「なんか変じゃね?」という感覚は大事にした方がいいと思うな。

さきほど、これを読みましてね。
http://geopoli.exblog.jp/18936348/
私は、頭の回転があまり早くないんです。
なので、「違和感」を感じてから、それを「言葉」にできるまでかなり時間がかかることが多いですし、
一人では言語化しきれなくて、子供たちが寝てからおとーちゃんに話して、おとーちゃんの意見を聞きながらだんだんアウトラインがハッキリしてくる、ということも多いですし、友達とのメールのやりとりで膝ぽんも多いです。
「なんか変じゃね?」
という感覚は、すごく大事だな、と思うんです。
大事だからこそ、それはどこから湧いてきたものなのか、を、できれば言葉にして認識したいという思いは、なぜか昔から強かったんです。
なので、「あー、なんで私ってこんなに頭わりーんだー?ちくしょー。」と思うことも多くなっちゃうんですが、それでもね、自分なりにね、「なんか変じゃね?」を、稚拙であっても(自分自身に対して)論理的に説明できるようにしたいよな、と思うんですよ。
それにね、こういう積み重ねって人生を大きく変える要素になると思うんですよねぇ。
なので、「なんか変じゃね?」をそのままにしておくのは勿体ないよなー、と思うのです。

「障害者」という言葉でひとくくりにはできないよな、と思うです。

マイミクさんがチェックしてたので読んでみました。
http://rocketnews24.com/2012/08/27/243722/?__from=mixi
ちょうど、乙武くんのこのツイートは見逃してたので、おお、と思いました。
私も24時間テレビは好きじゃないんですよね…。
もちろんね、障害のある人とか、災害に合って大変な人とか、いろんな人がいて、
そういう人たちを支援しようって気持ちは大事だと思うし、
最初の頃の、きんちゃんが立ち上げた頃の24時間テレビは素直に「私も募金しよー。」と思ったりもしたんですよ。
子供だったし。
けどねぇ…。
なんだかねぇ………というのは、どうしてもあるわけですよ。
お祭り騒ぎしてるってゆーかなんてゆーか…。
なので、私はここには募金しないんです。
町中であしなが育英会とか盲導犬のとか、そういう募金活動に遭遇した時に少しばかりですが募金させてはもらってますけど。
なので、乙武くんの言う違和感ってのも、分かるような気がするんですよ。
でもねぇ…。
このGさんの言うことも、ちょっと「うーん。」と思うんですよ。
障害者ってもね、ほんとーに千差万別でね、「障害者だからできない・かわいそう」ってのは差別だって言うけど、ほんとにできない人もたくさんいるわけですよ。
ダウン症だってね、うちの子は平均的成長をしてくれてるから、会話も楽しいですけど、知的障害もうんと重い人になると、言葉も出なくて会話ももちろんできないんですよ。
そういう人に、「障害者だからできないなんて差別だ。」って言うのは酷なんですよね…。
だって、残念ながら自分自身のケアもできないんですから、仕事らしい仕事なんてできないですよね…。
でね。
24時間テレビで取り上げられるのような『頑張って頑張って成長していく障害者』として生きられないような知的障害の重ぉぉぉい人でも、「生きてるだけでいい」と思うんですよ。私は。
頑張りようがない、家族だけじゃなくいろんな人の手を借りないと生きていけないような人も、生きてていいよ、という社会だったら、それでいいと思うんですよ。
家族(だいたいお母さんがメイン)だけで面倒見るなんて負担大きすぎてかわいそうだから、税金使ってもらっていいよ、ってみんなが思ってくれれば、それでいいと思うんです。
それって、十分に優しい社会だと思うんだけどなぁ…。
ゆるーく優しい感じって、いいと思うんだけどなぁ…。
というわけで。
「障害者」という言葉でひとくくりにはできんよなぁ~、と私は思うのです。

子供っぽくない子供

今朝、Twitterで「はるかぜちゃん」の記事について立て続けに目にしたので読んでみました。
http://www.asahi.com/national/update/0816/TKY201208160557.html?tr=pc
嵐の番組に出演したのを見て、はじめてこの女の子のことを知ったのですが、
「なんとまぁ、子供っぽくない小6さんだなぁ。」
が正直な感想でした。
そして、その番組出演の後、ネットでたくさんヒドいことを言われたらしいというのも、何かでチラリと読みました。
たしかに「子供っぽくない子供」は「かわい気が無い」と受け止められがちですし、気に入らないタレントの悪口をネットで書くというのもありがちなことだと思います。
マスメディアで仕事をするというのは、残念ながらそういうことも「込み」なんでしょうね。
でも、大人たちが自分の悪口をいっぱい書いてるという状況は、普通の小6の女の子だったら耐えられないと思います。
それでもこの子はそんな状況も「ちゃんと分かって」、それでもタレント活動を続けているのだから、本当に「子供っぽくない子供」だなぁ、と思いました。
強いなぁ、と、率直に関心しました。
もちろん、「子育て」という範疇において、私自身は「子供から子供時代を奪うべきではない」という考え方を支持していますので、そもそも子供を大人の世界で働かせるということは「子供らしさ」を急速に失わせることになるのではないか、と思いつつテレビを見てたりするのですが、
この女の子の場合、それだけではないな、と思いました。
もともとが、「子供らしさが少なめな子」だったのだろうと思いました。
あの文章を読んで。
というのも、私の周囲には「子供らしさが少なめな子」が何人かいたから、そう思えるのです。
簡単に言えば、そういう子供たちは頭がいいのです。
もちろん、普通の子供のように遊ぶし、子供はどうしたって子供なのですが、常に年齢相応の子供目線を越えてるのです。
ですから、私の親友のお母さんは娘を「子供扱いできなかった」と、ウチのオカンに言ったことがありました。
もしかしたら、彼女にとって私たちは「ゆるい友達」だったのかもしれませんが、ゆるかった私たちは彼女を「対等の友達」としか思えず、学年で一番の成績であっても目線が年齢を越えていても、対等の友達として遊んでいました。
なので、買い物の途中でオカンがとあるおばさんと立ち話をしてるのを横で聞いてた時に、そのおばさんが「〇〇ちゃんはほんとに頭が良くていいわよね。」とすごく言うので、つい言ってしまったのです。
「あの子だって、普通だよ。あたしたちと一緒だよ。」
って。
頭もズバ抜けていいし、なんでもできる子だけど、でも「だから彼女と友達でいる」わけじゃなかったので、大人たちの特別扱いみたいな言葉が奇妙に感じられたのです。
そして、私の旦那さんもその類の子供だったし、私の下の弟もその類の子供でした。
旦那さんの話をいろいろ聞いて、弟のいろいろを鑑みると、こういう「生まれつき頭が良くて、年齢相応を越えた目線を持ってる子供」を育てるというのは、実はすごく大変なことなんじゃないかな、とすごく考えさせられるようになりました。
特に自分が親になってみてすごく考えさせられます。
「何も勉強させなくても成績がいいから、いいわねぇ。」
なんて呑気な羨望は、その子育てをさらに難しくしちゃうだろうな、とも思いますしね。
(親も呑気ならそれでいいのか、というと、それだと結果的に子供にしわ寄せがどんと行くだろうしなぁ。)
おそらく、目線が同年代の子たちより越えていて、大人の世界で働いて、それも目立つ「タレント」というお仕事をしていて……
これからも、はるかぜちゃんはしんどい思いをするんだろうなぁ……と、思ったら、ちょっと不憫だなぁとも思ったりしますけど、
これからは見かけるたびに「がんばれよー。」って、きっと私は心の中で声をかけるんだろうな、と思いました。

はたと気づいて、ゾッとした。

うまいこと言えへんのやけど、んでもゆーてみる。
夕べね、おとーちゃんとニュース見てて、例のいじめ問題で、訴えられてる市側は和解を考えてるとかってのを聞いて、
おとーちゃんが、それはそれでええんやないか、ってゆーたの。
学校とか教育委員会とかの対応のマズさを認めて、ごめんなさいってことやから。
で、実際のいじめをした本人と親に対しては裁判でどんどん自分らのやったことをしっかり向き合わせたったらいいって。
たしかにね。
そりゃそうだ。
と、思ったのね。
でもね、ここで、ちょっともにょりまして。
ほら、あたしって教育学部出で、同級生も先輩も後輩も「学校の先生」をしてる人が多くてね、
みんな頑張ってるんやけど、手が回らんってことはやっぱりたくさんあるみたいでさ、
なんでもひとくくりにして今の教育が悪い学校が悪い先生が悪い…って言う意見を聞くと、そんなことないよー、って思っちゃうのよね。つい。
もちろん、このいじめ問題の関係者としての教育者たちは問題アリアリだったんだろうけどさ。
でね。
学校の先生やってる同級生の話を聞くとさ、家でちゃんと躾けされてへん子ってほんとーに困るんだって。
あたしさー、学校ってさー、基本は「勉強をするところ」だと思ってんのね。
でもって、「集団の中で自分がどうやってふるまうべきか」を、その子その子の性格や感性でもって学んでいくところだと思うのねん。
もちろんある程度の「生活指導」って先生がすべきだろうとは思うけどさー、
先生が躾けをせんとアカンというのはおかしいと思うんよ。
てか、そんなことしてたら、先生ってキャパオーバーもいいところやし。
んでさ、そもそもがさ、先生が「おい、おまえら、いじめなんてするなよ。」って注意してやめるような子供たちなら、最初っからやってへんと思うんよ。
人の嫌がることはしない。
ダメなものはダメ。
ってさ、子供の時に徹底的に叩き込むのが親の最低限の努めだろうに、って、やっぱりそこに私は行っちゃうわけなのよん。
でもさ、おとーちゃんが「いや、それを言い出したら云々。」って言うから、
「えー。それは分かるけどー、でもさー。」って、こっちもいろいろ言ってたたんでけどね、
その会話の中で、
大人の見てないところでいじめをするような子供って、信用できる大人・目標となりうる大人が近くに誰もいないんんじゃないか。
ってところに行き着いたのよん。
子供って、バカだけど賢いからね。
そういうのって、分かるやん?
どんなに言葉で躾けようとしても、親の態度が外と内でチグハグだったら、先生の態度がチグハグだったら、子供を躾けられるわけないし、
子供もそんな大人を見て、それを雛形として取り込んじゃうだろうしね。
でさ。
自分も含めてたくさんの人が批判してるやん。
あのいじめ自殺問題もそうやし、原発のさまざまなことにしてもそうやし。
んでさ、そうやって批判してる時って、自分の立ち位置ってどこにある?
あたしはね、
あたしはちゃんとした大人やで、という立ち位置におるんやと気づいたんよ。
あたしはちゃんとしてる、あたしはそれが正しくないと分かってる、
でもあんたらはちゃんとできへんかったでしょ?
なんで?なんでちゃんとせーへんかったの?
って感じ。
それってさ、「当事者」じゃないんやよね。
当然やと思う?
自分はほんとうに関係ないと思う?
……って、自問したらゾッとしたのよ。
宮沢賢治やったっけ?
世界中の人が一人でも不幸せなら自分は幸せになれない、みたいなことゆーてたのって。
あれって、レベルの高い人の感覚やなー、って思ってたけど、
そやないんやな、って、あれはほんとにそうなんやな、となんでか思ってしまったんよ。
たしかにあたし自身はいじめをしたこともないし、中学生の頃からずーっと原発には反対やったし、子供たちには基本的な躾けをしてるつもりやけど、
でもね、
今までの「感覚」やったら、「信用できへん大人たち」の一部のままなんやな、と思ったんよ。
や、だからって、どうしたらいいかなんて分からんへんけどね、
でもさ、
「あなたが悪い。」と言うだけなら、ずっと「信用できへん大人たち」の一部でしかないんやろうな、というのだけは分かった気がするんよ。
あああ。
うまく言えてへんの分かってるけど、ちょっとはなんか伝わってくれたらうれしいんやが~。

「こっちか」「あっちか」ではなくて。

この数日、
『スピリチュアルなことについて、家族は新興宗教かなにかじゃないのか?うさん臭いのじゃないのか?と思っている』
というのを立て続けに目にしました。
まぁ、そりゃうさん臭いよなー、って思います。
あたしのブログだって。
ぷ。
新興宗教という言葉でひとくくりにしてしまう人も多いですけど、キリスト教だって仏教だって最初は「新興宗教」だったわけで、
新しいからダメってんじゃなくて、カルトかどうか、が問題なんだけど、そこらへんもよく分かってなくて「とにかく新興宗教はヤバい。」と思いこんでる人が家族にいると、そーゆー発言にもなるだろうなー、と思いました。
なんでも、よく知ることは大事で、そこらへんのことも無知からくる無理解ということになるんだと思うんですけど、
でもね、「よく知る」という過程というのは、いろんな情報を精査し吟味することに他ならないわけで、
それって、ただ頭を使うだけとは違うと思うんです。
自分のすべてを使って吟味する
って感じだと思うので、その準備ができてない場合は、「うさん臭いから近付かない方がいい。」というのは、ある意味大正解だと思うんです。
でも、家族と自分では準備が整うタイミングも違うだろうし、感性も違うだろうし、そこらへんで摩擦が起きることもあるだろうな~、とは思います。
そうは言っても、だからって家族にいろんなことを知ってもらおうと話をしたとしても、それが『誰かの言葉』を借りたものだとしたら、多分伝わらないだろうなー、とも思うんです。
なので、自分自身の言葉で語れるようになるまでは、うまいこと折り合いをつけていくしかないんだろうな~、と想像します。
……そう。あくまで想像です。
てのも。
私はそーゆー摩擦を経験したことがないからです。
オカンも弟1号も霊感バリバリで、昔から「見えない世界」が隣接してるのが我が家では当たり前でしたし、
ウチの旦那さんもそーゆーことにちっとも抵抗のないニュートラルな人ですし。
つまり、おそらく私の人生において、そーゆー「抵抗」「摩擦」は不必要だったんでしょう。
そこにパワーを注ぐのではなく、他に課題がしっかりあるという感じなんだと思います。
だから、あくまで想像…なのです。
なので、私の中において、「スピ」と「現実生活」が「こっちかあっちか」という分離された相反するものみたいな在り方はしていないんです。
スピに偏るとか現実生活に偏るとか、そういう発想が無いんです。
現実生活もスピの中に展開されている世界の一つだという認識なのです。
だから、私の場合は、「スピ」か「現実生活」か、ではなく、「今の自分は、どこらへんに重心を取ってるか?」を気をつける…って感じになります。
この違いって些細なことかもしれないんですけど、でも私はけっこー大きいな違いな気がしてます。
と。
ちょっと思ったことを忘れんうちに書いてみました。(←ほんとすぐに忘れる鳥頭だから~。)

「人生を愉しむ」ってのは、「負荷が全くない」ということじゃないと思うのね。

まずは、うさみみさんのこのブログ記事を読んでみてください。
まぁ、ええからええから。ほれほれ。
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-1372.html
私もこのお医者さんである南雲先生の本を1冊持ってます。
全部が全部納得できるというわけではありませんけど、基本的に南雲先生の言ってることは、ああなるほどねー、と思いました。
だってね。
関ジャニ∞のライブに去年のクリスマスイヴに参戦した時、その10日くらい前からミカエル・ラファエルの「生活指導」が入ったと、以前に日記にも書きましたが、
ほんとーに24日のあのライブの時は、それまでにないほどの良い体調だったんです。
で、24日ですからね。
夜の11時頃に帰宅した時に、クリスマスケーキが残してあって、そりゃもーぱくぱく食べたら……
もう翌日からダメだったんですよ。
天使の生活指導はなかなかに厳しくて、
まず下痢から始まり、そしていちいち細かく食べるものに「はい。それダメ。」ってダメ出しが入りました。
なので、お肉も甘いものもジャンクなものも一切食べませんでしたし、なにより量がいつもの6割~7割くらいだったんです。
それを10日ほど続けて、ライブの当日はピッタリ焦点合わせたかのような体調になったのでした。
今年の2月に南雲先生の本を購入して読んだ時に、ライブ前の生活指導をパッと思い出しました。
やっぱりいろんなものを食べすぎてるのがアカンのでしょうねぇ。
とは言え、生活指導ナシで自分の意志だけで…ってのは難しいですわ~。
…んでも、そんなことゆーてたらアカンのやろな。ほえー。
さて。
それで、です。
私も、「がんばらなくていい」とか「わくわくすることだけしていればいい」とか、そういうのって、それだけでいいという意味じゃないよね?ってずっと思ってました。
すごい努力して苦労し続けないと幸せにはなれない…みたいな思い込みも違うと思うけど、だからって頑張らなくていいワクワクしてりゃそれでいいかっていうと、それも違うよな、と思うんです。
わぁ~、ケーキうれし~おいし~ってばくばく食べてたら、身体がスッキリとはしないだろうってのは経験的に分かりますよね。
なので初めは「我慢する」というのが「しんどい」し「努力が必要」なのだけど、「身体がスッキリする」が続けばその生活がだんだん当たり前になってきて、「努力」は要らんくなるんだろうな、と思うんですね。
自転車漕ぐのと一緒ですよね。
初動はすごくパワーが必要やけど進み出したら楽々ですもんね。
がんばらなくていい、というのは、ずーっとムリムリに努力を続けないと進まないというのは違うよ、みたいなことかなー、と思うんです。
漕ぎだせばするする進んでサイクリングそのものを楽しめるよ~、ってことかな、と思うんですね。
私は、高校時代も大学時代も、ほんとうは文系頭なので、数学・物理はほんとに手こずってました。
なのに、なんでかたまたまひょっこりと教育学部ではありましたが地学科に入学できたもんだから、勉強はほんとうに楽しかったけれどほんとうに大変でした。
でもね、それでもね、高校の時も大学の時もそうだったんですけど、物理を自分で一生懸命勉強していたら、ある時に「あ、こういうことか!」とぱぁぁぁぁってと分かる瞬間が来たんです。
ほんとうに「光が射してきた」みたいな感覚でした。
その時の達成感といったら、他に代わりはありませんでしたね。
頑張らないと、むりむりに頑張らないと幸せになれない、という思い込みは手放せばいいと思うのですが、
だからって、何も負荷がかかっていない人生ではつまんないよな、と私は思うんです。
子育てだってそうですよね。
んなもん、オカンは大変ですよ。
臨月でお腹がぱんぱんの時は、「早く生まれてー。」って思うくらいあれこれしんどいですけど、
生まれたら生まれたで、2時間おきにおっぱいをあげないとダメですからね。
「ああ、お腹にいた時の方が良かったわ~。」っ思っちゃいますよ。
ほんとに小さい子を育てるって、負荷かかりまくりですよ。えらいこっちゃの連続ですよ。
でもね。
それを続けてきたからこそ、子供たちが「おかーさん、大好きー!」って抱きついてきてくれる時の幸せったらないんですもん。
「人生を愉しむために生まれてきた」
究極を言えば、そりゃそうなんだと思います。
でも「ちゃんと」愉しむためには、「正しい負荷」がかかるような人生を望み選択し、その負荷をちゃんと自分の人間力アップの負荷とできるかどうか、が鍵になるんやないかな、と思います。
むちゃくちゃな筋トレで筋肉痛めたら元も子もないですもんね。
そのためには「ブロックを解消する」とかも必要なことになってくるでしょうし、内観も必須になるんだと思います。
良質なヒプノやヒーリングも良い手段になると思います。
……で。
私は、子供たちが残した夕食を「もったいないー。」と食べて「お腹苦しいー。」ってなるのを止めようと思います。
まずは毎食腹8分を心がけよ~。

どこで何を書くか、どんな「ペルソナ」を装着するか。

私の場合、Twitterは、リスト作るのもめんどくさいし、あまりTLを遡ったりもしないし、ぱっと開いた時に画面に見えてるツイートを見て「へー。」とか言ってることかほとんどです。
そして、気が向いた時だけツイートしてるんだけ。
障害児の母親としての立場で書くことが多いですねぇ。
基本は「いろんな情報のとっかかりを拾う場」…って感じかなぁ。
ブログはこのFC2のヤツを立ち上げる前はNiftyの方で何年も書いてたし、その前は違うのでも書いてたし、
とにかく何かを書かずにいられないタチなので書き散らしてますが、
さすがにブログで書きたいことを何でも書いてるなんてことはしなくなりまして、
ある程度閉じているmixiで書きたいことを書いてることの方が多いです。
それも話題が私のものすごーく深い内面の課題だったすると、とてもじゃないけどマイミク限定ですら書けないので、めっちゃ狭い範囲に公開を設定して書いてます。
んじゃ、そなもん自分の日記帳にこっそり書いて、人に見せなきゃいいやん、って思われるかもしれないんですけど、
そこはやはり気づいたことをシェアしたい欲求が出てくるので、そんな形をとるしかなくなるのです。
(シェアした私の個人的な気づきにも、愛を持って反応してくれる人たちがいるので、すごく幸せだと感謝してます。)
と、そんなふうにブログとmixiとTwitterを使い分けて、いろいろ書いてる私ですが、
Facebookもいちおーアカウント持ってます。
……でもね、ほんとに使ってないの。
Twitterと連携取ってるだけなので、ツイートが反映されるだけ。
ネットで仲良くなった数人と「友達」になってるのと、大学時代の知り合い1人と「友達」になってるのと、あとは会社員時代の先輩が数人「友達」になってるかな。
それでね、ちょっと探しただけで特に会社員時代の先輩やら同期やらがずらーっと出てくるんですよ。
お世話になったアノ人やコノ人や…。
こっちは旧姓じゃないし、名前も仕事で使ってる通称を登録してるので、向こうは私だと分からんと思うんですね。
なので、私から言わないと私だと認識してもらえてないハズなんです。
でもねぇ……
「こんには~。以前お世話になった●●です~。」
って言って、「友達」になろうと思えないんです。
リアルのつながりと、ネットのつながりが同等になることに、どうも抵抗感があるんです。
というか、まさに「どういう顔していいか分からん。昔のリアル知り合いがおるところで何書いていいか分からん。」になるような気がしてならんのです。
多分、子供の話しか書かないよなー……って、思っちゃうんですね。
なのでほぼ放置になっています。
さて。
今朝、Twitterでこの記事が紹介されているのを拾いました。
ひとはなぜフェイスブックで「いいひと」を演じてしまうのか問題
http://d.hatena.ne.jp/mohri/20120405/1333642947
なるほどなぁ~、と思いました。
昔の会社の知り合いの前でつける「ペルソナ」はどうしても今の自分には古くさいし、かと言って新調するにもどうしいいか分からないよなぁ~…と笑ってしまいました。
自己探求が進んで、あの頃の自分とは比べ物にならないくらい「自分」が「拡大」してるってことでもあるので、それは悪いことじゃないよなー、とは思いましたけどね。

おかげさまで忙しいです。

いやほんと。忙しい…ってか、あわただしいです。
じぇいど♪さんとさつきのひかりさんのブログで紹介してもらってから、天使の絵の注文をたくさんいただきまして、嬉しいかぎりです。
お客様にはお待たせしてしまって、申し訳ありません。(←なかなかちゃっちゃと描けないもんで。ごめんなさい。)
もちろんね、絵を描くことでそれでお金になりますからね。
たみえかーさんとしては商売繁盛はそういう意味でも嬉しいですよ。当然ですよ。
でもね、それだけやないんです。
キレイゴトって言われるかもしれんですが、誰かのために天使の絵を描かせてもらえること自体がめっちゃありがたいよなー嬉しいよなー、って純粋に思うたみえかーさんも厳然と存在しとるんです。
ほんとなんですー。ちょっとだけでもいいから信じてぇぇー。
でもって、印刷会社の期間限定キャンペーンに乗っかって新作ポストカードをこのタイミングで作成したでしょ?
嬉しいことにこれも注文してくださる方が予想以上に多くて、発送作業が大変でした~。(←嬉しい悲鳴)
えっとね、全部データをPCで管理しちゃえば半分以上の作業は無くなるんですよ。
もっとえらいことカンタンになるんですわ。
でもねー、これがねー、全部手書きなんですよ。顧客管理からなにから全部!
アホでしょ?
アホなのは十分分かってるんですが、どうしても「ノートにお名前や住所を書き写す」とかそういうことが必要なんですもん。
なーんか「お客様と天使をちょろんとつなげる」ために今は必要やなー、と感じるんで仕方がないです。(←あたしが一種の媒体になっとるようなもんなんやろうなぁ。)
とにかくなんでもせっせと手書きでやらせてもらっとります!
これもあたしのやがねー。ぎょーさんが詰まってとるがねー。
うひょひょひょひょー♪
というわけで、新作ポストカードセットはこの3日で半分以上売れました。
ほんとにありがとうございます~♪

モノが多すぎるんだろうな。

うちのおとーちゃんは、学生の頃からモノの多い人だったんですよ。
力仕事のバイトで稼いだお金でめっちゃデカいテレビを買った時は、内心「下宿のこんな狭い部屋なのに、なんでこんなの買うん?この人は。引っ越しの時大変やろし。」と思いましたもん。
新人の時に沼津に転勤になり、社宅アパートの1室が寮で、そこで2年ほど暮らしていた頃、私はほんとにモノが少なくて、すごくシンプルですごく身軽だったんです。
でも、結婚したら、一気にモノが増えました。
そりゃ確かに便利なんですよ。
おとーちゃんが買うあれやこれやは。
家電にしてもパソコン周りにしても。
でも、やっぱりモノが多いと掃除もしにくいわけで、なーんか雑然としてしまうんですよね…。
そして私も1人暮らしの頃のようにシンプルに暮らすということができなくなっていきました。
「欲しかったら買えばいい。」みたいな考え方にだんだんなってきちゃってたんです。
さらに子供が生まれてからはこれまた増える増える……。
モノをたくさん作って、
モノをたくさん買って、
そうやって経済がぐるぐる回ると「景気がいい」って言うけど、
ほんとに必要なものって、実はものすごーく少ないのかもなー…と、ぼんやり思う土曜日の朝です。
あー。
土日祝日は子供が散らかしまくるから、雑然さが5倍くらいになっちゃう~~~。
うえーん。

ちゃんと見てる?ちゃんと聞いてる?

高校2年の新緑の季節でした。
通学で利用していたバスに乗ってる時でした。
バスの中から見たいつもの景色の中にある新緑がほんとうに眩しかったのです。
まるで初めて見るような感覚になり、なんて美しいんだろう、って思いました。
私は、いったい今まで何を見ていたんだろう?
と思ったのを覚えています。
ほんとうに衝撃的でした。
小3の時もそうでした。
ある日突然、「世界」が見えてきたんです。
もちろんそれまでもちゃんと目は機能していたんですが、その日からの自分とそれまでの自分では、見てる世界が別物に感じました。
まるで「世界にかかっていたもや」が取れたような、そんな感覚になったのです。
今朝、この記事を読み、そんなことを思い出しました。
http://kumisensei.blog21.fc2.com/blog-entry-2045.html
目の前の「世界」をちゃんと見て、自分の周りの「世界」の音をちゃんと聞いているのか……。
まずはそこからなんでしょうね。
多分、あたしたちは、見ているようで見ていなくて、聞いてるようで聞いていないことだらけなんだろうなぁ…。