自分にはそんな部分は無いと思い込んでいた。

季節の変わり目で、三寒四温のジェットコースターのおかげで、ここんとこ体調がイマイチでございました。
そのため、なかなか更新ができずにおったのですが、今日は身体が軽めなので、ブログも書けるってなもんです。ひゃっはー♪
しかし、子供たちがすぐに春休みに突入するので、これまたなかなか更新できないかもしれません。
いえね、
おかーちゃんがぽちぽちとPCに向かってキーボードを打つことは問題ないんですよ。
子供たちも自分たちでやりたいことしてますし、もう保育園児とかじゃないんでね、ほっといてもそこそこ大丈夫なのです。
でも、一人っきりの時間が激減するわけですよ。
いや、ほぼ無くなる、と。
孤独を愛する人間というわけじゃないんですが、一人の時間がある程度無いと性能が落ちる…というか、稼働域が狭くなる…というか、ううーん…なんて言っていいか分からんのですが、「自分以外のエネルギー」みたいなもんを定期的に抜くみたいなのが必要といいますか……。うむむ。
一人の時間になにかをするわけじゃないんですけど、「軽くなる時間」みたいなものが必要なんです。
それが大好きな家族であっても、です。
あ、それに、
お仕事用の絵を描くのも、一人っきりがいいですね。
結界を張ってるみたいな感覚になりますから。
(実際にほんとーに結界を張ってるわけじゃないよ~。そんなやり方知らんもん。)
なので、子供の夏休みとかそーゆー時期にはまるっとお休みさせてもらっておるわけです。
子供たちがもっと大きくなったら、違ってくるかもしれんですね。
…っても、長男はアレですし、どうなるのかなぁ。
さて。
今日の本題であります。
数週間前に、月子さんから「こんなのを見つけたよ。」と、教えてもらいました。
これです。
http://the72angels.jp/top.php
で、
月子さんが「自分のはコレだったー。」と教えてくれまして、
「こういう面が自分には足りないと思ってるから、こういう面が自分の中に潜んでいるのかも、と思うだけでちょっと嬉しいかも。」
みたいなことを言いよるので、
「何ゆーとるん?アナタ、そういう面がちゃんとあるやないの。」
と、

こんな感じで返事しました。
すると、月子さんは、「えぇぇぇー?」とちょっと驚いたりしておりました。
任意の性質…といいますか、特徴といいますか、長所といいますか……
そういうものについて、人間って割とスレテレタイプなイメージを持ちやすいのかもしれないなぁ、と思うのです。
なので、それが自分に備わっていると思ったことがなかったり、思えなかったりすることも、案外多いのかもしれません。
ひるがえって。
私はコレだったんです。
http://the72angels.jp/guardian-oneself.php?cid=60
それで、月子さんに、私はコレやでー、とメールしたところ、
「もうなんか、たみえさんのそのまんまの人物像って思いながら読んだよー。」
と返事が来ましてね。

こんな感じだったんでしょうなぁ~。
しかし、ですよ。
実はリアリストだという自覚はあるので、冷静ではないけどそうかもなー、とは思うんですが、
『人気者』だの『生まれながらに威厳が備わっている』だの、そんなわけないやーん!と、思うわけです。
でも、月子さんは、私そのまんま、と言うのです。
他人のことは分かるけれど、自分のとこになるとサッパリ分からないのですよね。
そして、ステレオタイプなイメージとは少し違う表出をしてると、それだけで自分の中には無い資質だと思い込むのです。
たとえば、『人気者』というのは、『小学校のクラスの人気者』みたいなイメージが自動的に想起されて、自分の中には存在しない、と思い込むわけですね。
けれど、『人気者』って、それだけじゃないですもんね。
そうじゃなかったら、展示会で、私に会いたいって思ってくれた人たちが来てくれるわけないですもん。
もちろん、世の中にはめっちゃめちゃたくさんの人たちに好かれている人はたくさんいますけど、
数は別にして、私(の絵)にもそこそこコアなファンがついていてくれてる、ということは、ちゃんと認めないとその方達にどえらいこと失礼だよなー、とハタと思ったのです。
『独自の発想をする』ということについても、何か際立った発想をして、それをカタチにして世の中で認められた…なんてわけじゃないので、そんなことないよなー、って自動的に思ったんですけど、
いやいや、ちょっと待てよ、と。
発明家や企業家、研究者だけが『独自の発想をして、カタチにする』わけじゃないですもんね。
ユニークさというのは、そういうスケールで語られるものばかりじゃない、と頭で分かってるし、他人を見る時はできるのに、自分のことになるとやっぱりサッパリなんですよね。おかしなもので。
これを読んでるそこの貴方も、自分で自分だと思い込んでるセルフイメージを、ちょっとばかり刷新してみるといいかもですよ。
春だし。
春分も過ぎたところだし。

そうそう。
先日、mixiのつぶやきに、ふと思って、
「自分を知るって難しいけど、自分を知らないと明後日の方向に努力したりしかねないよなー、と思う今日この頃。」
と書いたんです。
そしたら、すぐに友人から、
「よい鏡が無いと、自分のとこなんて分からないよね。」
とメールが届きまして、
ま っ た く も っ て そ の と お り だ な !
と、大きく頷いておりました。
スマホ片手に。
と、
ここで、「よい鏡」って何か、というのを言葉で説明しようと考えてみたけど、長くなりそうなので、そこはもう割愛!
気が向いたら、書いてみようかなぁー。
けど、めんどくさいから気が向かないかもー。
てへ♪
今日は身体が軽めな上に、天気もいいし、風も無いし、温かいので、子供たちと近所をくるりとお散歩してきました。
そしたら、ソメイヨシノが咲いてました~♪

モクレンも満開。

ツクシもにょきにょき~♪

うすーい膜のようなものが、まとわりついていたので。

去年のいつだったっけなー?
オカンに会った時に、オカンが言ったんです。
「あんたの子育てを見てると、私は責任感が強かったなぁ~、って思うわ。」
どういうことかといいますと、
私は、ベタベタに子供のことをかわいいかわいいと育ててますが、
オカンは、我が子はかわいいに決まっているけれど、それよりも『ちゃんと育てなきゃ。』という責任感の方が強かったんだなー、と、私のベタベタな子育てを見ていて気づいたんだそうです。
そう言われて、なんだかいろんなものが「剥がれた」ような感じになりました。
お鍋についた焦げを一生懸命洗ったけど、小さいのがあちこちちょいと残ってた……みたいなものが、ぽろりと剥がれたような、そんな気がしました。
と、いうことが数カ月の前にありまして。
2月になって、体調が……というか、まぁ、アレです。更年期障害で血圧が上がっちゃった頃からですね。
あれこれ考えてた中で、ある時ふと思ったんです。
「もうええやん。いい子でいる必要ないやん。」
って。
オカンはオカンで「ちゃんと育てないと。」と思って育ててくれて、それはそれで良かったんだと思います。
や、私がちゃんとした人間になってるかどうかは分かりませんけど、多分「社会的にそこそこ普通」という範疇には入ってるんやと思います。
人間関係や社会的なところでの大きいトラブルとかないし。
でも、どこか「いい子でいないといけない」というモノが、そんなに分厚いものじゃなくて、ほんとにうすーーーーーい膜みたいなものなんでしょうけど、まとわりついてるんだな、と気づいたんです。
そして、これが自分の無意識に意外と「効いて」いたんだな、と。
そんなわけで、
もういいやん、そんなの要らんよ……と、手放したいわ、と思ったんです。
実際に手放し切れてるとは思えませんが、その途中なのかな、という感じかもしれません。
そしたらですね。
昨日あたりから、
こんなの
http://ibaya.hatenablog.com/entry/2015/03/11/162610
や、
こんなの
http://plaza.rakuten.co.jp/siriun/diary/201503100000/
や、
こんなの
https://twitter.com/blueflame_bot/status/575817320871956480
を立て続けに読みましてね。
あ、これも。
http://tsukio2345.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
善良で、バランス良くて、賢くなろうとしてたんでしょうね。私は。
「そうでありたい」と、自分の中から自然と立ち上がってきた部分もあると思うんですが、
「そうでなければいけない」という部分もそれと一緒に存在してるから、どこまでがどっちなのかよく分からないままだったのかもしれません。
でもねぇ。
それすらどこか「囚われ」になってたんだなぁ~、と感じまして、
だからと言って、悪い子になっちゃえー、というわけじゃ決してないですし、ワガママ放題に生きようとしてるわけじゃないんですけどね、
「いい人じゃないといけない」みたいなものはね、おそらく他人の評価を介してのものなんですよ。
なので、そこはもうね、この歳ですしね、ほっといても反社会的なことをすることも無いでしょうから、『他人に悪く思われたらイヤだなー。いい人に思われたいなー。』というのはね、2/3くらい捨てちゃってもいいのかもなぁ~、なんて思ったりしてたんです。
そしたらですね。
「いい子でいないといけない」の薄い膜はもう要らないよ~、と頭でですけど、一応ね、そう思ってからなんですがね。
私って、何がしたいのか、どうなりたいのか、が、イマイチ分からなくなってきたんです。
もちろんね、
家族はとても大切なのでね、このまま家族が幸せであるように、っていう願いは強くあるので、
子供たちのために『元気でそこそこ長生きしたい(←娘には元気に93歳まで生きろと言われている)』というのは消えないんですけど、
あとね、『最低でも年に1回はエイトのライブに行きたい』というのも消えないんですけど、
他がね、めっちゃうすーーーく感じられるようになっちゃったんです。
これって、どれだけ「他人の評価を通しての自分」、ってものを「自分」だと思い込んでたいたか、ってことなのかなー?って思ったらですね、苦笑いしか出ませんわー。
もちろんですね、
ここから少しずつ整理整頓がされていって、薄いまま消えていくのもあれば、再び濃くなるのもあるんだろうなー、とは思ってます。
受け身ではありますが、自然とそうなるのを待ってるしかないかなー、なんて思ったりしてます。

モスバーガーでもらったお絵描き用オモチャに、娘が何か描いていたら、お猫がずーーっと覗き込んでいた。

その思い込みを捨ててしまうことに躊躇う自分がいる。

年賀状受け付け開始ですよ!
でもまだ年賀状買ってないですよ!
あ、でも、年賀状で使う写真は決めてますっ。親馬鹿ですからね。子供たちの写真ですよ。毎年。ひひひ。
さて。
前記事のつづき…です。
人間って「変わりたい。」と言いつつも、実は心の深いところでは変わりたいと思ってないコトが多いんじゃないか?話の続きですね。
自民党圧勝のことじゃないですよ?
私個人のことです。
喉がガラッガラからの咳げほげほ、現在は咳は半減したものの鼻水ばーばーになっとります。
お医者さんにも行って、お薬もちゃんと飲んだんですけどね、なかなかよくなりません。
そんな中、先週の半ばですかね、久々にちゃんとMAPをしたら、いろいろ出てきましてね。
(このところ少しご無沙汰でしたの。)
元気で丈夫になりたい、と表層意識の「私」は常に思っているのですが、深いところにうっすらと何かがあるのは分かっていました。ほんとうは。
それを見ないようにしてたんだと思います。多分。
とうとうそれに触ってしまったような、そんな感じのMAPセションになりました。
多分、どこかがとても悪いという身体じゃないんですが、とにかく自律神経のバランスがすぐに乱れやすくて、
乱れると寝込むことも多く、しんどいんです。
死ぬ病気じゃないんです。
残念ながら最近は更年期障害も加わってますが、それでもやっぱり死ぬ病気じゃないんです。
死ぬ病気じゃないけど、20歳の頃からずーーっとしんどい。
それは、自分が引き受けたものをチビチビ小出しにしてるから、と、すぱんと頭の中に投げ込まれました。
一気に「消えていく姿」として出してしまったら、死んじゃうかもだけど、ちびちび小出しにしてるよね、と。
え?
って、一瞬たじろぎましたが、納得する自分も同時にいました。
認めたくないんですけど、そこで認めざるを得ませんでした。
自分でそういう現実(健康問題)を創り出しているということを。
大切な人たちが苦しむくらいなら、私が引き受けて苦しむ方がいい
という思考が深いところにある、というのを、認めるしかありませんでした。
今回の人生…ではなくて、どこぞの誰かの時に築いてしまったものだと思われます。おそらく。
これは、表層意識の、このブログを今書いている「私」という意識にしたら、厄介極まりない思い込みです。
こんな思考を持ってるなんて、困りまくりです。
でも困りまくりなんですが、分からんでもないんです。
特にね、子供が病気で寝込んでると、「代わってやりたい。」と思うことも実際にありますからね。
全く分からんでもないんです。
…いえ。
分からんでもないどころか、子供のこととなると、本質的(←ココ大事。普段の私はそんなふうには考えていない。)にはそーゆー想いがベースとして在るような気がするんです。
こうなると、さらに厄介度が増します。
こんな思い込みは捨ててしまえばいい!……と、簡単に思えないからです。
もちろんね、たとえば娘にそんな思い込みがあって、私みたいになっていたら、そんなのイヤですよーーー。
そんな勝手な思い込みを持つなーーー!って怒りたくなりますよ。
立場が違えばそうなります。
なので、自分のこの思考・思い込みが「正しい」か「正しくない」かで判断したら、「正しくない」んだとは分かってるんです。
でも、手放すのに躊躇している自分がいるのです。
元気で丈夫なおかーちゃんになりたいって切望してるくせに。
(そして、そんな自分を眺めながら、人間ってややこしくてめんどくさくて面白いなー、と思う自分も同時におるんですよ。)
もちろん、いづれ手放していくことになると思うんですが(というか、このままではアカンやろってのも分かってます)、
今すぐというわけにはいかないので、焦らず、もちょっと地道に向き合ってみようと思います。
ただの思いつきで生まれた思い込みではないでしょうし、いろいろあってのことだと思うので。
もしも自力でなんともならんかったら、またその時に考えます。
というわけで。
人間って変わりたい変わりたいってゆーてても、深いところでは変わりたくないから全然変わってないんちゃう?
というお話でした。

自撮りお猫

人間なんて、ほんとうは変わりたいとは願っていない。

……のかもしれない。
と、思うことがありました。
変わりたいと願っているのは、顕在意識のほんの一部で、
深いところでは、ちっともそんなこと願っていないから、なんだかんだまっとうそうな理由をつけて、今の場所から動かない。
そんな人の方が圧倒的に多いのかもしれない、と思いました。
いえ、それを批判してるわけではないのです。
それよりも、自分もきっとそうなんだろうな、と思ったんです。
そういえば。
私は、自分が稼げない立場になることがすごく怖かったんです。
父親が会社倒産により借金を抱えてしまい、(身体が丈夫じゃなかったのでほぼ専業主婦だった)オカンがお金の苦労をしてきたのを子供なりに見てきたので、稼げない立場になることが怖かったんです。
だから、(バブルの最後の年に実力以上の会社に入らせてもらったはいいけれど)仕事が自分には合ってない…といいますか、根本的に好きなれなくて、精神的にしんどかったのですが、
それでも、辞めるという選択をしようとはしませんでした。
せっかくちゃんとしたお給料をいただけるのですから。
おかげさまで、会社員人生後半からはなんとか一人前のアウトプットはできるようになっていましたから、自信なんて全然無くても、達成感も無くても、仕事を続けることに他人への罪悪感はありませんでした。
仕事を一緒にしている仲間にとって、私が全く役に立ってない…とも思っていなかったので続けることができたのだと思います。
しかしですね、
好きになれなくて、線表に追いかけられてるうちに、顔中に吹き出物が出たこともあります(その時に出来た大きなシミは取れません)し、
下痢が止まらなくて、一ヶ月間のドクターストップを言い渡されたこともありました。
それでも辞めなかったのは、怖かったからです。
11年、そうやってお勤めしてました。
文句言いつつも、変わることの方が怖かったのです。
それが、ですよ。
息子を妊娠した時に、周りは辞めずに産休育休に入って復職してる女性が多くて、私もそのつもりだったのですが、
旦那さんに、
「今、辞めないで、いつ辞めるの?」
と言われて、あ…そっか!と思ったんです。
身体が丈夫じゃないから、きっと両立は無理だよな、と考えたのもありますが、
それまで怖いと思ってた状態に自分を置くことに何故かちっとも躊躇しなかったのです。
それは、母親になるということが最優先事項だと芯から思っていたからなんじゃないか、と、振り返ってみて思ったりしてます。
変わるチャンスに自然と乗っかることができたのでした。
結果的に、それはその後の私の人生を全く違うものにしました。
もちろん、経済的には大きい会社に夫婦で勤めていた方が圧倒的に良いに決まっていますが、
旦那さんも会社を辞めて、今の暮らしを10年近く続けて来て、幸せだよねー、とよく夫婦で話しています。
子供の成長にとって、今の暮らしの方が絶対に良いと言い切れますし、
私も、思ってもいなかった絵を描く仕事をすることになり、
好きなことを仕事にすることの大変さをたっぷり味わいつつも、達成感が全然違うことに喜びを感じています。
変わることは、怖いです。
変わることを楽しめる人もいますが、怖い人の方が多いんじゃないか?と思います。
どれだけ身体がSOS出しても、
どれだけサインがチラついても、
変わらないための言い訳を探すのです。
それも、正論っちっくな言い訳を。
私は特にそうです。
言い訳を探すの、得意です!
我慢して、変わることを恐れて、ずっと仕事を続けてきた11年間が無駄だったとは思ってませんし、たくさん得たものが多かったと感謝してます。
でも、あのままでは(あくまで私の場合は)今ほど精神的に豊かだったとは思えません。
やはり、成長に合わせて、人は居場所も変わっていくものなんだろうな、と思います。
または、居場所を変えることで成長するとも言えるのかもしれません。
辛抱すべき時は辛抱して、がっつりと実力を蓄えなければその後の飛躍はありませんから、そこは勘違いしてはいけないと思うのですが、
変わるべき時に言い訳を並べて動かないのも、同じくらい愚かなことなのかもしれないな、と、ちょっと思ったりもします。
自戒こめまくりで、そう思ったりしてます。
ちょうどこんなツイートも見かけたばかりですしね。
https://twitter.com/2012wat/status/543206927899959296
(つづく)

ぬおーーん。

ちっとも有名じゃないところで紅葉を観てきました。

愛知県の三河地方で紅葉といえば、足助の香嵐渓が有名かなーと思うんですが。
http://asuke.info/event/nov/entry-705.html
……人が多すぎて、行く気になれません。(←ヘタレ)
で。
今日はほんとはユニクロに冬物を買い足しに行く予定だったんですが、
なぜか急におとーちゃんと娘で相談がまとまり、我が家から車で1時間もかからない山奥の、ちっとも有名じゃないところに紅葉を観に行きました。
ちっとも有名じゃないところですが、車が4台ほど停まっていて、写真を撮る人が多かったです。
スケッチしてる人もいました。
普段はほとんど人が来ないんだろうなー…という感じのところで、いつもなら妖精がいるに違いないね!って娘と話していました。



その場所に(自分も含めて)人が10人ほどいたのですが、
それだけで、もうかなり「乱れてる」んだろうなー、と思いました。
それでも、お昼のおにぎりを食べ終わった子供たちがおとーちゃんとあっちの方に遊びに行き、
近くで敷物を敷いてお昼を食べていたご夫婦とワンちゃんが散策しにその場をすーっと離れ、
写真を撮ってる人たちも、なんだか遠くに移動して、
ほんの数分ですが、私の周りに人がいなくなって、少しばかり「整った」感覚になりました。
その時に特別何か劇的なことがあったわけではないのですが、それでも少々「今の私に必要な時空」がすぽんとそこに顕れたような、またはそこにすぽんとハマったような、そんな感覚になりました。
その後、道の駅でジャンボフランクフルトや五平餅を食べて帰ってきました♪

ゆうべの長野の地震のおかげで判明したことがありました。

嵐にしやがれを見ていたら緊急地震速報が流れてきて、
愛知県は赤くなってませんでしたが、長野や新潟…そして岐阜県も赤い。
モノによったらこのあたり(愛知県東三河地域)でも震度3くらいの揺れはあるかも、と思い、隣の部屋で寝ている子供たちのところにすっ飛んで行き待機してましたが、ほんとにちょっと揺れた?って程度で済みました。
そういえば。
一昨日のとこですが、子供たちのお布団を敷いてる時、急に娘用の移動する小さい本棚の位置が気になりました。
ここだと、寝てる時に大きい地震があると危なくないか?と、ほんとに急に気になり出して、ごそごそとズラしました。
ちょっと使いづらいけど、安全第一!と。
このあたりはほんとに「揺れた?」って程度で全然たいしたことなかったんですが、何か感じるものがあったのかもしれませんね。
動物の…いや、母親のカン、ってことにしときましょうか。
で。
嵐にしやがれは娘とも観るためにどうせ録画してあるので、途中でやめまして、NHKにしました。
震源の位置やら各地の震度やらが次々に出てきました。
震度6弱って、かなり大きい揺れだな…被害が大きいところもあるだろうな…ケガ人が少ないといいな…などと思いながら見ておりました。
すると、愛知県東三河地方が震度3になってました。
あれ?
震度1くらいじゃね?って揺れだったのになんで震度3なの?と不思議に思ってると、藤沢とかあっちの方も震度3。
震度分布
地下構造が均一ならば、波(地震波)は同心円状に伝わりますが、地下構造が均一なわけないので、震源分布というのは偏りが出ます。(なので、こーゆーデータから逆に地下構造を解明できるというわけです。)
この図をパッと見て、あれ?と。
なんだっけー?これー。
大学卒業して20年以上経つし、最近は脳の回転速度がぐーんと落ちたよねーって夫婦のの会話をしたばかりだったのですが、本当に頭が若い頃のように動かないので、
あれー?あれー?でパッと浮かばなくなっておりました。
でも、ゆっくりとですがつながってきまして。
あれ?
詳しいことは分かんないけど、絵を見てるとなんとなく震源って糸静構造線の近くじゃね?
あれ?
もしかしてフォッサマグナ内の震源かなー?
と、思いまして、スマホでフォッサマグナの絵を見ようと検索かけたんですよ。
で、パッと見たら。
あ。
中央構造線だ。
と、やっとつながりました。
長かった!
10分くらいかかってるよ!
中央構造線がうねーってなってるカタチと似てたんだ、とやっとスッキリしました。
これに載ってる図の愛知県東三河地方のあたりを見ると分かりやすいかな?)
あー。
話が長いですな。
で、ここからなんですよ。本題は。
そこからなんとなくウィキペディアの中部地方の記事を読んでみたら……
…あれ?
もしかして、我が家の辺りって中央構造線が通ってる地域じゃね?
と、気がつきまして、
そこからまたちょいと検索しまして、すぐに見つかったこの辺りの地質図をがーっと見てみました。
……うおおおおお!
うちのめっちゃ近くを中央構造線が通ってるよ!

歩いて5分!
てことはなに?
あたし、日常的に領家帯と三波川帯を行ったり来たりしてるってことやん!

と、大興奮。
やー、岐阜出身で、大学でも細かいところは主に岐阜県内のことばっか勉強してたので、当時の彼氏(今の旦那)の実家の辺りがどーなってるかなんてちっとも知らなかったんですよーーー。
まさか自分が中央構造線のちょーー近所に住んでるなんて思いもよりませんでした。
あー、ビックリ。
……って書いても、地学好きじゃないとこの大興奮は伝わらないですよね。
ごめんなさい。
では、ちょっとスピっぽい?ってお話を最後に。
大興奮のままおとーちゃんにスマホを見せてみたら、
「あー?だからなに?……ふーん。これさ……お伊勢さんのあたりに続いてるんやな。」
と、中央構造線がナニモノか分かっていないおとーちゃんがなんとなく言ったので、あれ?そうなの?と思い、
ちょっとググってみたところ、
お伊勢さんの外宮は中央構造線の真上にあるそうなんですよー。
ヘぇぇぇぇ!
さらに、諏訪大社なんて、糸静構造線と中央構造線の交わるところのあたりにあるとか。
(というか、交わるところに諏訪湖があるのね。)
へぇぇぇぇ!
中央構造線を龍脈とかゆーてるサイトもたくさんあるみたいですね。
へぇぇぇぇぇー…。

まさに劣等感の裏返しに見える

57歳でヘイトスピーチしまくりのネトウヨおじさんについての取材記事です。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41047
あちこちから一斉にリツイートされて回ってきたので読みました。
奥さんにDVしてたってところで、トホホ感がMAXになったんですがね。
韓国や中国の反日教育の話をチラホラ見聞きすると、正直むかっときますけど、
だからってヘイトスピーチしていいわけじゃないよね、ってのが分からないのは、これはもう、頭が良く無いよね、ってところにしか答えが見つからないのです。
まともに議論もできないようですし。
知性を身につける機会も意欲もなかったのかな?と、感じてしまいます。
だから、多分、あまり褒められることってなかったんじゃないかな?って思います。
劣等感が大きい人なんじゃないかな、と。
それが、匿名のネットの世界で『同類』に賞賛され、持ち上げられるようになったら、そりゃ図に乗りますよね。
ネットにいる過激発言をするネトウヨさんたちは、そういう人が多いのかもなぁー、なんて思っちゃいました。
任意のことについて持論を表明するのはいいし、現状の問題点を指摘して、その対象を批判するのもいいんですけど、
個人や団体丸ごとの存在を否定するというのは、自分の中の知的検閲が弱すぎると思うんですよね…。
家の中で言ってるだけならともかく、いくらフォロワーが少なかろうが、ネットは公けに向けて発信されてる場ですもんね。
その意見、おかしいよね?
と、言ってくれる(まともな)人がいたら、それは絶好のチャンスなんだけど、
だいたいは自分の主張を言い張り続けるか、怒るか、逃げるか、が多いですよね。
大人になればなるほど。
(もちろん自戒を込めて書いております!)
先日ですね、このツイートにヒザポン!だったのです。
https://twitter.com/usamimix/status/533858605632462848
ぎゅうぎゅうな制限のある思考をしてる人って、一見まともそうなことを言ってたとしても、会話してても面白みが感じられないです。
自分の枠からズレたものを受け付けないので、深い会話になっていかないんですもん。
そして、私はエネルギー的な波動のことなんてがっつりハッキリとは認識できませんけど、『波動のコンフォートゾーンが低くて狭い人』というのも、なんとなく分かるような気がするんです。
そういう人も、なーんとなく窮屈で、一緒にいて楽しくありません。
大人になる、というのは、
思考はより柔軟になって、一緒にお茶してるだけで心地いいと思われるような人になる
とも、言えるのかもしれませんね。
ああ。
それって、目指してる「かわいいおばーちゃん」だ~~。

おれと一緒にいるだけで癒されるだろ?

「リズム」や「間」って大事。

フジテレビの「ワイドナショー」がけっこー好きでよく観てるんですけど、
今さっき、SMAPの中居くんがゆーててすごく面白かったんですが。
ダウンタウン松本さんが、
「(ジャニーズとか)アイドルの子って、お芝居の巧い人が多いよね。」
みたいなことゆーたんです。
そしたら、中居くんが、
「それは、ダンスを(徹底的に)やってるから、リズム(感が鍛えられてるから)だと思う。」
と言って、スタジオのみなさんが「なるほど!」ってなってたんです。
(篠原涼子さんも満島ひかりさんも、アイドル出身だよね、と。)
坂上忍さんもゆーてましたが、お笑いの人も「間」というのもが分かってるから、お芝居の仕事に来ても「もう掴んだの?」ってビックリすることがあるそうです。
(宮迫とか泰造とかめっちゃお芝居巧いよね~~。)
私はダンスとかお笑いとかのリズムや間は身についてはいないですけど、
こうやって文章を書くにしても、自分だけの独特の文章のリズムってあるんですよね。
そして絵を描く時も自分だけの独特のリズムってあるんです。
そのリズムに乗れた時は文章も絵もさーーーっと流れるようにできあがるんですが、
このリズムに乗れないと、どれだけ書いても描いても、パチっとハマるものができあがらないんです。
そして、クリエイティブなことだけじゃなくて、
会社員をしてた時もそうだったんです。
思い返してみると、ちゃんとあったなー、と。
勉強もそうでしたね。
で。
さらに言うと、
リアルはもちろん、ネットを通してのやりとりでも、「自分に合うリズム」の人と仲良くなってる気がします。
(当然ですが、その「合うリズム」は1つだけではないんですが、そんなにたくさんあるわけでもないです。)
リズムや間って、すごく大事なものなのかもしれませんね。

おねーちゃんが遊んでくれるリズムが一番好きだにゃ。
おかーちゃんはなでなでのリズムが一番好きだにゃ。

ささくれのようなものだけど。

先日、お尻のとある場所に、小さい腫れモノができましてね。
ほんとにちょっとしたモノですが、触ると少し痛いので炎症が起きてるなーとは分かりました。
結局、小さかったので数日で自然に治ったんですが、ちょっと痛いなぁって時におとーちゃんに報告したら、
「オデキができたんか?」と言われました。
小さいとは言えどもお尻に炎症してるブツできた →→ 痔瘻だったら絶対イヤだ手術必須なので絶対イヤだ
という思考回路が走りましたが、これがオデキとは思っていなかったので、一瞬「へ?」ってなりました。
なぜなら、小学校に上がる前……何歳くらいでしたかねぇ。とにかく小さい時に、左右どっちかは忘れましたがお尻のほっぺに大きなオデキができたことがあったので、オデキというのは大きいものだと思いこんでいたのです。
http://health.goo.ne.jp/medical/search/10OC0200.html
オデキという言葉を聞いて、その時のことをぱあーっと思い出しました。
痛かったんですよ。
すごく痛かったけど、こわいから大人に言わなかったんですよ。
でもそんなの様子がおかしいからすぐに見つかって、近くの市民病院に速攻で連れて行かれて、切開してもらって膿を出してもらったんです。
で、その翌日も市民病院の外科に連れて行かれまして……。
ガーゼを取り替えるだけじゃなくて、おそらく傷口にお薬をぐりぐりと塗ってもらったんだろうとは思うんですが、それがめっちゃ痛かったんです。
泣き叫んでたら、看護婦さんが
「昨日の方が大変だったのに、お利口さんだったでしょ?なんで今日は泣いてるの?頑張って。」
…みたいなことを言ったんです。
だって昨日のよりうんとうんと痛いんやもん!
と、言いたくても泣いてて声になりませんでしたし、知らない大人に口答えする勇気もありませんでした。
そしたら、その翌日のガーゼ交換の時はおじいちゃん先生で、昨日のガーゼ交換の時のことを看護婦さんから聞いたのかオカンから聞いたのか、それは覚えないんですが、昨日は泣き叫んだと知ってて、
「かわいそうだったねぇ。」と言ってくれました。
このおじいちゃん先生のガーゼ交換はちっとも痛くなくて、私もビックリしつつホッとしました。
先生はガーゼにお薬を塗って、それをペタリと貼ってくれたようなのです。
「若い先生は教科書通りにやるからねぇ。こんな小さい子が痛がってるんだから考えてあげないとねぇ。」
と笑っていました。
その時のことを思い出しました。
なんとなく、このところ「昔の心のちょっとした傷」を思い出させるような症状がぽつんぽつんと出てるように感じていましたから、オデキに関することもそうなのかなー…?と少し考えておりました。
楓さんもこんなブログ記事を教えてくれたりして、やっぱりそうなんかなー?って思っておりました。
http://cocco32crystalbowl.blog.fc2.com/blog-entry-972.html
おじいちゃん先生のおかげで、痛くてすごくイヤだったという思いが全部がすーっと融けちゃったような気持ちになっていたのです…が、
確かに「痛み」についてのお医者さんに対するイヤな思いは残ってないなーと思うんです…が、
びみょーに残ってるものがありました。
看護婦さんのあの言葉でした。
看護婦さんは叱りつけるように言ったわけでもないし、昨日はちゃんとお利口さんだったんだから今日もできるよね、って励ますように言ってたんです。
それは小さい私にも分かってたんです。
でも、言葉で言えなかった気持ちは残ってるなー、と気がつきました。
誰も好き好んでめっちゃ痛がっとるんやないわー!
と言い返したかったんだなー、と40年ほど経った今になってあらためて分かりました。
そしたら、じぇいど♪さんがこんな記事
http://nanigamieterujpn.blogspot.jp/2014/11/blog-post_12.html
をアップしてたので、
ザ・トラウマ!ってんじゃないけど、こういうのって指のささくれみたいなものなんだろうけど、そういうのもあるよなー、と思いました。

おれも心のささくれがあるぞ。
おかーちゃんに尻尾踏まれたことがあるぞ。
はらたったわー。

久々にアカンやつになりまして。

40代半ば。
もともと自律神経失調がヒドい私は、おそらくちょっとした女性ホルモンのアンバランスも体調の変化に出やすいのだと思います。
どちらかと言うと低血圧だったのに、40代になってから、時々ぽこんと血圧が上がるようになり、これも更年期障害の代表的な症状だと知り、ガッカリしたものでした。
どうしても若い頃から目を酷使してるせいか、老眼も早くやってきたので、ダブルパンチで非常にガッカリした40代の初めでしたね。
先月の終わりには、生理が10日以上早く来ました。
おかげさまで生理不順とはほぼほぼ無縁の私でしたから、閉経に向けて徐々にこういうことも増えてくるのかなぁ…と、思わずにはいられませんでした。
少しずつ少しずつこうやって「枯れていく」のかな、と。
そして、その先には「死」があるのだな、と、じんわりと感じたりもするのです。
観念的な「死」ではなく、身体の変化に伴った、少しばかり実感を伴った「死」を感じるのです。
それは忌むべきことではないけれど、己にも死がやってくるというのを身体の変化でもってうっすらとでも「実感」するというのは、やはり気持ちのいいものではありません。
けれども、それを観ないフリするのも勿体ないことだと思うので、やってきた時にはちゃんと感じようとしてはおります。
そんなこともあり。
体調の不安定要素が多少大きくなっていたのかもしれません。
水曜日は、なんだかちょっと「変だな。」と感じていました。
痛いとか辛いとか苦しいとかは無いけれど、なーーーんか変。
何がどう変かは表現できないけれど、自分の身体の「トータルな感じ」が少し妙だったのです。
時々雑音が混ざるような、そんな感じでした。
すると、木曜日は朝からスコンと体調が悪くて、お布団を畳むのもしんどかったくらいでした。
子供達も登校し、おとーちゃんも勤め先のNPO法人に出勤して…1時間くらいしてからでしたかね。
久々にアカンやつになりました。
ほんとにしんどくて、横になっていてもしんどくて、下手したら発作が出そうなくらいでした。
漢方薬を飲んでも良くなるどころか、どんどんアカンくなってきたので、緊急MAPもしてギリギリまで一人で耐えてましたが、とうとうおとーちゃんに電話して、帰ってきてもらいました。
ほんとうは畑仕事をしなければならない時間だったらしくて、理事長さんに代わってもらったそうです。
すぐにいつものクリニックに連れていってもらい、足湯や鍼をしてもらいました。
特にこの1年半は、ほとんどクリニックのお世話になっていなくて、数カ月に一度、漢方薬を処方してもらいに行く程度になっていました。
や、ほんとにね、
関ジャニ∞のライブに年に1度行くようになってから、(あくまで当社比だけどね!)すごーく元気になったんですよ。
なのに、久々にアカンやつになっちゃって、おとーちゃんにも理事長さんにも迷惑かけちゃって、息子も登校前にめっちゃ心配してて、
てことは、息子の支援クラスの担任の先生(←純粋で優しい女性)もめっちゃ配してくれてるハズで、
他にも、おとーちゃんの勤め先にいる私のママ友たちもきっと心配してくれてるハズで、
みんなに心配かけたり迷惑かけたりするってのが、ほんとーーーに情けなくて、泣きそうになってました。
クリニックの先生は、うちのオカンと同い年のおばーちゃん先生なのですが、クリスチャンで信仰が篤くて一本気な人なのですが、その先生が東洋医学だけでなく、代替医療の方向にも突っ走ってるために、他のお医者さんたちとソリが全く合わないらしいのです。
市内の某婦人科で、あそこのクリニックで漢方薬出してもらってると言っただけで、散々なコト言われたこともありました。
正直、私も「先生ぇぇ、それはちょっと…。」と内心思うこともあるんですけどね。
でも、深いところで優しい人だって分かってるので、甘えが出た……のでしょうかね。
それまでそんなこと言ったこともないし、したこともないのですが、
先生の顔を見ていたら、何かに突き動かされるように、何も深く考えずに、
「先生ぇぇー、ハグしてください…。」って泣きそうになりながら言ってしまいました。
すると先生はハグしてくれて、ぽんぽんと背中を叩いてくれて、
「あなたはよく頑張ってるよ~。たまにはこうなっちゃうこともあるよ~。」
と言ってくれました。
ばーっと涙が出ました。
すると、しんどかったのが半分くらいすーっと無くなりました。
帰宅後にハッとしたんですが、
先生は時々患者さんから「もらってくれちゃう」ことがあって、診察後に先生の調子が下降しちゃうことがありまして、
ああああーこれは先生、もらってくれちゃったんだ~、後から先生しんどくなっちゃうかも~~~、と申し訳なく思いました。
そして、帰宅後はすっかり良くなっていました。
食欲だけはまだ無くて、ちゃんと食べられないこともあって、少し動くとフラフラしてましたが、身体の感覚としてはかなりスッキリしていました。
実は、こういうことってありがちなのです。
まるでリセットするみたいに、ブレーカーが落ちるみたいに、動けなくなるほどしんどくなったり、最悪な場合は発作が出た後は、スッキリすることが多いのです。
認めたくなかったのですが、そういう場合が多いのです。
1~2週間くらいダラダラとびみょーに不調なのが続いて、だんだんと良くなる……というのもありますが、
激しい症状の場合は、逆に1日2日でケロっとすることが多いのです。
いろんな人に心配や迷惑をかけるのもすごくイヤだし、
なにより動けなくなるほどしんどいのなんてイヤですし、発作なんて死ぬほどイヤなので、こんなふうにリセットすることないやん?やめてよー、って心底思います。
受け入れ難いです。
受け入れたくありません。
ヤダ。
とにかくヤダ。
……でもね、深いところでね、『コレ』を頑なに拒否するんじゃなくて、
こんな自分、こんな自分の身体、こんな症状…『コレ』をふんわりと受け止めてしまった方がいいんじゃないか?という声も聞こえてくることがあるんです。
ええ、あるんです……。
でも、人に迷惑かけるのも、耐え難いくらいしんどいのも、受け入れられない!と、頑なに拒否し続けてきました。
と、思いつつ、横になりながらスマホを触っていたら、この記事に辿り着きました。
http://www.1101.com/rie2014/2014-11-06.html
読んでる時の私の顔は、おそらく「なんとも言えない表情」をしてただろうな、と思います。
丈夫で健康になることをあきらめるわけではないし、
耐え難いしんどさを我慢し続けろというわけでもなくて、
そうじゃなくて、
「かわせない時はかわせないんだ」ということを認めるだけで、全然違うのかも、と思いました。
全部かわそうとしてたんです。
でも、それって、傲慢だったのかもしれません。
すごくイヤなんだけどね。
イヤなんだけど、でもかわせない時はかわせないんだ、と認めることにしました。
なーんて考えてたら、じぇいど♪さんから「ぐるぐる同じことを繰り返す問題」についてちょっとしたメールが届きましてね。
そのやりとり中に、私が何でぐるぐる同じことを繰り返してるかはすごく分かり易いよ、と羅列してくれました。
●おっぱいが小さすぎる問題
●美人じゃないことがイヤだ問題
●絵についての劣等感で悶々とする問題
●身体が丈夫じゃない問題
もうねー、的確すぎてスマホ片手に笑い転げました。
画力も含めてですけど、さまざまの「自分で足りないと思っている能力」というのは、脳の機能といいますか、DNAといいますか、とにかく霊的or心理的or精神的なものというより、「この肉体で表現できる能力の閾値」の問題だよなーと思ってまして、
そういう意味では、
私がぐるぐるしているのは、この身体をちゃんと受け止めてない、文句ばっかゆーてる、できることなら取り替えたいとすら思ってる、ってところ
なんですよね。
そいやすぐに「初音ミクになりてー。草薙素子になりてー。」ってゆーてますもんね。
完全なる「筐体」が欲しいと思ってるところが問題!
まさにこの肉体は錨(アンカー)ですね。
なんだよー、ほんとにもー、あたしってば同じところでぐるぐるしてんなおい。
ま、そんな『完全なる筐体が欲しくてぐるぐるしている私』がだらだら書いてるブログですけど、これからも生温かく見守ってくださると嬉しいです。
よろしくお願いします。

おれはこの身体で十分素敵お猫だけど?