まぁ、まずこれを読んでみてくだされ。
http://reisei.way-nifty.com/spiritsoulbody/2011/02/post-0b06.html
なんらかの「仕組み」が宇宙にはあって、それをいろんな人がいろんな言葉で言ってて、
それは確かにそうなんだろうけど、
マクロの話はちょっと横に置いておいて……。
自分がこの人生を生きていく、というところにおいては、自分の魂が選択した青写真の範囲の中で、何が鍵となるのかというと、
「人間ってこう言うものだ。」
「自分はこういう人間だ。」
「世界はこういうものだ。」
という、さまざまな認識なんだろうなー、と思うのです。
(シェルドレイクの言う形態形成場の影響は、おそらくすげー大きい。)
んなもん、スピ的には言い尽くされてることだけど、でも、ほんとうに自分がどういう認識を選択しているか、というのは、案外分かっていないのかも、と思ったんです。
つまり、たとえば、苦しい苦しい…と嘆き悲しんでも、結局はその認識を手放そうとはしてない、ってことです。
手放さないから、それを選び続けてることになる、と。
でね。
昨日のmixiの日記にひの♪ねーさんがコメントしてくれた内容が興味深かったんだけど、
それに照らし合わせると、
その認識を選び続けて苦しんでる人の、その選択した心に寄り添おうという仏の慈悲みたいなところを選択してるのが、ひの♪ねーさんで、
「んなもん、もう要らないよね?もうポイしようよ~。」と言いたくなる自分を選択してるのが私で、
ほんとに「すべて」が選択だなー、と思ったのです。
さっき、横に置いた「マクロ」の視点だと、もしかしたら、個人の選択の責任を、ある程度の規模のグループソウルで負うとかさ、そーゆーこともあるかもしれないんだから、
やっぱり、自分がどういう認識を瞬々刻々と選択し続けているか、を意識してみるのは大切かも。
で、
「その意見は受け入れられない。」と思った時に、自分の認識をチェックしやすいのかも、と思ったりしました。
「ちゃんと引き受ける」の次は、「いいわけするな」…みたい。
自分の人生を、ちゃんと引き受ける……、と、頭ではなく、
身体の…お腹に近いところで思ってから、ちょっと気になることが出てきました。
私はよく自分の日記に
「私はサイキッカーじゃないし。」とか
「私はエネルギーのこととか分からないし。」とか
そーゆーことを文章の途中でちょこちょこ書いてます。
実際にそうなんだけど、そうやってわざわざ書くというのは、
多分対外的には「自分はたいしたことないからね。鵜呑みにしないでね。」ってのを示したいってのと、
自分に対しては「いいわけ」してるんだな~、って、3日前くらいにハタと気づきました。
「私は視えない。」
「私はエネルギーやスピ的な存在を感じられない。」
「私はスピ的知識をあまり持っていない。」
こーゆー、「私は……ない。」というのは、確かにその通りなんだけど、
多分、すべて「いいわけ」なんだろうな、と思ったんです。
視える・視えない、分かる・分からない、知ってる・知らない……に縛られる必要なんて無いんだな、と突然思ったんです。
うまく言えないんですけど、そんな些細なことはぽ~んっと超えてしまって、視えるとか視えないとか、そーゆーことを自分へのいいわけにするのは、もうやめてね、と誰か(って誰だ?)に言われたような、そんな感覚になったんです。
きっとそれは、
たとえば、
視えないなら、視えるように努力すればいいじゃないか
…っていう意味ではないんですよね。
もちろん、自分に対して(できるかぎりの)客観視をしないでもいい、ということでもないし。
そう。
やはり、
「そんなことをいいわけにするな。」
がしっくりくる言葉です。
けれど、それを引き受けて生きる方がいいと思った。
「私たちの天命が完うされますように。」
とお祈りし、ほんとうにそう思っているのだけど、スピ的になにやらお役目やお仕事を求めて努力した、ということはありませんでした。
本やらネットでの記事やらを読むのは「知りたい」という欲求を満たしてただけだろうし、
mixiやらブログやらで日記をほぼ毎日書きなぐってるのはほとんど「趣味」だし。
スピ的な「資格」なんて何も持ってないし、講演会やらワークショップにも出たこともなくて、去年の10月に和尚さんのに参加したのが初めてなくらいな「出無精」なのです。
ひょんなことから天使の絵を描き始めた当初は、
「天使さんたちの道具として使ってください~。」
と思いながら描いてはいたけれど、そのうちそーゆーことすら思わなくなりました。
もちろん、天使の絵を描いて、それでお金をいただけるなんてありがたいと感謝してますし、
エネルギー的なことの感知度が低い私ですけど、それでも描いてる時はある種の軽いトランス状態にあるのか何なのか分かりませんが、1枚1枚から感じるエネルギーの大きさや違いをそれなりに分かってるみたいだと自分でも思うので、その部分においてお金でやりとりできるものとして成立していることに感謝してます。
が、しかし。
それが「お役目」とか「お仕事」だとは、ほとんど意識したことがありませんでした。
天使の絵を受け取ってくれる人たちがいて、
その人たちが「お礼がしたい」と言ってくれて、
「買いたい。」と言ってくれるようにもなって、
んじゃ、ネットのお店を開店するか~、ってことになって……、と、そんな流れだったので、「これが私のお役目だ。」なんて思うわけもありません。
そもそも、私はサイキッカーじゃないし~。
でも。
去年の和尚さんのWSに出たことでご縁をいただいたマイミクの真琴さんが、「人生を引き受ける」という表現をされてるのを読んで、ハッとしたことがありました。
私は、もしかしたら、自分の人生を【ちゃんと】引き受けて生きていないんじゃないか?…と。
(部分的にはガッツリ引き受けてるとは感じてるけどね。)
すると、それに類似する言葉をいろいろ耳にするようになるから不思議なものです。
3日前には、こんな記事を読んだし。
http://plaza.rakuten.co.jp/siriun/diary/201101090000/
それにね。
24時間テレビのメインパーソナリティをやってた時に嵐のみんながそれぞれのメンバーに対して書いた手紙ってのがあるんですけど、私は当時はそんなの見てなくて、
たまたま2日前にゆーちゅーぶでニノと相葉ちゃんの手紙を見たんです。
それを読んで思いました。
嵐のみんなが、「自分自身のために頑張ること」が、そのままファンのみんなを喜ばしてるんだけど、
それって、別にアイドルだけがそうであるわけじゃないよな。
って。
アイドルはその図式が顕著に現れるけど、私たちだってそうなんだろうな、って思ったんです。
自分の人生を引き受けて生きることを選択し、その生き方を粛々としていけば、それはいつか何らかの形で「誰かに喜びをもたらす」ことにつながっていくんだろう、と思ったんです。
自分が「世界の主人公」であることを引き受けるかどうか、
自分の人生を引き受けるかどうか、
を、決めるのは自分しかないですもんね。
「お役目」とか「お仕事」とかを、ことさら求めたわけではないけれど、(お仕事の大小は関係なく)それを提示されたというのなら、ちゃんと引き受けて生きる方が潔いよな、と、昨日ようやく思いました。
多分、私は「母親」としてのお役目は、引き受けてきたんだと思います。
決して「素敵なお母さん」ではないけれど、引き受けてるんだとハッキリ思えます。
それと同じような心境になれるようになって行こうと思います。
「お役目」とか「お仕事」とかを、ことさら求めたわけではない。
いっこ前の日記を読んで、もしかしたら、
「いいよなー。大天使ミカエルの守護で絵を描いてるなんて。そんな使命があって羨ましい。」
と、思った人もいるかもしれませんが、
私は、別にそーゆー「お役目」とか「お仕事」とかを求めたわけじゃないんです。
私は、ただ知りたいと思うことを知ろうとしてただけです。
それは、宇宙の不思議。
それは、地球の不思議。
それは、生命の不思議。
それは、人の心の不思議。
それは、「世界」の不思議。
ほんとうに、ただそれだけなんです。
物心ついた頃から、ずーっとそうなのです。
その道の途中で、今の「お仕事」がひょっこり現れただけなのです。
たとえ、もし生まれる前にミカエルと相談してたとしても、そんなことすっかり忘れちゃってるしね~。
厳密に言えば初夢ではないんだが。
1月1日が終わって、その夜に見た夢、
つまり、1月2日の朝に「あー、夢見たなー。」ってのが、初夢ですよね。
2日も3日も、夢は見たんだろうけど覚えてませんでした。
というわけで、厳密に言えば初夢ではないんですが、今年になって初めて覚えてる夢ってが夕べの夢です。
ビックリして夜中に起きちゃったから覚えてるんですなー。
なんやかんやとだらだらと夢が続きまして、
途中からなんでか、ウチの裏の家に北斗晶さんの家族が住んでることになってまして、賑やかだったんです。
で、およばれした……んですが、その家のとある窓から外をふと見たら、夜空にキレイな丸い光が浮かんでまして、北斗さんが
「UFOじゃねー?」とか言って喜んでたんですよ。
そしたら、これまたなんでか急に私はウチの家族と一緒に車に乗って、どこかを走ってまして、空を見ると、これでもかってくらい「未確認飛行物体」だらけ。
いろんなのがありました。
あまり覚えてないんだけど、光ってるのやら、サンタさんみたいなのやら、いろんな種類のが飛んでました。
空も、いつもの夜空じゃなくて、なんとも不思議な色をして、不思議な雰囲気で、ぐるぐるしていて、まるで異次元へのポータルのよう。
うわ~~~っ、どうしよ~~~、ちょっとコワイ~~~、と焦ったところで目が覚めました。
いやー、んっとに焦ったよ。怖かったよ。
さて。
なんで「北斗晶」が出てきたか、ってのが、自分的には興味深いところであります。
というのも、石井ゆかりさんの対談で印象的なことが書かれてるのを去年読んだんですね。
http://www.bloom-cafe.com/archives/1292
この中で、土星のことに触れてるんです。
**----------—以下、抜粋---------------–**
(紙を数枚取り出して)これ、実在する有名人のホロスコープのサンプルです。私がレクチャーで使ったものです。見方が分からないと、つまらないと思いますが。
──ほう。
土星の位置に注目してほしいんですが、土星って「サターン(悪魔、敵)」ですから、イヤがられる星で、「宿命」の星とか「制限」の星と言われています。でも、実は土星があるところで生きていると、強い力を持つんです。
たとえば、この人は牡羊座のところに土星がある。牡羊座は「戦い」を意味します。つまり、「戦い」のところに土星があるので、あるタイプの占い師の方は、「あなた、戦いが苦手ね」「戦わない方がいいわ」と言うかもしれません。実際、占いをお願いしたらそういう言い方をされた、という体験談を聞いたことが何度もあります。
でも、実はこれ、北斗晶さんのホロスコープなんです。まさに「戦う女」ですよ。この星は、戦うところで生きているんです。
──はい。
もう一つ、対照的で面白いのが、このマリリン・モンローのホロスコープ。マリリン・モンローは「セックス・シンボル」と呼ばれました。
「セクシー」と言えばすぐに持ち出されるのが、蠍座という星座ですが、彼女はこの星座に土星を持っています。彼女自身は「セクシー女優」と呼ばれることが非常にイヤだったそうですけれども、結局、セクシーさで力を持っちゃったわけですね。
──ふんふん。
土星というのは、占星術の教科書を見れば、「不運」「制限」「我慢」「苦手」と書かれています。でも、多くの人は意外と土星のテーマを生きていて、それによって、社会的な力を持っているように思えます。
土星というのは、「権威」なんです。「権威」であり、「時間」であり、「社会的なパワー」。外の世界と接するときの力なんです。だから、守る力でもあるんですが、ある意味、攻撃する力でもあり、つまり、国境線の力なんですね。外に拡げていくことも、内側を固めることもできるラインです。
たぶん、本人の中では苦手意識もあって、難しい分野でもあるんでしょうけど、そっちに向かっていくと、何か社会的な力を持っちゃうっていうのが、この土星なんです。
**----------—-ここまで----------------**
私も、出生ホロスコープの土星は牡羊座にいるんです。それも12室。
でね、戦うことが苦手なんです。というか、すごく怖いんです。
ほんとうは負けず嫌いな部分も大きい気がするんですが、戦うことを選ばないことも多い気がするんです。
なので、上記の記事はとても印象に残っているのです。
北斗晶さんの名前と共に。
年明け初めて覚えている夢に、(私の中では「牡羊座の土星」の象徴である)北斗晶さんが出てきたり、さまざまな未確認飛行物体が出てきたり…で、どんな一年になるんだろ~~????と、興味深くもあり、ちょっとコワくもあり…という感じです。
「1つ」では「世界」は生まれなかった。
昔々。
2つに分かれた光が、
お互いを映しあって、お互いを愛しあって、
そうすることが、生命の基本プログラムのような、行動原理のような、
そんなふうになっていて、
だから、すべては「君を愛する」ということがおおもとで、
なにもかもが、
まるでそこに光や愛がないように見えてしまっても、
なにもかもは、「君を愛する」ということから派生しているんだ。
「情報」を選別するだけじゃ、多分ずっと惑わされ続けると思う。
そいえば。
和尚さんのセミナーで、えりもも先生が「帰依」という言葉を使われてたんですよ。
ああ、えりもも先生って、いいなー、って思いました。
もちろん、その言葉ひとつだけでそう思ったわけじゃないんですけどね。
でも、それが象徴的に私の中に入ってきました。
えりもも先生も、和尚さんも、宗教的にもスピ的にも、いろんな情報が有り過ぎて、みんなぐるぐる惑わされちゃってるよね、ってことを言ってました。
確かにそうかも、って感じます。
けど、その「情報の洪水」の中から、「絶対の真実」を見つけようとしても、きっとそれは不可能に近いんじゃないかなー、とも思うんです。
奇しくも、セミナーが終わってから、なおぴむんといろいろ話してた時に彼女が言いました。
「私、100%のもの(情報)を求めてたんだよね。でもそれは無理だと思ったんだー。」
って。
でもそれって、すごく分かるなー、って思いました。
たとえば。
えりもも先生っていいなぁ~、って思ったし、スゴイいなーって思ったのも本当だし、
和尚さんはスゴいな~~、って思ったのも本当だし、
オープンな心でお話を聞いてたつもりです。
でも、精査していないか、っていうと、そういうわけじゃないんですよ。
でもでも、精査してたからって、決してナナメな姿勢でお話を聞いてたわけじゃないんです。
んじゃ、そこで精査して、「自分に合う部分(情報)だけを良いとこ取り」してるかっていうと、それもちょっと違うんですよね。
情報だけを「これはアリ」「これはナシ」と選別するのであれば、それはどんな人の話を聞いたとしても読んだとしても、
やっぱり、いつまでたっても「情報に翻弄される・惑わされる」というところをぐるぐるするだけだと思うんです。
自分の全部をもってそれを一度吸収して、そして自分の全部をもって……「濾過する」みたいな感じかなー?
そういう精査をしないと、単なる情報の選別に終わるような気がします。
…って。
えらそーなこと言ってるけど、私にそれがちゃんとできてるかってーと、それは分からんです。
でも、そーゆーもんじゃないか、と私はなんとなく思っておるです。
そしてそれはね、スピに限ったことじゃないよね。
ようやく始めましてねー。
Twitterを。
http://twitter.com/TAMIEYAtamie
子供ネタばかりですが、よかったら見てやってちょうだいませ。
まとめきれんけど、忘れんうちにちょっと書いておく。
さっき、NHKの「あさイチ」って情報番組で、母乳とかからうつって、大人(それもかなりいい年)になってから白血病とか神経の病気になっちゃうウィルスのことを取り上げてました。
ニュースでもチラリとは見たけどね。
で。
ああ、と思って、妊婦さんの時に受けた検査結果票を探して見てみたら、「HTLV-1抗体」は陰性でした。
母乳ばりばりやってたから、良かった~とは思ったけど、同時にそーゆー検査もしてくれてたんだー、ありがたいねぇ~、とも思いました。
けどね。
なんかねー……。
そのウィルス。
キャリアの人でも発症するのは2%なんだそうで。
ほとんどの人はなんともないまま死んでいく、と。
ウィルスにしたら「共生」しとるようなもんかー、と思いました。
いや、もちろん、その2%が問題なんだよね。
白血病を発症したらえらいこっちゃ~だもんね。
それは分かるんだけどね……。
でも、母乳でうつります、無自覚なのでキャリアだと気づかない、という説明で、ゲストの人が「こわいですねー。」と言ってたんですよ。
でもって、「多くの人に知ってもらいたい。」と。
それがなーんかちょこっとばかりひっかかってねぇ…。
確かに病気はイヤだし怖いです。
でもって、知ってたら対処できることだってあるのも分かります。
けどなー。
怖い怖いって言ってるのって、なーんか違和感があるんだよなぁ。
でもって、知らない病気のことなんてたーくさんあるわけで、いちいち全部それを知らないといけないのか、というと、それもなんだかなー、とも思うのですよ。
いや。
以前の私ならね、できるかぎり知るべきだ、できる対処はするべきだ、と思ってたんですよ。バリバリそーゆータイプ。
それに、研究してくれてる人たちや、対応してくれる行政とかには感謝してるんですよ。ほんと。
でも、なんちゅーか……。
なんでも、人間がコントロールできるかっていうと、そんなことは全然なくて、もしかしたらすべてはあるがままにそうあるだけなのかなー、と、思うようになってきたんですよ。
そうなんですよね。
多分、人間は人間の生存を脅かすものに対して、すべてコントロールしたいんですよ。
んなもん、イヤなものはイヤだよ。私だって。
すげーイヤだよ。
当然、怖いし。
だから、すべてをコントロールしたいっていう欲求はすごく分かる。
てか、その欲求は厳然として、私の中に在る。
でも、それとは別に、すべてはあるがままにそうある、という思いが心の真ん中に在るようになってからは、
努力はもちろん尊いけれど、すべてをコントロールしたいという人間の欲求というのにはちょっと違和感を感じたり、必要以上に怖がるというのも何だか「なにかから外れてる」ような、そんな感覚になるんです。
スピ的に言えば、それらは「エゴ」から発せられるものなんだろうから、今までは当たり前に思ってた感情とか発想に対して、ちょっと距離を置いて見れるようになる、ということは、悪いことじゃないかもなー、と思うです。
別にそれをすべて否定するわけじゃないけどね。
認めたうえで、ちょっと距離を保って付き合う、というか、そんな感じかなぁ…。
こーゆーのもバランスなのかも。
そうそう。
うちの息子くんはダウン症児やんね。
こーゆー子が生まれてくるってのは、まさにコントロール不可能なことなんだけど、
でも、もしたとえばコントロールすることが全くの善だからと、人工授精でしか妊娠しちゃだめ、障害がある受精卵は廃棄……とかって世界になったら、うちの息子は生まれてこないわけですよ。
実は若い頃はね、そうやってもしもコントロールできるならした方がいいんじゃないか、とすら思ってたんですよ。うっすらと。
遺伝病で苦しんでる当人や家族が可哀相だし、って。
でも、私は幸せなんだよね。息子を授かって。
自分が障害児の親になるなんて思ってもいなかったけど。
命って、なんだろうねー。
人間って、なんだろうねー。
幸せって、なんだろうねー。
コントロールしたいという欲求って、なんだろうねー。
だらだら書いて、いつも以上にまとまってなくて、すんません。
ワクワク、キラキラしてなくてもいいやん。
11年勤めた会社員時代。
バブル末期に優秀じゃなくても入れた会社では、デカいコンピュータのOSとかDBとかの開発部隊にいてマニュアル開発を主にやってました。
大手コンピュータ会社の子会社で、ちゃんとお給料をいただけたし、働くお母さんたちも多かったので、妊娠が分かった時、当然のように産休・育休を取得して、また復職するんだろうなー……と、思いました。
でも、旦那さんに「今、辞めないと、辞められなくなるよ。」と言われ、それもそうだなぁ、と退職しました。
妊娠中は、あまり深く考えられないようになってるみたいですね。ホルモン的に。
結果的にはそれで良かったんですけどね。
生まれてきた息子がダウン症だったので。
健常児の倍の時間をかけて育つダウン症児を、1歳で保育園に預けて復職なんてとてもじゃないけど無理だったと思います。
実は、私は11年も勤めておきながら、どうしても仕事が好きになれずにいました。
コンピュータのソフト開発が面白いとは思えなかったんですね。
でも、他に何かやりたいことがあったわけでもないし、経済的に自立していない自分というものが怖かったから、ストレスで身体がおかしくなっても辞められませんでした。
何か、やりたい仕事が見つかればいいのになー。
と、時々思ったものでした。
そしたら、笑って辞められるのに、って。
けど、11年間、あの会社にお世話になって良かったと思います。
またあんなふうに好きじゃないことで仕事を続けるということは、もうしたくないけど、若いうちにそういう経験ができたことも良かったんじゃないかな、と思うんです。
好きな仕事をして、キラキラ輝いてる人………になれたら、そりゃ誰でも充実感いっぱいで嬉しいだろうし、みんなそうなりたいものだろうけど、
そうじゃない自分という経験、毎日少しずつ澱が溜まるような感覚…だって、決してごみ箱に捨ててしまいたいものではないんです。
今の私の中では。
つきなみだけど。
多分、私は私なりに頑張ってたんだなー、と思います。
だから、キラキラしてない自分だって「アリ」なんだろうな、と思うんです。
ポジティブになれなくったって、
ワクワクしてなくったって、
キラキラしてなくったって、
その場で立ってるだけで精一杯なら、立ち続けていることそれだけで十分なのかもしれないと、
昨日、友人からもらったメールを読んで、そう思いました。
ありがとうね。