自分の資質と器の大きさを知るだけでも、多分ちょっとは違うんだろう、と思いたい。

今さっきまで、ダウン症の小さい子がいるお母さんたち2人がうちに来てくれて、おしゃべりをしていました。
あー。
おしゃべり……といっても、私がいっぱい話してたんですけどね。
というのも、うちの子は小3で、そのお母さんたちの子は2歳と1歳なので、
ダウン症の子がどんなふうに成長していくか、を聞きたい、というのがあるからです。
そして、きょうだい児と障害児との関係性をどうやって良好なものにするか、とか、
きょうだい児をどうやって育てるか、というのも、障害児の親にしたら悩ましかったりするんです。
そうは言っても、私はかなり楽観的に子育てしてきているので、ほんとにお役に立つような情報になってるのは不明なんですがね。
そうなんです。
途中から双子を育てるような感覚になって、家中に「気をはりめぐらせて」子育てしていたので、精神的にも肉体的にもしんどかったんですが、
でも、子育ての考え方というのは基本的にとても楽観的なものでした。
それは、第一子がダウン症と分かってから、そうなっちゃいました。
あれこれ悩んでも仕方がない、今この子が元気におっぱい飲んでたくさんウンチしていっぱい笑ってくれたら、それでいい、という腹のくくり方をしてしまったので、
一時的に自分が悲しくなっても切なくなっても、子供はきっとちゃんと育つ、と楽観的に考えていました。
心配なことなんて、数えだしたらキリがありませんもん。
障害児の親は特に、誰かに「この子は大丈夫だよ。」と言って欲しいものかもしれません。
自分の中の大きな不安を、誰かの言葉で払拭したくてたまらないのかもしれません。
去年の末で、このお母さんたちの子供たちも通っていて、うちの息子も3歳になる前からお世話になっている児童デイサービスの所長さんが引退されました。
もっと若い頃には、息子も通ってた保育園を立ち上げたような人で、とてもバイタリティがあって、とても子供が大好きな人で、
児デイに通っているお母さんたちの中には、彼女を心の支えとしてるような人もいたと思います。
今日のお母さんたちもそのような発言してましたし。
誰かの心の支えとなる
というのは、なろうと思ってなれるものじゃないし、きっと本人はそうなろうなんて思ってなくて、自分のすべきことを一生懸命やっていたら、そうなってた、というものなんだろうな、と思います。
ただ、
誰かの心の支えになるような人というのは、やはりどこか人に対してオープンな人が圧倒的に多いよな、と感じます。
所長さんは、まさに「オープンな人」だと私には見えました。
それは、もともとそういう資質の人なんだろうと思うのですが、それに加えて、子供たちのことを第一に考えるから大人たちに対して自然とそうなっていったのだろうと想像しています。
でも、それは、とても疲れるのだろうな、と思うのです。
とても、とても。
自分を切り売りするかのような、「オープン」さでは、いつか疲れ果ててしまうし、
かと言って、人に対してオープンになれなければ、何も動き出さないし、
人によってそれを切り換えるというやり方は、立場によっては解決法にはならないし、
人に対してオープンであること、というのは、ものすごくものすごく難しいなぁぁー、と思います。
私の場合も、実はオープンになることの方が簡単です。
でもそれ自体は、人として美しいことでもなんでもなくて、ただそういう資質というだけです。
もしも私の「器」が無尽蔵に大きかったら、それは仏様の慈悲のような、そんなものになり得るのかもしれませんが、
残念ながら、器が非常に小さいためにオーバーフローをすぐに起こして、逆に人を傷つけてしまう…ということもたくさんありました。
だからって、出力を絞りすぎてびっくりするほどクローズ状態になっていた時期もありました。
いや、今でも人によってはびっくりするほどクローズになることがあります。
おいおいそりゃ過剰防衛だろ?と自分でも感じるくらいです。
とにかく、出力調整は未だに下手くそで、友人にハラハラさせております。
出力全開とするには、神我一体となるか、死ぬしかないので、
やはりここは、自分の器の小ささをしっかり自覚して、どのように人と関わるのかを模索し続けるしかないんだろうなー、と思っています。

人の話を聞く、ということ。

さっきたまたまこれを読みましてね。
http://www.1101.com/suo_kusakari/2011-06-27.html
超一流の人の言葉はずしーーーんと重いですね。
草刈民代さんが、
++++++++++++++++++++++++++++++++++
徹底的に人の言うことを聞く人のほうが
上達しやすい。
私が、「あ、この人はすごい」と思う人は
いろんなものをちゃんと受け入れて、
最後に自己主張する、という人が多いんです。
特に女性が多いけれど。
それは決して「私が、私が」ではない。
そういう人たちはとても立派です。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
と、言ってますが、これはバレエに限らず、人生のコツかもな、と思いました。
もちろん、バレエなら「先生」が誰であるかは明確だけれども、普段の生活の中で「誰の話を聞くべきか」というのを選別するのは簡単ではないかもしれません。
それでも、信頼できる人だと思えた人の話は、まず自分の中にまるごと受け入れてみるということができるかどうかというのは、大きく成長できるかどうかを左右するよな、と思うのです。
聞きながら「ああ、これは違うな。これは無理だな。」と判断してぱっぱっと選り分けてしまうと、うわっつらの判断だけで大事なことをスルーしてしまう場合がとても多いからです。
自分がとても未熟なうちは特にそうです。取りこぼすものが多すぎます。
まず受け入れてみて、じっくり考えてみて、濾過する……みたいな感じですかね。
人の話を聞く、というのは、そういうことなんじゃないかな、と私は思っておるのです。
良い意味でのプライドって大切だけど、弱い自分を護るためだけのプライドがガチガチだとまず「人の話をまるごとい受け入れる」ってできないし、
耳の痛い話だと、誰だって逃げたくなって言い訳したくなるし、
めんどくさいなーって思うと、これまた言い訳しまくりになるし……。
ほんと「人の話をちゃんと聞く」というのは難しいです。
でも、だからこそ、それができるとどんどん成長できるんでしょうね。
そいえば、書家の武田双雲さんも似たようなことを言ってたなぁ。
やはり超一流の人は、うすっぺらい自我になんて固執せずに精進してるんですね。

2012年12月21日が過ぎ、これはアセンションへの変容のひとつなのか?

めっちゃ日常的と言えば日常的ではあったのだが、
それでも、少しばかり「いつもの金曜日」ではなかった昨日。
近所のお寺にお不動さんをお参りし、いつも冬至に出してもらう御札をいただく。
家族みんなで。(←なんだかんだで何故か家族みんなで行けた。)
そして、一夜明けて。
子供たちに起こされた。
変な夢を見ていた。
おとーちゃんが死んでしまった夢。
すごく嘆き悲しんでいたのだけど、ごちゃごちゃした後、おとーちゃんが新しい違う身体になって生き返ってきた。
前の身体よりいい感じ、と言うおとーちゃん。
それは良かった、とホッとする私。
よくよく考えてみると、なんともいろんな示唆を含んでいそうな夢だ。
そして、じゃあお布団を畳むかねー……と、のそのそ畳み、ぺたんと座り込む。
まだ眠い。
しかし子供たちを着替えさせなければ、と立ち上がったその時、
ピキっ!っと電気が走ったのだ。
腰に。
マズい。
……と、本能的に思った。
腰を中心に身体をいろいろ動かしてみる。
動かし方によっては、重くて痛い。
やっちまったようだ。
これは、きっと、
軽いぎっくり腰だ。
魔女にかるーい一撃をもらっちまったようだ。
初めての経験だが、死んだおばーちゃんがよくなっていたので、なんとなく分かる。
私は名古屋に住んでいた時にカイロに時々通っていたのだが、そこでも首は最悪だけど、腰は問題ないといつも言われていた。
確かに腰痛とは無縁だったのだ。
なので、まさかのまさかだった。
以前、クリニックの先生に試供品のデカい湿布をもらっていたので、それをおとーちゃんに貼ってもらい、日常の家事をこなしてはいる。
ただ、猫背(というか、みぞおちあたりのエネルギー菅がひどく詰まっていたために、そこに力が入らず、子供の頃からずーっとお腹が立てられなかった)でいるより、ぴっとお腹を立てている方が腰には良い感じがするので、そうしていたり、
腰を曲げてではなく、膝を追って下にあるものを拾ったりするので、いつも使う筋肉ではないところを使うので、少しキツい。
しかし、これは背筋がピンとなるし、所作もキレイになるのだ。
なんという副次的効果。
……でも、ハードだ。
こんなことが、アセンションへの変容だとはもちろん言わないが、
節目と言われていた昨日の翌日に変な夢を見て腰に一撃を軽く受けて、不思議な気分であるのは確か。
第三密度から第四密度へと変化していくことになるのなら、なんというか……自分の持っているざらざらしたものとの「摩擦」みたいなのことが一時的に激しくなるのではないか、とも思えるからだ。
そうなると、今まで以上にいろんな「不都合」や「病気」などという形でその「摩擦」が現れやすくなっていくのでは、とも思うからだ。
自分の持っているざらざらしたものを手放せばいいのか、というと、それもまた少し違っているような気がして、
どういうところに自分の重心を持っていけばいいのか、はとても難しいのだけれど、
それでも、そのざらざらしたものを生み出している「自分の魂」のその部分に触れるところまで手を伸ばして行けるかどうか、が大切なような気がする。
ただ、ライブ参戦4日前なので、軽いといえどもぎっくり腰だなんて、めっちゃドキドキしてしまった……。
ひぃぃぃ。

国の礎となるもの

選挙前は、Twitterやmixiで選挙行こうぜー選挙行こうぜー脱原発・反TPP・改憲反対のところがいいなーって書いておりました。
そして結果は自民圧勝。
昨日は冷静にその結果について思うことをつらつらとmixiの日記に書いておりました。
なのでここでは割愛。
さて。
そんなわけで、普段と違って政治色の濃い日記やツイートが多かったわけですが、
数日前、ひゅるんとメールが1通届きました。
天使の絵をご購入くださったことのある女性からでした。
とても控えめに、私の意見とは異なる意見を述べておられました。
そこで3往復ほどメールをやりとりをさせていただいたのですが、徐々にその方の意見そのものよりも、その方の在り方の方が気になってきました。
やりとりを通じて分かったのですが、その方のご両親は子供の頃から彼女の意見をちゃんと聞かずに自分たちの意見ばかりを押しつけるように子育てされたようなのです。
そのため彼女は大人になった今でも、ご自分の意見を言うことに臆病になっていらっしゃるようでした。
ですから、誰かに「それ違うよ。」と言われると、すぐにご自身の意見をひっこめてしまうらしいのです。
そして何故か、彼女の周囲には彼女とは(さまざまなことにおいて)ひどく異なる意見を持つ人が多いというのです。
そんな方が私に対して「私はこのような意見なのですが。」とメールを送ってくださったことって、なんだか奇跡的なことじゃないか?!とすら思えました。
ご本人も、あのタイミングじゃなかったら勇気を出してメールしなかったと思うとおっしゃっていました。
彼女もおっしゃってましたが、特にネットでは自分と違う意見の人に対して人格否定的な言葉を投げつける人も多いけれど、そうではなく、建設的に意見を言い合えるようにならないといけないんですよね。
それは学校で学ぶ部分もあるけれど、やはり小さい頃からの家庭環境がすごく効いてくると思うのです。
親は子供の意見にしっかり耳を傾ける。
頭ごなしに子供の意見を否定しない。
その上で、分かりやすく親の意見も伝える。
そして、子供にじっくりと考えさせる。

そのように育てられた子供は、意見の違う人と出会ってもきっと「死ね」なんてコメントをしたりはしないでしょう。
そのように育てられた子供は、自分の意見をハッキリ言えずに流されるということもないでしょう。
でもね、そうやって子育てをしようとすると、親はものすごーーーーく忍耐強くなければならないんです。
子供を育てるということは、親自身を育てるということなんです。
カンタンじゃないですよ~、キツいですよ~、できないことも多いですよ~ 反省ばかりですよ~。
うちは旦那さんもしっかりそこらへんを意識してる人なので、それでなんとかなってるようなもんですよ~。
ちょうど、じぇいど♪さんもまんさんも「母親としてできること」を、今回の選挙を通して書いてましたが、ほんとにそのとおりだと思います。
親ができることって、ものすごく大きいですよ。
いえ、親にしかできないことをしっかりやり遂げようと思ったら、ものすごくエネルギーを費やさないといけないんですよ。
自分自身も育てつつ、子供を育てる。
昔から言われてるような言葉ですけど、それを意識してるだけで、日本をより良い国にする礎になるんですもんね。
何事も基本が大事ってことですね。
※追記※
そうそう。
この江川さんの記事をぜひ読んでみて欲しいですよ。
特別寄稿・江川紹子  選挙は終わった 安倍氏やマスコミに願うこと、自分が心がけること <衆院選・特別コラム>
http://news.goo.ne.jp/article/gooeditor/politics/elex/gooeditor-20121217-01.html?__from=mixi

なんだかんだ言っても現れている不調和は自分の中にある「ほんとうのほんとうの原因」を見つけないと解消しないんだろう。

名古屋で心療内科に通ってた頃は、まだ強烈でした。
赤ちゃんやよちよち歩きの子、男の子なら全然問題ないのですが、
6歳くらいより大きい女の子がお母さんに甘えている姿を見ると、いたたまれないような気持ちになって、その場にいられなくなっていました。
ものすごく分かりやすいですよね。
ですから、私は女の子は産みたくないと思っていました。
子供が6歳くらいになった時に、私はちゃんと愛情深く対応できないだろうと感じていたからです。
それから、まさに「自分探し」ではないですが、自分というものをいろんな角度から知ることで、その歪みも少しずつ取れて行きました。
それでも娘を産んだ時には、まだ「え?あたし大丈夫か?」と不安はありました。
私の場合は、
オカンが持っていた祖母への葛藤が、じわりじわりと毒のように6歳の頃から私にもしみこんでいったために、実態の無いまるで幻影のような葛藤が私にも生まれたのだと思います。
それに気づいてからは、オカンに対しても楽に接することができるようになりましたし、娘を育てることへの不安は全く無くなり、
娘は来年の2月で6歳になりますが、もうかわいくてかわいくて、毎日ぎゅーっとしては「生まれてきてくれてありがとぉ~。」と言ってます。ラブラブです。
人間誰しも、大小さまざまな葛藤があり、歪みがあり、ブロックがあって、すーっと通りの良い心持ちでは生きられない場合がいっぱいあると思います。
でも、少しずつ少しずつ自分を深く、多角的に見つめることができるようになっていくと「ほんとうのほんとうの原因」にもいつかたどり着いて、
すーっと通りの良い心持ちに少しずつ近づいていけると、私は自分の経験から思います。

「あちこちものすごく欠けている円」なんだけど…。

乙武くんの記事です。
http://ototake.com/mail/207/
これ、ツイートしてたのを読んだんですけど、
ほんとにね、何が「幸せ」なのかってのは、自分で見つけるしかないですよね。
私は、自分が幸せだと思うんですよ。
不幸だと思ったことがないというか。
人生において「イヤだ。」と思うことはいーっぱいありましたけど、それでも自分が不幸だと思ったことは無いんです。
息子がダウン症だって分かった時でも、自分も息子も不幸だとか可哀相だとか、これっぽっちも思いませんでしたし。
もちろん辛かったですよ。しんどかったですよ。
言葉で「辛かった、しんどかった」なんてサラリと言ってますけど、そりゃ心の中はものすごいことになってましたよ。
でも、それでも、不幸だとは思わなかったんですよ。
そして、だいたいにおいて、私は「私の人生って幸せだ」と思ってるんですけど、
だからって満足してるわけじゃないんです。
足りないなー、って思ってることの方が多いです。
もっと丈夫で健康だったらいいのに、なんて、もう20年以上ほぼ毎日心の深いところで切望してますもん。
身体がしんどいのって、ほんとーにイヤですし。
情けないし、申し訳ないし。
なので、私のセルフイメージって、あちこちものすごく欠けている円…みたいな感じなんです。
欠けまくり。
あれこれ足りない。
圧倒的に足りない。
腹が立つくらい足りない。
と、自分自身に対してはそうなんですけど、
でも、自分が手にしているもの、与えられているものに対しては、素直にありがたいなぁ~って思えることが多いんです。
これはむりむりにポジティブ志向でそう思ってるんじゃなくて、ほんとにそう思うことが多いんです。
なので、私の幸せは、絶妙なバランスが生み出してるものなのかもしれないですけど、
でも、幸せなんてそんなもんかもしれないですよね。
あちこちグラグラだけど、どこかキモになるビスが1つだけしっかり留まっていたら、それでかなりの部分がうまいこと回っちゃう…みたいなものかも、なんて思ったりします。
みんなそれぞれ、その人その人のキモとなるそれが見つかるといいですよね。

お腹に「怒りのマグマ」が溜まっていないか?

ちょっとツイートもしたんですが、
今朝のNHKの「あさイチ」で夫に暴力をふるう妻ってーのをやってたんですね。
その中で、「誰でもなりうること」というようなことが言われてたんですが、いやいやいやー、やっぱ「暴力」に至るか至らないかの境界ってデカいぞ、と思ったんです。
夫婦の関係なんて夫婦の数だけあって、もちろんいろんなケースがあるとは思うんですが、
でもね、「暴力」となるケースというのは、暴力をヨシとする背景が少なからずあると思うんですよ。
なにかしらの「暴力をヨシ」とする背景……親がすぐに怒鳴る手を出す、というようなね。
そういう学習を無意識にでもしてしまってる気がするんです。
「やめたくてもやめられなくて苦しい」
と、暴力妻は口を揃えていいますが、それって依存症と同じですよね。
些細なことでも夫が自分の思ったとおりの「反応」をしないと、強い怒りという感情が噴出してきて、それをコントロールできなくて暴力という方法で解消してスッキリしてるだけなんだろうな、と思ったんです。
で、スッキリしてから罪悪感に苛まれることになるわけなんでしょうけど、
『夫が思ったとおりの反応をしないことに強い怒りを感じる』というのも問題だし、
感情をコントロールできないのも問題だし、
それを暴力という形で表現してしまうというのも問題だし、
なかなか根深いよねー、と思いました。
昨日、月子さんが遊びに来てくれて、2人で映画「天地明察」を見に行ったんですけどね、
ウチに帰ってきてから、似たような話をしてたところなんです。
もちろん「暴力をふるう妻」という形態ではなく、会社の「困った先輩」という形態での話だったのですが、
私も「困った先輩」にトホホとなった経験がありまして、2人でいろいろ話してたのです。
で、
やはり、「自分の思ったとおりに人が反応しない」ことに強い怒りを感じ、それを暴言やらモノに当たるやらということですぐに反射的に表現してしまう人というのは、
お腹の中に「怒りのマグマ」が溜まってて、ちょっとしたことにすぐにそれが刺激される
んだろう、という結論になったんです。
きっとそういう人は、「相手が悪い」と信じ込んでるんだろうけど、他人から見ると「そんなふうに怒るようなことでもないし、なんでそんな反応になるの?」と不思議でしょうがないんですよね。
夫でさえ、反論してもしょうがないから何も言わない……となりやすいんですから、他人ならなおさらですよね。
だから自分の中の「回路」の歪みに気づくことも難しくて、どんどん悪化しやすいんだろうなー、と思います。
怒りのマグマ溜まりがお腹にできちゃうような人って、多くは「すごく不安定」だと思うんです。
どっしりとした根っこを形成できないまま大人になっちゃったような、そんな不安定さがあると思うんです。
本人もとても生きにくいだろうし、周りも正直とても迷惑です。
だから、あさイチでもチラっと言ってましたが、紙に(激しく反応した出来事に対しての)自分の感情・考えをアットプットして、それとはまったく別の考え方を冷静になって考えて、それも紙にアウトプットして……というのを続けてみることで、自分自身の認知の歪みに気づくことはとても大事だろうな、と思います。
それができないと、自分の中の怒りのマグマ溜まりの存在になんて気づけるわけないでしょうしね。

腹の底から思えた……からの。

昨日の日記をアップした後に、夕食の準備をしてたんですわ。
ざっくざく野菜を切っておりました。
あれやってーこれやってー……と、手順を頭の中で考えつつ、ざっくざく切っていたので、さっきの日記のことなんてすっかり忘れてるぜ状態でした。
そんな状態なのに。
ふと、頭にぽんと、あることが浮かびました。
それは、言葉としてではなく、思考のカタマリのようなものでした。
それをむりむり翻訳してみると、
オカンってば、あたしがお腹にいる時とか、赤ちゃん…小さい時とかに、
私に対してネガティブな感情を持っていたことがあったんだな。
それが、私を縛りつけてたんだ。

って感じです。
ほんと、むりむりです。
これだけで言い表せていないです。カタマリなので。
妊娠しなきゃよかった、とか、生まなきゃよかった、とか、
そんな感じかもしれないですし、
なんでこの子は……とか、ネガティブにもいろいろあるとは思いますが、
何かそういうのがあってもおかしくはないな、と思いました。
オカンはそれまでにもキツいことがいろいろあった人ですし、
結婚しても特に金銭的苦労は大きかったですし、体も弱かったですし、
つわりもほんとーにヒドかったそうなのでね、
結婚し、子供を妊娠して産んで育てる…という過程の中で、特に「娘」である私に対しては過去のことコミでネガティブな想いを持ってもおかしくはないよなー、と、「娘」ってもんを産み育ててる今の私にはカンタンに想像できちゃうんです。
もちろん、「お前なんか産まなきゃ良かった。」なんて類のことを言われたことは無いですし、そんなそぶりを見せられたことも無いんです。
だから、ほんとに一時的なものとして、ネガティブな想いを持っただけなんだろうなー、とも思うんです。
けどね。
その想いがね、じわじわー…っとね、私を縛りつけるような……なんて言えばいいのかなー…。
なんかこー……呪いとまでは言わないにしても、ネガティブな方向に私の体や思考をひっぱる1つの要素になってた……みたいな感じなんだな、と、思考のカタマリとしてドンっと浮かんで、
一瞬にして、納得しちゃったんです。
ああ。
もうそれは、しょうがないことだったんだし、そもそも許すとか許さないとかって話でもなくて、
気づいたんだから、もうそれを解除しちゃえば済むことなんじゃない?
と、次の瞬間には、野菜をざっくざく切りながら思いまして、

ミカエルー。
おねがーい。
とっぱらっちゃってー。

とお願いしました。
野菜をざっくざく切りながら。
この間、ほんの数秒です。
野菜切り終わってませんもん。
自分の身体に深く感謝することができて、
オカンに産んでくれてほんとーにありがとうと深く感謝することができて、
自分の身体を信用しようと、腹の底から思えた……からこそ、
コレがやっと浮き上がってきたんでしょうね。

信じよう、って、お腹の底から思えたんです。

いっこ前の日記で、自分の体に「ありがとうありがとう」ってお念仏のように言ったら……と書きましたが、
その翌日に、
「自分の身体に初めて深く感謝できて、そしたら一瞬だけど世界が違って見えた。」
という私としてはかなり内的インパクトが大きい出来事があったんです。
そのおかげで、今まで自分の体に感謝しなくちゃ、と思ってはいたけど、本気で感謝するなんて気持ちになったことがなかったんだな、と初めて思い知りましたし、
丈夫じゃなくて、モロモロのスペックが低いこの体をとてもじゃないけどちゃんと受け入れるなんてできるかー、ってのが、心のどこかに常にあったように感じます。
染色体が1本多い息子の体はすっかり受け入れてるのにね。
そしたら、その夜に、うさみみさんのこの記事を目にしたんです。
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-1475.html
正直うわー、って思いました。
ええ、ほんとに。
感謝するって、すごいことなんだ、すごい大切なんだ、とさらに教えられた感じです。
それでね。
深く感謝できたら、オカンに対して本気の本気で、
「産んでくれて、ありがとう。」
って、思えたんです。
今までの感謝とは比べ物にならんくらいに。
そう思えたら、なんてゆーかですねぇ……
自分の体を信じよう
って気持ちに、なれたんです。
いつ調子悪くなるかわかんなくて不安ばかりで、スペック低くて嫌気がさしたり…ってのばかりだったのに、心底そう思えました。
私が、自分の体を躊躇なく信じられたのって、出産の時だけだったかもしれません。
あの時は……なんでなんでしょうね。
自分の体は絶対大丈夫、ちゃんと子供を産める、って不思議と信頼してたんです。
もしかしたら、ちょっとした「介入」があったのかもしれませんね。
ふふふ。
もしかしたら、これは私にとったら、大きな節目になることかもな、と、感じたりしてます。
まだまだいろいろあって不安にもなるだろうけど、信じようって思えたのは、私にとってはすごいことですもん。

「初音ミクとスピリチュアル」というサブタイトルに惹かれてしまいましてん。

「初音ミクとスピリチュアル」というサブタイトルがついてるやつを一気読みしましてん。
http://pub.ne.jp/marunohi/?cat_id=156225
んっとに久々に、なぜかなんとなーく「まるの日さん」のブログをクリックしてみたら、初音ミクを通してスピを語っていて、めっちゃ興味深かったです。
ヘミシンクは坂本さんの本を何冊かは読んだんだけど、自分でやりたいとはどうしても思えず、
まるの日さんのブログもちょっとだけしか読まなかったんですよ。
でも、このシリーズはめっちゃおもしろかったなぁ~。
今、自分に必要なこともあちこちに書かれてるなー、と思いましたわん。
ありがてー。