なんのために現世の自分として生まれ、生きているのか。

本日2つめの日記です。
明日にしようと思ったけど、明日は絵を描く時間ができそうなので、今日のうちに書いちゃおうかな、と。
ちょっと前に、とある人とメールのやりとりをしていて、その人が
「やっぱり、スピってちょっと特殊な世界だと思う。」
とメールを結んでいたんです。
たしかに、ちょっと特殊かもな~と思う自分もいれば、特殊でもなんでもないよな~と思う自分もいて、その言葉について返事を返すことができずにいました。
そしたら、うさみみさんのこんな記事をさきほど目にしました。
過去生に原因があったら過去生を癒さないと癒えない!?
http://celestie.blog23.fc2.com/blog-entry-1705.html
おりしも、「時の流れ」に関する守護竜のぬいぐるみが届いたところでしたので、これもナイスタイミングなのかもな、と思ったりしました。
あくまで私の感覚ですが、
「過去世を癒す」というのは、「過去世と自分が認識している物語を通じて、自分の魂の傷を癒す」ことだと感じていて、
それは、うさみみさんが言うように、多くの場合は「現世の自分の傷」を癒すことで、魂の傷を癒すものなんじゃないのかなー?と感じているのです。
ってか、そのために転生してるんじゃないの?って思うし。
でも、まぁ、過去世を知ることができて、その時にフォーカスして何らかの方法でその傷を癒す方が早い…という場合は、ハイヤーさんたちがそういう方向に導いてくれてるんじゃないのかなー?と思うわけです。
そこはケースパイケースなんだろうな、と。
ただ、そこで、うさみみさんの言うように「スピは使いこなしても巻き込まれるな」という注意事項があるように私も思うんです。
それこそ、過去世であの人とは敵同士だったから現世でも気が合わないんだわー…なんて言い出すくらいバカげたことってないですもん。
だってそれは、ただ今の自分が今のその人のことが好かんってだけの話だと思うんですもん。
もちろん、過去世の縁ってものを全部無視してしまえ、ということじゃないし、過去世の縁があるからこそ、さまざまな出会いがあるわけで、それはとても大切なものだと思うんです。
つまり。
過去世で敵同士だったとしても、今世で出会ったら、ケンカしつつも創造的な関係になれるかもしれないし、
逆に過去世で深く愛し合っていたとしても、今世で「今のお互い」を理解する努力をしなければ関係は破綻するでしょうし、
結局は、「今の自分の人間性」が何よりも最優先されて人生は創られていく、っていう、めっちゃ当たり前のことだと思うんです。
私は、過去世や「上」のことと、この今の自分の在り様というのは、等価だと思っているんです。
そこは揺るぎません。
でも、「今の自分」を生きてると認識しているこの意識においては、「今の自分」を癒し高めることしかできないとも思っています。
今の自分に責任を持っているのは、「今の自分を生きてると認識しているこの意識の私」だ、ということです。
というわけで。
今の自分に責任を持っているので、今から家族のために夕飯を作ってきまーす♪

「思い」を「形」に。

21日にですね、
江川紹子さんが、こんなツイートをしてたんです。

山本太郎氏は、貴重な1議席を生かすために、小沢氏か共産党かどちらかにしばし弟子入りして、「思い」を「形」にするには何が大事なのか、という点を学んで欲しい。


で、これを読んで、私はこんなことをツイートしました。

や、山本太郎氏だけじゃなくて、これってほんとにそうだよな、って思う。
「思い」を「形」にするには何が大切なのか、を、私達はいろんな人からいろんなところから学ばないと、学び取らないといけないよね。<RT
で、あたしは関ジャニ∞からすごくいっぱい学んでいるのだ。


「思い」は自然と滲み出て、その人となりを形成していくものだと感じてはいるのですが、
それとはまた別の次元といいますか、
積極的に「形」にしていかなければならない「思い」というものもあります。
一番身近なところでは、家族に「ありがとう。」と言葉で伝えることかもしれないですね。
言わなくても分かるでしょ、じゃなくてね。
言葉にすることだって、形にすることの1つだと思います。
そういう意味では、自分の思いをブログに綴ることもそうだと言えますね。
自分の思いを言葉にして書き留める……それも、(読者数は別にして)他人に読んでもらうための文章を書く、というのは、まさしく「思いを形にする」ということになると思います。
ジャニーズのアイドルにそんな「思い」なんてあるのか?って思う人もいるかもしれませんけど、
あるんですよ。いっぱい。
そして、与えられた仕事の中で、「思い」をベストを尽くして「形」にして、ファンに伝えようとしてくれているよなー、と、私には感じられます。
特に関ジャニ∞はね!
いろんな人の「思いを形にしている姿」を通して、学び取ることはいっぱいいっぱいありますよね。
そういうのを感じ取ることができ、学び取ることができる「感性」や「賢さ」ってものを磨き続けていきたいものです。

「内面活性」が高いのかもしれない、と思った。

ラファエルの絵プレゼントは、本日の21時が〆切となっております。
よろしかったら、ご応募くださいませ♪
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石井ゆかりさんの週報は毎週読ませてもらってますが、日記はたまーーーにしか読んでないんです。
それが、たまたまこれを読みました。
http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20130620/p1
……ちょっとだけ、スッキリしなかったのです。

自己肯定感がもてないひとはたいてい
他人には理解しがたい、深い傷を負っている。
あるいは、巨大な土管のような穴を抱えている。
その傷や穴を、消しゴムで消すように消せるとおもったら
それは、まちがいだろう。


確かにそうなんだろうな、と思います。
自己肯定感が持てない人に、自己肯定感を持った方がいいよと言って、それでその人が持てるなら、最初っから持っているだろうし、
親のおかげなんでしょうけど、物心ついた頃から自己肯定感をなぜかそれなりに持ち合わせている私が、それを持ち合わせていなくて苦しんでる人に、それの獲得方法を教えることなんてできませんし。
分かっていても、でも、なんだかスッキリしなかったのです。
そしたら、翌日にこの続きとも言える日記を読みました。
http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20130621/p1
ああ、ムーミンにこんなお話があったね、と懐かしくなりました。
そして、なんとなく「あ。」と思いました。
話は少し逸れますが。
この数日、ちょっと考えることがありました。
私の太陽は山羊座なのですが、山羊座と言えば「活動宮」です。
しかし私は、高校生の頃まではともかく、健康問題が大きく響いたとは思うのですが、今ではものすごく「環境の変化」を苦手としているし、物理的に移動することがすごく少ないのです。
身体を動かすことが好きじゃないんですよね。
なので、ちっとも「活動」宮じゃないよなー、と自嘲気味にいつも思っていたのですが、
数日前から、もしかしたら私の内面はすごく「活動的」なんじゃないか?と気づいたんです。
成果が出ているか出ていないかは別にして、内面的…というか、精神的というか、自分の心の在り方というか……においては、「(気づいてしまった)問題をそのままにしておく」ということができなくて、いつも何か試みているんじゃないか、って。
身体を動かすとか、物理的な変化とか、そういう面では変化を苦手としているので、ものすごーく不活性だよな~と自分でも思ってしまっていたのですが、
内面においては、常に活性状態にあるよな、ということに気づいたんです。
なので、多分、私は、
深い深い傷を持っていて、そのせいで自己肯定感を持てずに生きにくさを感じている人が、
その傷を抱えたまま「その場所に居続けている」という姿を、ヨシとできないんだろうな、と思ったんです。
人によっては、私のことを恵まれていると言うかもしれません。
確かに、親に虐待されたこともないし、学生時代にいじめられた経験も無いし、旦那さんは優しいし、子供たちはかわいいです。
でも、私には私なりの傷があります。
しんどいことだってそれなりにありました。
深い傷が全くないわけじゃない。
それに因る認知の歪みだって少なからずあるはず。
でも、私は「姿が消えてしまった」ところで、自分からムーミンのお家に助けてと言いに行くんだろうな、と思ったんです。
周りに連れて来られる前に、なんとかしようとするんだと思います。
深い傷を抱きしめたまま、姿が消えたまま、その場に居続けることが、おそらくできないのです。
ただし。
このような在り方は、一見、早く傷を治すことができるように思えるのですが、きっとそんなことは無いんだろう…と思います。
自分のために顔を取り戻したのと、ムーミンママを守ろうとして顔を取り戻したのとでは、「顔を取り戻した」という結果は同じでも、まったくその意味は違ってきます。
だから、「人生まるごと」で見てみるならば、どのような課題に取り組んでいても、どのような在り方をしていても、その価値は同じなんだろうな、と、なんとなくですが、思うんです。
…そうは言っても、
やっぱり、自分とはあまりにかけ離れた在り方だと、頭では分かってても、イラっとしたりしちゃうんでね、
そういう場合は(たとえ友人といえども、その部分には)関わらないことが一番かなー、と思ったりします。
相互理解ってのは、そんなに簡単にできるものじゃない場合も多いって学んできたしー。

高次の存在は、いい香りがする。

mixiの方で昨日書いた記事をコピペしときますー。
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高次の存在は、いい香りがする。
と、私は思うのですよ。
むかーし。
日記に書いた覚えがありますが、
冬だったかな。
家の中を締め切っていて、部屋も締め切ってたのかな。
そんな状況の中で、ふわーんと百合…カサブランカちっくな匂いが漂ってきたんです。
あー。
百合の香りだー。
いいねー。
……って、まてよ?
どこからこの匂いが????
と、思った途端に、もう香りは消えてしまいました。
そんなことがあったりね。
ああもうこれは、そういうことね、と。
で。
先日のことですが、
毎月恒例の、エホバのおばさんが冊子を持ってきたんです。
あたしはエホバの証人にはならないよーそれでもいいなら冊子だけは受け取るよーって言ってあるんです。おばさんに。
おばさんたちにも配布目標みたいなもんがあるやろうしね。
エホバはカルトだと言われることもありますし、あたしは好きではないんですが、
信仰が厚いというのは悪いことじゃないし、おばさんたちがそれで良いならいいんです。
そこに至るには、いろんな思いがあってのことですもん。
ただ、それによって家族と軋轢が生まれたとかなら、そこらへんはなんとかいい塩梅になるといいなー、と思ってるんです。
中高年の奥さんがエホバになって、おばーさんが仏壇やお墓のことで悩む…ってのが私がよく耳にするパターンなので。
ですから、上から目線で申し訳ないんですけど、
うちに冊子をおばさんが持ってきた時に、
「おばさんの信仰が家族と不調和を生んでるなら、なんとかええ塩梅になりますように。」
って、心の中で祈るんですよ。
あ、たまにだけど!
で、ですよ。
先日の訪問の時に、その「たまに」だったんですよ。
なんとなくそう思って、そう祈ったんですよ。
「こんにちは。」って挨拶しながら。
そしたらですよ?
おばさんが、急に、
「あら?すごーくいい香りがしますね~。」
って言い出したんです。
え?
今日は別に精油を雑巾に垂らして拭き掃除をしたわけじゃないし、
一輪も花を飾ってないし、
どっちかってゆーと、とーちゃんの農作業用の長靴も置いてあるし、玄関のもわーんとしたイヤな匂いがするんやないか?って気になるくらいなんやけど?
って思ったんです。
「そうですかー?何もしてないんですけどー。」
と答えたんですが、おばさんはそれでもすご~くいい香りだって喜んで言い続けてたんです。
それで、はっとしまして。
ああ。
誰かおるね
、と。
それで思ったんです。
自分と違う価値観の中で生きてる人に対して、「ああそうですか。お好きにどうぞ。」というのがよくある対応かと思うんですが、
心の中で、
「とはゆーても、この人にとっていい塩梅にモノゴトが進みますように。」
とか、そんなふうに一瞬だけでも祈るというのは、実はすごいコトなんかも、と。
その瞬間、高次の存在が働く…というか、「働ける」んちゃうかな?って。
だからね。
大嫌いな人がいるならね、それは大チャンスかもしれんよなと思うんです。
その人の顔を見るたびに、そう祈るといいかもって思います。
言葉だけでいいから。
そうしたら、気づいたら自分もすごく変わってるんやないかなー?って思うんです。
大嫌いな人に嫌悪だけ向けるんやなくて、ほんの一瞬だけ、言葉だけでもいいから祈るというのは、最初は難しいことだと思うんですけどね。
でも、そこをやってみるってのが、やっばりミソかも、と思いました。
その時に、すごくいい香りがするかもしれんですよ~。
と、そんなことを思ってたら、
長居和尚さんが同じようなことおっしゃってたんで、ああやっぱりそうなのかー、と思いましたんで、
あたしも、この人あまり好きやないなーって思った時こそ、そう祈るように心がけますー。

女の子を育てる・男の子を育てる

愛すべき美白の天使・横山裕の誕生日である今日、こんな記事を紹介してるツイートが回ってきました。
「女性手帳」に感じる強い違和感の原因は何だろう。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20130508-00024798/
で。
これを読んで、以下のようなツイートをしたので、こっちにもまとめておきます。

今は共学になってしまったらしいんだけど、私がお世話になっていた頃は女子高だった母校。公立高校を落ちて、滑り止めの私立の高校に行くことになりまして。岐阜みたいな田舎だと公立じゃないとね的な空気がバリバリだし、授業料もどうしたって公立より高いので、親に申し訳ないし…と、
ショボンな気持ちいっぱいではあったんですが、でもすぐに気持ちは晴れまして、女子高ライフを楽しんでおりました。母校は大正時代…だっけな?に設立された学校で、初代校長は女性の方で、高い女子教育というものを志してたようです。私がお世話になってた頃は…ふつーの女子高でしたけどね。
しかし、その志が残っていると感じたのは、3年生になると「女性学」という単位が必修となることでした。女性の身体のことや性のこと、女性と社会の関係について…など、いろいろ教えてもらいました。まぁ、私は進学クラスだったので生物や歴史で勉強してて知ってることも多かったけどね。
先生の話をちゃんと聞いてる生徒ばかりじゃないとは思うんだけど、それでも耳から入ったことは少しは残るだろうし、「女性としての自分」を多少は意識することになってんじゃないかな、と思ったりするです。とりあえず避妊方法や性病の知識はみんなに役立ってると思うなぁ~。
で。昨日の夜。クローズアップ現代で不妊治療のことをやってて、6歳の娘も分からないなりに一緒に見ていて、いろいろ質問されたのですわ。娘は嵐の櫻井翔くんと結婚してカワイイ赤ちゃんを3人産みたいと言ってるので、赤ちゃんがお腹に来てくれない人もいるという事実に驚いていたのですわ。
赤ちゃんというのは、空の上からお母さんを選んでやってくるものだと娘は思っているので、なんで赤ちゃんに選んでもらえないのか?と疑問になったんでしょうね。なので、赤ちゃんにとって育ちやすいお腹じゃないからだよ、と教えたんですわ。すると「私は大丈夫かな?」と言うので、
それは大人にならないと分からないけど、よいお腹になるためにも、女の子は特に自分と自分の身体を大事に大事にしないといけないんだよ、と教えたら、「分かった!大事にする!」と娘。その顔を見ていたら、ああそいえば同じようなことを女性学で先生に言われたなー、と思い出したのでした。
と、女の子を育てる上では「自分と自分の身体を大事に大事にしろ」ということがキモかもしれないのですが、男の子の場合は、「絶対に自分のちんこを凶器にしてはいけない」ですね。万が一でも女の子を襲うなんてことしたらかーさんアンタが寝てる間にちんこを切り落とすからね、くらいの勢いで。


と、なんか結論は別の方向にシフトしてしまいました。
えへ。
でも、めちゃめちゃ大事なことよね?
ね?
世のお母さん方。
男の子を育ててるお母さん方。
息子さんに鬼気せまる感じで、ずっと言い聞かせましょう!
「絶対にお前のちんこを凶器にしてはならぬ。」
と。
うちのオカンほんとにちんこ切り落とすんじゃねーか?と息子さんに思わせるほど本気でお願いします。

最低限のお金が無いと、人間はダメになるからね。

いつも、ちんこちんことおっしゃってる岡田ぱみゅぱみゅ氏が以下のツイートをされてました。

「婚外子や、その母親を社会的に支援すべき」って時に出てくるのは「癌の人も痴呆老人も先天性障害者も低所得者も虐待児童も交通遺児もいる中、なぜ婚外子だけとりわけ厚遇する必要があるの?」って話で、「婚外子【も】充分に支援すべし」という話にした時、どこにリソース求めるかって問題になるのよ
そん時に「これ以上、俺に税金払えってのか!」という不公平感が出てくるので、「障碍者も高齢者も交通遺児も婚外子も、一律で一定の生活保護」とか「子なし独身者も利用できる公営住宅の拡充」とか「ベーシックインカム」とかで、「アンタも税金払ったらメリットあるから…」の構図にしないとダメぽ。
受益者と負担者が時期的に違うのは、まだいいですよ。「若いうちに年金払って高齢者を養い・・・」みたいな。難病や障碍者支援、あるいは雇用問題による困窮も「いつか、俺もそうなるかも知れないし、将来の自分への投資だ」と考える事ができる。
ただ、もちろん婚外子も祝福されて生まれ社会で育まれるべき存在ではあるが、「受益者と負担者が全然異なる」という構図だと、納税者が納得しないので、考える必要があるんじゃないですかねという話なんですが、まぁ別に僕は財務官僚じゃないのでどうでもいいです。
***
僕は、同性婚だろうが離婚家庭だろうが不倫による婚外子だろうがシングルマザーだろうが最低限文化的な生活を送れるよう金銭的に支援すべきだし、それを道徳や倫理で否定的に語るつもりは一切ないですが、誰かが突出して優遇されるのでも冷遇されるのでもない構図が必要だし、税負担は軽い方がいい。


で。
これらをリツイートしてから、私も、

ベーシックインカム的なものを実現しようとしたらいろいろ難しいのだろうけど、でも年金とか生活保護とかアレコレ全部ナシにして基本はベーシックインカム的なのになれば、「みんな生きてていいんだよ。」という国になるということだと思うんですよ。
で、そういうシステムを維持するには、働ける人はみんなしっかり働いて、税金納めようね、いい国にしていこうね、って子供の頃から教えていけばいいんじゃないかなー、なんて思うわけですよ。

と、ものすご~くざっくりしたツイートをしたのですけどね、
まぁご存知のとおり我が家にはダウン症児がおりますので、ここらへんのことは頭良くないなりにも考えざるを得ない、常に頭から離れない懸案事項の1つなのですよ。
障害児の親としては、自分たちが死んでも障害のある我が子が生きていけるかどうか、が一番の心配事なので、
この国に『誰もが最低限文化的な生活をおくれるようなシステム』があれば、そんなありがたいことは無いわけです。
そしてそれが、誰かが突出して優遇されるのでも冷遇されるのでもない構図であれば、障害児の親としてだけでなく、日本国民としてもとてもありがたいことです。
障害者だけに優しいシステムであるよりも、みんなが生き易いシステムであってくれた方が良いに決まってますから。
貧困の問題が取り沙汰される昨今、給食費の滞納とか修学旅行欠席とか、高校生なのに家計を助けるために掛け持ちでバイトとか……子供たちにも大きな負担がかかっているのですから、よりよいシステムの模索を真剣に大人たちがしていかないと、と思いますもん。
憲法改正の前にやるべきことが満載なんじゃないのか、と思ってしまいます……。ほんとにもぉ。
それに、ですね。
人間ってのは、どうしても損得で考えてしまう生き物なんだと思います。
すぐに不公平だー不公平だーと言いたくなるんですよ。
もうそれは仕方がない。
だからこそ、「アンタも税金払ったらメリットあるから…」の構図にしないとダメなんですよね。
なんとか、いい塩梅のところに持っていきたいものですねぇ。
お金は大事よ。
ほんとに大事。
貧しいのも自己責任だって言う人もおるかもしれんけど、
そんなことゆーてたら、「国」という集団である意義がほとんど無くなるっちゅーの。
……ってもね。
知的障害のある子供を授かって、ほんとにそこらへんのことを初めてしっかり考えることができた…という、情けないオトナなんですけどね。私も。
がんばれ、日本のオトナたち。
本気見せないと!

正義を振りかざす時は慎重に。

さきほど、Twitterでこんな記事を見つけました。
http://www.asahi.com/national/update/0501/OSK201305010192.html?tr=pc
小さい子を見ていると、だいたい女の子がやるんですよね。
お母さんや先生に「言いつけに行く」というのを。
ウチでも娘が家事をしている私のところにわざわざ来て、
「おにーちゃんが○○したのー。」
と言いつけることが時々あります。
小学生になると、掃除をせずに遊んでる男子を少し気の強い女子が怒ったりしますね。
(そして男子が「うるせー、ブス!」とかゆーて、「先生に言うわよっ。」「お前ブスのくせに性格も悪いなー。ばーか。」「なんですってー!」……なーんてバトルに発展したりしますわな。)
小さい頃から人には、『私は正しい。あなたは正しくない。』という意識はあって、正しくないことを正したいという気持ちはあるということなんだろうと思います。
しかし。
「私は正しい。あなたは正しくない。」
ということを激しい怒りを伴って表現する場合は、ものすごく慎重にならなければならない、ということは、さまざまな日常の体験の中で学ぶことができると思うのですが、
学べていない人が、想像力を欠いたまま「自分の正義」を暴走させてしまうのかもしれないですね。
といいますか。
そもそも「正しい」ということがどういうことであるか、を問うてみたことも無い人たちが暴走するのではないか、とも思います。
便利な言葉なので、「正しい」という言葉を時々私も使いますが、私の場合は
「お薬は決められた用法容量を守って正しく飲まなければならない」というような意味合いの「正しい」を使っていますが、
「正義」という意味合いの「正しい」は極力使わないようにしています。
だって、正義というのは立場によっては正義では無いことが多いからです。
怒りを伴って正義を振りかざす前に、それがほんとうに何かを良い方向に変えることができるやり方なのかどうか、をよくよく考えることができるのなら、
人を追い詰めるようなことにはならないだろうに……と、思います。
「怒り」は「正しく」使わないと、無駄に人を傷つけることになると思うのです。
自分の中で生まれた「怒り」をただ吐き出しているだけでは、何も生み出さないし、破壊的であるだけですもんね。
「怒り」を「何かを良い方向に変える」ための推進力にするというのは、高い知性と豊かな想像力が必須だと感じます。

ちょっと、怖い。

雨が、それもけっこー横なぐりやないのーって雨が降る中、
どしても必要なものがあったので、本屋に行きましたの。
そして、ついでにブラブラしていたら、このマンガが目に入りましたの。

エルハンブルグの天使 (Feelコミックスファンタジー) エルハンブルグの天使 (Feelコミックスファンタジー)
(2013/03/08)
あき

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表紙見ただけで、一目惚れして購入しましたの。
なんで、こんなに細かく綺麗に描けるんだろう……。
と、まじまじと表紙だけに5分くらい見入っておりました。
おそらく、バッチリな下書きがあって真似しながら描く…というのなら、時間かければできなくもないと思います。
(あ。40代になってからだんだん目が遠くなってきてるから、ド近視用の眼鏡を外してじゃないと描けないな。)
でも、自分ですべてデザインするなんてのは到底無理。
そこが一番のポイントなのにぃぃぃぃぃ。

自分がこういう絵を描きたくても描けないので、表紙を5分も眺めてしまうわけです。
で。
以前なら、
「あー。いいよねぇ。絵の巧い人って~。羨ましいわぁー。」
で済んでたんです。
だって『絵は巧くなりたいけど、ならなきゃいけない理由は無い』からです。
なので、いいなーこんなふうに描けたらいいなー…と思っても、すぐに「自分は巧くなくても別に問題なかったんだっけー。」とするりと諦めて終わりで良かったんです。
(そして、10年ほど絵を描くこと自体をやめてしまったくらい。)
しかし、今はそんなふうに逃げられないんだよなぁ……と、この表紙を眺めながら、ため息をつきながら、思い知らされました。
もちろん、こういう画風になりたいとかって意味じゃなく、もっと全般的に……もっともっといろんな絵が巧く描けるようになりたい、という意味で、です。
だって、経緯や理由は何であれ、絵を描くことがお仕事になっちゃったんですもん。
今までずーーーっと「どうせ私は才能ないしー。」と簡単に諦めるという選択がOKだったけれど、これからはそれが通用しないんだな、と思ったら、ちょっと怖くなってきました。
…うん。
怖いです。
怖いなぁぁぁぁ……。
足元が、すーっと透けて薄く薄くなっていくような、そんな怖さ。
ひぃ。
(こういう怖さって、何度か経験してても、ひぃ…ってなるなぁ。)

スペシャリストか、ゼネラリストか。

こちらより引用。

ゼネラリストとは、特定の分野ではなく複数の分野においてある一定以上の知識や技術を持ち、仕事をしていく人のことを指します。決まった専門分野に特化して仕事をする訳ではないため、会社の中で横断的に様々な仕事を経験しながら自分のキャリアを形成していく人が多いようです。
スペシャリストとはゼネラリストの対義語で、業務上で他者との明確な差別化の要素となるような特定の分野に関する深い知識や専門的な技術を持ち、その分野に特化して仕事をする人のことを言います。
具体的には、ゼネラリストは、分野をまたがって仕事をするため基本的に協力しながら仕事をすることが求められ、自分の仕事以外にも興味を持って業務に取り組む人が多くなる傾向にあります。
逆にスペシャリストは、分野を特化して仕事をするため単独もしくは少人数で業務に当たる方が、成果を上げることが多いようです。


7歳の時から、宇宙物理学の科学者になりたかった私。
ええ、それも理論屋になりたかった私。
中2の頃に「あ、絶対に無理だ。」と自分の数学脳欠落度があまりにヒドいことをようやく自覚(←気づくの遅いよ)し、あきらめた夢だったのですが、
どうもその後も何かのスペシャリストであることを、心のどこかでいつも希求してるフシがバリバリありました。
けれども、どうやら私は、スペシャリストというより、ゼネラリストとして働く方が向いてるんだろうな、と歳を重ねるうちに感じるようになりました。
絵を描くというお仕事なんてスペシャリストとして深く追求していくものだろうに、大丈夫なのかしら?と思ったりもしますが……。
あいかわらず、私ってば自分が望むものと自分の資質が合致しないです。
でも、お母さんという役割は、広く一定以上の知識や技術が必要となるので、ヨシとしときます。
はふん。

『聞き手がどう受け取ったかが真実になる。』

先月末になりますが、こんなツイートを見かけました。

有益なことをつぶやくbot ‏@yuuekitwit_bot 3月30日
セクハラ、パワハラを代表例に、世の中聞き手がどう受け取ったかが真実になる。言い手が何を思っていても意味を成さない。言い手はそれを意識して言葉を選び、聞き手はそれを意識して考慮したら、きっともっといい世の中になる。


男と女は「言葉が通じない」とかってよく言われますけど、
そういうのだけじゃなく、一般的に、普通に誰と会話していても、この問題が常に横たわっている……と、意識している人はどれくらいおるんでしょう。
たとえば。
真意を伝えようと、それなりに私なりに考えて文章を書いてはいるんですが、
返ってきたコメントを読んで、「へ?」ってなることも時々あります。
いや、そーゆーことゆーてんのやないんやけど……って困ることもたまにあります。
私の表現がマズいってのも大きいんでしょうけど、
なんでそこをそんなふうに受け取るん?って思ってしまう時もあります。
でも、まさに「言い手が何を思っていても意味を成さない」わけで、「聞き手がどう受け取ったかが真実に」なってしまうわけです。
「なんでなんで?それちがーう。」って言わせてもらえて、それを理解してもらえるなら、そのやりとりも意味のあることにはなるけれど、
多分、そういう「双方向」であることの方が少ない気がします。
そしてそれは「言葉」だけでなく「行動」でも同じだということは、簡単に想像できると思います。
ですから。
人間のコミュニケーションにはこの構造が基盤として存在しているのだから、自分が聞き手になる時は「全部受け身で聞く」のではなくて、「1歩前に出て聞く」ように心がけてはおるのです。
もちろんフルタイム・全方位にやってるわけじゃないんですが。
言葉の向こう側を想像しながら聞く・読む
という感じですかね。
行動だったら、なんでそんな行動をとってるのかを、できるかぎりの範囲でしかないけれど、想像してみるということですね。
それで(相手の)正解に辿り着けるとは限らないし、辿り着けると思う方が思い上がりなんでしょうが、
そういう想像力を働かせながらコミュニケーションを取るように心がけるだけでも、ほんとにちょっとだけでもいい世界になれるんちゃうかな、と思います。
で。
そういう時に案外邪魔になるのが「自分の常識」みたいなもんやと思います。
自分にとってはそれが当たり前でも、他人にとっては当たり前やないことなんていっぱいある……というのは、頭では分かっていても、なかなか実践装備できないものです。
なので、「それが当たり前」とか「良い・悪い」じゃなくて、
自分はそれが好きか嫌いか、で判断してるんや、と思うようにしています。
そういう考え方が好き。
そういう考え方は好きやない。
それを基準にすると、「ただ単純に私が好きか嫌いか、なだけであって、他人の基準と違っていてもそれは好みの違いなんやから、相手を否定するのも変な話やな。」と、思えるんです。
相手を否定するんやなくて、
相手の「その言動の基となってる考え方」が好きになれん、っていうだけの話なんですよね。
そうなってくると、より建設的な会話もできるようになるんです。
建設的な会話が増えてくると、だんだん賢くなっていけるし、賢くなっていくと、どんどん賢い人と縁付くので、どんどん自分の世界をクリアなカタチで拡げていけるし、
好ましい循環になると思います。
ただし、
なんで自分は「こういう考え方は好き」で「こういう考え方は好きやない」んやろうか?
と、時々自問することも忘れてはアカンと思います。
セルフチェックは必須ですね。