納得して、人生を生きてる?

今朝の「あさイチ」が専業主婦特集で、
いきなり「年収1000万円以上の人をみつけて結婚して専業主婦を目指している」という外資系金融企業にお勤めのお嬢さんが出ていて、ツッコミどころがいっぱいで、笑っちゃったんですが、
その後は、旦那に「働かないの?」と言われてから、家にいる間にかかる光熱費が気になるようになって、冬でも暖房つけない奥さんとか、
旦那さんにそう言われて、「旦那さんの多くはない給料からやりくりしてこんなに貯めてるんだから」と貯金額を見せて、専業主婦を堂々としてる奥さんとか、
いろんな現実の奥様の話があって、
洗濯物干しながら、へぇぇぇーと見ておりました。
女性が働きやすいシステムになっていない、というのは、たしかに大きいと思うんですよ。
でも、それって、女性の問題というより、根本的なところ……
「お金と労働」って何よ?
「社会」って何よ?

っていうところをじっくりみんなで考えていかないといけなくて、シテスムだけを作り上げればいいってことじゃないよなー、と思うんです。
なので、女性の問題に限ったことじゃないんですよね。
ぶっちゃけて言えば、
人任せにしてないで、1人1人がもっともっと賢くならないといけない
と思うんです。
だって、お金や労働や社会ってものを根本的なところから見直して考えていく…なんてことは、
「人間って何よ?」
っていう問いでもあるんですもん。
「社会」を作り上げて、その中で生きる生き物としての性があるんですから、
その「社会」に対しての責任ってものはイヤでも発生するし、
それは規範を守るとか納税とかっていうカタチで責任を負えばいいって……考えていたら、多分もう甘いんだろうな、と思うんです。
個人個人の意識の高さが、どんどん重要になるんでしょうね。
まさに、アセンションじゃないかー。
で。
さっき、こんなツイートをしました。
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私は自分の母親と性格的に合わない部分が多いんだと思うし、オカン自身が母親に対して心に傷を持ってる人だったので、なにやらややこしい心理状態に私もなり、20歳の頃は結婚もしたくないし子供もいらないと思っていた……けど、おかげさまで旦那さんは理解ある人だし、子供も2人産めたのですよ。
まぁ、子供産んだのは34と38の時で遅いんだけどね。でもそれでも子供を産んで育ててみて、育児がどれだけ大変かとか、子供ってどれだけかわいいものかとか、そういうことがよーく分かって、オカンありがとうって心から思えるようになったし、どんな犯罪者もかわいい赤ちゃんやったんやと思うと、
こんなふうになっちゃってとてもかわいそうで、残念でならない……という、それまでとは違った感情でもってニュースを見るようになったりして、出産育児という経験はすごいものだな〜、と自分のことなのに感動すらしてしまうことがあるのですわ。
今朝の「あさイチ」は専業主婦がテーマだったんだけど、専業主婦が合わない人は働けばいいし、経済的に許されるなら家事育児と仕事が両立できない人は専業主婦でニコニコしていればいいと思ったのです。自分の生き方は自分で決めるものだものね。
私は子供たちが小さい時にはべったりとできて、専業主婦って立場でいられてありがたいな!と思ってるですよ。小さけりゃ小さいだけ目先のことに追われて慌ただしいばかりだったけど、でも子供たちは常にお母さん大好きオーラ全開で慕いまくってくれて、こんな幸せなことって無いと思いますもん。
どんな生き方も、自分で決めて、自分で納得しないと、他人の言葉でグラグラしちゃうんだろうな、と思いました。

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とりあえずはね、
自分の人生を納得して生きてるかどうか、を自問して、
してないなら、どうして?ってどんどん自分を追求していくことから始めるしかないんじゃないかなー、と思うですわ。

当たり前のことは、当たり前じゃない。

昨日の夜、乙武くんと国分太一くんが対談している番組を見ました。
乙武くんは手足が無い身体でも一度も親を恨んだこともないのは、親が愛情たっぷりに育ててくれたおかげで、自己肯定感がもっさり出来上がっているからだ、と、いろんなところでも発言してますけど、
自分が親になってから、抱っこもできない、オムツも替えてやれない、お風呂も入れてやれない……という、(子供のためにも奥さんのためにも)してあげたいのにできない無力感を初めて深く感じたと言っていました。
愛情が深ければ深いほど、その無力感って大きかったろうなぁ~、と、簡単に想像できました。
そして、変な言い方かもしれませんけど、その無力感はきっととても必要なネガティブな感情だったんだろうなぁ、と思いました。
ポジティブな感情だけでは「突き抜ける」ということはできないような気がするからです。
(だからって、ネガネガうじうじすること自体が良いこととは思わんけどね。そういうことじゃない。)
子供を授かるというのは、自分の想像なんて遥かに超えたさまざまな出来事やそれに伴って自分の中から湧き出す想いを経験し、ひーひー言いながらも気づいたら「突き抜けてた」なんてことの連続だったりするんですよね。
そうやって、なんとかかんとか「親になっていく」んですよね。
そして。
太一くんが乙武くんに、奥さんのお腹の子が自分みたいな障害のある子だったら?って考えた?と聞いたんです。
そしたら、彼は、
障害があったとしてもかわいそうとは思わないし、自分が育ったように育てればいいって思ったけど、
それとは別に、物理的な問題として、奥さんの負担が大きすぎて家の中が回らないだろうから……
と答えていました。
それはねー、すごく分かるんですよぉぉぉぉぉ。
うちも第一子の息子がダウン症なので、第二子の娘がお腹にいた時に、ちょっとは考えたんです。
「1/1000の確率だから、またダウン症ってことはないと思うけど、他の障害ってのもたくさんあるわけで、また障害のある子だったらどうしよう?」
と、おとーちゃんに聞いたら、
「うちに生まれてきたかったんなら、それでいいんじゃない?」
と、おとーちゃんはアッサリ言いました。
そだね。
そうやって生まれてくるかどうかは、赤ちゃんが決めるんだろうから、受け入れるしかないねー。
………でもね。
それだと、多分、あたしが持たないなぁ。
身体がバリバリ丈夫なオカンっていうならまだしも、こんなだからなぁ~。
だから、健常児が生まれてきてくれるとありがたいなー。
と、思ったんです。
(で、妊娠中は、それくらいで後は余計な心配とかしなかったんですわ。生まれてみないと分からんから~って。心配を先取りしてもつまんないだけだし。)
おかげさまで健常児の娘が生まれてくれましたが、それでも「癇の強い子」で、ほんとに手のかかる子だったため、
成長の遅い息子と一緒に「双子を育ててる」ような感覚に数年間はなっていました。
健常児ですら毎日ほんっっっとに大変だったので、障害のある子だったらほんとに家の中が回らなかっただろうなー、と思います。
さて。
さきほど、Eテレで、足と右手がちょこっとしか無い小3の男の子を取り上げた番組をたまたま見ました。
左手だけはちゃんとありました。
一緒に見ていた娘(もうすぐ小学生)が、なんであんな身体なの?と言うので、いろんな理由でお腹の中にいた時に手や足が上手に育たない子もいるんだよー、と教えました。
そして、
「この子は手が片方だけでもちゃんと育って、ほんとうに良かったよね。片手だけでも手があるとご飯も自分で上手に食べられるし、字も書けるし、顔が痒くても自分でぽりぽりできるし、ほんとうに良かったね~。」
と、私が言うと、
「ほんとだね!ほんとにそうだね!良かったね!」と、娘が目を大きくしながら言いました。
昨日の乙武くんの無力感の話を聞いたばかりなので、余計に強く私もそう思いました。
自分ちの子の障害よりも重い障害の子を見て、たとえば「息子はこんなにいっぱい話せるし、元気だし、良かった。」と思うことは度々あります。
でも、それはもちろん弱者同士で比べあって相手を見下すとか、優越感を持つとか、そういう類の「良かった」ではなく、
当たり前と思ってることは、当たり前じゃなくて、こうして在ることをまるごと感謝しなきゃ~!
みたいな感覚なのです。
息子の保育園で、誰かのママさんが苦笑いしながら言ってた言葉を時々ふと思い出すことがあります。
「生まれる時は、五体満足で元気で生まれてきてくれたらそれでいい、って思ってたのに、成長するにしたがって、親の欲がどんどん大きくなるんだよね…。」
って。
当たり前のことは、決して当たり前じゃないって、時々ちゃんと思い出すべきだよなぁ、って思います。

アニマ・アニムスと上のヒトたち

先日、ツイッターでいけだ笑みさんとまついなつきさんのやりとりを見かけました。
https://twitter.com/emi0711
https://twitter.com/matsunatsu

いけださん
アイドルは異性に魅了される原理とまったく別の回路を使うので、ホロスコープから担当や推しを選ぶの簡単。異性愛は化学反応なので、複合図形とかオポジションとかめぐり合わせとかあって複雑すぎるけど、アイドルは自分の最高にイケてる状態の純粋な自己投影的な側面が強いみたい。
いけださん
簡単にいうと、自分のネイタルの太陽か月のあるハウスのナンバリングのサイン対応か、惑星集合が起こっているハウスのナンバリングのサインに、太陽か月を持つアイドルを担当すると楽しいはず。まついさんなら、牡羊座か蟹座ライツの、相葉くん、やまP、大倉くん、どつよ、あたりはどうですか?
まついさん
うーん、なるほどジャニーズは子どもだしなあ…。というか、わたしの父親は牡羊太陽、蟹月なの。ふつーにファザコンなんだよ、だめだこりゃ。
いけださん
えーーー。だって子供じゃないアイドルなんていないじゃないかー。アイドルに自己主張あったらアーチストとかロックにならない?
まついさん
あああ?ええっ?せんせい!わたし根本がまちがっていたかも(ひれふす)
いけださん
セックスよりも、オナニーのほうが気持ちいいってところから考えなおしてください。異性なんて、あんまり気持ちよくないよ?本当の快楽は自己愛の延長にある異性との妄想。
まついさん
はっ!(オタ先生が吠えよる!)

ナンバリングって何だ?と分からなかったので、月子さんにこれを貼り付けて尋ねてみました。
(それについてはすぐに教えてもらえてよく分かったんですが横に置いとくです。今回はそれが主題ではないので。)
そこからちょいとばかり月子さんとも話したのですが、
それとはまた別に、mixiの「つぶやきのお題」に「恋って何?」というのを見てからこっち、なんだか「恋」ってものにフォーカスした記事をアレコレと目にするので、ツイッターの方でも「恋って何よー?」といろいろつぶやいておりました。
するとちょうどいいタイミングでぴ子画伯の日記を目にしたのです。
「非現実的な恋をする理由を考察してみる」
http://plaza.rakuten.co.jp/33sun/diary/201303170000/
この日記の中で、ぴ子さんが恋とアニマ・アニムスの関係について書いていて、
「ああー、あたしも以前、それについて書いたっけー。」と思い出し、自分のブログを漁ってみました。
これですね。
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-526.html
すると、月子さんが、
「アニマは1人でも、アニムスって複数いると言われてるんだってー。」
と教えてくれました。
そこからなんとなく検索をかけてフラフラ見てみたら、こんな記事を見つけました。
http://shinriryouhou.blog2.fc2.com/blog-entry-562.html
とても分かりやすいですね。
それから、これ。
http://charm.at.webry.info/200608/article_9.html
アニマにも発達段階があるんですね。
アニムスの発達段階は、こちらにありました。
http://y-chida.jugem.jp/?eid=138
と、他にもいろいろばっさーと斜め読みしているうちに、あれ?と思いました。
「上のヒト」というのは、それを関知している人たちにとって、それぞれさまざまな意味合いがあると思うのですが、
その1つとして、アニマやアニムスが人格化しているもの、という捉え方ができると思うのです。
私はタミエルというのはずーっと私の男性性の象徴でもあると思っていました。
もしも、タミエルが私のアニムスの1人だとすると、もうすでに第四段階にいることになるんです。
また、他の上のヒトであるファウには……まぁ、ツインというのかパートナーというのか……がおりまして、
彼はまさに「片割れ」みたいな存在なのですが、彼もアニムスの1人と見なすこともできるよなー、と思ったのです。
そうだとすると、彼は第二段階なのです。
アニムスは複数存在すると言うのなら、さまざまな発達段階のアニムスを内包しててもおかしくないのかもしれません。
「私の男性性」という意味では、「穏やかで優しく賢い(でもってテキトーにゆるい)天使」という人格を纏っているので、
それこそ男性としての過去世の経験が男性性をかなり成長させたのかもしれません。
脳味噌の出来ばえの問題があるので、そうは見えないとは思いますが、私ね、女子にしてはこれでもかなりロジカルなのです。子供の頃から。
男の子みたいな言動をするという意味ではなく、本質的な部分で男性的な要素が強いのです。
けれども、女性として生まれているので、しっかり女性的感性と言動をしてます。
女だけでずーーーっとくだらない会話を続けてゲラゲラ笑って……ってのも嫌いじゃないですし。
そこらへんは歳を重ねるにしたがってバランスが良くなっていったように思います。
なので、おかげさまでアニムスが暴走することは無かったんじゃないか、と自分では思います。
しかし、女性性の方は傷だらけなのです。
ですから、そのパートナーであるアニムス(と、するならば)の発達段階が第二段階というのも当然なのかもしれません。
(または、その段階に合わせてくれている、とも言えるのかも。)
ファウとパートナーの関係性は、厳密には恋愛の感情とは違うと感じるのですが、人によってはこれは「恋愛」の情愛と認識するものなのかもしれません。
アニマの第二段階にすごく近いよな、って思います。
とすると、ファウはこれから「聖なる女性」、そして「叡知」へと成長していかなければならないんでしょうね。
(私は女性なのでアニマというものは無いわけですが、女性性もアニマの発達段階と同じような成長段階を踏むような気がします。感覚的にねー。)
上のヒトというのは、過去世の自分でもあるけれど、異性の上のヒトの場合はアニマ・アニムスである場合も多いんじゃないかと思いました。
自分の異性の上のヒトって、なんだかんだで自分の好み・理想の男性であることが多くないですか?
または、同性の上の人のパートナーも。
最高にイケてる異性の自分
であると思うと、愛しくないわけがないですよね。
そのアニマ・アニムスを投影しちゃうことで恋愛感情が生まれるというのなら、より豊かな恋愛をするためには、自我だけじゃなく、アニマ・アニムスも成長させていくしかないよなぁ~と思ったりました。
(でも、暴走させてはアカンのだー。)
と、今回も思いつきで書いてみました。

それでも、私たちは創り続ける。

ティアラクラウンのりゅーらさんと、こんなやりとりをツイッター上でしたところでした。

たみえ
ご新規のフォロワーさんが絵師さんだったので、ネットにアップされてるのを何枚か見せてもらったらとても繊細な絵で「すごいなー。」と唸ったと同時に、自分はほんとに絵が下手だなぁ、とションボリ。(←イマココ) しかし落ち込んでても絵が巧くなるわけじゃないのでションボリを切り上げてみた。

りゅーらたん
わかるなり。素敵な作品は素敵ーってなるけど、自分を振り向いて凹んで、でもっ。頑張るモン。の繰り返しなわたすですもん。

たみえ
おお、心の友よ!

りゅーらたん
wwそうなる度にさー、自分をどれだけ信じれるか試されている気がするのよ。とほほー

たみえ
うっ…(←言葉に詰まってるなう)

りゅーらたん
私もたみえるんも、今のところ自分のスタンスを変えてないじゃん。多分ねー。自覚してないけど、それって最後の最後のところで、自分を信じていると思うんだー。

たみえ
なるほどなぁ~。そう言われるとそうかもしれん。なんかかっこいいやん。あたしたち。

りゅーらたん
格好イイ!そう思ったのは初めてだけど、言われてみればそうかもしれん。。。格好良いぞうちらw

たみえ
かっこいいかっこいい。まぁ、普段はぐだぐだだけどさー。

りゅーらたん
普段は普通の主婦だもんねー

すると、今日。
昨日の日記その絵師さんからこんなコメントをいただいたのです。

たみえさんの絵を見ると
自分の浅薄ぷりに地中深くまでゴゴゴ…となります…orz
我ながらワイルドなグラウディングですw
自分は絵が上手と小さいころから言われて、でも小学校に入ってから、
大人が求めてるのは、上手な絵じゃなくて子供らしい絵なんだなあって感じて。
上手=ダメみたいになってたんですよねえ。
みんな違ってみんないい、とわかっちゃいるけれどもおおおおorz
小手先の技術で描いて、それっぽくみせてしまってるな…と反省大会しております、なう。
でも、たみえさんの絵はきっと、たみえさんの生き方とかテーマにあってることができて、
私もきっとそうなんだと思う…思いたい(汗)
あれですね、胸の小さい子は胸大きい子いいなーっていって、
胸の大きい子は肩こる…とか、小さく見せる下着をわざわざ使うみたいな…苦笑 すごい例えですがw

ほんとうに素直な、まっすぐな絵を描かれますよね…^^ はぁ…orz
絵自体が、まっすぐな瞳をしていて吸い込まれるような気分になります。
自分に向けられた、心地よくまっすぐな思い、まなざしというか。
あ、でもきっと、私の絵は別の魅力があると思うことにします←
好みも人それぞれいろいろあると思うので、私は私の絵が好きな人担当てことで…笑
これでいいのだ、たぶん^q^

こ、これは……
隣の芝生は青く見えちゃうぞ現象
なのですかね……?
ほんとにほんとーにビックリしました。
私からしたら彼女の絵はそれはそれはとても繊細なタッチで、私なんて足元にも及ばないわぁぁぁ~~…って、比べるのも申し訳ないくらい巧い絵だと思うのに、
彼女が私の絵を見て地中深くまでゴゴゴーと行ってしまうなんて「嘘でしょー?」って目が点になりましたもの。
でも、彼女が書いてくれているように、
巨乳さんには巨乳さんの悩みがあるのでしょうね。
貧乳の私にしたら「なによー。おっぱい大きくて悩むなんて、贅沢だわよーーー。」ってことになりますし、巨乳さんの気持ちは真には分かりませんもんね。
巨乳さんは、巨乳さんで、「おっぱいばかり見られてイヤだ。」とか「服も選ばないとならない。」とかあるらしいですね。なるほど、と思いましたけど、
貧乳だって「恥ずかしくて水着になれない。」とか「胸のちょっと開いた服だとぶかぶかになって着れない。」とかいろいろあるんでね、どうしても「んまーっ!贅沢な悩みじゃないのよ~。」って思っちゃうんですよね。
けど、そうじゃないのですね。
自分らしさを大事にして、それを活かす方向を見つけることができればいいんですよね。
もちろん、精進してもっと絵が上手になりたい、という気持ちは大事にしないといけないと思ってます。
けれど、私が彼女の絵を見てションボリしたことも事実ならば、彼女が私の絵を見て地中深くまでゴゴゴーとなったということも事実なのですから、
お互いに良いものを持っているんだ、彼女の絵の美しさとは違う部分で私の絵にも何か響くものがあるんだ、ということなんだな
と、驚いた後にすーっと思えました。
「ああダメだー。」と落ち込んでも、りゅーらたんも作品を作り続けているし、彼女も描き続けているし、私も描き続けているし、
りゅーらたんの言うように、私たちは自覚してなくても、最後の最後のところで自分を信じているんでしょうね。
かっこいいやん。
あたしたち。

アナタは「女子」ですか?

さきほど、こんなツイートのやりとりを見かけました。

佐々木俊尚 ‏@sasakitoshinao
年齢重ねても「女子」というのはタトゥーと同じ、って凄い視点。「見せる相手や場所を限定すれば刺青は自分を表す大事なファクターになるがTPOをわきまえずにひけらかすと周囲に不協和音を」/ジェーン・スー 貴様いつまで女子でいるつもりだ問題 http://bit.ly/12HjvkW
az.Usa(ありぞなうさぎ) ‏@lechatdevinci
@sasakitoshinao 言葉はさておき自分自身くらいは自分が女性であることをアピールしなくちゃというのも。この国ではある年齢以上のきれいでもない女性を女性として扱わない風潮がある。女性は女性で奥さんやおばさんやおばあちゃんではない。海外だったらマダム(敬称)と呼ばれる。

そうねぇ。
そうよねぇ。
海外の現状はどうか知らんけど、少なくとも「マダム」という敬称と同じものが日本語には無いよねぇ。
「女は若くて未熟なのが良い」という傾向が日本人男性には根付いているのかもねー。
だから「中年のおばさんが美しくなろうとする場合、その方向性は若々しくあろうとする」ことが大半なわけで、
そうなると「なんだか痛々しい場合が多い」なんてことになるんだろうなぁ。
……と、自嘲的に思ったのです。
がっつり中年のおばさんですもの。あたくし。
まぁ、世の中のせいにしててもしょーがないので、「女の美しさ」ってものは何だろう?と、根本的なところを見据えるしかないのですけどね。
若いことは圧倒的に美しいけれどね。
そこに異論は無いのだけどね。
でもそれだけじゃないんだなぁー。
で。
佐々木さんが紹介していたジェーン・スーさんの貴様いつまで女子でいるつもりだ問題を読んでみました。
http://janesuisjapanese.blogspot.jp/2013/03/vol7.html
……面白い。
面白かったです。
なるほどなぁ、とニヤニヤしました。
そうなんですよね。
入れ墨というか……私の感覚だと「刻印」みたいな感じがします。
女の子と男の子を育ててるお母さんだとよーく分かると思うんですが、なんかもー赤ちゃんの時から違うんですよね。女子と男子って。
女の子って、生まれつき女子なんだなぁ、と娘を育てながら何度も思いましたもんね。私。
なので、ただ歳を取るだけじゃなくて、人間性を磨いて成熟していった上で、「女子性」もいい塩梅に見え隠れすると、「かわいい女性」になるのかもしれないですね。
どうしたってその刻印が消えるわけじゃないし、
もしも消えてしまったら「かわいいおばあちゃん」になれない気がするんですもん。
人間として成熟していかなくちゃいけないし、
女性の美しさって何かって、自分なりの答えを見つけないといけないし、
ほどよいバランスで女子を開放しないといけないし、
女性が歳を重ねるというのは、大仕事なのかもしれないですねぇぇぇぇ。
がんばれ。あたし。

「運命の出会い」

さっき、こんなツイートを目にしました。
https://twitter.com/signsword

ソウルメイトとは、何事かをなすために生まれてきます。それを探す旅が、人間としての試練です。たとえ探し当てられなくても、一緒に頑張ろうと降りてきた仲間達は、あなたの姿勢に喜びます。ぜひ楽しみながら、サインを受け取ってみてください。

そういうのを「運命の出会い」と言うのなら、
今までの人生で出会ってきた人たちとは全員「運命の出会い」ってことよね~、と思ったわけであります。
その「運命の出会い」をして、「なすべき何事か」に一緒に取り組む……までは予定通りとしても、
そこでどう考えて、どうふるまって、何を生み出すか、は自分次第なんだよなぁ、とも思ったわけであります。
……当たり前のことですね。
で。
できることなら、予定していることは全部クリアしたいので、まだ出会っていないソウルメイトとも出会って何事かをなし遂げて行きたいよなぁ~、と思うわけであります。
出会ってないというのは、時期じゃないということで、
時期じゃないというのは、自分に準備ができてないということで、
それは、自分にまだまだノビシロがたくさんあるということで、
まぁ、毎日やれることをやるしかないわけですねー。

お仕事、って、なんだろう。

私もこの4日間ほど喉がかなり痛くて、娘のがうつったなーと思ってたんですが、
娘みたいに扁桃腺炎で高熱どかんってことはなく、微熱が続いてただけなので、なんとかなっとりましたが、
もともと扁桃腺から熱を出しやすい体質のおとーちゃんももらっちゃったみたいで、さっき仕事場から戻ってきましたよ…。
ちょいとお熱出てますねぇ……。
※追記※ おとーちゃんは娘のがうつったんじゃなくて、インフルエンザでしたぁぁ…。
息子が高熱を出してからこっち、順番に家族が高熱を出しておりますので、なかなか天使の絵を描く時空間を確保できません。
そうなんです。
時間も空間も必要なんですよねぇ…。
アトリエなんてしゃれたもの、我が家にはありませんし。
昨日ようやく10日ぶりくらいに2枚描いたのですが、(基本的に今週は私も体調が優れないのが続いてて)今日の午前中はしんどくて横になってましたし、
ようやく起き上がれたと思ったら、もうこんな時間で、今から絵を描くには中途半端でしてねぇ。息子たちのお迎えの時間になっちゃうので。
まぁ、そんなこともあるわよーって思うんですがね、お客様も待っててくださるのに~と、思うわけですよ。
お客様には、「○月下旬以降のお届けとなる予定です」という書き方で返信させてもらってるので、その期間を過ぎても嘘ではないんですよ。
「以降」ですから。
でもねー、やっぱりねー、待っててくださるかと思うと、できるかぎり「以降」にならないようにしたいなぁ、って思うのです。
それにですね、「仕事」っていうと、期日を守るのが当然という感覚が染みついておるようで、なんとも焦ってしまうのです。
「以降」なんだから大丈夫なんだってばー、と自分に対して言ってみても、そわそわしてしまいます。
そこで、私は自分に言うのですよ。
「(会社員時代にやっていた)マニュアル作成の仕事とは違って、絵を描くというのはムリムリに力業でやるものじゃないんだから。」
って。
たしかにそうなんですよ。
時空間が整っていないのにムリムリに描いても「これでいいのかな?」と思ってしまうんです。
たとえば子供たちがちょこちょこと話しかけてきて集中が途切れるような状況でも事務仕事はできますけど、やっぱり絵は描けないんです。
でももう一人の私が自分に言うのですよー。
「そんなの言い訳だー。仕事ってのはそんなもんじゃないぞー。甘いぞー。」
って。
それもね、間違ってないんですよねぇぇぇ。
ですからまたしてもそわそわしてしまうのです。
と。
こんなふうになっておるのですが、ちょっと俯瞰してみると、これもまたいろんなことに気づくチャンスなんだろうなーと思ったりするのです。
会社員時代に身についた「常識」も大切だけど、
自分の今の仕事においては、期日内に仕上げることよりも、もっと大切なことがあって、
自分の実力不足ですべてを満足させることができないのなら、なにを最優先とするべきなのか……を、冷静に考えることは、
私が今やっている仕事の意味、絵の意味
みたいなものを、もっと多角的に捉えようとすることにつながるので、気づかなかったことや気づかないフリをしていたことも見えてきたりするわけです。
そして、自分の仕事の意味を深く考えるということは、自分自身を深く考えるということになりますから、チャンスなんだろうなと思うのです。
会社員時代は、ほんとうに仕事が苦痛でした。
ソフトウェアの開発部隊にいて、プログラミングはほんの少ししかせず、マニュアル制作をメインにやってました。
文章を書くことはキライじゃないし、技術文章の書き方を勉強できたことはとても感謝しているのですが、
私はコンピュータってそんなに好きになれないんだと気づいたのは入社してからだったのです…。
道具として使うのはいいけれど、コンピュータそのものにそんなに興味があるわけでもなかったのです。
バブルの最後の超売り手市場の時だったので、なんとなく受けた会社だったのですが受かっちゃったんですね。
もちろん、自分なりには頑張ってお仕事しましたが、「自分がとっても興味ある好きなこと」ではない分野で「頑張ってお仕事する」というのは、やはり「前向き」ではなくて、「お金もらってるんだから、面白くなくても我慢して頑張ろう」という方向になっちゃうんです。
もっと簡単に言えば、お仕事しててワクワクすることはほとんど無かったってことです。
達成感はありました。
会社員時代後半なんて特に3冊くらい平行してキツい線表をいつもいつも走っていたので、1冊ごとに達成感はちゃんとありました。
けれど、ワクワクはしたことなかったんですよね…。
だから、苦痛だったんです。
お仕事というものが。
でも、辞めて何かしたいことがあるか、というと、そんなものも無く、健康にやや難があるのでいろんなことを諦める癖もついてしまっていたため、
現状維持で、とにかく文句言われないようなアウトプットを出すことしか選択できなかったんです。
それが、11年勤めたところで妊娠を機に辞めて、すごくホッとしたのを覚えてます。
それと同時に、苦痛だったけれどいろんなことを教えてもらえた11年間だったし、いろんな人に出会えて幸せだった11年間だったな、としみじみ思いました。
そして、だからこそやっぱりワクワクするような、好きなことを仕事にしたいよなぁ、と、シンプルに思いました。
すると、なぜか、ずっと絵を描くこともやめてしまっていたのに、天使の絵を描くことがお仕事になり、お仕事をしながらワクワクすることができるようになったんです。
不思議でしたよー。最初の頃は。
仕事って苦痛なものだ、という感覚がしみこんでいたので、ほんとに不思議な気持ちになってました。
仕事って、何なんでしょうね。
ただ、お金を儲けて生きていくため……だけのものじゃないんですもん。
自分の仕事について、自分の仕事感について、少し深く考えてみるだけでも、自分というものの輪郭が少しだけハッキリ見えたりして、面白いですよね。

さつきのひかりさんのブログ記事を読んでいたら……。

さつきのひかりさんのこの日記
http://satukilight.blog.fc2.com/blog-entry-1201.html
を、今さっき読んでたんですよ。
ノートPCで。
こたつでぬくぬくしながら。
そしたら、向かい合わせでこたつに入りながら、レゴの女の子向けステキおうちセットでうきゃうきゃと遊んでいた娘が、急に私に話しかけてきました。
おかーさん。
がんばる、って、どーゆーこと?

……おいおい。
今、君のかーさんは、さつきの奥様のまさにそーゆー記事を読んでいたところなのだよ。
なんだいその間髪の入れなさは。
と、ちょっと固まってしまいました。
がんばるって、どういうことなんでしょうね。
先日、娘がウンチしながらこれも急に私に訊いてきたんです。
「おかーさん、わたしって、いいこ?」
って。
なんとまぁ、子育てにおいて私が気をつけてる事柄にピタリとフォーカスするような質問ばかりしてきやがって。このやろー。
がんばる、にしても、
いいこ、にしても、
大人視点を押しつけがちになる言葉だと思うのです。
だから、そこはできるだけ気をつけてはいるんですが、やはり便利な言葉でつい使ってしまいます。
6歳になったばかりの娘ですが、いい加減な回答はしたくないので、それこそ頑張って言葉を選びながら、娘に向き合って話しました。
がんばるっていうのは、
一生懸命やる、って意味もあるけど、我慢する、って意味もあるよね。
歯医者さんで(大人の歯が先に生えてきちゃって)子供の歯を抜く時の「がんばる」は我慢する、だもんねぇ。
などなど、娘に頑張って話してみました。

「才能」は喉から手が出るほど欲しいけれど。

うさみみさんの一連のツイートをコピペ。
https://twitter.com/usamimix

大学の頃、短歌サークルに入ってたんだけど、そこで文学部の人たちがたった31文字の世界にものすごい知性というかセンスを発揮して読み込んだり創作してるのを目の当たりにして、自分の文芸的センスのなさ?に愕然としてた時期がある。 これはもう、楽器とか踊りがうまいのに近い「才能」の領域だ。
でも、少ない言葉から文法に則しつつもうまく文法の枠をも超えてイメージを広げる、みたいな禅問答のようなことを延々と(毎週1回の歌会が1回あたり3時間!そこで10人未満の出した1首ずつを丁寧に読み解き、批評や感想を述べあう)やったおかげで、後に演劇をやるときも大いに役立った。
ただ、そういう文芸的センスも、鍛えれば伸びるレベルというのはあり、それまで学校ではろくすっぽやってなかったから最初できないというだけで、やり込めばそこそこ以上(『凡人が努力で到達できる程度には』プロとしても一通りやっていける、というレベル)には辿りつける実感&印象。
世間では売れてない演劇人でも、こういう「作業」のやり方はちゃんとやってる人は大勢いて、無名だろうと人前で演るだけはあるなと安心する(←どこから目線?)。一方、若くして美貌などで売れてしまった役者は、この作業をちゃんと習得する前に活躍しろと舞台だけあてがわれてしまい焦る人多い印象。
こういう、言葉とイメージの関係や背景、言葉同士のイメージ間の繋がりや繋がり方のバリエーションによって生まれる「味(波動のニュアンスといってもいいのかも)」を紐解く作業プロセスをある程度、齧れたことは、後に超感覚ヒーリングをやるときにも大いに助けになった。
だって、エネルギーの波動って「雰囲気」みたいなもやっとした、まるで抽象画みたいなものだから、それが何を意味していて何を象徴していて具体的な何から発生したものかを逆探知する作業は、まさに「芸術(作品)の鑑賞」とほぼ同じプロセスを辿るから。
自分はチャネリングの精度と、見えたものを言葉などで説明するときのプレゼンテーションスキルといったものを褒められることが多いけど、それはひとえに、いま一連のツイートしたような経験を積んでる故なのかなぁ、と思う。
だからって誰もが、チャネリングスキルを伸ばすために短歌と演劇をやったほうがいいかといわれたら微妙だけど、少なくとも感性を商売道具(の1つ)にする(あるいはアマチュアだろうとちゃんとやって実力を伸ばそうとしてる)なら、アートに触れるのはいいかもね。
触れる、といってもなんとなく絵画展とか演奏会に行くのももちろんいいけど、「感じ取るセンス」が育ってないうちに機会だけ得ても退屈するだけの気が。 最初は、馬鹿みたいに、たった1つの作品について何時間も(できればその道に精通した)誰かと話し合ったりして、自分のなかのセンスを育むと◎。


私は、そもそもが空間認識能力に少々難があるので、三次元を二次元に「描く」というのは苦手なのです。
そのくせ「絵を描く」ということはすでに幼稚園児の頃には大好きという自覚があり、病気で寝込む以外は、何も描かないという日はありませんでした。30歳の頃まで。
ちょっとしたラクガキのレベルなのですが、毎日何かしら絵を描いてました。無意識に。
30歳の頃、現在漫画家をしている友人と知り合い、「彼女がすべて描いてくれるから私は描かなくてもいいんだ。」と思えて、それから10年弱の間は絵を描くということからかなり遠ざかっていましたが、
ひょんなことから再び絵を描くようになりました。
それが、天使の絵でした。
私は才能も無いし、本格的に絵を学んだことも無いのですが、毎日ちまちま描き続けたことや、他人が描いた「絵」を観ることも大好きだったことが、なんとかお仕事として成立している下地となっているんだろうなぁー…と、思っていました。
そんなわけで、やりこめば、『凡人が努力で到達できる程度には』プロとしても一通りやっていける、というレベルに到達できる、というのは、ほんとうだと思うのです。
もちろん、圧倒的な才能に憧れないわけがありません。
けれど、ちまちまと続ける努力、感性を育てる努力…を続けることで、到達できるところが少しでも先へと続いていけば、それも素晴らしいことなんじゃないか、と思ったりもします。
そしてそれは、どんなカタチで実を結ぶかなんて、その時になってみないと分からないですしね。
私だってまさか自分が、こんなお仕事をするようになるなんて、露ほども思ってませんでしたもん。
あなたは、好きなこと、続けてますか?

あなたは純粋にそのプロセスを楽しめるか?

ツイッターより。
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性・恋愛のトリビア ‏@seerged7
https://twitter.com/seerged7
男性は、本能的にプラモデルのような組み立てるプロセスを楽しむのが好きだが、一方、女性は、本能的に人形のような完成されたものを好む。
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なるほどなぁぁぁー、と思いましたわ。
子供の頃、私はブロック遊びはほとんどしなかったんですけど、弟たちはしょっちゅーやっていて、不思議なロボットを作ったりしてましたから。
私はそれよりお人形で遊ぶ方がやはり楽しかったんですよねぇ。
が、しかし。
うちの娘は好きなんですよ。
レゴが。
そうは言っても、そのプロセスを楽しんでるのか、というと、そこらへんは怪しくて、
やっぱり出来上がったもので遊ぶ方が好きなんじゃないのか?と母は見ていて思うわけです。
にーちゃんは、純粋にレゴを組み立ててるのが面白い…みたいなのに比べると、同じ「レゴが好き」でも、意味合いがちょっと違うなー、と感じたりするんですよねぇ。
なので、娘は出来上がったものをそのままのカタチで片づけて、またそれで遊ぶけれど、息子はできあがったものに執着しませんもん。
片づける時も、てきとーにバラして片づけても文句言わないし。
そこらへんが、男女差なのかなー、とこのツイートを読んで納得したところであります。