アグレッシブじゃない人生でもいいじゃないの。


ぐだぐだしてたので、初動が遅れて先週半ばから始めました。
確定申告の書類作成。
それがやっと、さきほどできあがりました♪
後はお父ちゃんの書類ができあがるのを待って、一緒に郵送で出すだけです。
いえね。
先週はアカンかったのですよ。
体調が。
一日おきに動けたりダメだったりでした。
気温差もあるしねー。
気温が低くても太陽の光は春のものだし、身体の調子も整いにくいですねぇ。
春先はほんっとに。
昨日今日と温かいですけど、また週末は寒くなるそうですね。
寒い方が好きなのでそれはいいんですけど、でもやっぱり太陽の光と気温がチグハグだとおかしな気分になりますし、
まだまだインフルエンザも要注意ですし。
そして息子の小学校卒業式もどんどん近づいてますし、支援学校入学のアレコレ準備もせにゃならんし、
確定申告の書類が出来上がっても落ち着きませんわー。
あ。
それで。
一日おきに身体が動いた先週。
また頼まれまして、お父ちゃんが勤めてるNPO法人が運営してる喫茶店の「春のスイーツ」を撮影してきました。
2016春
色が春ですねぇぇぇぇ♪
この撮影もですね、
お願いされてた日は体調がどうにもアカンので、翌日にズラしてもらったんです。
「あんたはその日になってみんと体調が分からんもんなー。それが原因で『仕事』にならんもんなー。」
と、お父ちゃんに言われました。
や、写真は趣味も趣味でして、仕事にする気はさらさら無いのですが、そういう意味じゃなくて、何かをがっつりバリバリと仕事としてやっていくにはあまりに体調が不安定すぎるよね、という意味でお父ちゃんが言ったのでした。
民絵屋さんが前向きにガンガンという姿勢で事業拡大しようとしてないのもそれが一番大きな要因ですし。
実際、身体がとっても軽く感じる日はとても意欲的な気持ちになるんです。
家事ひとつとってみても。
なので、体調がそこそこ安定してる丈夫な身体だったら、きっと違う人生を選択してたのだと思います。
もっとアグレッシブな方向にですね。
で。
そうではない現状の自分に対しては、あまり良い方向には感じていない部分も正直ありまくりだったのですが、
お父ちゃんにぽそりと言われて、あれ?と気づいたのですが、アグレッシブじゃない人生というのも受け入れてるっぽい自分がいたのです。
それは「あきらめ」というのではなく、
アグレッシブじゃない人生のおかげで、もしかしたら余計な変な雑味が付着せんかったんかもしれん、と最近になって思うことがちょいちょいあったからだと思います。
と言いますか。
もともとエグ味が多かったと思うんです。自分自身。
そのエグ味を少しずつ少しずつだんだんと抜いていくような、そんな感じやったのかも、と思ったのです。
もしかしたらアク抜きしてたようなもんかもしれません。
成人後からの人生は。
本当にアクが抜けてるのかどうかは分かりませんけど、少なくとも元気にアグレッシブに生きていたらちっともアク抜きなんてできずに、さらに余計な雑味が付いてしまっただろうな、というのは想像できます。
自分の性格からして。
なので、これはこれで意味があるのかもなー、と思ったりもするのです。
本当のところは分かりませんけどねー。
死んでから答え合わせしないと分かりませんけどねー。
身体がしんどいのはキツくてイヤなので、やめてぇぇ~って心の中で泣き言を言い放しですけどねー。
どこに向かってるんでしょうねぇ。
私は。
私の人生は。
私の魂は。
不思議なもんです。

人生はgive and give

昨日は支援学校中等部の入学説明会があったので、いつもより30分早く起きたのですが、
Eテレをかけっぱなしでボーッとした頭で着替えていたらですね、
100分de名著の再放送がやっていました。
コレでした。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html#box03

私たちは他者に認められたいという「承認欲求」を常にもっている。しかし、アドラーは「他者から承認を求めることを否定せよ」と説く。他者の期待を満たすために生きてしまったら、本当の自分を捨てて他者の人生を生きることになるからだ。「承認欲求」から解放される要はアドラーが提唱する「課題の分離」。「これは誰の課題か?」という視点で、自分と他者の課題を線引きし、他者の課題に踏みこまない、自分の課題に踏みこませないことを徹底させる。それができたとき、対人関係は驚くほどシンプルになり、無駄な競争から解放され、各人が対等な関係を築けるという。第三回は、複雑な対人関係を解きほぐし、自由を得るための処方箋をアドラーから学ぶ。


ぼーっとしつつ着替えながら聞いていたんですが、
確かにそうなんですよね。
他者から承認を求めることを止めたらいいんですよ。
そして、たとえ夫婦でも親子でも仲良しの友人でも「課題の分離」をしっかりできればいいんですよ。
「課題の分離」ができていないから、相手に対してイライラするんですもん。
なので、アドラーが言うように誰かに対してイライラしたら、
「それは誰の課題よ?私の課題なの?相手自身の問題であって私の課題じゃないんじゃないの?」って自問するといいですよね。
そして自分自身の課題を同時にハッキリ自覚するべきなんですよね。
ハッキリ自覚して、自分の課題に他人を介入させない、と。
それを一言で言い替えるならば、「お猫様のように生きろ!」かもしれないですね♪♪

とは言え、そういうことがなかなかできないから人間関係で悩むわけですが。
で。
番組の中で、専門家の先生がこんな内容のことを言ったんです。
や、ぼーっとしてたので、正確には覚えてなくて、ざっくりこんな内容って感じなんですけどね。
人生はgive and giveなんですよ。
give and takeじゃなくて。
give and giveだと腹をくくってしまうんです。

ちょっとばかしハッとしました。
ああそうか、って。
「お仕事」は「労働の対価としてお金をもらう」でいいし、そういう決まりというか社会的契約というか、そうやって生きる糧を得るという基本的やり方を我々は選択してるわけで、それはそれで今はいいと思うんですよ。
(でも、それこそアセンションなんてものをもしも人類がしたら、そういうシステムは存在し得ないと思う~。)
でも、そもそも人生ってやつはgive and giveなんですよ。きっと。
もちろんそれは、自分をすり減らしてまで相手に尽くす……とかって意味じゃないはずで、もっと基本的な意味で(作りが)おそらく「与えること」でしか本当の意味で人間は真の喜びを得られないようになってるんだと思うんです。
なので腹をくくってしまえ、ということなんですよね。
なお、当然ですが、「与える(≒愛する)」ことと「相手の課題に介入する」ことは全然違います。
でも、親って子供に対してそこらへんをごちゃごちゃにしやすい傾向は強いですよねぇぇぇぇ。
ほんっとに気をつけないとアカンですね。

「これまで使っていた武器はそろそろ通用しないかもしれない」に似た感覚に襲われた

おかげさまで民絵屋福袋は、カートオープンからすぐに売り切れました。
ほんとうにありがとうございました♪

発送作業も終えまして、お客様に喜んでもらえるといいなぁぁぁぁ、と願っております。
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お庭で毎年この時期に咲きます。
庭の手入れなんてちっともしないダメ嫁なので、こうやって勝手に生えてきて勝手に咲いてくれるというのはありがたいです。
さて。
このあたりで自分自身の整理のためにも書いておこうと思います。
大晦日恒例の石井ゆかりさんの年報がアップされて、それを読んだ時に思わず「うわっ…。」と声を出してしまいました。
2016年の山羊座の年報の中に、こんな文章があったからです。

2015年頃から、山羊座の人の多くは
「これまで使っていた武器は、
そろそろ、通用しないかもしれない」
と直観しつつあるのではないかと思います。
そして、古くなった武器を捨てて、
新しい武器を手に入れることを考えつつあるのではないかと思うのです。
この「古くなった武器を捨てる」作業は、
そんなに簡単ではありません。
なぜなら、
「どうしてそれが機能しなくなったのか」
を詳しく深く掘り下げなければ、
新しい武器をつくるためのアイデアが生まれないからです。
ある程度まで迷い尽くしたところで、
次の段階に進めます。
何が足りなくて、何が必要なのか。
自分には、どんな可能性があるのか。
それを、自分の内側へ、内側へと掘り下げても
たぶん、迷宮にはまり込んでいくような感じがするでしょう。
そこで、
「外に出て学ぶ」
という動きが生じます。


娘のディスレクシアのあれこれが精神的に一段落したところだったので、10月上旬くらいでした。
ある日、まさしく『これまで使っていた武器は、そろそろ、通用しないかもしれない』にとても近い感覚に襲われました。
それはもちろんお仕事に関してのことなのですが、これがまた石井ゆかりさんの言葉通り、
『何が足りなくて、何が必要なのか。自分には、どんな可能性があるのか。それを、自分の内側へ、内側へと掘り下げても たぶん、迷宮にはまり込んでいくような感じ』になっていくばかりでした。
それは、FBであることが目に留まったことが発端でした。
私はFBのアカウントも持っていまして、1日に1回程度は少しばかりチラッと見るのですが、「友達」も多くありませんし、ちょっと苦手なのです。FBが。
私にとっては使い勝手がイマイチ良くないのです。
そして、やはり「申請して友達になる」というのに少し身構えてしまうというのも大きいです。
ツイッターみたいに勝手に気に入ったアカウントをフォローする方が気軽なのです。
ですから、普段はチラっとチェックするだけで終わってるのですが、その時は何故か数年来の知り合いである「みづきちゃん」の記事に付いている「いいね」の数が何故か目にすーっと入ってきたのでした。
あらー…。
こんなにいっぱいの「いいね」が付いてるやん。
さぞ「友達」が多いんやろうなー…。
と、単純に思った……だけなら良かったのですが、何故かいつもと違う思考回路に電流が流れたのでした。
「FBでスピ系の人にせっせと友達申請して繋がりを増やしていくこともお仕事に繋がるんやろうなぁ~…。ある種の営業でもあるよな~…。」
と、思ったのです。
実際、みづきちゃんはFB繋がりから好ましい形でお仕事を依頼されてるようでした。
(匿名にしても分かる人には分かるだろうからこの記事で名前を出していいか、と彼女に先日問い合わせした際に、彼女は彼女で仕事についてはアレコレ悩ましいと思っているという話をしてくれたのですが、あの頃は彼女のポジティブな流れしか目に入ってこなかったのでした。)
しかしですよ。
みづきちゃんはシンプルに「気になる人と繋がりたい」と思って行動した結果、友達が増えてお仕事にも繋がったわけですが、
もしも私がここからあちこちに友達申請をするというのは、営業目的で友達申請するわけで、それっていやらしいよな~、とも思いましたし、
何より私はみづきちゃんみたいに直感でぴぴっときた人とどんどん繋がる、というスタイルは向いてないのです。
(や、営業目的で友達申請することを「いやらしい」と思うというのも思い込みなんだけどね。)
ですからもちろん自分の中で即却下、だったのですが……
「じゃあ、どうするの?どうしていくのがいいの?」という自問へと切り替わってしまいました。
そこからでした。
『これまで使っていた武器は、そろそろ、通用しないかもしれない』にとても近い感覚に襲われたのは。
地味に悶々とし続け、ほんとうにそれは迷宮のようでした。
答えどころか、自分の仕事に対しての展望すらどんどん訳が分からなくなっていきました。
絵を描く事は子供の頃から好きで、あれよあれよで民絵屋を開店したは良かったのですが、もともと自分の絵に関しては自信があるとは言えませんでした。
それでも、いろんな方が絵を買ってくださり、去年の1月には池袋の梅舎茶館さんで個展まで開催させてもらいましたから、まだまだ精進し続けなければならない、という自覚は大切でも、自分の絵を卑下するのはお客様に対して失礼だ、ということは分かるようになれました。
ですから、卑下こそしなくてもそもそも自信があるとは言えないのに迷宮にはまりこんでしまったために、何をどう評価すべきかも、そこから民絵屋としてどのように努力すべきかも、どうなりたいのかも、どんどん分からなくなっていったのでした。
絵に対して精進を続けるのは大前提として、現状で、
もっとお仕事をいっぱいしてお金儲けをしたい自分もいれば、目立つのが怖い自分もいるし、
もっと評価されたい自分もいれば、そんな自分をあさましいと感じる自分もいるし、
もっと営業をするべきだと思う自分もいれば、今まで通りで十分と思う自分もいるし、
……と、デッドロックもいいところでした。
自分がさらなる発展や成功を望んでいるのかいないのか、考えれば考えるほど分からなくなっていきました。
しかし、『これまで使っていた武器は、そろそろ、通用しないかもしれない』にとても近い感覚は到底無視できませんでした。
そこで、じぇいど♪さんや月子さんに相談すれば、あれこれと的確なアドバイスをくれたとは思うのですが、
分かっているからこそ、言えませんでした。
そこが不思議な精神状態だったのですが、分かっているからこそ誰にも言えなくなっていました。
今から思うと、『迷い尽くす』ために言えずにいたのかもしれません。
そのように地味に悶々とし続けているうちに、ふと「天使の絵以外で(仕事として)描きたいものは何だろう?」という問いが生まれました。
描けるもの、ではなく、描きたいもの、です。
その問いの答えがパーソナル・ゲートの絵でした。
パーソナル・ゲートの絵を描く事ができて、かなり自分の中の内圧は下がっていったのですが、
それでもやはり、まだスッキリとはしませんでした。
すると、1月3日のことです。
豊川稲荷にお参りに行きまして、奥の院でお参りをした時に、「家内安全、商売繁盛」を「お願い」しました。
普段のお参りの時は「ありがとうございます。世界人類が平和でありますように。」としか祈らないのですが、
この時は係のおじさんが「豊川ダキニ天様に【お願い】をしてくださいね。」とおっしゃったので、お祈りではなくお願いをしました。
(そしてこれはお父ちゃんも「お?」と思ったそうです。毎年お参りに行きますが、こんなふうに言われたことが無かったからです。)
そして、ダキニ天様のご真言を唱えているうちにすーーーっと変性意識状態に入っていき、瞼の裏にダキニ天様がすっと現れて軽く微笑んでくださったような、そんなイメージが浮かんできました。
ああ。
お願いを聞いてくださったんだ。
家内安全だけでなく、商売繁盛を願ってもいいんだ。
と、嬉しくなりました。
そして喜んだ途端に、去年の春からなにかとお世話になっている氣乃さんが【開運&金運・好転加速力・伝導】の有料モニターを募集されたので、びっくりしました。
自分だけでは歩みが遅々としてるので、ちょっと背中を押してもらえ、ということかしら?と思えてなりませんでした。
それで、氣乃さんに質問しました。
「まだ悶々としていて、自分が本気で成功を望んでいるのかどうか分からない状態で、覚悟がちゃんとはできてはいないと思われるのですけど、これってセションを受けるのには時期尚早ということですかね?」
と。
その時の回答はこちらになってます。
http://ameblo.jp/kino-tasuku/entry-12115036177.html
「自分の無理の無いスタイルでの変革」ということだったのでお願いすることにしました。
…と、セションをお願いしたら、吉夢を見ました。
夢占いによると、自分の潜在能力が発揮され大成功を収められる幸運期の到来を暗示する吉夢…なんだそうです。
背中押してくれてますよね。
これ。
自分次第で、商売繁盛するってことですよね。
そこでようやくお父ちゃんに去年の10月から地味に悶々としていた一連のことを話しました。話せました。
すると、お父ちゃんがすぱーんと言いました。
「あんた、詐欺師になりたくないんやろ?」
おそらくそうなんだと思いました。
やはりどこかで、仕事として絵を描く自分というものに自信が持てずにいるのです。
絵を描くことは好きなので、天使の絵を描いていて苦痛に感じることはありません。
性に合わないのにIT企業に入って仕事をしていた頃のような苦痛は全く無いです。
けれども、私は描きたいものを描いているわけではありません。
でもそれは、仕事として依頼されたものを描いているから、という意味ではありません。
おこがましいですが、やはりそれは「高次の自分がやっている仕事」としか言えない感覚なのです。
それを、ざっくり「神様仕事」という言い方をしますね。
ならば、その「神様仕事」を完うすることだけ考えればいいのに、と自分でも思うのですが、そうは問屋が卸さないのですね。
圧倒的な才能を持った上で努力を重ねて素晴らしい作品を生み出している絵描きさんはたくさんいます。
そういう人たちが「神様仕事」をすればいいのに、なんでよりよにもよって「才能は無いけど絵を描くのは好き」というだけの私にそんな「神様仕事」を与えるのか、と、若干イラっとすることすらあります。
……イラっとして、ショボンとするのです。
多分。
私には、仕事としての絵描きで大きく成功して良いのは圧倒的な才能のある人だけだ、という思い込みがあるのです。
ですから、いくらそれが「神様仕事」であろうとも、これ以上の発展・成功を望むのは身の丈に合っていない、と自分に対してダメ出しをし続けているんだな、と気がつきました。
だったらなおさら、身の丈に合うところで今まで通り粛々と「神様仕事」を頑張ればいいじゃない。
……でもね。
これがまたですね、10室太陽の性なのか、理想が高いだけでなく、社会的成功や仕事の発展を望む野心もあるのです。
性に合わない仕事をしていたり子育てをしていたり、で、ずーっとそれを無視するような状態になっていましたが、それでも自分の中に「お仕事で発展したい」という欲求があるのは分かっていました。
これらがずーーーーっと噛み合わなかったのです。
噛み合わずにぐるぐるし続けていたのです。
と、
やっとこさ自分の中の矛盾の構造がある程度明確になったは良いのですが、
次は、さてここからどうしましょうか、という段階です。
はてさてどうなりますことやら。

世界は分離し始めている?

パーソナル・ゲートの絵2枚をアップしたのに、今日はもう1本更新します。
後日だと忘れそうなので。
今朝、フィンランドがベーシックインカムを実施する方向で最終調整に入ったというニュースを目にしました。
http://www.businessnewsline.com/news/201512071631370000.html
すごいなフィンランド!

と、まずビックリしました。
こんな早くベーシックインカムを実施する国が出てくるとは思っていませんでした。
問題ももちろんアレコレありますから、これは壮大な実験でもあります。
すると、こんなツイートがTLに流れてきました。


このところ、ちょっと「ん?」と思うことが続いていました。
フィンランドのベーシックインカムのような大きなことではなく、ほんとーーーに身近なことなのですが、
まるで、自分の世界と他人の世界が少しばかり分離し始めてるのかしら?と、感じるような話をちらりちらりと耳にしていたのです。
「観たいようにしか世界を観ない」のが人間で、
同じ環境にいて、同じ事象が発生しても、「好ましい出来事」と捉えるか「好ましくない出来事」と捉えるか、はその人の在り方次第……というのは承知しているのですが、
どうもね……そういう観念的なところを少し超えて、それは薄皮1枚程度なのですが、世界が分離してるような、そんな感覚になったりしていたのです。
すっかりもうアセンションなんて言葉も聞かなくなってしまいましたが、
じわじわと地球の波動が上がってる……なんてことは今でもちょいちょい目にします。
へー。
そうなのかー。
でも、それも精神的、観念的な話なんだろうなー。
と、思っていたんです。
なんだかんだ言っても、みんな同じ世界で生きてるホモサピエンスでしょ?と思っていました。
でもですね。
もしかしたら、ほんとーーーにだんだん分離していくのかもしれない、と、茂木さんのツイートを読んで「ハッ!」としたのです。
隣に居る人と自分は同じ世界で生きてるけど、同じ世界で生きていない、という、妙ちきりんなことになるんじゃないか、と。
もしもそうだとすると、
地球の波動が上がってる云々……が本当だとしたら、
その摩擦で(それまでより強めの)しんどいコトが個人個人のレベルで起こっていてもおかしくないな、と思いました。
と。
あくまで、私が感じてることを、書いてみました。
本当のことは知りませーん分かりませーん。
行けるところまで行ってみろ

それを諦めてみた。

娘が先週の水曜日の夜にいきなり嘔吐下痢をしまして、ノロか?!と臨戦態勢になりましたが、すぐに治りまして、ホッとしました。
おかげで娘も3連休は楽しく過ごせたようで、良かったです。
暑い時期より寒い時期の方が好きなんですが、寒い時期は感染症に気をつけないといけないのがちょっとねー……ってのがありますね。どうしても。
さて。
前記事からまるっと1週間経ちましたが、さきほどたまたまこんな記事を見つけて、「おお。」と思ったので、貼っておきます。
「あきらめるという方法」(自分を変える方法)」
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201511220000/
前記事で、私も「ちゃんと諦める」ということを書きましたが、
たまたまこういう記事を見つけるというのは、今の私にはここらへんが課題としてあるのかなー、と思いました。
実は、あの記事を書いた後に、ひとつのことを諦めたのです。
「元気で丈夫な自分になること」を諦めたのです。
いえね、もちろんね、しんどいのは辛いので、そういう意味では元気で丈夫になりたいという気持ちは捨ててないんですが、
『元気で丈夫な自分にならないと、ちゃんと仕事がバリバリできない』という思い込みがあることにハタと気がついたので、それは諦めたのです。
『元気で丈夫な人が残業バリバリやる』ということが『ちゃんとしっかり働くことだ』という思い込みが、会社員時代のうちに自分の中に形成されてしまっていたのです。
もちろん、元気で丈夫でたくさんの時間をバリバリ働く……ということを否定しているわけじゃないのですが、
私においては、そうじゃなくても、今のままでも働ける程度を肯定しようと思ったのです。
長時間バリバリに働かないとちゃんと働いたとは言えない・長時間バリバリに働けないのに経済的に豊かになっちゃいけない、という思い込みを手放すために、「元気で丈夫な自分になること」を一端諦めたのです。
(仕事という観点では)身体があまり丈夫じゃなくて不安定な自分だっていいじゃないか、と。
今の状態の自分を肯定する、ということを、この切り口ではできていなかったわけです。
自分で記事を書いて、それに気づいたのでした。
(たみえかーさんのホロスコープはですね、自己実現と仕事というのが強くリンクしてるんでね、こういうテーマがどうしても出てきてしまうんだと思います。)
しかし、
さきほど、上記の記事を見つけて読んでみたら、まだまだ「諦める」ということが必要そうなものがちょいちょいあるなー…と感じたのでした。
赤ちゃんを授かろうとずっと頑張ってきた御夫婦が諦めた途端、自然に妊娠した……という話を聞いたことがありますが、
「諦める」ことで余計な力が抜けて、魂の働きが自然と顕現しやすくなる……という場合もあると思うのです。
当然ですが、「諦めないで努力する」ことの大切さもよーーーく分かってます。
なんてったって土星先生ですから。
しかし、今の私は、どちらかというと『余計な力を抜いて魂の働きに任せる』ということを学ばなければならないのかもしれないなー、と、なんとなくですが、この流れから感じたりしています。
子供の時に自分の能力を客観的に知って「夢」を諦めた……というのとは違う「諦める」ということを、です。
こだわることが必要な時と、
こだわりを捨てることが必要な時と、
そういうのをくるくると繰り返しながら私たちは成長していってるのかもしれませんね。

ブ子兄さんにいつも怒られてる黒丸ですが、
たまにはこうやって一緒に寝てることもあります。

貴方は「諦め上手」ですか?「諦め下手」ですか?

昨日の夜のことですが。
NHKで認知症についての番組が放送されてまして、それを私が観ていたら、
お風呂から上がって、パジャマを着た娘が私の隣にちょこんと座って、一緒にその番組を観始めました。
もう寝る時間だけど、翌日(今日)は学校が代休だから少しはいいかー、と思って、そのまま2人で観ていました。
ついつい認知症の人に対して、家族が強い口調で叱ったりすることが多くなりますが、
それは認知症の人にとってはとても辛いことで、しかしそれを言葉で上手く伝えられないので、徘徊や暴力など問題行動となることも少なくない、という説明がされていました。
そこで、
「(死んだ)大おばあちゃんも、じじとばばに叱られると怒ってたよねぇ。」
と、娘に言うと、
「うん……。私ね、あの頃ね、じじとばばんちに遊びに行くよ、と言われると、ドキっとしてたんだよ…。」
と、娘が言いました。
娘はまだ保育園児の頃でした。
ダウン症の息子の方は、あの頃は祖父母の家に行くと、「もう帰ろう。」とすぐに言うことが多かったので、祖父母が曾祖母に強い口調で叱っているのも、曾祖母が怒っているのも、すごくイヤなんだろうな、というのは分かりましたが、娘は何も言いませんでした。
それでも、おそらくイヤなんじゃないかなぁ…と私もお父ちゃんも思ってはいましたが、やはりそうだったんだなぁ……と、申し訳なく感じました。
大おばあちゃんは、とても元気でとても社交的な人でした。
それが、心筋梗塞で倒れて、手術をしてから認知症になり、徐々に徐々に症状は重くなっていきました。
トータルで10年弱だったと思います。
大おばあちゃんとお義母さんは、嫁姑の間柄なのに仲が良かったので、周囲の人たちも「ほんとの親子かと思った~。」と言われることが多かったそうです。
しかし、大おばあちゃんが認知症になる前から、お義母さんも体調が悪くて寝込むことが多かったために、最期の3年ほどは特に大おばあちゃんのお世話をするのは本当にめちゃめちゃ大変だったと思います。
お義父さんも夜中に大おばあちゃんが起きて歩き回らないように、近くの部屋で寝るようにしていたので、すごく大変だったと思います。
……でも、ね。
やっぱり、子供たちと同じように、あの頃は私もすごくしんどかったのです。
いちいちそんなふうに叱らなくてもいいのに、と行く度に思っていました。
嫁の立場といえども、自分ががっつり手伝いをしているなら、腹を割って話すこともできますが、身体があまり丈夫じゃない上に小さい子の子育て中だったので、お義母さんのお手伝いを何一つすることができなかった私はやんわりと一度だけ言うに止めました。(←なので、たまに会った時にはお義母さんの話を肯定的に返事しながら聞くことに徹していました。それが私のできる親孝行と思ってました。)
お父ちゃんは一度だけ両親に話したことがありますが、親子は親子でこれまた難しいみたいでした。
強い口調で叱ってばかりだから、大おばあちゃんも怒るし問題行動も増えているのだ、ということを、とうとう真には理解してもらえませんでした。
毎日のお世話が大変で、そのストレスでつい強い口調で叱ってしまう……だけではないよな、と思って私は見ていましたが、
昨日のテレビ番組を観ていて、ああなるほど、と思いました。
お義母さんもお義父さんも、『大おばあちゃんの認知症はもう治らない、と諦めることができなかった』のだと思います。
口では「ボケちゃったから仕方がないよね。」と言っていても、元気だった頃のイメージを横に置いておくことができなかったから、ついつい「さっき着替えたばかりでしょ!」「さっき言ったでしょ!」「さっき食べたばっかでしょ!」と叱らずにいられなかったんだろうな、と思いました。
お義父さんはその人生の全てを、お義母さんにしても人生の多くを、ずっと元気でずっと明るかった大おばあちゃんと一緒に暮らしてきたからこそ、大おばあちゃんのイメージを上手に刷新して切り換えることが難しかったのかもしれません。
オカンのお友達は、そこらへんがとても上手だったそうです。
認知症の身内がいろいろ言ってきても、上手く流して上手く返事をしていたそうです。
彼女はもうすっかり諦めることができて、今の目の前の身内と上手く付き合うことを最優先にしたのだろうと思います。
諦めずに夢や志を持ち続けることも簡単なことではありませんが、
腹の底から「ちゃんと諦める」というのも簡単なことではないのかもしれませんね。
もしかしたら、「ちゃんと諦める」「諦め上手」なことが、人生をいい塩梅に創造していくコツなのかもしれないなー、なんて思ったりもしました。

「ボクは諦めませんよ?しつこいですよ?」
……うん。知ってる。
だからとうとう我が家に転がり込むことに成功したもんね。

すっきりさっぱり

記録的大雨で栃木が大変なことになってますね。
まだまだ雨は続くそうですから心配ですよね…。
私は「東海豪雨」の時、名古屋市名東区に住んでまして、
その日、旦那さんは出勤したのですが、私はちょっと体調悪かったか何かで、休んだんです。
多分、仕事もそんなに立て込んでなかったんでしょうね。
無理せずにお休みにしたのでした。
そしたら、夕方頃でしたかね。
ものすごい大雨になりました。
「バケツをひっくり返したような雨」というのを初めて体験しました。
私の住んでいたアパートは、坂の上の方でしたし、川も近くにはなかったので大丈夫だろうと頭では分かっていたのですが、
1人っきりでしたので、ほんとーーーに心細かったのを覚えてます。
(でも、結果的にお休みして正解でした。交通機関も混乱しまくりでしたし、なにより会社が入ってたビルの作りの問題で、室内にも浸水したので、えらいことになってたそうです。)
こちらは、台風が過ぎた後はいい天気になりました。
やっと外に洗濯物が干せて嬉しいです。
すっきり~
さっぱり~
すっきりさっぱり、と言えば。
髪も切ってすっきりさっぱりです。
すっきり
そして。
昨日なんですが、とある記事を読みまして、ちょっと気づいたことがありました。
みんな違ってみんないいに決まってるんですが、
どこかで、オールラウンダーになりたい自分がいるんだな、と気づいたんです。
そんなの無理だし、そうあるべきということでもない、というのは分かってるんです。
そして、意識ではそれを目指そうとしてたわけでもないんですが、
けれども、そうなりたい自分がいるということに気づいたんです。
今まで気づかなかったですねぇぇぇぇ。
そしたらですね、
気づいたからこそ、「キライな人がいてもいいし、苦手な人がいてもいいんやな。」と思えたんです。
や、これもですね、苦手な人やキライな人がいてもいいと意識の上では思ってたんですけど、少し深いところの何処かで、それをヨシとしないような感覚がうっすらとあったんです。
だから、誰かが私のことを嫌ったって、苦手だと思ったっていいんだ、とも(お腹までじゃないかもだけど、頭よりも下のところで)思えました。
もちろん、お前なんかキライだと面と向かって言われたら凹みますがね。
でも、それもアリなんですよね。
そう気づいたら、ちょっとだけ、なんだかさっぱりすっきりした気持ちになりました。

占いでもスピでも、最初は自分を「型」にはめてみることから始まると思う。

ブルームーン
今夜は満月で、ブルームーンだそうですね。
……エイトの横山くんがちょっと前に主演してた舞台のタイトルが「ブルームーン」だったので、
ブルームーンという字面を見ては「あー、舞台観たかったなぁ~。」と反射的に思ってしまうたみえかーさんです。
それにね。
今日はそれどころじゃないといいますかなんといいますか……

今朝、NHKのニュース番組見てて、ひっくり返りそうになりましたわ。
名古屋で38度の予想ですよ!
私が住んでる東三河は、名古屋よりも気温が低めにはなりますけど、名古屋で38度なら、こっちもそーとー暑いハズで、
想像しただけでクラクラしましたよ~~~。
お互いに熱中症にならないように十分に注意しましょう!
そして私は、処方された清暑益気湯を飲んで、体調管理がうまくいくといいなー、と思っております。
さて。
今日は、ツイッターで、たまたまこんなブログ記事を知りました。
http://ameblo.jp/keialohaloha/entry-12056230974.html

心理的な思いこみというのは、とても根強いものがある。
せっかくのホロスコープという宝ものを曲解して、
自分をホロスコープの枠にあてはめてしまうのは、どうなんだろ?
なんだか、私は最近、そんなことを考えています。
自分に対する思い込みや、固定観念。
そうしたものから自由になれたとき、はじめて人は自分自身の軸を持てるのではないかと…
ホロスコープに自分を合わせるのではなく、
あなたの軸をしっかり感じて、それに沿って生きるとき、
ホロスコープがあなたに合ってくるのだと思います。
宇宙があなたを後押ししてくれるのだと思います。


占いでも、スピでも、
その枠組みの中で、提示される「型」に自分というものを当てはめていって、それまでぼんやりしていた自分というもののアウトラインを意識するようになる……という段階があるんだと思います。まずね。
そこで、さまざまな「自分」をガッツリ意識することができるようになったら、
そこをしっかり踏まえつつ、次はその「型」を超えていく段階になるような気がするんです。
それまで認識できなかった自分を知るために利用していた「型」ですが、
その型に納まったままではその次のステップ、その先の成長を逆に邪魔してしまうことになりかねないと思うのです。
あ、でもそこで、「型」を捨てちゃう人もいるように感じるんですけど、捨てるんじゃなくて超えていくことが大事なんじゃないかなー、と思うのです。
捨てると超えるでは全然違いますもんね。
てか、180度違うと思うなー。
なーんてことをエアコンが利いた部屋の中で、つらつらと思ったのでした。

自分を知るって、難しい。


息子の夏休みの宿題です。
相変わらず彼の書く「虫」の字は、笑っているように見えます♪
昨日の夜、「しくじり先生」にヒロミが出てましたね。
彼は売れっ子だったのに、パタリとTVに出なくなり、10年経って最近よくまたTVで見かけるようになりました。
なぜ彼はTVに出なくなったのか、を話していました。
それは、後輩たちから共演NGを出されたからだったらしいのです。
ではなぜそうなったのか。
彼はさまざななことが学べる先輩たちとばかり遊んでいて、後輩たちとはちっとも遊ばなかったそうです。
そして、あのキャラクターでしたから、自分では「じゃれてる」とか「かわいがってる」つもりのコミュニケーションだったのに、後輩たちにしたらとてもキツくて怖かったそうなのです。
遊んでいないので、そういう話を耳にすることができず、後輩たちと分かり合えないまま、共演NGと言われてしまったらしいのです。
10年間テレビから離れて、だんだんと自分がしてきたことを客観視できるようになったのだそうです。
自分のしてきたことがどういうことだったのか、というのが。
自分はそんなつもりじゃなくても、相手がどう受け取るか、だよね。
と、ヒロミが何度か言っていました。
コミュニケーションというのは、そういうものだよなー、と、身体はしんどかったのですが、しみじみしながら観ていました。
(そうなんですよー。ゆうべはちょっと夕飯を食べすぎて、食後からガクンとしんどくなっちゃったんですよー。食べるとしんどくなることが時々あるのも悩みのタネなのですわ…。子供の頃からなんですが。)
と、同時に、
自分を知るということは、ほんとうに難しいことだなぁ、と、これまたしんどいながらもしみじみしておりました。
ネットでは、
相手のことを失礼なやつだとプリプリ怒ってる本人の方が、実はその前に相手に対して失礼なこと書いてる…なんてのをよく見かけます。
本人は自分の意見をただ言っただけ、それも丁寧な言葉を選んでる…という認識でも、相手にしたら「バカにしてるでしょ?」と受け取れるようなことを書いてたりするんですよね…。
傍観者の私は「あーあ…。」と思うだけですけど。
少し前のことだったのですけど、
これは知り合いのことなんですが、その人が「私はこういう人間なんです」的なことを言ったのですけど、
ちょいちょい待って待って!それ誰のことゆーてるの?! 
と、私はひっくり返りそうになっちゃったのでした。
全然違うやん…ってか、逆やでそれ……、と、心の中でツッコミまくりました。
……でも、家族やめっちゃ仲良しな友達ならともかく、知り合い程度ではねぇ……言えませんよねぇ…。
そいえばですね。
まだ若かった頃ですが、沼津でお仕事してた頃ですが、
「私ってさ、案外負けず嫌いな部分もあるんやなー、って最近分かったわ…。」と、同期の友人に会話の流れから何気に言ったら、
切れ長の細い目をまんまるくしながら友人が、
「今頃気づいたの?本気で言ってんの?」
と、頭のてっぺんから出たような声で聞き返してきたことがありました。
そこまでビックリされたことにビックリしちゃって、友人のあの顔が今でも忘れられません。
いや、ほんとに「私、もっと負けず嫌いだったらいいのになー。そしたらもっとガツガツ勉強もしただろうし仕事もするだろうに。」って思ってたくらいだったんです。
実際、すぐに「あー、もういいやー。」「もうこれくらいでいいやー。」ってなっちゃう部分ってあるんです。
コツコツできねー女だなーあたしって……って、ずーーーーーっと思ってました。
そしたらですよ、
息子が赤ちゃんの時でした。
オカンがずーっとお世話になってる霊能力バリバリのお寺さんが、オカンが抱っこしてた息子をパッと見て、
「お母さん(←私)に似て、コツコツやる子だね。」
と言ったそうなんです。
私はその場には居なかったので、オカンから聞きました。
えー?
あたし、コツコツやらないよーーー。
コツコツやれたら、もっと違う私になってたよーーー。
と、首をぎゅうんとひねったのですが、
その後、息子が成長していくにつれて、ほんとうにコツコツやる子だなー……と思った時に、
ああそういえば、私も小さい頃はこうやってずーーーーっと絵を描いてたわ……って気づいたんです。
そして、そういえば沼津の頃にリーダーの○○さんが、△△さんと私とでは回す仕事の内容が違うのは、私の方がコツコツやるから…みたいなこと言ってたなー……あの時は、△△さんと比べてのことだと思って聞いてたけど、それだけじゃなかったのかもなー……
ああ、そいえば…………
と、いろいろ思い出しては、あれ?あれれ???となったのでした。
セルフイメージが正しくない
というのは、多かれ少なかれ誰にでもあると思うんですが、
あまりに違い過ぎると、いろいろややこしいことになると思うんです。
ですから、ある程度は矯正していった方がいいと思うのですが、
その場合、自分で気づくというのはなかなか難しいので、人とのコミュニケーションを通して知ることが一番早いと思います。
……が、そのコミュニケーションに問題があるとね、なかなか矯正できないですよね。
ヒロミみたいに。
仕事や家族や友達を失ってからじゃないと気づかないのが人間なのかもですが。
(失っても相手のせいばかりにして、分からないままの人もいるけどね……。)

短所は長所になりうるのか?

一昨日のこと。
珠乃さんが、以下のツイートをしたのでした。

口が大きくて、エラがはってて、目がぱちっとしてる女性が好きだ、ということに最近になって気づいた。ぱっと見ただけで惹かれる女性ってだいたいそういう顔つきだ。なんだろ、エネルギッシュに見えるんだよな。
あと、お顔を見ないうちから「この女性が好きだ!」と思う人が、写真を見ると前ツイートにあるようなお顔だった、とかもある。性質と顔つきは繋がるよ、と画家の知り合いが言ってたけど、やっぱそうなのかしらん。


エラ張りの私は、速攻で彼女にリプしたのでした。
ママンはエラ張りなんだが……と。
あ、彼女は私のことをママンと呼ぶんです。はい。
すると、
「ママンそれ長所やで!?おいらからするとめちゃめちゃ魅力的やで!?」
と返ってきて、私の中で蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。
するとそこにエラ張り三姉妹の三女も参加してきて、姉妹で珠乃さんは天使や!天使や!と賞賛しまくったのでした。
あ、長女は私です。はい。

人相学的にもエラ張りはエネルギッシュだと聞いたことがあるので、それは長所と言えば長所なんだろうとは思いますけど、
でも見た目的にはねー、やっぱりねー、卵型がいいわけですよー。
エラ張ってるとねー、顔が大きくなっちゃうしねー、やっぱり卵型が理想ですよーー。
コンプレックスを長所に変えろってたってねー、そんなの簡単なことじゃないわよー、エラはエラよーーー。
と、三姉妹はエラをコンプレックスに感じ続けていたわけですが、
ここにきて、一般論とかじゃなくて、慰めるとかじゃなくて、素でエラ張ってる女性っていいよ!という人間が現れたわけですよ。
これはビックリなんてもんじゃなかったですねぇぇぇぇ。
マジかい?珠乃ちゃんはマジでゆーてるんかい?と。
珠乃さんにそう言われたからって、すぐに全てOKということになるわけじゃないし、
やっぱりフェイスラインは卵型が一番キレイだよーって思うんで、コブ取りじいさんみたいに鬼がエラを取ってくれたら大喜びしちゃうんでしょうけど、
でもね、自分のコンプレックス部分を、本気で魅力的だと思ってる人がいる、というのは、なっかなかの衝撃でありました。
まぁ、もうええ年なので、エラがどうのこうのよりも身体的・健康的に気になるところが増えてきてるため、実は昔ほどそんなに気にしてはいないんですけど、
それでもね、コンプレックスはマジで長所にもなりうるのね、というのを体験して、『肩たたきをしてもらって、凝りが和らいで、目が明るくなったわー。』(byうちの死んだおばーちゃん)ってのに近いような、そんな感覚になりました。
みなさんも、そうよ。
きっと♪

雨続きでねむねむなお猫さま。