今朝もちょっと調子がイマイチで、今もダラダラしてるんですが…。
3週間ほど、身体が軽くて元気だったわけですが、
そうなってみて、自分の中からむくむくと「とある強い欲求」が出てきました。
東京に遊びに行って、のりすけちゃんとBoom女王さまに会いたいなー。
もし時間が合えば、他のマイミクさんたちとも会いたいなー。
というものでした。
今までは、子どもも小さいし、身体も不安定だし、無理だよなー、って諦めていたんですが、
元気な時期が続いたら、やっぱり会いに行きたいなー、ってすごーーく思いました。
そっかー。
私はみんなに会いたいんだなー。
…ということが、よ~く分かりました。
でも、今朝のしんどい時は、
「あー、やっぱり無理やー。そんなこと思ってた自分がバカみたいやったわー。遊びに行ってしんどくなったら自分もイヤやし、のりちゃんとかにも迷惑かかるしー。バカやー。あたしバカやー。」
とめっちゃ後ろ向きになりました。
まだまだこーゆー思考回路がべったり自分の中に貼りついてるんやなー……と、ちょっと楽になってきから気がついて、若干とほほな気分になりました。
身体がしんどいことそのものももちろん辛いんですけどね、
反射的にネガティブ思考になるのも辛いもんです。
うん。
でも、これからどんどん良くなってくからー。
「信じることがすべて」だもーん。
「少年時」
夏の日の空気のにおいとか、草の色とか、風の感触とかが、
昔から、子どもの頃から、私の中の「何か」を呼び起こすような、そんな感覚があって、
高校生の時に中原中也の「少年時」という詩を読んだ時に、一気になにかが弾けたような、おおもとの心象風景を垣間見たような、そんな衝撃を受けました。
今も時々、何かのきっかけでふわりと私の横を通りすぎます。
今日もそうでした。
少年時
黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸氣が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。
麥田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
翔びゆく雲の落とす影のやうに、
他の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……
私は希望を唇に嚙みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫、生きてゐた、私は生きてゐた!
……でも、大人になってからは夏は苦手。しんどい。
薬になるか、毒になるか。
この日記についたコメントを読んで、
あー、これについては簡単にはお返事できないなー、と思いました。
もちろん、コメントをくれた友人も、分かってて書いてるに違いないんですけどね。
この場合、おそらくポイントは2つあるんだと思いました。
1つは、スピ的な内容について。
もう1つは、言葉について。
スピ的な内容については、友人も言ってるように、(私自身も含めて)「はき違えてるよね?」って場合も多いんだろうな、と思ってます。
なぜかというと、「その人が今までどんな生き方をしてきたか」という「その人そのもの」が、「この言葉・文章をどのように受け止めるか」に如実に現れているような気がするからです。(……ある意味、ブログ等でこうやって文章を書いてるってことは、丸裸になってるようなもんだってことですね。うはー。)
今、目にした耳にした、この言葉この文章を、どこまで深く理解できるか、ということは、誰かに教えてもらえるようなものではなく、やはり、人生に対してどれだけ真摯に向き合っているか、の度合いによって、理解する力が少しずつ研ぎ澄まされていくと思うのです。
ですから、スピ的内容、宗教的内容を語った言葉・文章というのは特に、万能薬にもなれば毒にもなりやすい危険性の高いものだと思ってます。
また、これは実に興味深いなぁ~、と思うんですが、特に人間の成長って、ガンガン真っ直ぐな一直線を描くのではなく、どちらかというと、螺旋状に上昇していくことが多いような気がするのです。
そのため、相手が向こう岸にいるように見える時に、かなり距離を感じたりするよなー、と思うのです。
そして、あっちが周回遅れなんだろうと思っていたら、実はこっちが周回遅れだった……なーんてことも実は多々あるのではないか、と思います。
それから、言葉について。
これは、スピとか関係なく、ふつーの会話でもそうですが、同じ言語で話していても、「自分の言葉」と「相手の言葉」が「同じことを意味している」とは限らない、ということを実はものすごーーーーーーく肝に銘じていないといけないんじゃないか、と思うのです。
それは、自分の意図したとおりに相手が受け取るとは限らない……というより、ほとんどの場合は何かしらズレがあるに違いないってことでもあるし、
そしてそのズレはどんどん蓄積されて、気がついたら全く違うものを見てる…ということも案外多いと思うのです。
てなことで。
人間なんてーのは、お互いにすぐズレるしブレるし、でもってその相対性の中で世界を観るんだから、そりゃ厄介ですよね。
大変なワークをしとるもんなんでしょうなぁー。うはー。
んでもね、見てりゃ分かる、ってことも真実の1つだと思うのですよ。
相葉ちゃんを見てたら、「あー、そうだよねー。」って響いてくるものがあって、それは素直にそうだと思えるものだったわけでね。
ややこしいけど、シンプル。
シンプルだけど、ややこしい。
厄介だけど、面白いですね。ほんと。
目標ってことで。
傲慢であってはいけない、謙虚に謙虚に…と思っていたら、ただ自分を卑下してただけだった、とか。
なんか、そんな感じ失敗をいろいろやってきたよなー、んでもって今もやりがちだよなー、と思ったりしてます。
でも、なんてゆーか、やっぱきっと答えは「すげーシンプル」なんだろうな、と思いました。
今朝の「はなまる」に出てた相葉ちゃんを見てて。
あー、相葉ちゃんって、「大好きな人」がいっぱいいるんだろうなー。
ってなんでか感じて、そんなふうでありたいなー、と私も思いました。
そいでもって、今の嵐がここまで来たってのも、目の前のことを1つ1つ頑張ってきた積み重ねだ、って、ふつーのことを言ってたんだけど、でも、きっとほんとーーーにそうなんだろうなー、って感じたんですよねぇ。
大好きな人がいっぱいる人。
目の前のことを1つ1つ頑張る人。
私もそんな感じでいってみよー。
美人顔に対する羨望というかなんというか。
母方の祖母は、当然ながら私が認識し始めた頃にはすでに「おばあちゃん」になっていたのですが、それでも昔は美人さんやったんやろうなー、と分かる感じの人やったし、
母方の叔母はほんとに美人で、おっぱいもバボーンとデカい人やったし、
親父さんも若いころはハンサムさんの部類に入ってたな、って人やったのに、
オカンはちょいとぶちゃいくなのです。
(親父さんは『ちょとブー好き』やったらしい。この傾向は弟2号に受け継がれている模様。ちなみにオカン以外は現在みんなあの世の住人。)
んで、私もびみょーにオカンのテイストをもらっていて、いいパーツももらっているけれど、なんかそれらが100%魅力を発揮できずに、どっちかっていうと台無しちっくになってしまっとるのです。(遺伝子ってスゴいなー、とほんとに思う。まさに組み合わせによる創造なんだよねぇ。)
でね。
40代で死んだ美人の叔母は、未婚のまま近くに住んでたんで、うちらをよく可愛がってくれてたのですよ。
そんな美人さんを生まれた時からしょっちゅー見てたから、自分が年頃になって、「……あれ?」って気づいてからは、人間は外見やないぞ中身やぞ、と分かってはいても、やっぱり叔母みたいな美人顔に生まれてたら良かったのにーーーー、って思うことが多かったです。どしてもね。
それでも、いつしかうら若き乙女の時代も過ぎて、出産して育児なんぞに勤しんでいると、自分の顔のことはそんなに気にならなくなり、このままおばちゃん→おばあちゃんになってくんかなー?と、なーんとなく思うようになってたんですよ。
気は楽だよね。ある意味。
けれども。
そうは問屋が卸さなかった。
シワやたるみにある時ハッ!と気づいて、なんとかせにゃ~~、いつどこで松潤とバッタリ会うかもしれへんのやで~、と(非常にバカバカしいことを)思い始めてからは、またあの「あーあ、もっとオバチャンみたいな美人顔に生まれてたら良かったのにー。」がムクムクと湧いて出てきたのです。
……こりゃ自分で思ってたより根深いなぁ。やれやれ。
顔に出てるのか?
名古屋に転勤になって、身体が…というか、心身症が一気にヒドくなり、
外でご飯食べるのも怖かったし、美容院も怖かった時期がありました。
でも、美容院には行かないとねぇ~。ぼさぼさはイヤンだからねぇ~。
ドキドキしつつも行ってました。
(と、まだ最低限の見かけのことを気にかけるくらいの気力は残されていた。)
子どもを産んでからは、また別の意味で美容院で時間かけてらんなくなったし。
てか、美容院に行く時間の確保が難しかったくらいだし。
すると、必然的にシャンプー・カットだけとなります。
パーマなんてかけてたら時間が倍以上になっちまうからな。
(カラーリングはもともとほとんどしない。伸びてきて根元の色だけ違うというのが美しくないからイヤ。)
んでもって、そいえばずーーーーっと前髪が無いのですよ。
真ん中やや右のところで、パカっと分かれるんで、前髪も伸ばしたスタイルが基本となってました。
でも、3月末に入園・入学の前にってことで美容院に行った時には、いつものスタイルじゃなくて、前髪を切ってもらいました。
なんでかっていうとーー、残念なことにー、眉間の皺が知らない間に深い皺になっててぇー、額にも横皺がすぐに出るようになっててぇー、ちょっと前にそれに気がついてぇー、隠さなきゃ!と思ったわけでぇー……。
しくしく。
地道にマッサージを続けてなんとかしようとはしとるんですが、いかんせん時間が無い……ので、前髪を作ったわけであります。
薄めだけど。
そしたらね。
なんかね、印象が全然違うのですよ。
不思議なもんですねぇ。
前髪がちょっとあるか無いか、だけなのに。
でもって、この前髪にしてから、ふわ~っとしたパーマ(決しておばちゃんパーマではござらぬよ)かけてーなー、なんて思ったりもして。
そんな年か?そんなキャラか??と自嘲気味にすらなりそうなんですが、なんかそんな気分になるんですなぁ。
(んでも、やっぱ面倒なんでパーマしないと思うけど。)
それにね。
入園式だーってことで、久しぶりにちゃんと化粧してみたら、出産前まで気に入ってた色系の口紅だとなーんか似合わないんですよ。
で、今まで買ったことないような、薄いピンクとかだと落ち着くんですよ。
年取ったせい?
……もあるけど、なんかそれだけじゃないような気がするんですよねぇ。
前髪のことにしても、口紅の色にしても。
んんー。
やっぱ、顔に出るんだよな。きっと。(…なにが?)
何を手放していいのかが簡単に分からないから苦しいんだよね。きっと。
ひのこ☆ねーさんの日記にリンクしてあったブログの過去記事をチラリチラリと見ていたら、
こんな記事がありました。
http://mihoh.seesaa.net/article/129584492.html
アセンションの最終過程でツイン・フレームの存在が現れる…のかぁ。
へー。
アセンションという言葉を知った頃は、うおーーー、って感じになってましたけど、今はなんてゆーか……
「なるようになるさー。」
って感じになってます。
だって、よく分からんですから。
いや、それは決して後ろ向きの想いではなくて、アセンションってのに囚われてても仕方がないし、
今の自分が背伸びをしても仕方がないと思うからです。
とは言っても、
「さっさとどんどん手放していこうね。」
と、お尻を叩かれている状態なので、あまり呑気にしてられんのかもしれないんですがね。
しかし、
その「手放す」とか「魂を、自分を癒す」というのが、これまたあまりにも言葉が抽象的過ぎて、
具体的にどうしたらいいのか、ってーのが分からないことが多いです。
それでも分かることはあって、
「なにかにしがみついている」とか、「なにかを失うことを恐れている」とか、そういう状態は自分を疲弊させるだけだろうな、ってことです。
(ちなみに、しがみついてることと、『ほんとうの信仰』は違うけどね。)
そして、自分がしがみついている「なにか」が、実は何なのかが自分ではなかなか分からないところが厄介だよなー、と思います。
そんなことをたらたら考えていたら、ふとドラゴンズのことが頭に浮かびました。
私は、めっちゃ熱狂的なファンというわけではないけれど、いちおー名古屋文化圏で生まれ育っているせいで、やはり中日ドラゴンズが負けるとあまり気分は良くありません。
特に巨人に負けるとムカっとします。
もしも、私にそーゆー「ファン意識」が無かったら、スポーツニュースを見ていてもニュートラルな意識でいられるのかもしれません。
でも、ニュートラルな意識でいることが大切だというのなら、さまざまな愛着や愛情は単なる足枷でしかあり得なくなるわけで、
それはなんてゆーか………
潤いがない
って感じがします。
恋愛なんてその最たるものだと思います。
けれども、サッカーファンの「フーリガン」みたいになっちゃうのは絶対にヤバいってのは明白です。
じゃあ、やっぱり「熱狂的ファン意識」を捨てることで、平穏が訪れるのかというと、多分それは違っていて、
手放さなければならないのは、「熱狂的ファン意識」ではなくて、「相手を尊重しない自己中心的意識」とか「暴力性」の方ですよね。
「ファン意識」がいけないんだー、って無理やり捨てちゃっても、別の場面でやっぱり暴力性が顔を出しちゃいますもんね。
でも、人生の、魂の「いらなくなったものを後生大事に抱きしめている」という問題に関しては、こんな分かりやすいものではなくて、
なにが要らないものなのかが分からず、何をどうやって手放していくべきなのかが全く分からない、ということだらけなのかもしれません。
アセンションが目的ってわけじゃないけど、
前向きに人生のさまざまな出来事を堪能するとか、
苦しかった過去すら「糧(またはネタ)」にしてしまうとか、
現在の大変な物理的状況や精神的状況にも心が折れないで、しっかり立とうとするとか、
そーゆーありきたりなやり方を信じて続ける努力を続けていれば、一人では分からなかったことも誰かが教えてくれるかもしれないし、
それこそ霊的存在ががしがし導いてくれるかもしれないし、
そしたら、いつかはアセンションしちゃうんだろうなー、って、すげー呑気だけど、そう思うんです。
そいえば、ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」って歌にありますよね。
あなたに逢えた それだけでよかった
世界が光に満ちた
夢で逢えるだけでよかったのに
愛されたいと願ってしまった
世界が表情を変えた
世の果てでは空と海が交じる
って。
苦しみって、やっぱり自分で生み出してるんだなー、としみじみ思います。
でも、愛されたいって願うことがいけないわけじゃないと信じたいです。
じゃあ、ここで自分はこの苦しみを甘んじて受け入れるのか、
愛されたいという願いを手放すのか、
それとも他の道を見いだすのか……。
でも、きっと、誰のせいにもできないことだし、誰かに対して感じる己の感情は、すべて自分へ向けられていることなんだ、って思えば、
そこから道は見えてくるような気がするんですが、どうなんでしょうね……。
そりゃ、マイドラ・時環をハッキリ認知したいという気持ちはあるが。
……あるんだけど。
でも、できないのはできない理由があるわけで、
ジタバタしてなんとかなるものでもないよなー、と思うのです。
でもって、それを「他人にどうにかしてもらおう」というのは、やはり基本的になんだかちょっと違うよなー、とも思うわけです。
もちろん、ヒーリングを通して、そういう回路がキレイになっていくことで、だんだん認知力がアップするとか、ってのもアリだと思うんですよ。
けれど、そういう場合もやっぱり「意図」がどこにあるか、というのが一番の問題だと思うんですよねぇ…。
というのが、あくまで私の考えなんですが。
シエルさんの日記を読んで、ちょっといろいろ思ったのです。
http://plaza.rakuten.co.jp/keanu/diary/201002240000/
いろんなスピ的情報が、その気になればあちこちで入手できるようになってきて、
頭でっかちになりやすいのは、みんな同じだよな、と思うんです。
そして、見えない世界に憧れを持ってしまうのも、仕方がないよなー、とも思うんです。
精神的にせよ、肉体的にせよ、何か苦痛があって、そこから
「人間ってなんだろう?」
「生きるって何だろう?」
「神様がいるなら、なぜ応えてくれないんだろう?」
「私たちは、どこから来て、どこへ行くんだろう?」
という根源的問いに目覚め、その答えを探す旅の中で、「スピ」という領域に入っていったならば、
おそらく、「浮足立った状態」には、なかなかならないような気がするんです。
その問いそのものが、その苦痛そのものが「アンカー」のようになっているような気がするんです。
(実際、私は観音様に、私の肉体的苦痛はそういう役割を持っていると言われたことがあるし。)
でも、そういう「アンカー」を持たずに、「非日常」のファンタジーに対する憧れだけが大きくなっていったら、
カンタンに地から足は浮いてしまうような気がするのです。
スピ的情報は頭の中でいっぱいなのに、
「アンカー」も弱くて、人格的にとても未熟な点があるとしたら、
そんな人が「上」に行ったり、エネルギーワークをしたりしても、
さらにバランスが悪くなる、という場合もあるんじゃないかなー、と思ったりもするんです。
そうすると、自分自身だけじゃなくて、周囲がとても大変になるかなー、と思うんですよね…。
最終的には、「外」に何かを求め続けても、
「内」に戻ってくるから、どんな道を辿ってもいいんでしょうけど…。
でも、そーゆー場合、シエルさんが「お断りする」というのも当然だよなー、とも思うわけです。
ヒーリングとか、セションとかを、他人に対してする人は、
そーゆーこともちゃんと見極めないとアカンということなんでしょうね。
(天使の絵だって、同じことだよね!)
「スピ」の間口が広がってきた、ということで。
あけましておめでとうございます
さて。今年を振り返ってみると。
あっと言う間に12月30日っすよ。奥様。
えーと。
今年は……。
そうか。
民絵屋をオープンしたんだよな。
おかげさまで、70枚ちょっと描かせてもらいました。
あ~~~~、ほんとーにありがたいことです。
感謝感謝。
それからー。
お父ちゃんがNPO法人にお勤めし始めて、自然と私が子供たちを1人で面倒見なくてはならん時間が格段に増えて、ちょっと大変だったけど、
でも、おかげで、苦手な車の運転もほとんど毎日するようになって、ちょっと慣れましたわ。
とは言っても。
引っ越してきて数年だけど、まだ●●市の全体がちっとも把握できなくてさー…。
カーナビを見ながら運転なんてとてもできないし~~~~。
というわけで、近所をうろうろしとるだけなんだな。
うはははは。
息子は、大人の歯が生えたし。
娘はびっくりするほど言葉が増えたし。
オカンが入院というハプニングもありましたなー。
あ。
そうだ。
一年越しでやっと親不知を抜いたんだった。あたし。
それからそれから。
えーと。
珠創り会とお祈り会をしましたねぇ。
みなさんのおかげで、たくさんの方が参加してくださって、ほんとに驚きましたよ~。
ありがとうございました。
そいえば。
今週の筋トレの山羊座なんですが。
http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/week/091228capricorn_w.html
この中に、
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誰かが貴方のことをどう考えているのか、
それをくまなく知ることができるかもしれません。
人は、他人にとっての自分の重みを
どうも、軽く考えがちだとおもうのです。
自分が相手にとってどんなに強い影響力を持っているか、
それを、知らなすぎることが多いような気がします。
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と、あったんですね。
確かに、自分が誰かにどれだけの影響力を持つのか、というのは、
家族やとても身近な人以外には、そんなもん感じませんよね。
でも、ああやって、みんなでお祈りをしたりすることで、
『他人にとっての自分の重み』というものを、確かにちょっと感じたりもしたんですね。
人と比べてどうか、という「優越感」とは違ってね。
優越感や誇大妄想ではいただけないけれど、でも自分を小さく限定するというのも、同じくらいいただけないことなのかも、と思ったのでした。
それは、誰にでも言えることだよね。うん。
で、結局は、五井先生ふうに言えば、
「天命を信じて、人事を尽くす」
なんですけどねー。それしかないんだもんなぁ。
のりすけふうに言えば、
「天使がアレンジしてる人生」だし。
うむ。
というわけで。(どういうわけだ?)
今年もいろいろありがとうございました。
来年もまたおつきあいくださいませ。
よろしくお願いします♪
らぶらぶ[emoji:v-238]