このところ地味に悶々としておりましたが。


「お嬢様、お洋服をお持ちいたしましたニャー。」
4月の後半はかなり体調が良くて、このままイケるんじゃない?と思ったんですが、そうでもなかった、というのを以前ブログにも書きましたが。
だいたい、今年の初めから悶々感はずーっとあったことはあったのですが、「イケんじゃね?」と期待した途端にちょっとだけ後退したことでガッカリ感がかなりあった……というのも大きかったとは思うんですが、ガッカリした頃から悶々感が増しました。
いえね、悶々としてるうちに、あー、とか、おー、とか、いろいろ気付いたことはありまして、
ざっくり言えば、
健康問題に関しては、これが私なのだと受け止める
ということでしたね。
まったくもって徐々にではありますが、そうするようになってきてはいたのですけども、それを少しずつ角度を変えながら「やっぱりそうなのね。」という念押しみたいにハッと気付かされることが多かったです。
や。
てのもですね。
4月の末にかなり体調が良かったんですが、ルーチンワーク以外はしたがらない自分に気付いたんですよ。
「元気で健康問題に不安が無かったら、いろんなことができるだろうに。」
とずーーっと思っていたのに、ルーチンワーク以外をしようとしないんですもん。
健康問題の不安から、ガンガン攻める生き方をしなくなって長いので、急に元気になってもメンタルが追いつかんわ~……とも思ったんですけどね、
なんかねー、違うな、と。
もちろん、いつしんどくなるから分からんような身体になってしまってから、攻める生き方なんてできなくなっても当たり前だと思う部分も大きいんですよ。
とにかく他人に迷惑かけたくないので、中途半端になるくらいなら引っ込んでる、という選択をだいたいしてきましたからね。
でもね、それでもですね、なんか違うなー、と思ったわけです。
これは、解釈のうちの1つにしか過ぎなくて、「正解」でも「真実」でも無いんですが、
無意識にせよ、こういう生き方を望んでいる自分がいるから、こういう健康問題を生み出してるんだ
と思えたんです。頭ではなくて、もちょっと身体の下の方で。
または、
こういう自分にだけフォーカスしてしまっているから、それ以外の自分が表現されない
という解釈にもなりますね。
んなもんねー、しんどいことが多いんだから、そこにフォーカスしちゃうのは当たり前の反応ですよ!
人間だものーー!
……でもね、
フォーカスして、更にそこで「こんなのイヤだ!超元気になりたいのに!」とジタバタしてるだけなので、溺れてるようなもんなんだろうな……と、ふと思えたのです。
ジタバタせずに、一旦ちゃんと受け入れないと溺れたままなんだな、と。
もう何カ月も前からそれは薄っすらと分かってはいたのですが、どうしても腹をくくれなかったんです。
だってイヤだもの。
しかし、それを境に、少しずつですが健康問題も、その健康問題を生み出してるであろう深層のアレコレも、認めることができる方向へと方向転換できたのかもしれない、という感覚になってきたのでした。
するとですね。
もう一つの問題も、少々進展がありました。
もう一つの問題というのは、目立ちたくないという思いが強すぎることでした。
コレ
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-date-201605.html
にも書いたことです。
せっかく氣乃さんに開運・金運のサポートエネルギーを入れてもらったというのに、コレのせいで自分に対しては積極的にこのエネルギーを使うことに躊躇していたのです。
ん~…。
子供の頃は別に目立ちたいとも目立ちたくないとも何とも思ってなかったのになー。
で、少し前のある時。
健康問題と同じで、
こういうぐるぐるマインドを好ましいものへとなんとか変えられないものか、とずーーーーっと思っていたのですが、
これも健康問題と同じだと、お風呂上がり(が多いなぁ)にふと思ったのです。
好ましいものに変えよう変えようとするから、同じところでジタバタしてるだけになってるんじゃないか?
と。
するとですね、こういうマインドの働きをすることで(自分は気付いていないけれど)成されていることがあるはずだ、という発想ができたのです。
途端にボロっと出てきました。
人に注意されたり批判されたりした後に、ぐるぐるマインドから立ち直るのに相当時間がかかることがしんどくて目立ちたくない、と思うようになっていったことで、自己顕示欲や承認欲求の肥大、さらに言えば自意識過剰さの肥大もこの程度で抑えられていたのかもしれんな~、と、思ったのです。
これらはある程度は必要なものだというのは分かっていますが、多分ね、私の場合ね、それこそね、目立つことを厭わずに健康でアグレッシブにがんがん生きていたらね、そりゃもーイヤな女になってたと思いますもーん。
鼻持ちならない女になってたこと間違いナシですわ。
人を自分の価値観のみで格付けして、自分より下だと思った人を見下すような、イヤ~な女になってたと、自分のことなので分かります。
そしたらですね、ちょうどこのツイートを目にしました。


この中に、私に当てはまるものがあるんですけど、
「そうかー。ほんとは有名になりたいんやなー。」と、自分に対して不思議と素直になれました。
そうなんですよ。
有名になるくらい『仕事』(←ココ重要)で成果を出したい気持ちってのがあるんですよ。
「やー。そんなの無理だしー。」と、すぐに否定しちゃうから無かったことにしてしまいますけど、あるんですよ。
仕事内容にさしてこだわりはなくて、「仕事」である、ということが大事なんです。
そういうエネルギーを持って生まれてるんですね。
持って生まれてるということは、それは無駄なものじゃないはずです。
でも、健康問題にせよぐるぐるマインドにせよ、それを抑制する方向に強烈に働くストッパーがあるというのは、
そのストッパーを外す努力をするんじゃなくて、
そのストッパーが抑制してる目的を理解して、そこを改善していかないとアカンわけで、
そうすることで自然とストッパーが解除になるようにしていくことがベスト
なんでしょう。
エネルギーはエネルギーでしかないと思うんです。
スカラー量。
でもそこに方向性を付与するのは人間の精神(または魂)だと思うんです。
そうしてベクトル量になる、と。
そんなふうに私は勝手に思ってるので、自分が持って生まれたエネルギーを思いっきり使ってもいいよ、とOKが出してもらえるような精神構造になるようにしていきたいものです。
なーんて思っていたらですね、
とある方のツイートに「私は自意識過剰オバケ」という言葉がありまして、ちょっとそれがひっかかったので、「自意識過剰」で検察してみたんです。
するとですね、
こんなのがありまして。
http://kanifkdlljdl.hatenadiary.jp/entry/2015/12/30/194941

1、自意識過剰という言葉は、自信過剰という意味ではない
自意識過剰という言葉を自信過剰という意味で使っている人が意外と多いようです。でも、これは間違いです。
自信は、文字通り、自分を信じていることです。しかし、自意識は、自分に対する意識のことで、自分を信じているかどうかとは関係ありません。
2、自意識過剰は他人の目を意識しすぎるということ
自意識過剰というのは、他人が自分をどう見ているのかを気にしすぎることです。自信がないために、人目を気にしすぎて、堂々と振る舞えないようなタイプの人 のことです。あがり症の人、心配性な人のことだ。失敗して笑われたらどうしよう、嫌われたらどうしようと、他人の反応を先読みしすぎて不安になってしまう人のことです。


さらにですね、こういうのもありまして、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1498987004

「ものぐさ精神分析」 (中公文庫): 岸田 秀 を読まれるのがいいですよ。
この本によると。自己嫌悪がおきる人は、「理想の自分」という、実現できない目標をもっているから。ということになります。
「本当の自分自身をみとめる」ことができれば、自意識過剰も、自己嫌悪もなくなります。


そうよねぇぇぇ!と納得だったわけです。
結局ソコなんですよね。
実現できない目標としての「理想の自分」があって、掲げたその旗を(頭では分かっていても)降ろすことができないんでしょうね。
だから「他人が自分をどう見ているかが(時と場合によって)過剰に気になる」んですけど、それは実は「見ているのは自分」で、じーーーっと見ているんですよね。こんなふうに。

(「フラワーオブライフ」 第2巻 P286より … なんとなくこの絵がぽーんと浮かんだのですよ~。)
というわけで、
悶々としていたのですが、とりあえずここまで来ることができて、悶々感はかなり取れました。
もう夏になっちゃったねぇ。
あ。
そしたらですね。
たまたま本屋でこの本がすごく気になりまして、買っちゃったんです。

小林正観さんの本は1冊読んだことがありまして、その時はそんなにピンと来なかったのですが、
これは今の自分にはちょうど良かったみたいです。
ぐるりと一回りして、「バリバリ唯物論者だった僕がたくさんの人にヒアリングしてみたら、どうやらこういうことらしいと分かったので、難しいこと考えずにこうしたらいいと思うよ?」的なのがちょうど良かったみたいです。
(そして、小林正観さんが亡くなってから出たんですって。この本は。)
*+*+*+*+*+*+*
ユニクロのアレ
自分のデザインしたTシャツ1枚と、娘にせがまれてトートバッグ1つを購入してみました。

白抜きくまえる、ちょっといいかも♪
娘「おかーさん、くまえるは何飲んでるの?」
私「ココア。」
( くまえる「ホットミルクに蜂蜜入れたやつじゃアホ!」 )

女子はずるずるべったり水平思考が強いので。

女子のみなさんは「そうよねー…。」と分かると思うのですが、
小3、小4の頃から女子特有の人間関係の問題というのが大きくなってきますよね…。
小4の娘も例外にあらず。
先週末に泣きながら「こんなことがあった。」と話をしてくれました。
私自身も小4の頃が一番キツかったんです。
「なんでそんないじわるなこと言うのかな?」と悶々とすることがすごく増えたんです。
一対一だとそんなことないのに。
で、娘の話を聞いていて、ふと思い出したのがこのコマでした。

竹宮恵子の「私を月まで連れてって!」の中の1コマです。
ええ、かなり昔のマンガです。
女子はずるずるべったりつながった水平思考をしやすい。
男子はロクでもないほど個々独立のタテ型思考をしやすい。
もちろん、これも人によってその度合いがいろいろあると思います。個人差ありあり。
うちの娘は女子だけど、ずるずるべったり水平思考は若干薄めで、タテ型思考も持ってると感じます。
そして娘の一番の友達も同じような割合だなー、と感じます。
だから気が合うんでしょうね。
が。
娘曰く「いじわるなことを言う」「悪口を言う」という女子たちは、私から見ててもずるずるべったり水平思考が強い女子なんです。
これは良い悪いじゃなくて、生まれ持っての気質の影響がとても大きい気がします。
しかし、問題は水平思考そのものではなく、ずるずるべったり水平思考が「共感」をしたがる傾向が強いために、「その場にいない人の悪口を言う」ことでその水平思考のつながりの中で共感し合うことをしちゃう、ということなんだと思うんです。
だって、一番簡単なんですもん。その場にいない人の悪口を言うのが。
ちょっとしたことに対する「なんかイヤだなぁ。」という感情をそのまま口にして、「あの子イヤだよね。」って言うことはとても簡単で、それで共感しあうというのも簡単なことです。
人格が磨かれることで、共感するものが「人の悪口」じゃなくなっていくのだと思いますが、それはそんなに簡単に成されるものじゃないですもんね……。
大人になっても難しいから、あちこちで小4と同じようなトラブルが大人世界でも頻発してるんですよね……。
ずるずるべったり水平思考は、おそらく人間の進化において有益だから女性の中に多くみられる気質として伝わっているのでしょうから、それそのものはやっぱり良い悪いじゃないと思います。
それはタテ型思考でも同じですよね。
で、これらをネガティブな使い方にならないようにするには、メタ認知を鍛えることが大切なんじゃないかなー、と思うのです。
人格を磨く、というのも、メタ認知が鍛えられていてこそだと思いますし。
あくまで私から見てなんですが、娘のクラスメイトの数人は自分が人の悪口を言ってるという自覚がとても薄いと感じます。
モロモロのエピソードから類推して、メタ認知がすごく未熟なんだろうな、と感じるのです。
なので、前頭葉をバリバリ使ってこれからそーゆー部分を鍛えていってくれたらいいんですが………、それを待ってると性格形成および周囲への影響という点で手遅れなこともいろいろ発生しそうだよなぁ~、とも思うんです。
なんてったって、これからどんどん難しい年代になっていきますからね……。
思春期は目の前なんだよぉぉぉ!
というわけで。
いろいろ考えさせられる今日この頃であります。
あ。
でも、娘は元気に学校に行ってるので大丈夫です~♪
一番の友達の存在がとても大きいです。ありがたいです~♪♪
なにより、時々イヤなことについて泣きながらも話してくれて毒出ししてくれるので、親としてはこれまたほんとにありがたいです。
言わずに一人で悩んでたらかわいそうだもんね。
……ってか、私は言わなかったな。オカンに。そいえば。(と、今気がついた。)

「メタ認知ってなに?おいしいの?」

夏至の太陽が沈む前に、サングラスをかけてその光を眺めてみた。

夏至ですね。
今日は。
朝はざーざー降りで、子供たちも登校がえらいこっちゃだったと思いますが、
お昼前から晴れてきまして、おかげさまで洗濯物も乾きました。
や、でも、ダムの水が心配なので、まだまだ雨は必要ですなぁぁぁぁ。

先週中にお客様の絵を描こうと予定していたのですが、なにかとあって今日にズレこみました。
準備を始めて「ああ、夏至だからかー…。」と気づきました。
パーソナル・ゲートの絵なので、当然お客様のゲートの絵ですが、やはり夏至の日に描いた絵というのはアレですね。
ごごごごごごごー!って感じでした。

「なにかとあって」のうちのひとつが、頼まれ記事を書くというものだったのですが、これがなかなか難産でした。
4000文字程度ですし、書く内容もほぼほぼ決まってますし、元ネタも昔のブログから引っ張ってきてありましたし、すぐに書けるかと思ってたのですが、取り組みだしてみるとそうは問屋が卸してくれませんでした。
しかし、そういう時こそ面白いもので、自分でも把握しきれていなかった自分のアレコレが文字として浮かび上がってくる場合が多くて、それを見つけるためのクエストだったのかと思うくらいです。
とにもかくにも、満月の夜に書き上がって、ホッとしました。

頼まれ記事を書き終えて、さぁ寝るぞーー……というところで、ああ満月だったっけ、と思い出して窓の外を眺めてみたのですが、どこにもお月さまは見当たりませんでした。
すっかり曇ってました。ちょっと残念。
まぁ、もともと天体観測そのものはあまり好きじゃないので満月を見ると言ってもほんの数十秒なんですがね。
子供の頃から苦手なのですよ。夜空を眺めるのって。
なんだか「持ってかれそう」で。
いや、もしもずーーーっと眺めていたら確実に「持ってかれる」と思います。私の中の何かを。
天文学は大好物なので、もしも頭が良くて天文学者になってたらヤバかった……ってこともなくててですね。
観測はモニター見て行いますからね。それはOK。
生がダメなのです。
木星の大赤斑は写真でもダメだけど~。
こわい。

先週、近所の一宮にお参りに行ってきました。
輪っかもくぐってきました。
神様からのお手紙も大吉でした。

これ、この時と同じ御神籤でした。
4月の時と同じってことは、私の状況が変わってなくて、神様から同じこと言われてるってことなんでしょうね。
あー、まだ「待人 さわりあり 来らず」のままかーー。
(待猫はあの後に帰ってきたけどね♪)
初めは危ない谷の小川を渡る様な心配事があるが驚き迷うことはありません。
後には何も彼も平和に収まります
凡て小さい事も用心してすればよろしい

ありがたいお手紙です。

海に深く潜る

海
池袋の梅舎茶館さんで個展を開催させてもらった時に描いた絵のうちの1枚です。
「海」です。
こちら
http://tamieya.kagishippo.com/p/universe.html
に絵の説明を以下のように書いております。

海というのは、無意識の世界も象徴しているように感じるのですが、その深いところに大切な宝物があるような気がしています。
その宝物に辿りつくためには、「人間」のままではダメで、どこかがうまく変容しなければ潜ることもできないように思います。
そういう意味でも人魚というのはピッタリのような気がして、描きました。
頭では理解していても、なかなか自分の深い部分に辿り着けない人をサポートする絵になれば、と思います。


最近、この絵がふと頭に浮かぶことが多いのです。
もしかしたら、今まで以上に自分自身の深いところにアクセスしているのかもしれないなぁ~、なんて思ったりもします。
または海王星的な何かが蠢いているのでしょうか。
そいえば、ちょっと前に次々と「ネプチューン」または「ポセイドン」がいろんなカタチでもって目に入ってきてたので、何かしらあるのかもしれないですね……。
それが個人的なことだとしても、集合意識から切り離しては語ることはできないでしょうし……。
何であれ、この絵がちょいちょい頭の中にふと浮かんでくるというのは、何かのフェーズに自分が移行してるとしても、それは言葉にできるものを超えてるのでしょうから、なんて言いますか……「飲み込まれて自分が無くなってしまわないようにしよう」と思います。
や、たとえばですよ、ワンネスの境地に至るとかってのは、ある意味自分が無くなってしまうことだと思うんですけどね、
今の自分レベルでは、【たとえ何かの拍子にそこに辿り着いたとしても、こっちにちゃんと戻ってくることができるかどうか怪しい】と思ってるんです。
こういう人もいますしね。
…っても、私の場合はそこまで行けるとは到底思えませんけど、それでもね、今までもよりもちょっとでも深いところに潜ることになるというのなら、それこそ人間のままじゃなくて人魚になってから………または、何か「物語」や「絵」という緩衝材が必須になりますね。
んんー。
というか、逆かもしれんですね。
絵を描くのに、さらに潜ることになるんですかね。
だとしたら、ほんとにちゃんとせんとアカンですね。
水圧で自分が壊れてしまわないように。
なんて書いてて、ふと思ったんですけど、
あたしが20歳からずーっと体調不良やったのも、壊れんように逆にちょっと壊れやすくしといて、そのメンテナンスを模索するプロセスが必要やったんかもしれんですね。
や、ほんとのところは分かりませんけど。
意味なんてこれっぽっちも無いのかもしれませんけど。
みなさんも、今までより深く潜ることになった時には気をつけてください。
溺れないように。
壊れないように。

えらいことフラットな状態で考えていた


深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちら側を覗き込んでいるのだ。
お猫を覗き込むとき、お猫もまたこちら側を覗き込んでいるのだ。

昨日ですね、このブログ記事がTwitterで回ってきまして。
「京大出て専業主婦なんてもったいない」と言う人は、じゃあわたしが何をすれば許してくれるのか
http://seramayo.hatenablog.com/entry/2016/05/23/121352
リツイートで回ってきたのがこれだったので


『べつにいいんじゃないのかしら。(勉強は好きだったので)京大に行ける頭があること自体はすごく羨ましいけど、その後の人生はその人次第だしなぁ。地頭がいい人の社会貢献って、難しい仕事して税金払うことだけじゃないってのはいろんな人見てて思うしなぁ。』
ってなツイートをして自分の中では終わったんですけど、
夜になって友人とこの話題になりまして、チャット状態でやりとりしてたら、友人の言葉に「おお。」となりまして。
というのもですね、友人とのやりとり中にこの方の他の記事をチラチラっと見てみたら、この方は解離性同一性障害っぽかったり、ギフテッドっぽくての双極性障害らしい…と分かったんです。
特にこの記事
「ギフテッド」と「双極性障害」
http://seramayo.hatenablog.com/entry/2016/01/17/150807
の以下の部分が印象的でした。

精神を安定させることで、自分の能力を封じ込めている、その実感はある。双極性障害の人なら誰にでもあるはずだ。気分がプラスマイナスゼロのときこそ、世界も自分も、もっとも輝いて見え、能力がもっとも発揮できるにも関わらず、それよりも少し鈍い感覚であるように薬を飲み続けているのだから。
わたしが知りたいのはその事実ではない。
そして、自分が「ギフテッド」か否か、ということでもない。
躁や鬱に針が振れるリスクを犯してでも薬に抑制されない日々を送る
or
生まれ持った感受性を犠牲にしてでも、穏やかな生活を送る
――どちらがいい人生なのか?
ということだ。


お薬で精神を安定させることで失うものがあるということで、このような問いとなってるわけで、
これを読んで、
生まれつきIQがとても高いというのは、もしかしたら脳にものすごく負荷がかかってて、非常に不安定な状態になりやすいのかもしれないなぁ……。
頭が良すぎても、生きていくのが大変なんだろうなぁ……。

と、えらいことフラットな気持ちで思ったのです。
そして、友人の「負け惜しみではなく、頭のいい人も大変だと思うよ。」という趣旨の言葉を見て、「おお。」となったのでした。
(当ブログの読者さんならご存知でしょうが、私にはこういうのがありますので)IQが高いことに対しての羨ましいわぁぁぁ的な気持ちが消えたというわけではないのですが、
でもちょっと今までと違う自分に気づいたのです。
ええ、ほんとにえらいことフラットなのです。
自分でもちょいとビックリするくらい負け惜しみ的な感情が全くなかったのです。
昨日の日記を書いた翌日にコレですからね。
「あー、自分は等身大のこのままでOKなんやと思えたから、フラットに考えられるんやろうなぁ~…。」
と、ちょっとばかり感慨深くなりました。
人生に過不足なんてヒトカケラも無いのかもしれないですね。
ほんとうは。

ちっともすごくなくてもOK!


今日は息子も娘も代休なので、午前中は病院めぐりをしてきました。
娘がお熱で学校を休んだ時に眼科検診と耳鼻科検診があったので、校医の先生の病院に娘を連れて検診をしてもらわないといけなかったのです。
というわけで、写真は眼科の先生のところの鉢植えの草です。
日の当たり具合がとても綺麗で、娘と「綺麗だねぇぇぇ。」と眺めておりました。
代休というのは、息子は土曜日に支援学校の小学部・中学部の運動会で、娘は授業参観だったためなのですが、
娘がお兄ちゃんの運動会…というか、支援学校の運動会をどうしても見たいというので、小学校の担任の先生に事情を話してお休みさせました。
そして、娘は以下のような日記を書きました。
(週末は日記が宿題の1つなのです。)

目で見ないとわからない
「勝ったのは白。」
先生が、大きな木のぼうを天びん計りにして、玉入れでカゴに入った玉をはかっていました。
「あれじゃあ正かくにははかれないよ。先生の手のむきで変わっちゃうよ。」とわたしはお母さんに言いました。
そしたらお母さんは、「数が分かんない子がたくさんいるからね。目で見なきゃ分かんないんだよ。」と言いました。
わたしは〇〇小の運動会ではぜったいにありえないと思いました。
でもあそこの学校は、すごく変わった子ばかりなので、しかたないなぁと思いました。
すると全身タイツの赤と白の先生がやって来てたたかって、白が勝ちました。
わたしはこれで、目で見ないと分からない子がたくさんいることになっとくしました。


急に走り出す子や急に泣きだす子、徒競走の途中で止まっちゃう子やコースアウトする子……。
いろんな「変わった子」たちがいて、それでも先生たちが上手に促したり抱っこしたりして、ちゃんと運動会になっていました。
兄が障害児なので素地はもちろんありますが、娘がお世話になっていた保育園は障害児の受け入れ指定園だったのでクラスに発達障害児やダウン症児が数人いましたし、小学校では兄が在籍していた特別支援クラスがあり、そこに入り浸っていた娘は「障害児」に対してそこそこナチュラルに付き合える子になっています。
それでもやはり支援学校に通う「重度の子」たちを見て、「変わった子がいっぱいだなぁ~。」とあらためて思ったようでした。
玉入れの玉をカウントするのではなく木の棒を使っての天秤で計測するとか、3回戦の結果どちらが勝ったのかを理解させるために全身タイツの先生が戦って見せてあげるとか、娘には少し衝撃的だったようでしたが、娘自身も目で見て分かることがたくさんあったということで、学校を休ませて連れていって正解だったなぁ、と思いました。
しかしですねー
当日ですねー
私がですねー、
久々の体調不良でした……。
や、前日の夜、寝る前にちょっと身体の異変といいますか、しんどいとか痛いとかじゃないんですけど、独特のちょっとしたイヤな感じがあったので、あれー……?やだなぁ~…とは思ったのですが、このことろそこそこ体調をキープできていたのでなんとかなるだろうと思っておりました。
しかし夜中に目が醒めて、またしてもイヤな感じになり、発作になると困るなぁぁぁぁと思った私は漢方薬を飲んで、不安になりつつもセルフヒーリングをがんがんやり続けておりました。
30分ほどで落ち着いてきたので良かったのですが、それから眠りが浅くなり、いつもより早起きしてお弁当を作る時にはかなりしんどくて困りました。
……困っていても運動会のお弁当作らないといけないので、頑張りました。
そしてお父ちゃんの運転で支援学校に着いた頃にはなんとかしんどさも抜けてきたので良かったのですが、今度は頭痛が始まりました。
更年期障害で血圧が上がったり下がったりしてるので、その薬も飲んでますからね、あまり鎮痛剤は飲みたくないわけです。
以前はすぐに鎮痛剤を飲んでましたが、そうやって頭痛を我慢することがこの数年のパターンとなっておるのです。
しかしこれがねー、夕方頃が一番しんどくて、またしても「困ったなー。」となっておりました。
夜の19時からPTA地区懇談会があり、司会をしないといけなかったからです。
なんとか懇談会にも行き、あれこれ大事な話し合いもスムーズに進みまして、やっとこさ「やれやれ~。」とホッとしました。
このところ体調がそこそこキープできていたので、もしかしたらこのまま私ってばイケるんじゃね?と期待しておったのですが、すこーんとやられました……。
期待してた分がっかり度も高く、困惑と不安がいつもより多めに出ておりました。
この1カ月ほど、自分の身体への信頼感がちょっとずつちょっとずつ高くなっていたのに、がらがらどしゃーん!と崩れちゃったような、そんな感じになってしまいました。
ずっと右肩上がりで良くなっていくわけじゃなく、それこそ「3歩進んで2歩下がる」みたいな感じで進んでいくんだろう、と頭では分かっているんですけど、心はなかなかついて行けませんねぇぇぇぇぇぇ。
30歩進んで2歩下がる…くらいだったとしても、3歩進んで4歩下がっちゃった!やっぱりダメなんだ!みたいな感覚に(しんどい最中は)陥りやすいです。
てなわけで、自分の身体・自分の心と付き合うってーのは難しいなぁぁぁぁぁ!ちきしょー!と相変わらず思わされた土曜日でありました。
と、そんな感じではあったのですがね、昨日ですね。日曜日ですね。
プレゼントのハガキが届いたよというメールや、前回の日記で紹介したパーソナル・ゲートの絵のご感想メールに返事を書いたんです。
そしたらメールの返事を書いていて、自分で書いた言葉にハッとしたんです。
そうかー。
私は等身大でいいんだなぁ。
って。
『霊的に高いところに辿りついていなくても、スピ的に何かすごいヒーリングやエネルギーを扱えなくても、人間的にまだまだであっても、技術が未熟でも、この等身大の自分をそのまま(ブログにしても絵にしても)表現してることが、逆説的だけども、良いのかも。』
と思えたのです。
違う言い方をすると、
ちっともすごくなくてもOK!こういうのもアリ!
みたいな感じですかね。
詳細は割愛しますが、パーソナル・ゲートの絵の感想をくださったお客様への返事の中で

もしかしたら、ここが大きな人生のターニングポイントかもしれませんね。
「自分の本来の素晴らしさを十分に表現できる人間になる努力をする」か、「今のままの自分で在り続ける」か、の選択とも言えると思います。


と書いたのです。私。
『自分の本来の素晴らしさを十分に表現できる人間になる努力』というのは、人によってその方向性が全く違うんだと思うんです。
課題はそれぞれ。
でも、そういう課題に向き合っていくことを地道に続けていたら、まだまだ未完成でもある程度のあたりから『本来の自分の素晴らしさ』を、その生き方を通して表現し始めることになるんじゃないかと思うんです。
もしかしたら、生まれてもうちょっとで半世紀という今になってようやくそうなってきたから、未完成でちっともすごくなくてもOKと、この拍子に思えたのかもしれないなー、と思ったのです。
それは高慢とは違う感覚です。
まだまだ未完成で本来の自分の素晴らしさをやっと表現し始めたばかりだけど、でもそれでいいよ~そのまま進んでいいよ~、みたいな上からのアドバイスみたいな感じとも言えますね。
残念ながら私の場合は課題から逃げないように「体調不良」という錨……というか、羅針盤とも言えるかもしれんですね、そういうのがあるようなので、3歩進んで2歩下がるというのはまだ続きそうな気もしますが、とほほな気持ちになりながらも進んでいこうと思います。
このままでOKみたいなので、このまま進んでいこうと思います。
自己肯定というのは、もしかしたらこういう感覚のことを言うのかもしれないですね。

自分の差別意識と向き合うとこになったわけだが。

本日2本目の記事です。
ツイートだと遡るのがめんどくさいので、こっちにまとめておこうと思いまして、2つ目となっております。
本日1本目の記事はプレゼント応募用になってますので、そちらもチェックしてね♪)
(ちょっと間違えて消しちゃって「直前までに【朝ドラを】BSプレミアムで…」の部分が抜けてしまってます。)


なんてツイートしていたらですね、
以下のツイートが私のTLに現れました。


これらを読んで、ほぼ反射でツイートを始めました。
すると、以下のようになりました。


そしたら、間髪入れず、これが流れてきました。


なんとなく、「そっち方向でいいよ。」と言われているような気がしました。
勝手にですけど。もちろん。
(あ!エンデというのがミソやん!…と、今気づきました。これ書いてて。個人的なことですが。)
すると、次はこれがすこーんと目に入りました。


ちょっと「あれ?」と思いました。
学歴とか知識の問題じゃなくて、「知らない言葉を使わないで!」とキレることが問題で、そこがひっかかるポイントに感じました。
そこで、「あー…。」となりまして、以下のようにツイートしました。


自分の差別意識と向き合ったら、人を…というか、人類を信用していない自分を見つけた、ということでした。

悩んでるその悩み自体には問題の本質は表れていない

北の国のニュースがよく流れてたので、なんとなく見てたんですよ。
そしたらですね、現在のトップの方のおじいさんの頃から、国民全員に白米を食べさせることが念願……という話が出てきたんですね。
政治経済にそんなに強いわけでもない私でもですよ、ほんとうにその念願を達成したいのなら今の政治体制のままでは難しいよねぇ?…と、脊髄反射で思ったわけですよ。
何十年と今のやり方ではやり遂げられなかったことなんですから、やり方を変えないと上手くいかない可能性の方が圧倒的に高いですよねぇ。
普通に考えたら。
でも、トップは今の体制を変える気なんてサラサラなくて、それを維持して(さらに強化して)いくことが一番の念願なんだろうから、そりゃいつまで経っても実現は難しいですよねぇ…。
と。
あの国のニュースを見ながらそんなふうに思ってたんですが、
これって、国とかっていう大きい枠組みだけじゃなくて、個人でも言えることだよなー、と思ったのでした。
たとえば、豊かになりたい幸せになりたい、と願っていても、何かこう……やり方とか信念とか…そういうものを変えないまま同じことの繰り返しをしてる、というのって、実はすごーくありがちな気がするんです。
悩んでるその悩み自体には問題の本質は表れていなくて、もっとその下のベースになっているようなところを変えていく勇気が国にも個人にも必要なんじゃないでしょうかねぇ…。
(個人の場合はそのベースのところが無意識の領域だったりすることが多い気がするので、国レベルとは違う意味で厄介ですよねー。)
それが簡単じゃないから、国も個人も悶々とし続けてるわけですが、でも変えていかないとねぇ。変わっていかないとねぇ。
お前がほんとうにほしいものは何だ

大きな「縛り」の中で


娘がお熱出して寝てるので、隣の部屋でだらだら落書きしてました。
さて。
こんなツイートが回ってきたんですけどね。


前々から思ってるんですけど、
黒柳さんって死なない気がするんですよねぇぇぇぇぇぇ。
そして。
昨日の夜なんですけど、こんな記事を見つけました。
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述を読んで
http://astrologia89.blog54.fc2.com/blog-entry-394.html

本当なら、渡辺被告が「30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し」た時がそれを始める合図だったのだが、彼はそのメッセージを誤って解釈してしまった。それが残念でならない。


占星術の細かいところは横に置いたとしても、この言葉はとても切なく響きました。
こうやって犯罪を犯してしまうのはほんの一部の人だとしても、いい大人のある時期にそういう状態にあることに気づいて絶望に近い気持ちになる人って、案外少なくないのかも……と思いました。
時代の在り方とか、家庭環境とか、本人の資質とか……いろんな要因がまぜまぜになって人生のハードさがそれぞれのものになっていくのだと思います。
ですから、誰とも比べようが無いんだなぁ……と、最近はよく思います。
「あー……こうしたらいいのに…。」とか個別で思うことは多々(!)ありますけど、それは(その人の人生ではなく)「私の人生におけるBetterな選択」でしかないわけです。
なので「人は自分の生きたいように生きてるんだなぁ。」というところに、どれだけアレコレ考えても結局は戻ってきてしまいます。
魂がお膳立てした人生(時代・環境・資質)を、どのように生きるか、でしかない……と思うと、気力がガクンと減ってしまう人もいると思いますし、私も一時期はそうでした。
でも、今はそうでもないんですよねぇ。
黒柳さんほどポジティブではないけれど、あの被告人ほどネガティブでもないので、ぐるぐるしても最終的には「まーいいかー。」って思えるんじゃないかな~と、自分のことを感じたりしてます。
時代の縛りというのは、体感しているよりも実はすごーーーーーく大きいのだろうな、と思います。
そして環境、特に家庭環境の縛りもすごく大きいと思います。
親を好きだろうが嫌いだろうが、親の価値観を無意識に取り込んでいる部分って、自分で思うより大きいと思いますし。
生まれ持っての資質は言わずもがな。
そういう「縛り」の中で、ネガティブを突き詰めてもそれがこの人生の答えになり得るし、ポジティブを突き詰めてもそれがこの人生の答えになり得るし、真ん中あたりでぐるぐるしててもそれがこの人生の答えになり得ますよね。
それこそが「この自分」次第なんですものね。
大きな縛りのある中、できるだけ「風通しのいい感じ」になるように選択できたらいいなぁ、と思います。
黒柳さんには遠く及ばなくても。

ヒーリングって……?

ヒーリングってものがどういうものなのか、というのを厳密には分かっていないのですけど、
今まではですね、だーーーっと(幽体も含めて)肉体に流れて汚れを掃除してくれる水みたいなもの……と無意識のうちにイメージしてたなぁ~、と気がつきました。
あ、私自身がね。
でもですね。
そういう面だけじゃなくて、なんといいますか……貯金みたいな側面もあるような気がしてきました。
や、だから何だ?と言われてると困るんですが、いろいろ感じることがありまして、そんなふうにも思えたので、メモ代わりに書いてみました。
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水っぽいくまえる