最近のブ子さんの定位置となっております。
今日はメモ書きですが……って、いつもそうなんですけどね。
今日のは特にまとまってませんし、異論を挟む余地ありありなんですが、こういう切り口もあっていいんじゃない?という感じで読んでもらえると有り難いです。
*+*+*+*+*
ご本人がリンク禁止と言っていらっしゃるので、残念ながらリンクは貼りませんけど、
ある人のブログをちょいちょい読んでおります。
で、その人が言うには、女の承認欲求は醜いのだそうです。
最初はピンと来なかったのですが、「承認欲求は男の専売特許」「愛が女の独壇場」という言葉を読んで少し分かったような気がしました。
有性生殖について興味のある人は詳しく調べてもらうとしまして、ざっくり言うと、多くの動物は有性生殖をしてます。
で、接合を行う生殖細胞を配偶子と呼びまして、その中でも配偶子の大きさが異なるものは異形配偶子と呼びます。
異形配偶子には大きい配偶子と小さい配偶子ありまして、大きい方を雌性配偶子、小さい方を雄性配偶子と呼びます。
一般に雌性配偶子は運動性を持たず、雄性配偶子は運動性を備えております。
多くの動物に見られる卵と精子はその代表例と言えます。
つまりですね、
男性は配偶子の頃から過酷な競争をしないといけなくて、
女性は配偶子の頃から受け入れるのみ、
……なんですよね。
実際、自分が今まで出会ってきた女性たちの中にも、仕事はできるし親切にしてくれる……けれど、時々なーーーんだかなぁ~……という気分にさせられる人が数人いました。
先にその女性たちと仕事をしていた友人たちからは「親切な人だよ。」と紹介されることが多かったです。
だけど、第一印象から微妙な違和感を感じるのも事実でした。
そして、付き合いが長くなるにつれて、「あー……、この人苦手やなぁぁー。」という意識を強くさせられていきました。
学生時代に優秀で、大手の会社に入って、結婚もして子供も産んで……恵まれてる女性たちだと思います。
しかし男性のようには評価されない、という感覚が強い人たちだと私は感じていました。
承認欲求が強い女性たちだったのです。
ありがたいことに、私の周囲には「優秀な上に、承認欲求があまり高くない女性」が多くいました。
ですから、逆に承認欲求が強い女性が珍しいくらいで、印象に強く残っているのだと思います。
彼女たちに対して共通して感じていた印象は「欲求不満なのかなー?」だったのですが、満たされない欲求とは「強い承認欲求」だったんだな、と今になって納得できました。
私を認めて!
という、無意識から滲み出てくる強い圧力を、会話の端々で感じて、苦手に感じていたのでしょう。
やっぱりねーー、正直言うとね、醜かったです……。
「なんで?」って思うことがちょいちょいありました…。
なんだろなーーーーーー……。
「他人に高く評価されたい」というのは、誰にでも多少なりともあるものだと思うんですよ。
そのために頑張ったっていいと思うんですよ。
でも、親が世間体を気にしすぎて子供の心をちゃんと見ていない、ということになったら楽しい家庭ではなくなりますよね?
それが示すとおり、「他人に認められたい」という欲求は、ほどほどでないとマズいことになりやすいんだと思います。
男性の場合は、それは暴力になりやすいんでしょう。
だからいつまでたっても戦争は無くならないわけです。
でも、男性は己の「承認欲求から生まれる暴力性」を他のことに転化させる技も磨いてきたのだと思います。
でっかい建造物作ったり、いろんな競技を作ったり。
…ってことは、(今の)人類の文明文化を築きあげてきたのは、男性の承認欲求が原動力だったと言っても、あながち間違っていないかもしれませんね。
では女性は…?と考えてみると、
どうも、「私は被害者だ」という意識でもってして相手を攻撃するような……そんなパターンに陥りやすい気がするんです。
確かに歴史的に見てもずーーーっと女性の社会的権利が抑圧されてたところが多いので、男性ばかりが得をする社会だ、とかなんとかって言いやすいと思うんです。
また、そういう社会的な視点以外の、身近な人間関係でも「あの人は恵まれている。私は損をしている。」とか「私のことを分かってくれない。」とか、そういう被害者意識を持つことで、承認欲求が満たされないことに対しての文句を垂れ流す……という傾向が強いような気がするのです。
そして、女性は(コミュニティで子育てをするというホモサピエンスの在り方により育まれた)「共感することで安心する」という構造を持っていますから、その文句に対して共感する仲間がいれば、その文句は「正義」となっていきます。
おそらく、女性の承認欲求が醜い、というのは、小学生の頃から「女子の集団って怖い…。」と感じるソレと同じ根っこなんじゃないかなー?と思うのです。
その集団だけの正義で他をジャッジするんですから、怖いですよ…醜いですよ…。
愛こそが女の独壇場だと仮定するなら、承認欲求が強過ぎると結果的に相手と闘ってしまうことになるんですから、女性の場合は特に本質から大きく外れていくことなると思います。
「あの人は非常識だからダメ。あの人は許さない。」と闘う女性よりも、「あの人のことは好きじゃないけど、まぁいいんじゃなーい?」とゆるーく愛を示せる女性の方が本人も周囲も楽だと思うんですけどね……。
なんでもほどほどがいいと思います。
あ、愛だけはたっぷりと♡
スズメバチの巣、その後。
昨日までは「11月も後半だと言うのに、なんでこんなに気温が高いんだー?」と文句言ってましたが、
いざ気温が下がると「寒いわー。冷えるわー。」と別の文句が出るだけということを悟りました。
「兄さん、寒いからボクが温めてあげますよ。」
「重い。」
さて。
裏庭の木にスズメバチがこっそりと巣を作っていたのを発見して、おとーちゃんが撃退した…という記事
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1228.html
を以前書きましたが、そのままにしておいた巣は、だんだんと崩れてきまして、中身が見えるようになりました。
孵ることができなかった卵もありますね。
これ、もっと違う角度から見ると卵がびっしりありまして、ちょっと気持ち悪いくらいです。
女王蜂の産卵能力の高さがよく分かります。
殺虫剤をこれでもか!というくらい水鉄砲でかけまくったので、巣の回りの葉も枯れてしまいました。
来年の春の早い頃に、また(大家さんが寄こしてくれる)庭師のおじさんが剪定に来ると思うので、その時まで巣がある程度残っていたらいいなー、と思ってます。
おじさんビックリすると思うから~。
「自分」なんて、自分が思うほど「自分エッセンス」だけで形成されてないと思う。
ホットカーペットはあったかいニャ~♡
昨日、こんなツイートをしました。
名古屋で心療内科に通いだした頃…なので30歳手前かな…までは「6~7歳くらいの女の子がお母さんに甘えてる姿を見ると、なんとも言えない気持ちになって直視できない」というのが自分の中に在ったのだけど、
いつの間にそれが消えたのかが分からない。— たみえ (@TAMIEYAtamie) 2016年11月14日
心療内科での治療が頭打ちに感じて、会社から支給されてた地下鉄の定期で行ける距離で見つけたヒプノセラピストさんのところに勇気を出して行き、
そこで(貴女の場合はヒプノよりこっちがいいと)霊能師さんを紹介してもらい、
そこに行くようになって、ご先祖様の霊をたくさん供養した…ら、— たみえ (@TAMIEYAtamie) 2016年11月14日
いつの間にか「6~7歳の女の子がお母さんに甘えてる姿を見るのがしんどい」が消えてた……としか言えなくて、
アレは自分の経験から生まれてたものなのか、そうじゃなかったのか、それすらもう検証のしようが無い。
もう自分の中からキレイさっぱり消えてしまったから分からない。— たみえ (@TAMIEYAtamie) 2016年11月14日
そんな感覚がずーっとあったせいで、若い頃なんてきっと私は女の子なんて生んで育てられないなーと思っていたけど、実際は女の子生んでめっちゃ可愛がって育ててるし、
その元凶が何だったのかも分からないまま解決したし、
人生って摩訶不思議。— たみえ (@TAMIEYAtamie) 2016年11月14日
「自分」なんて、自分が思うほど「自分エッセンス」だけで形成されてないと思う。
— たみえ (@TAMIEYAtamie) 2016年11月14日
普通に考えると、「何らかの事情で6歳頃に母親に甘えられなかったから、そういう姿を見せられると苦しいんだろう。」という推測になるかと想いますし、私もそうなんだろうな~とずっと思ってました。
でも、実はちょっと奇妙にも思っていました。
その時代に限っての特別に思い当たるフシがなかったのです。
実際、ヒプノセラピストさんに誘導されてインナーチャイルドに接触しましたが、そういう部分が皆無だったんです。
(母親との関係性においてちょっと……な部分があって、しんどかったのは確かなのですが、その年代に特定の何かがあったわけではない、ということです。)
もっともっと掘り下げたら、何か出てきたのかもしれませんし、もっともっと掘り下げても何も出てこなかったのかもしれません。
結局アレは何だったのかは分からないのですが、もしかしたら、自分由来のものではないのかもしれない、というのも否定できないよなー、と思うんです。
ご先祖様からのあれやこれや、前世からのあれやこれや、平行世界からのあれやこれや……いろんなあれやこれやが複雑に絡み合って干渉し合って、「今の自分の現状」がここに表出しているんじゃないか、と私は思うので、
ある悩みについても、全然関係なさそうなところを触ることによって自然と解消してしまった……なんてことも、案外少なくないのかも、なんて考えたりしております。
そして、それは逆も真なり…かもしれなくて。
自分自身を客観的に見つめて分析する力量をどんどん増やしていくに従い、「親に対しての葛藤」を徐々に解消している友人の様子を眺めさせてもらってますとね、思うんです。
親から子へと代々受け継がれてしまったものによって生じていた「親に対しての葛藤」を、彼女が人生かけて解消するということは、当然本人のためではあるんですが、それだけじゃなくて、ご先祖様への多大なる貢献ということにもなるに違いないと感じるのです。
『「自分」なんて、自分が思うほど「自分エッセンス」だけで形成されてないと思う。』とツイートしましたけど、
だからこそ、「自分」をちゃんと引き受けて生きないとアカンのやろうなー、と思うようになってきました。
この歳になって。
や、できてないことだらけでお恥ずかしいんですけどね、そう思うんです。
こんな私ですけど。
1つの前の日記に、氣乃さんのパーソナルゲートの絵について書きましたが、
氣乃さんがご自身のブログでもこの絵について紹介してくださってますので、
もしよろしければチェックしてみてください。
http://ameblo.jp/kino-tasuku/entry-12218738868.html
や、しかしですね。
氣乃さんがおっしゃるほど私はすごくないです。
「あら。氣乃さん…。そのヒーリングエネルギーはコレコレこういうものなんですね。なるほどなるほど。」
なんて、言い当ててるわけじゃないんです。
そんな想像をされた方、ハズレですー。
アチューンメント直後など、スカイプ越しに氣乃さんに「どんな感じですかー?」と訊かれて、
「あー、なんとなく白いのがぐるぐるしてる~ってイメージですかねぇぇぇ。なんとなくですがー……。」
と、すげぇぇぇぇざっくりとした感覚を、すげぇぇぇぇぇざっくりとした言葉で言ってるだけなんです……。
私は、非物理的世界のことが視える聴こえる感じる…わけではないです。
オカンと弟1号は「視える」ようですが、非物理的世界のものが「視えた」ことはほんの2~3回しかありません。
それもハッキリとエネルギー的なものが「視えた」のはコレだけかもしれません。
ただ、なんだかイメージがぽこぽこと浮かんでくる、ということは昔からよくあって、
しかしそれは単なる脳の遊びというか、妄想みたいなものだと思っていました。
それが、どうやら妄想だけとは言い切れないようだ、と考えるようになったのは2008年からで、
特に「なにみえ遠足」に参加してからは、浮かんでくるイメージが他の人の見解と一致するものがある、というのが驚きでした。
そのうちだんだんと、自分の想像・妄想100%のものと、そうとは言い切れないものの「感触の違い」が分かるようになってきまして、
非物理的世界のことも、ほんの少しではありますが、実体験として分かるようにもなってきました。
というわけで、
卑下するわけでもなんでもなくて、実際にそんなもんなんです。
すごくはないんです。
中途半端っちゃあ、中途半端なんです。とても。
けれども、私はそんな自分の中途半端っぷりも嫌いじゃないんです。
いろんなセミナーに参加してもっとサイキック能力を向上させて、もっといろんなことがハッキリ分かるようになったら、もっと多くの悩める人の役に立つ人間になれるかもしれないですよね?
それでお金だって稼ごうと思えばできるかもしれないですよね?
でも、それは自分のやるべきことではない、という感覚が何故かどうしても強かったんです。
ヒーラーというのは私のお仕事ではないのでしょう。
なので、こんな中途半端な状態が丁度良くて、嫌いじゃないのだと思います。
天使の絵も、パーソナルゲートの絵も、別に他人を癒したいと思って描いてるんじゃないんです。
ヒーリングアートじゃないんです。
どういうわけか絵を描いてる、としか言えないんです。本当のところは。
天使が~とか、ミカエルが~~、とか、そういうものもどんどん削いでいくと、そうとしか言えなくなるんです。
ま、
ポジティブなものやネガティブなものには理由があって、ニュートラルなものには理由なんて無いような気がしてるので、これまたこれはこれで嫌じゃない自分がいたりするのです。
というわけで。
精進は続けますけど、ニュートラルから下手に(←ここ重要)ポジティブなところへとギアを入れたりしないような精進を続けたいと思っております。
こんな私ですけど、これからもどうぞよろしくお願いします。
物理世界も素晴らしいぞ♪
自分の中には「エゴエゴしいもの」が散乱してる
1つ前の日記の補足…になりますかね。
先月末のことです。
朝から首肩がパンパンで頭痛があり、湿布を貼ってなんとか朝の家事はしたのですが、
どんどん調子が悪くなり、とうとう「しんどくてアカンわ。今日の息子くんのお迎えできへん。」と、おとーちゃんにSOSのメールをしたほどでした。
おとーちゃんが一時帰宅をしてくれて、縁起が良くて健康にもいいと言われる今年の梅干し(申梅)と白湯を用意してくれたおかげか、しんどくて眠ることもできなかったのが、うとうとと小一時間ほど眠ることができました。
(そしてその後、なんとか体調がだんだんと持ち直してきました。)
その時に見た夢です。
家の外に、糸みたいなのに引っかかってる蛇みたいなのがいました。
それはもがきにもがいてて、
それをよく見てみると、なんともグロテスクで怪物みたいな姿をしていました。
叫んでる口の中に蜂が密集しているのが印象的でした。
怖いので、その蛇のようなワニのような生物に、窓を開けて、そこから殺虫剤を噴霧しようかとも思ったのですが、
家にある殺虫剤くらいでは殺せんな、と思い、静観しかできずにおりました。
すると、怪物はもがいてもがいて、やっとこさ針金のような糸から自由になって、ぽとりと地面に落ちたのでした。
地面に落ちた怪物は、小さくて青くて、胸腹が赤いドラゴンの子供の姿になっていました。
ものすごーーーくかわいい姿をしていました。
そこで、娘を呼んで、さっきの怪物はドラゴンだったよー、と、窓越しに見せて、
2人でドラゴンちゃんバイバーイ、と手を振っていたら、
その小さいドラゴンは家の中にぽんっと入ってきて、私の膝の上に頭を乗せてきたのでした。
そのドラゴンをなでなでしてた…ら、目が覚めました。
頭痛を抱えながらも洗濯物を干していた時に、物干し竿の近くに蜘蛛の巣があるのを見つけたのですが、そこにミツバチが1匹かかっていました。
おそらく、それがそのまま夢の中でも流用されたのだろうと思います。
が。
この話を友達にメールする時に、「いと」が「意図」と何度も変換されました。
そういうことなんだろうな、と思いました。
強い意図に絡まって自由を失う。
もがきにもがいて、本来の姿も失う。
そんな状態が多少なりとも自分の中にあるのかもしれないなー、と考えました。
それを分かりやすく言えば「思い込み」なのでしょう。
論語にも「七十而従心所欲、不踰矩。」とありますが、思うままに振る舞っても道を外れないようになるには私の場合はまだ20年以上もかかるわけで、「意図」と言っても「雑味の強い思い込み」でしかないものが多いんだろうなー……と、思ったのです。
つまり、1つ前の日記に書いたように、「(エゴの)欲求を強い意志で精鋭化しレーザービームみたいにすることを『意図すること』と思ってた」んだろうな、ということです。
しかしですね。
それがアカンというわけでもないと思うんです。
「エゴエゴしいもの」があると、それが人生をゴツゴツしたくねくね道にしてしまうので、歩きやすい平らな真っ直ぐな道にしたいと思うと「エゴエゴしいもの」を排除しようということになるとは思いますし、道徳や宗教やスピで言われるようなことも結局はそーゆーことだったりするのかもですけど、
「エゴエゴしいもの」が存在するというのは、それにも意味があると思うんです。
「エゴエゴしいもの」があるから人間、とも言えるし、それが全く無くなってしまったら、他の人たちと全然違う次元で生きることになってしまうと思うんです。
それをアセンションと言うのかもですが、『人付き合いがちゃんとできへん変わり者』では人間社会で生きていくのは難しいですもんね。
……まぁ、全く無くなるということは無いんでしょうけど。
肉体がある限り。
ただ、
「エゴエゴしいもの」が自分の中にあるということを、どこか俯瞰するような目で見ることができるようになれば、ゴツゴツくねくねな道もかなり歩きやすくなるように思います。
自分の中にあるたくさんの「思い込み」を1つずつ見つけていくこと、とも言えるかもしれません。
散らかった部屋みたんなもんですね。
そうやって1つ1つ見つけて整理していく(←捨てるんじゃなくて整理整頓する)と、自分の中に備わっている「クリアな意図」というか、蓮村先生の言う「純粋な思い」というか、そういうものの在り処がだんだんと分かりやすくなってくるんじゃないかなー、と思うんです。
それが「七十而従心所欲、不踰矩。」であり、そうなるには人生全部を使うくらいじゃないとできないことなんでしょう。
「ああ、もういいや。」は、その折り返し地点くらいなのかもしれないですね。
秋のお彼岸ですね。
今年も裏庭に白い彼岸花が咲きました。
秋分の日の昨日はおはぎを食べました。
お彼岸だから、というのはもちろんですが、愛するすばるくんの誕生日を祝って…という気持ちも多少なりともありました。
ケーキじゃないけど。
そして今日は息子が敬愛する藤子・F・不二雄先生の命日であります。
先生が亡くなった年は9月23日が秋分の日だったので、さすが藤子先生だな~、と思いました。
お彼岸に亡くなる人は、『天寿を全うした人。良い人生を送り、さまようことなくあの世に行ける。』と聞いたことがあるのですが、お彼岸のそれも秋分の日に亡くなったんですから、天国一直線ですよねぇぇぇ。
そしてそして今日は天赦日ですね。
おはようございます!
今日は「天赦日(てんしゃにち)」です。年に5〜6回しかない暦の上で最上の吉日です✳︎
新しい何かを始めたり、躊躇していたことに挑戦するにはもってこいの日です。
結婚、結納、入籍、引っ越し、開業、財布の新調、宝クジの購入などは天赦日に行うと良いとされています!— 薬局CoCoファーマシー (@mococo321) 2016年9月22日
そんなわけで、8月中旬に「変革の使者」が我が家にやって来て、あるアドバイスをしてくれたのですけど、
天赦日の今日、それを実行いたしました。
雨でしたが。けっこ~な雨っぷりでしたが行ってきました。
せっかくアドバイスをもらったのでね、だったらね、一粒万倍日に行こうかね、と思って暦を見たら、9月23日は天赦日かつ一粒万倍日というレア日だったのでね、この日まで待ったというわけでした。
雨でしたが。
まぁ、恵みの雨ってことで!
しかし、ほんっっっとにスッキリしない天気がずーーーっと続いてますねぇぇぇぇぇぇぇ。
身体の中までじめじめしてしまいそうなくらい雨が多いですよね。
季節の変わり目でこれだけじめじめしてるので、体調不良になりやすいですよねーー。
支援学校でも小学校でも、ちょいちょい「熱出したー。」という子がいるみたいです。
子供は熱出して調整するんだろうか??と思うくらい、なんてゆーか……言葉はオカシイですけど「上手に熱出すよなー。」って思っちゃうコトがありますよね。
大人になると上手に熱出せないし~。
(インフルエンザは別ね。アレは上手もへったくれもないんで。)
早くキレイな秋空を眺めたいものですね。
この流れで間違っていないんだろうな、と思えました。
今日は、娘が決めた「黒丸の誕生日」です。
1歳になったにゃー♪
相変わらず相性は良くないのですが、それなりにやっております。2匹。
さてさて。
先日、こんな日記
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1214.html
を書きましたが。
そしたらですね、さっきこの記事
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-2286.html
と、この記事
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-2287.html
を読みまして、
「あー、やっぱりそうなのか~…。」と思ったのでした。
何年か前に、当ブログを読んでくださってる方から「シータヒーリングを受けてみたらいかがですか?」とコメントをいただいたことがありました。
ご自身がシータヒーリングのセションを受けて、ご自身の問題が改善された経験からのお気遣いでした。
その時もそうだったんですが、その後もずっと、
シータヒーリングが問題解決可能な方法の1つだと思っているのにも関わらず、どうしてもその気にはなれなかったのです。
当然ですが、体調が悪い時は「今すぐなんとかしたい。」と強く思うのですが、やはり様々な形でストップが自分の中で毎度かかっていたのです。
それが何故なのかは非常にぼんやりとしていて、全くもって掴み所がなかったのですが、どうしてもその気にはなれませんでした。
春先からの悶々時期など特に顕著で、シータヒーリングだけでなく、その他のことについても新たに問題解決の方法として何かを選択することをストップさせられていました。
あれやこれやが目に入ってはいたのですが、「既に自分の中に(解決の糸口は)有る」というインスピレーションしか感じられなかったのです。
誰かに相談する、ということすらストップさせられていました。
そのような時期を過ごした先に、先日の日記に書いたように、「健康問題が解決したら、自分のやりたいことができる」という矢印の向きがそもそも違っていて、
「解消しなければならない根本的なことがあるからこそ、長年の健康問題が在り続けている」という矢印の向きにようやく気付いたのでした。
その根本的なことをいかに解消していくかも分かっていない……いえいえ、その根本的なことの正体すらまだ実は掴みきれていないようにも感じていますが、それでもまずココに辿り着いただけでもそこそこのカタルシスがありましたからね。
そして、たまたま昨日なんですが、inahoの店長さんとお話してて、まさに「これから良くなるのに遅すぎるなんてことは無い」的なことを言われたんです。(表現はもちょっと違ったけどね。)
このところの流れからグッときましてねぇ……。
そしてリンク先の記事ですからねぇ。
やっぱりそうなんだなぁぁぁぁ……と、あらためてしみじみ感じ入ってしまった、というわけでした。
男性って大変なんだね。
先週の木曜日にぶっ倒れてから、やっぱりどうも調子が若干イマイチでして、
今日のお昼にスーパーに買い物に行った時に、つい買っちゃいましたよ。
元気ハツラツになれるかしら~?
実はね、オロナミンCって、人生で2回しか飲んだことありませんの。
さて。
さきほど、こんなツイートが回ってきましてね。
コラム「男の性欲痛 女の生理痛」https://t.co/s9I9ROOXJp
男特有の苦しみである性欲痛について書いてみた。— 織田三郎 (@dry9mUiyg3QQQGj) 2016年7月14日
読んでみました。
なんだか泣きそうになりましたよ……。ええ……。
生理的欲求というのは、人によってその度合いって全然違うと思うんです。
一番分かりやすいのが「食欲」ですよね。
私は子供の頃から食欲が少ない方で、食べること自体があまり好きではありませんでした。
でも、すぐ下の弟は食欲旺盛で、食べることが大好きな様子でした。
私の息子もそうです。食欲旺盛で食べること大好き。
血が繋がっていてもコレですからね。
ハタからは分かりにくい「性欲」だって同じですよね。
男女共に性欲が強い人もいれば、そんなに~…という人もいて、それは個人差がとても大きいものだと思います。
ただ、男性の方が性欲は強い傾向はあると思いますし、それは「オス」の宿命みたいなものですよね。
とにかく種を蒔ける時には蒔きまくれるパワーがある個体でなければ、子孫を残せませんものね。
性犯罪を犯すとか、戦争状態などのカオス状態で社会的枠組みがゆるゆるになってしまってる状況では特に女性への性的暴行が横行するとか、そーゆーのは男性の性欲の強さだけをピックアップして語ることができるものじゃないと思うのですが、それでもやっぱり、そこには性欲が大きく関わってることには間違いないわけで、
雌雄に分かれて遺伝子を半分っこでまぜまぜにすることで新しい生命体を生み出すという戦略を選択してしまった我々の宿命ですものね……。
種をあちこちに蒔く働きと、種を選択して育てる働きとでは、「性」における衝動の在り方だって当然違ってきますし、
それにですね、知性は衝動には勝ちきれないと思っておるのです。私は。
とにもかくにもですね。
とてもお腹が空いてるのに、目の前にご馳走を並べられて、食べるな!と言われるのもしんどいことなら、
お腹空いてないのに、さあご馳走を食べよう!と言われることだってしんどいですもんね。
どちらも頭では分かっていても、無理なものは無理だ~!ってなりますから、悲しいものですよね……。
じゃあ、食欲や性欲が何らかの手段でがっつりコントロールできるようになれば良いのか、と言うと、
それも何だか違うような気がしますしねぇ……。
それでも、生理的差異を理解するということは大切だと思いますし、思いたいです。
今日は何の日よ??
昨日の夜、寝る頃になってから首~肩がぱんぱんになってきて、ヤバいなー…と思っていたら、朝から頭痛で、
さらに、なんとも調子が悪いわけですよ。
そしたらですね、だんだんとアカンくなってきまして、どーにもアカンくなりまして、発作にもなりかけるもんだから、氣乃さんに伝授してもらったアレコレを必死に自分に流す……と、ちょっと楽になるのでホッとしていると、また発作になりかけて……の繰り返しになりまして、なんだか陣痛みたいでしたわ……。
やー、んっとに苦しかったです………。久々の「しんどい」を超えちゃっての「苦しい」だったですわ………。
あ、でもですね、
自分のこういう部分を認めるとしても、苦しいのはほとほとイヤだと思うのは自然なことだから思っていい、と苦しい中でそんなことをぼやんと考えたりしてました。
認めたら、苦しいことをイヤだと思っちゃいけない……と思ってたフシがあったんですけど、思っていいですよねぇぇぇぇ!
それはそれ、これはこれ!
というわけで。
今日の午前中に支援学校の保護者会&授業参観があったんですが、そんな状態なので、私はかかりつけ医のところにおとーちゃんに連れてってもらい、鍼してもらったりしつつお昼までお医者さんところで横になっておりました。
支援学校にはおとーちゃんだけに行ってもらいました。
おかーちゃんがいなくて息子はガッカリしないかなー…?と思っていたらですね、そんなことなかったみたいです。
……そう言われると、それはそれで寂しいですけど。しょぼぼん。
しかし、午後からおとーちゃんはお仕事なので、15時半からの小学校の方の個別懇談は行けるかどうか分かりませんでした。
徐々に身体は動くようになってましたが、へにょへにょもへにょへにょでしたし……。
でも、甘酒ドーピングでなんとか小学校には行けまして、娘のことを一生懸命理解しようとしてくれてる若い先生の姿に、感謝しつつ内心ニヨニヨしておりました。(←先生の年齢の子供がいてもおかしくないもん。私の歳だと。)
あー。
やれやれ……と、帰宅して楓さんにプレゼントしてもらった愛用のブレスを外したら………
ぱちーん!とゴムが切れて、石がバラバラ~っと散ってしまいました。
へにょへにょかーさんの代わりに娘がテキパキと拾ってくれましたが、全部ちゃんと拾えたかしら……?
体調は悪いし、ブレスは飛び散るし、で、どんなお日柄よ???って感じですわ~ん。
今日は何の日よ????
……廃藩置県の日ですって。
あ。
そいえばですね。
1つ前の日記に、豊宇加能売命さんから「もう十分ですから、余計なことは考えずに、貴方の太陽を輝かせなさい。」と言われたと書きましたけど、
あの日記をアップした直後に、何故か急にスマホのアプリのことがふと頭に浮かびまして、ずーーーっと使っていなかったタロットのアプリを起動してみたんですよ。
そしたら、これがちゃんと出るのねぇぇぇぇ。
身体がしんどい時苦しい時は、太陽を輝かすなんて考えられない……というか、そんなことより今!今この苦しさをなんとかして!しか思えないんですけどねー。
はっはっはー。
「子供たちにはお見通し」なので。
もう2年くらいですかね。
パレットを「牛乳パック」で代用しております。
さて、少し前のことですが。
この記事
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1181.html
のことについて、小学校の教務の先生からお電話をいただきましてですね。
教育系の学会でここの小学校のことを紹介することになっていて、そこでこの話もしたいということで文章にしてもらえないか、と依頼されたのです。
ブログの記事をリライトすればいいので負荷は高くないなー、とすぐに計算できたので引き受けました。
そしてすぐにデータを学校に持って行くと、その日のうちに先生から手書きの丁寧なお手紙を(娘経由で)いただきました。
それに対して、私はこんな返事を書きました。
本当は手書きで返事を書きたいところですが、すでに手書きよりもキーボード入力の方が圧倒的に速くなってしまって20年経ちますので、このような形で失礼します。
先生のお手紙を拝読した後に、以下のブログ記事をたまたま目にしました。
http://ameblo.jp/happy-austism/entry-12162909523.html
14歳のダウン症の少年が、飛行機の中で体調が悪くなり着席を拒み、飛行機が着陸態勢に入れなくなり、その時に機内アナウンスで「先生はいらっしゃいませんか?障害児教育専門の先生はいらっしゃいませんか?」と呼びかけた…というお話でした。
その時に名乗り出た先生は、「先生モードに入り、先生の話し方、先生の声」で少年に話しかけたのだそうです。
そして少年は着席し、飛行機は着陸することができたそうです。
『近くの席に座っていた乗客の1人はこのように語った。
自分の夫は医師で一緒に機内にいたけれど、
彼には何も出来なかった、と。
代わりにこの医師は、この教師がスキルと知識を使って
少年を安全に導いていく一部始終を尊敬の念で見つめていたのだそうだ。』
と記事の中にありました。
「教師のスキル」というのは、やはり独特で無二のものなのだなぁ、と思いました。
家庭・地域の在り方と、先生のスキルというのが両輪となって子供を育てていくのでしょうから、すべての大人が常に客観的に自分を省みつつ、喜びをもって人生を生きていなければ、子供に対してどこか偏ったものを与えてしまうような気がしています。
その点、息子は地域にも先生方にも恵まれて、ほんとうに幸せな子だと思っています。
○○小の良さがこれからもずっと保たれていくことを願っております。
たしかですねー、用事が立て込んで慌ただしい中で書いたので、手書きじゃ書いてらんねーー!とPCで書いたのでデータが残っておったので、今思い出してコピペしたのですけど。
と、先生とこんなやりとりがあり、そこから1カ月以上間が空いての先週、たまたま先生と学校の駐車場でバッタリ会ったので挨拶をしたらですね、忙しいであろう先生がちょっと立ち話をしてくれました。
あの返事を受けての、先生のお話でした。
この小学校が、ということではなくて、一般論としてなんですが、
教師たちがまとまっていないままで、子供たちに何か指導をしたとしても、子供たちにはお見通しだと思うから、まずは大人がちゃんとしないといけないといけない……という基本的なところを最近はすごくよく考える、と先生がしみじみとした様子で話してくれたのです。
「子供は大人の在り様を見抜きますよね!口先だけだとバレますよね!」と、私も激しく同意しました。
学校の上の方の先生がそんなふうに考えていることを知って、子供を預けている親としては非常に有り難いと感じずにはいられませんでした。
立ち話はほんの2~3分のものだったのですが、忙しい先生がそんなふうに話してくれるということが嬉しかったです。
こうやって話してくれるというのは、信頼できる保護者と見てもらえてるんだろう、とも思えましたし。(伊達に歳取ってないよーーー!)
ありがたいことです。
ほんとはねー、先生とはお酒でもちびちびやりながら、もっといろんな話を聞いてみたいんですけどねー、それはさすがに難しいですしねー。(←会社員時代はお酒でコミュニケーションを取ることがデフォルトだった人)
と、ちょっと嬉しかった出来事でした。