだって言ってくれる人たちがいるでしょ?そういう人たちもファンって言うんだよっ。そういう人たちにありがとうって思う気持ちと同じだよ!」
……え?
えーと。
そりゃありがたいことに、私の絵とか文章が好きだとゆーてくれる人は時々おるけど、それはめっちゃたくさんのファンの人たちに対しての気持ちってもんとは数からして違い過ぎてだなー、同様には論じられな………って、でもなー、顔も本名も知らない人が私の絵とか文章を好きだとコメントしてくれるってことについては、構造的には似てるよな、確かにー………って、でも、何万人何十万人って数でのことを考えていたわけで………あれれー???

と、3秒くらいぐるぐるーっと考えていて言葉を返せずにいたら、
おとーちゃんが、
「お前、すごいな!おとーちゃん感心したよ!」
と、娘を褒めだしたので、余計に何も言えなくなりました。
あれれー???
……ま、でもね、やっぱりね、そーゆーのはファンって言わないよねー。
なーんて思って、そこで考えることはやめちゃったんですが。
そしたら、そっこーで、こちらの日記に、
「たみえさんのファンになりました」なんて言葉が入ったコメントが入りました………。
もちろん、コメントをくださった方は、軽いノリで書かれたんだと思いますが、
タイミング良すぎです!
私は何十万人というレベルでの話を考えていたので、私とは全然関係ないところのことだからよく分からんなー、と思ってアレコレ考えたのですが、
これっぽっちも関係ない…というわけじゃないんだよ、と言われたような気がしました。
もちろん数の大小は全然違うけど、だからって全く関係ないわけじゃないんだよ、と。
だから私自身も、そのあたりの意識をもう少ししっかりした方がいいよ、と言われてるんだろうなー、と思いました。
じゃなかったら、ふいにこんなことを考えて、こんなタイミング良くコメント入りませんよねぇー。
え?
誰に言われたか?って……そんなもんねー、そりゃもー、ミの字の親分でしょうよーー。
ははーん。

ドラえもんだらけ、ってゆーオモチャなんだけど、全部のドラえもんを乗せるのはなかなか難しいんだよー(>_<)