mixiでマイミクさんとちょいとやりとりしてたことを書いてみますー。
あたしね、「家」って日当たりはもちろんやけど、風通しもすごく大事やと思うんですわ。
んで、人生も同じで、日当たりが良くて、風通しのいい人生にしたいよなーって思ってるんですわ。
そうは言ってもね。
育った境遇とか、いろんな経験から、日当たりも風通しもあまり良くない感じになってしまうことも多いと思うんですよ。
でもね。
「ビフォーアフター」みたいに、周りに高い家があって日当たりが良くなくても、屋根の一部をくり抜いてどーんとそこから日差しを入れるようにリフォームするとかね、
大人になったら、境遇や環境を嘆いてるだけやなくて、なんとか自分で自分のことをしっかり面倒見ていかんとアカンと思うんですよ。
てか、それが大人になるってことやし。
やれることはいろいろあると思うし。
卑屈になってたら、やれることも見逃してしまうもんね。
もちろん、風通しのいい人生にしたい……って思ってはいるんですが、
だからってなんでもかんでもオープンにすりゃいいってことではないと思うんですね。
でも、今朝ツイートした「ゲイの人がカミングアウトしたって記事」みたいに、
自分が黙ってることで嘘をつかないといけない生き方を続けるってのは、やっぱりめっちゃしんどいと思うんで、勇気を出してほんとうの自分をオープンにするってのは、偏見とかいろいろあったとしても、風通しの良さは全然違うだろうなー、と思ったんです。
自分らしく生きるために相手の気持ちも考えずに言いたいことを言う…ってのともまた違うんやけど、
風通しのいい人生を自分で手に入れるために勇気を出せる強さってのは素晴らしいと思うし、そういう強さってのは長い年月かけて培うもののような気がするです。
うん。
身体的にも霊的にも「体質改善」をすることは大事だと思うなぁ。
土曜日の夜に放送されてた「夜なのにあさイチ」を録画しておきまして、今朝見たんですね。
イノッチ好きなところに漢方薬特集なので、ぜひこれは、と思いまして。
ええ。
なかなか面白かったです。
有働さんが半年間にわたっていろいろ処方されてた漢方薬は全部私も飲んだことあるぞー、とかね、笑っちゃいました。
漢方薬にはほんとーにお世話になっておるのです。私は。
お付き合いが始まって20年近くになりますかね。
転勤先の沼津で通い始めた病院で漢方薬を処方してもらったのがキッカケでした。
名古屋に帰ってからも、心療内科でも漢方薬がメインでしたし、借りていたアパートの近くに漢方薬に詳しい薬局がたまたまあったので、そこのおじーさん先生にもほんとにお世話になりました。
そして、今住んでいるところでは、鍼や漢方薬に強いお医者さんが近くにあるので、ずーっとお世話になってます。
自律神経失調で、不定愁訴のオンパレードな私にしたら、漢方薬での体質改善は欠かせないアプローチなのです。
漢方薬でも即効性があるんですけど、やはり基本的には「体質改善」をして、さまざまな症状を治していく……というところに強みがありますよね。
西洋医学のお薬は、どうしても対処療法ということになりますから、両方の良さを上手に組み合わせるというのが患者にとってはありがたいよなー、といつも思います。
というのも、
私はおっぱいがほんとーにたくさん出まして、息子の時も娘の時も、ちょこちょこと乳腺炎になってたんです。
こうなると、自分でつまったおっぱいをこつこつと絞り出しながら、抗生剤と抗炎症剤を服用しないと辛すぎました。
だって、ぱーんといきなり40℃近い熱が出るんですからね。
こんな時は対処療法がどうしても必要ですよね。
なので、近所のお医者さんでも、漢方薬以外にも抗生剤と抗炎症剤を処方してもらっていました。
でも逆に、どうしても頭がガンガン痛くて吐きそうになっちゃうくらいだー、って時に鎮痛剤を飲むのはもちろん大事なんだけど、たとえばそれが女性ホルモンのアンバランスから来てるものなら、それを改善する漢方薬を飲み続けて、鎮痛剤に頼らない身体に改善していくことってすごくいいことだと思うんですね。
こういう使い分けというのは、患者もよく理解していないといけないよなー、と思うのです。
で。
ふと思ったのですが。
ヒーラーさんとか霊能者とか……いろいろ呼び名はあると思うんですが、そういう「見えない世界のことに精通している人」に相談する時っていうのも、クライアント側もちゃんと理解してないといけないんじゃないかな~と思ったりしたんです。
そーゆー人たちに相談したりセションを受けたりするというのは、何か苦しいことがある場合が多いと思うので、即効性のある対処方法を示されたらすごく嬉しいですよね。
このヒーリングを受けたら楽になる、
この○○を買って供養したら楽になる、
そういうのって、ありがたいなって思う気持ちはほんとによーーーく分かるんです。
私もそういう体験いっぱいありますから。
でも、あくまでそれは霊的対処療法であって、それと平行して霊的体質改善もしっかりとしていかないといけないと思うんです。
そして、それは身体の体質改善と同じで、こじれ具合がヒドければヒドいほど、何年も何年もかかる大仕事だと、これまた私自身の経験から思いますし、
じぇいど♪さんのアメリカ時代のブログを読んでいてもそれはよーく分かりますよね。
……でね。
これは私が個人的に感じることなんですが、
ほんとに信頼できるヒーラーさんだなー、とか、霊能者だなー、と感じる人っていうのは、
対処療法も示してくれるんですけど、体質改善の方法も少しずついろいろ教えてくれることが多いんです。
で、そーゆー人って、能力の高さに関係なく、自然体だったりするんですよね。
そして何かしらの魅力が感じられるんですよ。まっとうな人間的な魅力が。
なので、そういう人が示してくれた「こういう方法もあるんだけどねー。」というアドバイスは素直に自分の中に入ることが多いです。
実は、知り合いにいるんです。
まるで病気がなかなか治らないから、次々と病院を渡り歩くように、霊能者を渡り歩いてる人が。
「霊的対処療法」で問題を解決しようとばかりしてるんですね。
もちろんその人の問題は何十年と根本的解決には至っていません。
自覚があるなしにかかわらず「自分の外側」に原因を求めているうちは、そのループから抜けられないんだろうなー、と(たま~にですけど)会うたびに思わされます。
ま。
そう言っても、私もきっと何か違うループの中をぐるぐるしてるんでしょうけどね。
自分の姿ってのは、どうしたって自分では見えないですもんね。
というわけで。
とにかく、体質改善は大切なことだと思うです。身体的にも霊的にも。
ディスレクシアのケ。
以前、関ジャニ∞の横山裕くんがカタカナで読んだり書いたりすることがすごく苦手だということをテレビ番組内でやっていた時、その時は、おやおや、と思っただけだったんですが、
最近になって、ふと気づいたんです。
私もカタカナって苦手やったわ!
って。
気づくの遅いですね…。
ひらがなは、すーっと読めます。もちろん「音」を聞いてそのまますーっと書けます。
漢字は表意文字なので、ぱっと見ればすっと意味も想起できるし読めます。書く方は……パソコンを使うようになってからちょっと「あれ?」ってなることが増えましたが、ふつーに書けてると思います。
横山くんは、聞いた「音」をカタカナで正確に書くことが難しいようでした。
私は「音」を聞いてそれをカタカナに書くことに問題はないんですが、読む方はちょっとアヤシイのです。
ひらがなの場合みたいに、見たまますーっと読めなくて、一字一字読まないと間違えてしまうんです。(なので、本やマンガをぱーっと読んでる時には、カタカナの固有名詞をよく間違えたまま読んでることが非常に多い。)
でも、こーゆー自分が子供の頃から当たり前だったので、自分がカタカナ読みが苦手なんだとことさら意識することはありませんでした。(←カタカナ盛りだくさんのマニュアルを書いてたくせに!)
多分、カタカナの読みに関しては、私はかるーい読字障害(ディスレクシア)のケがあるんでしょう。
こういう部分的なディスレクシアのケがある人って、案外いるんじゃないかなー?と思うんですが、実際はどうなんでしょうね?
人間が文字を発明してからまだ5~6千年ですもんね。
言語中枢のように言語に特化した「文字認識」に関する脳の中枢があるわけじゃなくて、代替的に何段階かの経路を使って文字を読んだり書いたりしてるそうなので、どこかでちょいと不具合があったら、スムースには働かないことになりますもんね。
元総理の麻生さんが漢字をよく読み間違えてたのについて、養老先生が「もしかしたら漢字に関する読字障害かもね。」って発言をされてたとかってのをチラっとどこかで目にした覚えがありますが、
もっと有名なところではトム・クルーズがかなりの読字障害らしいですね。(どうやって台本を覚えてるんだろ~?)
というわけで、こういうのって「生まれつき便秘になりやすい」「生まれつき肌が弱い」とかってのと同じようなもんだと思うんですよ。
なので、識字にちょっと手間取る人をバカにしちゃいかんですよね。
(そいえば、小学5~6年の時に漢字はもちろんひらがなもちゃんと読めなかった同級生がいたけど、字が読めないせいで勉強はあまりできなかったようだけど、会話しててるとふつーだったし性格もいい子だったんだよなー。んでもって、誰もからかったりバカにしたりしなかったなー……というのを思い出した。いい子の多いクラスで良かったなぁ。)
過去世の物語は、幾通りもあるような気がする。
今年になって、タミエルの「あの子」や「親友」とのことが出てきたおかげで、ちょっといろいろ考えておりました。
そもそも私が2009年冬至のヒーリング中に観たビジョンというのは、
タミエルがミカエルに剣でお腹を刺された
というものでした。
しかし、当時仲良くしてくれてたヒーラーさんはこのビジョンについては、
『闇に落ちそうになってたタミエルを救う最後の手段として、タミエルのツインが刺した』ものを、顕在意識の私はミカエルに刺されたと解釈したと説明してくれました。
ああそうなのかー、私よりうんといろんなことが分かる人がそう言うんだから、そうなんだなー…
と、すんなり受け入れました。
そこから、それまでは無関心だったツインというのがキーワードになるような出来事がたくさん起こってきて、いろいろ多くを知ることとなったのですが、
でも、やはりあそこでお腹を刺したのはツインではなかったな、と今の私は思っているのです。
かと言って、ヒーラーさんが言ったことが間違っていたのか、というと、多分「間違っていた」というわけでもないのだろう、と思うのです。
というのも、前世を知るということは、まるでRPGのようなものじゃないか、と思うからです。
たったひとつの物語のルートしかないのか、というと、そんなことはなくて、いろんな分岐があって、いろんなルートがあって、いろんな「私」がいると思うようになってきたので、
あの時にヒーラーさんが観たルートはそういう物語であったけれど、
今の私が感じているルートというのは別の物語になっている、という、ただそれだけのことなんじゃないか、と思うのです。
自分より能力のある人がそう言ったからそれが正しいというわけでもないだろうし、
自分が観たものだけが絶対無二かっていうとそういうわもでもないだろうし、
人間は、観たいもの(または魂にとって必要なもの、あるいは成長する上で都合のいいもの)を観てる、としか言えないんじゃないかなー……と、最近はすごくそう思うのです。
で。
昨日、タミエルが「あの子」が心配だったので前線部隊に志願した時、ツインはものすごく心配していたけど、案の定ああいうことになってしまったので、
「突然大切な人が失われた、と伝え聞いた時のこっちの気持ちが分かる?」
「…ごめんなさい。」
といった感じのやりとりを突然チラ観えしたんですが、
ねーちゃんに怒られてる弟……みたいだなー。
と、思っちゃいましたよ。ぷ。
某先輩(←姉のいる男性)の名言。
『おねーちゃんに勝てる弟なんて、この世におるか?』
すぐに調子に乗っていい気になるからなー。エゴってば。
mixiの日記に、今話題になってるオセロの中島さんの件についてチラっと書いたんですよ。
占い師や霊能師ゆーてもピンキリやし、能力の高さと人格の高さは別モノやし、どんな存在がサポートしてんのかってのもあるんやけど、
なんで「どうやらエゴが肥大して暴走しちゃったっぽい人」に縁づいて、がっつりとコントロールされるような状態になってしまったんやろうな~…、「ご縁」ってなんなんやろなぁ~って考えてしまうわ…、ってなことを。
で、ちょいとマイミクさんたちがコメントくれたんで返事を書いてたんですけど、書きながらしみじみ思ったんですよ。
たしかにね、あるよなー、私にも…って。
「わぁ、たみえさん、すごいですー!」
とかってキラキラな感じで言われると、「そんなことないですー。」って答えるし実際にそう思ってるんやけど、
でも心の一部では「えへへー。」となってる部分もあるんですよ。
それが全く無いとは言えへんよなー、と自分でも分かってるんです。
自分の仕事に対して喜んでもらえた感謝してもらえた、というのを、
自分そのものを評価された、と受け止めてしまうと、そりゃエゴはどんどんいい気になっちゃいますわな。
エゴは全くの不要なもんやなくて、この肉体で生きてる間は上手に使っていくもんやと今は思ってるんで、自分ごときのモンであっても、気をつけんとなー、と思います。うん。ほんとに。
ご期待には添えないかもしれませんが。
じぇいど♪さんがブログの記事に私のブログ記事をリンクしてくれたので、いつもの10倍くらいのイキオイでカウンターが回っていました。
やっぱりすごいですねぇ~!なにみえって。(←今更)
そんなわけで、じぇいど♪さんのところから来てくれた方がお一人、「裏話も楽しみにしてます」なんてコメントをしてくれました。
ですよねー♪
裏話って、聞きたいですよねー♪
できれば、面白いやつを♪♪
分かりますよ~。分かるなぁ、その気持ち。
……しかし。
ほんとにほんと~~に面白い話というのは、とてもじゃないけどオープンにできない!
と、いう具合なのですわ。ことごとく!
だってね、「はー。なるほどね~。面白いもんだなー。興味深いなー。」と思うことって、だいたいはものすごく個人的なことに絡んだ話なので、さすがに外に出せないんですね。
私とじぇいど♪さんとのやりとりとなると、スピ的なことを抜いて話すなんてことはないわけで、スピ的に見てもすごく興味深いやりとりが何度もあったのですね。
スピというのは統合に向うような流れがあるとは思うんですが、でもスピどっぷりであっても、スピという「やり方」も取り込んで…って程度であっても、なんにせよ自分を見つめる・深めるということはものすごーく「個人的な経験」の集積だと私は思います。
いきなりぱこーんと悟るというなら別ですけど、少しずつ少しずつ本当の自分を知っていくという過程というのは、実に生々しい感情を伴う経験の集積にならざるを得ないと思うのです。
もちろん私もじぇいど♪さんも悟った人間じゃないんで、3歩進んでいい気になってたら2歩下がって「いたたたー。」ってのがしょっちゅーです。
上がどーの過去世がどーの……って話も当然のように混ざりますけど、でも私たちのやりとりって、基本は「今のあたし」と「今のあなた」が「今の人生をどう生ききるか」というところに重心がどっしり置かれてますからね。
そういう共通の土台に立っていると信じられるからこそ、自分のデロデロとしたところをさらけ出して一緒に検証していけるんです。
ですから、「ああ、なるほど!」と深い深い気づきを得ることができて、「なんて興味深いことなんだ!」と感動しても、シェアできるのはどうしたってほんと~~に一部の付き合いの深い人に限られるんです。
ですから、とてもじゃないけど「ほんとーに面白い話」はオープンにはできないのです。残念ながら。
…って、どの世界でもどの分野でもオモテに出てるのなんてほんの氷山の一角で、その下に「生では出せない」類のものすごい集積があって当然なんだと思いますがね。
私もそれぞれは「とても生では出せない」けれど、それらが熟成されてほんとうに自分のものとなった頃に、なんらかのカタチでアウトプットができるようになるんだろうなぁ~、と思ってます。
ま。
でも、ちょっとしたこぼれ話くらいは書けたら書きます!
ほんとうの自分を知っていくというプロセスは人それぞれで、それこそ「みんな違ってみんないい」だと思います。
なので、これは私が感じているだけのことと思ってもらえれば充分なのですが、
自分と同じ土台に立っていて、人間的に真に信頼できると思える人と仲良くできた時に、その人とまっすぐ向き合うことを通して本当に本当に深い経験を積み重ねることができると思うし、それは人間性の成長と共に魂の成長にもつながる……のだと、私は感じています。
せっかくそういうご縁があっても、怖くて自分を開く勇気が持てない人もいるかもしれませんが、まずは少しだけでも勇気を出してみるとがらりがらりと世界が変わるかもしれませんよね。
ありがたいことに月子さんとも私はそういう関係になってきていまして、そんな人たちと占星術の解説だなんて楽しいプロジェクトに関われてるってことは、ほんとに嬉しいです。
信頼してる人に信頼してもえてるんだな、と感じることは人間としてめちゃめちゃ嬉しいですもん。
でも、そういう関係だって永遠のものではなくて、「学び」が終われば自然と離れていくものなのだというのは「おばちゃん」と呼ばれる年齢であればイヤでもたくさん経験してますからね。
だからこそ、そういう貴重な時間(間柄である期間)は、ふざけたことを言いつつも心の中ではいい塩梅で重心を取りつつまっすぐでありたいなぁ、と思ってます。
光陰矢の如し…で、そのとーりなんですが。
確かに、すげぇあっとゆー間に時間が流れていってしまい、
もう1月も終わり?ってビックリしちゃうんだけど、
…でも、去年の11月からのこの3カ月のことをちょいとばかし振り返ってみたら、
すごく濃ゆい
溶けた濃厚なチーズがたぷんたぷんって感じの濃さ
だ、と。
よくよく振り返ったら、去年1年もべらぼーに濃ゆーーーかったし。
自分で作るめっちゃ濃いカルピスみたい。
時間の流れる速さは新幹線みたいに超特急で、何かを自分が残し得たか?というと、たいしたことねーなー薄いもんだなー、って思っちゃうんだけど、
内的世界の変化ってのはそれとは反して、ダイナミックで濃いというのは、すごく不思議な感じですわ。
四十而不惑
好きとか嫌いとかは横に置いといて、
できるかぎりニュートラルに意見を聞ける人間でありたいなー……とは思っておるんですがね、
でもやっぱ、おれはそんな器がデカくねー!
…と、文字だけ大きくしてみた。
『四十而不惑』なんて、ムリムリっ。
2012年1月20日は、雨。
そして、43年前の岐阜は雪。
生まれた日は雪の日だったそうです。
大寒の雪の日に生まれたんです。私。
時系列的にはおそらく1つ前の過去世となる女性は、愛した男に銃で撃たれて雪の中で死にました。
自らの選択でした。
雪の中で死んで、雪の降る日に生まれた「私」。
そして、今日は雨。
冷たい雨だけど、乾燥が続いてたところへの、恵みの雨。
なんだか、ちょっと不思議な、それでいてその優しさに泣きそうになるような、そんな雨でした。
今日は、子供たちが(おとーちゃんのサポートありありで)、私のためにホットケーキを焼いてくれました。
生クリームでデコレートもしてありました。
子供たちは得意気なキラキラな笑顔をしていました。
生きてるって、いいですね。
やっぱり。
地球という惑星
火山学の授業で、先生が
「火砕流って言葉は、一般の人は知らないでしょうけど…。」と言ってたのをなぜかすごく覚えてて、
その数カ月後だったはずです。雲仙普賢岳で「火砕流」 が発生したのは。
「こんな形でみんなが『火砕流』という言葉を知るなんて…。」と残念でなりませんでした。
しかし。
ああ、あれくらいはほんとに小規模な火砕流だよなぁ…。
飛騨地方の火砕流堆積物の大きさを考えたら、あれくらいはほんとにごくごく小さな変動でしかなよな…。
そんな小さな変動でも、人間はあっけなく死んでしまうんだよな…。
と、死んでしまった人たちへの哀悼の気持ちを持ちつつも、テレビを見ながら、自然の驚異のほんの「片鱗」を見てるんだな、という自分がいました。
そして。
17年前の朝。
寝ぼけた目で見たニュース番組の映像は、一瞬私の頭をフリーズさせてしまうほどのものでした。
それでも、あれすら「片鱗」でしかないとも思いました。
活断層が動いただけだもの。
プレート境界型が起きたら、これくらいじゃ済まないだろう…と思いながら見てる自分もいたのです。
あの津波でさえ、そうです。
地球上の生命は、幾度となく大量絶滅を経験しています。
ペルム紀末の大量絶滅においては、地球上の95%近くの種が絶滅していると言われているほどです。
それほど「地球」は変動が激しい惑星なのです。
そんな惑星に生まれて生きているというだけで、人間ってのはなんとも悲しく逞しく愛しい存在だよなぁー…って思います。
多くの癒しがもたらされますように。