信頼する、ということ。

昨日は、保育園の保護者懇談会もあり、そして小学校の特別支援クラスの保護者と校長先生との会合もありで、午後は忙しかったです。
保育園の方は、まったりとしていて、なんとも和んでおったのですが、
小学校の方は、やはりそういうわけにはいきませんでした。
いろいろあるよね。やっぱり。
でも、親がどういうふうに感じてるとか、考えているとかを、他の(支援クラスの)父兄と校長先生に伝えられる場を設けてもらえるというのは良いことだよなー、と思いました。
で。
その会合の中で、とある(キレイな!)お母さんが、ものすごくハッキリとご自分の意見をおっしゃっていました。
ええ、キツいこともね。
その意見の中に、支援クラス担当のとある先生のことは能力が低いし信頼できない、と、ものすごくぶっちゃけたことをハッキリ言われてました。
うおおおおおお!
このお母さん、美人さんで優しそうなのに、ハッキリ言うな~。
すごいな~~~。
と、のらりくらりな私はビックリしました。
だからと言って、彼女がハッキリ言うことは悪いことだと思いませんでした。
それがクレームではないってのは分かりましたもん。
(それに、親がハッキリ言えるって大切だと思うし。)
その先生って、主に息子ともう一人高学年の子の勉強を担当されてるんです。
なので、この2カ月ほどの間の先生と私との間のちょっとしたやりとりから、私も
「あー、この先生は、ちょっと頼りないなー。」
と、感じてましたから。
でもね。
彼女と校長先生とのやりとりをボケーっと見ながら、いろいろ思ったんです。
親としては、彼女の気持ちはすごーーーーく分かるんです。
そして、どんな親でも、自分の子どもの担当となる先生は、「先生能力」が高くて、性格もいい人がいい、って思うハズです。
けれど、そんな優秀な先生ばかりじゃないのも事実。
いろんな子ども、いろんな親がいるように、いろんな先生がいますからね。
そうは言っても、やっぱり子どもをよりよい環境に置いてやりたいと思う親心は絶対に否定されるものじゃないです。
(モンスターペアレントはアカンけどな!)
難しいことだよなー……と、思いつつ。
思いつつ、会社員時代のことをいろいろ思い出しました。
「あの上司は全然ダメやよねー。デキへん人やん。」
と、同僚と愚痴っていた私とかを。
デキる人はスゴい。
デキない人はダメ。
会社という「利益」を追求していく場においては、特に「デキない」ことは「悪」になりやすいよなー、と今さらながらに思います。
でも、そうだとしたら。
「デキない先生」をダメだと切り捨ててしまったら。
それって、知的障害のある自分たちの子どもたちも「デキない人」という見方をすることになるよな……と、思ったんです。
デキない人をダメだと切り捨てる社会を作っているのは私たちなのに、
効率主義で知的障害のある人に働く場所を与えない社会はダメだ言っているのも私たち。
じゃあ、「今の私」がすべきことは?
それは、多分、先生を信頼することだよな……。
と、やっぱりそう思いました。
私がダメだと思う先生は、
反社会的性格であることはもちろんですが、
なにより、息子をかわいがってくれないとアウトなんです。
あの子のあの笑顔を見ても、ちっともカワイイと思えなくて、ただいかに勉強を進めるか身辺自立を確立させるかばかりを見ている人だったら、アウトです。
「子どもってムカつくことも多いけど、でもカワイイんだよなー。」という心がその人に「先生」という職業を選択させたのであって欲しいのです。
それは、デキるデキないよりも、私にとっては一番重要なことなのです。
担当の先生は、確かにものすごく不器用そうな人ですが、息子の笑顔をカワイイと思ってくれてるとは思うので、
息子との時間の中から、何かを先生も見つけてくれたらいいなー、と思っています。
私が「信頼する」というのは、そういうことです。
てなことを、ぼけーと考えていたら、校長先生が私の方を見て、
「(○○先生は信頼できないという発言を聞いていたら)あまりいい気持ちはしないですよね?」
と、気をつかって話をふってきたので、
ぼけーっと考えていたことをつらつら話させてもらいました。
そしたらね。
今朝、あの美人のお母さんからお手紙をもらいました。
私の言葉に、何かちょっと感じたことがあったようです。
メアドもいただきました。
愛情深くて、子どものためにハッキリと意見がいえる彼女は立派だとほんとうに思います。
そして、違う考え方に対しても何かを感じ取れる感受性を持ち、それを伝える行動力があるのも素晴らしいと思います。
私の方こそ見習わなアカンがねーーー!

「贅肉は財産です。」

2カ月くらい前だったかな…?
テレビのチャンネルをなにげに変えてみたら、テレビショッピングで矯正下着の説明をしていました。
その商品の説明をしてた女性社長さんが言いました。
「贅肉は財産です。」
多くの女性の体型を見てきた彼女は、矯正下着で贅肉を移動させれば、「見た目が悪い体型」がいい感じになるのだから、贅肉は財産だ、と言い切ってました。
その時は「へー。」としか思わなかったんですが、ある時この言葉をふと思い出しました。
そしたら、
そっか。
マイナスだと思ってることだって、それは実はマイナスじゃないってことはたくさんあるんだろうな。
と、するっと自然に思えたのです。
ポジティプに考えろ、とかそーゆー言葉はなかなか私の中に入っていかなかったのですが、この言葉はするっと自然と分からせてくれました。
「視点の移動」ということについて。
無理矢理に頭で「こーゆー問題にも、意味があるに違いない。」と言い聞かせるのとは違って、
「見かけ」の向こうにある「実体」がどこらへんにあるか、がなんとなく分かったような、そんな感じがしたのです。
もちろん膝に負担がかかりすぎるとか、生活習慣病になるほどの「財産」はどこかに寄付でもして、ちょっとスッキリした方がいいけどね。

五感にちょっと毛が生えたくらいでも、きっと丁度いいんだ。

ちょっと思い当たるフシがひょっこり出てきたんで、
金星とマルデックのこと、検索かけてみたんですよ。
そしたらねー、
いろんな人のいろんなお話があってねー、
みんななんかちょっとずつ違うのね。
(アモラの本と「フラワー・オブ・ライフ」に載ってることでも差異がかなりあるけど、さらに混沌とした。)
いわゆるチャネラーさんとか、自分の記憶とか、ハイヤーさんに教えてもらったとか、アカシックにアクセスしたとか、いろいろあるんだろうけど、
けっこーバラバラで、どれが本当なのかなんてさっぱり分からないんだけど、
それでも、遠い星の文明人たちがこの太陽系に入植してきた、というアウトラインは同じなんだよね。
とりあえず、それはアリっちゅーことにしときました。
しかし、ほんとーにいろいろなバリエーションがありますね。
あたしね。
相棒ののりすけちゃんみたいな生まれつきのサイキッカーじゃないし、
前世でもかなりお世話になったシエルさんのような凄腕ヒーラー(←精進の結果!)じゃないし、
娘さんと一緒に読者参加型のいろんな世界を展開してるじぇいど♪ボスみたいに短期間でガンガン変容してるわけじゃないし、
宇宙ステーション等の「上」にマイドラ「時環」に連れてってもらっても、ぼんやりしたイメージしか浮かばないし、
なんてゆーか……
みなさんほどの体感・実感・リアリティが五感以上の感覚においてはなかなか感知できないのですよ。
ひじょーーーにゆる~~~~いのです。
ま、たまにミカエルとか観音様とかファウとかが脳内会話でガッツリ語りかけてくれることはあるけど、それはあくまでめっちゃ個人的なことについてだしね…。
で。
そうであるということは、つまり、大なり小なり「世界」を知ろうとした場合は、いろんな人の話を読んで、「へー。」と思うことがほとんどだってことです。
自分がリアルに感じとった「情報」というのは、ほんのほんの少しで、
あとは、他の人の言葉を、「直観」なり「思考」なりで、自分の中で取捨選択して落としこんでいって、少しずつ「形」を構築していく……という作業を常にしていかなければならないわけです。
そのため、「これが私の感じた真実です。」と迷いなく言えるほどであればなぁ~……、と、やはり心のどこかで思っていた自分がいたんですが、
このところ、なんとなくなんですが、提示できるハッキリとした根拠とかは無いんですが、
こーゆー自分でいいんじゃないの?
と、感じるようになってきました。
『いろんなことが視えて、いろんなことが分かって、人に示す』という役割ではないのなら、
過不足無いんじゃないか?と、思えたのです。
てか、そーゆーのは私の魂にしたら×なのかも、と、ほんとに根拠無しでそう感じたんですよね…。
だから、上の自分(タミエルとファウとミルラ・ム)が上の誰か他の人とリンクしながらリアルタイムで業落としの物語を紡いでるってことがほとんど無いんだなー、と、なんだか妙に納得したりしました。
(上で宴会したり、というのは別ね。あれはお遊びだから。)
上のことがもっとハッキリ認識できればいいのになー、とか、
五感以上の感覚がもっとクッキリしてきたらいいのになー、とか、
いろんな人の本やらネット記事やらを読んでると、つい思っちゃうことがどうしてもあったけど、
多分、ほんとに、過不足無いんだろうな、と心の奥の方から思えたのでした。
もちろん、これからどうなっていくかは自分でも分からないけどね。
……しかし、スピ的太陽系史のバリエーションについては、もちょっとスッキリして欲しいなぁ。

昔からそうだけど、自分のことってさっぱり分からん。

この1週間ほどなんとなくぼんやり考えておるのですよ。
私って、何がしたいの?
って。
今までも人生の中で何度も何度も自問してきた問いではありますが、今までよりももっと深いところでの問いとなってます。
そうなんです。
同じ問いでも、今までとはちょっと違うのです。
なんのために生まれてきたの?って問いじゃなくて、
何がしたいの?って問い。
別に何かしたいことなんてなくて、問いはいつも虚無の海に手をつっこむような感覚になるけれど、
でも、それもアリなのかも、と、なんとなく感じるのは、なんでなのかな。
霊の、魂の、無意識の、意識の、「私のすべての私」がしたいこと、求めてることって、何なのかな…。
ま。
とりあえず洗濯物畳んで、夕食を作ろ。
私、お母ちゃんだもん。

生きたいように生きている。

たとえば。
自律神経失調がヒドかったし、発作持ちだし、
そのうち広場恐怖にもなっちゃったし(←まだ完璧には治ってない)、
冷え性ヒドいし、お腹はすぐに痛くなるし、その他いろいろ不調アリ。
心療内科とかではどうにも頭打ちだったし、漢方薬でも完治には至らないし。
まー、なんだ。
いろんな理由があるんだろうなぁ。
生まれつきの体質・性格ってことは、そーゆー家系的カルマとか、
結婚した先のカルマとか、個人の「魄」のカルマとか、「魂」のカルマとか……。
エネルギー的な問題とか、あれやこれや。
なんかね、なんとかしたかったのよ。
やりたいことができない。
生きたいように生きたい。
って思って、焦って嘆いて落ち込んでもがいて耐えて。
理由を見つけ出して、そいつの首根っこ押さえて、「解決」したかったのよ。
もちろん今でもその気持ちはガッツリあるよ。
痛いの苦しいのって絶対イヤだし。
でもね、なんかね、
あー、生きたいように生きてるんだな。あたし。
って、ふいに、なーんとなく思える時があるんですよ。
心の奥の奥。
魂に近いところで意図してるように生きてるんだなーって。
だから、「理由」なんて、どーでもいいや、って。(←なげやりな意味じゃないよ。)
……たまにね。腹の底からそう思える時があるんだよね。
心の奥の奥の意図と表層意識の自分の想いとが反するからジタバタするわけだけど。
でもさ。
同じような状況がいつもいつも繰り返してやってきたり、
同じような感情がいつもいつも繰り返してやってきたり、
ってのは、やっぱり自分がそうやって生きたいんだよ。
なにか理由があって。
だけど、理由を探すだけじゃ、多分変わらないんだよね。
迷って迷って悩んで悩んで、理由を探して探して探しつくして、どこかですこーんと「……もういいや。」(←しつこいが、なげやりやあきらめとは違う。)って思えたら、
やっとそこで「リリース」ってことになるのかな、と思うのですよ。
私の場合はまだ「プチプチ・リリース」というか、超・一時的というか、そんな感じなのでまだまだだけど、
そういう境地にたまーーーになれるようになって、はじめて「そっか。」って分かった気がして。
いや、ほんとに「気がする」だけなんだけど。
だからさ。
いろんな人が、同じことの繰り返しにうんざりしてるとは思うけどさ、
まだまだ足りないのかもしれないよね。
もっともっと真剣にジタバタしないと、「もう、いいっか。」って手放せないものなのかもしれないよね。
いろんなことを試して挫けて、いろんなところを探して失望して、いっぱい怒っていっぱい泣いて……って、
それが実は一番の近道なのかもしれないよね。
苦しいけど。
いろんな言い訳を探して迂回したり、(上滑りすような)ポジティブな言葉に逃げたり、って中途半端なことするよりも、
がっつりジタバタする方が心の奥の奥の意図に合うような気がするんだよなぁ……。
だって、そうやって生きたいんだろうから。
やっぱ、私たちは生きたいように生きてるような気がするなぁ。

なつかしい人、なつかしい光景。

大学時代、所属してたサークルは大所帯でした。
大好きな先輩もいっぱいいたし、私自身はダメダメだったけど、同回生のみんなのことはなんやかんやで好きだったし、大好きな後輩もいっぱいいたし。
で、その後輩の中に、ダイサクって子がいて、1学年下の2歳年下の男の子。
なーんか彼のことがすごーく好きでした。
私は大学1年の冬に身体を壊してから、サークル活動にもちょこっとしか参加できず、ボックスでぐだぐだオシャベリしてるだけの先輩でしたから、彼にしたら先輩というより、ただの女友達みたいな感覚だったのかもしれません。
なんにせよ、仲良しでした。
しかし、私も就職し、彼も大学院卒業後に就職し遠いところに行ってしまったので、社会人になってから会ったのなんて、ほんとに数回しかありません。
それでも、たまに「元気かなー?……元気だろうな。」ってふと思う時があります。
さて、今朝。
起きる直前に見てた夢に、彼が出てきました。
あ、彼以外にもいろんな友達が出てきましたが、いかんせん夢なのでめちゃくちゃな状況でした。
なので内容はさっぱり覚えてないんですが、起きる直前に彼と話をしてるところを見てたので、起床後、
「うおー、久しぶりに会ったな~。うれしーなー。」
と、そんなふうにすら思いました。
で。
今日の午前中。
なにげにたまたまテレビをつけたら、ちょうど全国放送のNHKの番組に我が母校のキャンパスがどかーんと映っていました。
新入生の勧誘のための立て看板も並んでいて、私が所属していたサークルの名前もどかーんと映っていました。
(でも番組の内容には興味無かったので、チャンネル変えちゃった。)
めっちゃなつかしーーーーー。
……んだけど、今朝の夢といい、テレビといい、なんかお報せしてる?なーんて思っちゃいますよ。
こーゆーのもシンクロのうちに入るのかしら。
てなわけで、何かお報せがあるなら、もちょっと具体的にお願いね、と天使ずに言っておきます。そうします。

心の澱も排水口のドロドロも溜まってしまうものだ。

いっこ前の日記に、takakoさんがコメントを入れてくれました。
驚いたよぉぉぉぉぉぉぉ。
で。
そのコメントを読んでいて、ちょっとホッとしました。
というのも、実はこの2~3カ月ほど、ちょっと「澱」みたいなものが溜まってんなー、という感じだったんです。
天使の絵に対しての自分の気持ちっちゅーか、なんちゅーか。
もちろん、絵を描いてる時は今までと変わらないんですけど、なんかね、ほら人間って欲が深いでしょ?
向上心って言えば聞こえは良いんだけど、「欲」が全くないかというとそれは嘘なんだなー。
てことで、takakoさんのコメントを読んでたら、
「あー、初心に戻ればいいんだー。」と、ふと楽になったんです。
よかったよかった。
……でもね。
天使の絵についての「澱」は取れたけど、今朝は起床時からなーんとも気持ちが重かったんですよ。
全般的な「澱」みたいな感じ。
こーゆー日はダメですなぁ……。
ドラッグストアのレジではすげー待たされたし、スーパー行っても駐車場でまごまごしちゃうし、帰り道も何故かいつもより車の通りが激しくてまごまごしちゃうし。んでもって買い忘れいっぱいだし。他にもこまごまといろいろ。
なーんかいつもよりガクンガクンって躓くような感じ……。
でもって、洗濯機の排水口が詰まって溢れちゃうし。
ウチは借家なんですがね、洗面台・洗濯機周りが狭いためにお父ちゃんお手製の棚を洗濯機のところに設置してるんです。
なんとかギリギリ。かーなーりギリギリ。
そのため、排水口をもっとマメに掃除したくてもなかなか難しいのですよ。
棚を動かさないといけないので大仕事になっちゃうんです。
で、排水口が溢れてきた時に慌てて掃除する……というパターンなんです。
いつもはデカい棚や重い洗濯機をお父ちゃんが動かしてくれるんですが、お父ちゃんを待ってたら遅くなっちゃうし、仕事で疲れてるのに手伝わせたら絶対に不機嫌極まりないだろうから………ってんで、どうせ上手くモノゴトが進まない日なんだから、頑張って排水口の掃除してスッキリするかーーー、と始めてみました。一人で。
キツかったです。洗濯機をパンから半分移動させるのが特に。
ドラム式は余計に重い気がするっす…。
それに、ドロドロになってたパンも排水口もかなりの強者でした。
(手洗いでまず泥汚れを落としてから洗濯してるんだけど、やっぱりどうしても…ね。お父ちゃんが畑仕事するし、息子は保育園時代なんて毎日ドロドロだったし。でもってウチのドラム式は小さいゴミはスルーっていう仕様らしいし。)
棚がなけりゃもっとマメに掃除できるから、ここまでにはならないんだけど、だからって棚を外したらすご~く不便だし、んじゃ半年に一度とか決めて掃除するっかってゆーとそこまで立派な主婦じゃないし、それより庭の草を抜かなきゃならんし、ああこの1週間でぐーんと草が伸びてきたよなー、とうとう蚊も出てきたし、やだなー………と、ぐるぐる考えながらドロドロと格闘していたら、
なーんか、人間もこんなふうに汚れが溜まるものなのかもなー。
掃除しにくーいっちゅーか、制限バッチリっちゅーか、詰まりバリバリっちゅーか、
そんな感じがデフォルトで、こうやって汚れが溜まっちゃうんかもなー。
だったら、この場合、棚を外すのが一番いいのか??
でもなー、心もきっと棚にいろ~んなモノが積んであるだろうから、まずそれを整理せんとアカンのか?
ああ、んじゃ、やっぱりセルフヒーリングしつつ「もう不要なものは手放しまーす。」って宣言するとかさ、五井先生のお祈りしながらそのお祈りの中に要らんもんを全部入れちゃうとかさ、セルフヒプノでクリアな自分をイメージするとかさ、そーゆー日々のコツコツ作業が一番大事なんだよなー。
基本をおろそかにしてたら、成長も何もねーよーなー。そうだよなー。
と、そんなことが頭に浮かんできました。
掃除は修行ですな。
というわけで、かなりの時間をかけてキレイに排水口およびその周辺を掃除したら、なんだか心もちょっとスッキリしました。
「澱」もドロドロと一緒にお掃除できちゃったのかもしれんですね。
すると、その後、息子を小学校まで迎えに行ったら、いつもは挨拶しかしない(他の支援クラスの子の)お母さんといろいろ楽しくおしゃべりできたり、
学校に着くまでは雨が降ってたのに子どもたちが出てきたら雨がやんで、帰り道は傘無しでお手々つないで帰ってくることができたり、
娘のお迎えの時もその時だけ雨がやんだり、
スーパーに買い忘れのものを子どもたちと買いに行ったら、いい場所にすっと駐車できたり……と、なーんかモノゴトがすーっと通るようなそんな感じになりました。
文句言わずに前向きに何に対しても取り組めたらそれか一番良いんだとは思うんですが、
「あー、めんどくさーい。いやだー。なんでこんなふうなんよー。」と、文句が反射的に浮かんできたとしても、
やる時にできることを頑張ってやれば、それでもいいのかもー、と思いました。
「デキた人」じゃなくてもいいからさー、って感じで。
あたしね、基本はせっかちなんですよ。
ほんとは、最短コースを選びたい、最大効果を狙いたい、って気持ちがあって、結果を早く見たいんでしょうね。
山羊座だなー、って思いますよ。ええほんと。
結果出せないならやらない、効果的なプロセスを選択して出す結果が全て、てのが山羊座ですもんねぇ。
子育てって「非効率」の極みなので、かなり鍛えられましたが、それでもせっかちな部分は強いんで、いろんな時にそれが顔を出してきて、イライラしたり逆にやる気を全く失くしたりします。
そこらへんの「澱」も溜まりやすいってなもんです。
デキた人、デキた母親、デキた女性のイメージが何かしら自分の中にあって、それからかなり距離のある自分も分かっているから、せっかちな私は自他のいろんなところにダメ出しをしたりしちゃうんですね……。
けど、排水口にドロドロが溜まらないようになんとかしようとアレコレ考えるという方向だけじゃなく、
今の状況を受け入れて、掃除する時に頑張ればいいや、って思う方向もアリだよなー、と思えたのです。
お掃除しながら。
てことで、基本は大事に。
コツコツとお祈りして、セルフヒーリングして、セルフヒプノして、チベット体操しよ。
一足飛びにデキた人になれるわけないんだもん。

この「宇宙」のさらに向こう

以前、ブログかmixiの日記か、その両方か忘れたけど、書いた覚えはあります。
子どもの頃、小学校高学年くらいか中学校前半くらいか……それくらいだったような気がするんですが、
オカンが持ってた高橋信次さんの「原説・般若心経」って本の最初の10ページくらいを何気に読んでみたら、
「ああ、ここに書いてあることって、私、知ってる。」
って思って、それで読むのをやめたんです。
でも、大人になってから本屋で同じ本を見かけて、その時のことを思い出し再び読んでみたんですが、私が何を知ってると、そんなに深く感じたのかが、その記述からはさっぱり分かりませんでした。
そうなのです。
すごく深く、確信よりも深く、そう感じたのです。
あの時。
でも、今の私にはさっぱりわかりません。
ただ、その時に頭にあった物語はかすかに覚えています。
この「宇宙」はある女性の想いの反映であり、その女性が意図したようにデザインされている。
そんな感じの物語でした。
私は5年生の頃から2年間ほど、プロテスタントの教会の日曜学校に通ってたんですが、
その物語に対して、
「(聖書でいうところの)神様も『この宇宙』が生まれたのと同時に生まれたんだな~。」
と、なぜか思ったんです。
聖書で記述されているように神が宇宙を作ったんじゃない、となぜか思ったんです。
神様が作ったけど、神様が作ったんじゃない。
このあたりの感覚をうまく表現できなくて、「同時に生まれた」という言葉になったんだと思うんですが。
とにかく、そんなふうに思ったのです。
……いや、今でもうまく表現できないな。
と、いうことを、3日ほど前にふいに思い出したんですが、
そしたら、某さんの今日の日記にもちょっと似たようなハナシが載っていて、
「ありゃ。」と、不思議な気分になりました。

微妙にズレてるというか、微妙にフィットしないというか。

以前、よよよ姫に教えてもらったブログですが、
とても辛口で、さすがにそれはちょっとキツいっすよー、と思うこともちょこちょこあったけど、
なんか最近になって、前よりも「ああ、そうかもね。」って思うことが増えました。
これ
http://marialetter.blog22.fc2.com/blog-entry-123.html
を読んでいても、
「あー、私も天使の絵を額・送料込みで1万円で売らせてもらってるけどなー。」
って、苦笑いしつつ、
でも、なんとなく……心のどこかで、彼女の言葉そのものに対してではなく、その奥の何かに「ああ、そうかもね…。」って感じるんです。
なんだろう。
お金っていう切り口で語られることが多いけど、それだけじゃなく、なにかが微妙に少しズレてる……というか、
いや、多分、自分以外の人への
「何かが少しズレている。何かは分からないし、そのズレはほんの少しのような感じがするけど、それでも何かが少しズレている。」
と感じるものは、その人がズレてるというよりも、そのまま自分自身のズレを意味しているんだと思うんですがね。
以前は感じなかったものを感じるというのは、自分が変化しているのかなんなのか。
私は前に進んでいるのか、後退しているのか、ただその場でくるくる回っているだけなのか、さっぱり分からんのですがね。
でも、あきらかに「重心」が微妙に変わってきているような、そんな感じがするんですよね。
自分の中の「重心」が。
でもでも、それらをハッキリつかめないので、やっぱりよく分からんなー、という感じのまま………。
ま。いいか。
こういうのも。

私は言い訳名人だなぁ。

昨日、TVのチャンネルを何気に変えてみたら、エンジェルズの松井の特集番組がやっていて、
最後の5分くらいだったけど、見ていたら、ヤンキースの元チームメイトたちが、松井ととても褒めてました。
野球人として、だけじゃなくて、人としても。
でね。
どんな時も言い訳しない、ってチームメイトの1人が言ってました。
すごいなー、って思いました。
私は、すぐに自分にも言い訳しちゃうもんなー。
言い訳なんて、探せばいっくらでも言えるものだけど、
他人に言い訳しないってことは、まず自分にも言い訳しないってことだもんね。
反省、反省……。