今朝ですが、
情報番組をかけっぱなしにしておりましたら、社会人に算数のテストをしたとかなんとかゆーてました。
80年代入社の人たちは9割が正解なのに、2007年だったかなー?入社の人たちの正解率が4割だったという問題がコレ。
9 – 3 ÷ 1/3 + 1 = ?
これは算数ですよね。
小学校の算数ですよね。
なんで4割の正解率なのー????と、ビックリしました。
あ、もちろん答えは1ですけど。
ゆとり教育云々と言ってしまうのは簡単ですけど、もっといろいろフクザツな問題が絡んでるような気もしました。
さて。
その算数についてなんですが。
うちの娘は小学校1年生です。
保育園時代にはほとんど勉強らしい勉強を教えませんでした。
私は早期教育は不要だー、と思ってるので。
小さい子供は、食べることと寝ることと遊ぶことが仕事ですもん。
ダウン症の兄のために、おとーちゃんが毎日お風呂で数の数え方や簡単足し算とかは教えてますので、それで覚えたというのはありますが、それでもね、ほんとに簡単なものです。
なので、小学校に入ってから本格的に勉強をしなくてはいけなくなり、最初は多少大変そうではありました。
算数も、どうも足し算がよく飲み込めてない……といいますが、
もういい加減パッと出ないといけなくない?ってなっても、指で数えてました。
担任の先生も5月頃に「算数、大丈夫かなー?」と思ったそうで、やはりちょっとマゴマゴしてたようです。
というわけで、おとーちゃんが手作りのカードを用意して、娘に「数」というものを叩き込むように仕向けていました。
今では算数のテストはほぼほぼ100点をになってます。
ちゃんと「数」というのが入ったようです。
でね。
その時の話なんですがね。
4+5はいくつ?と質問されて、9とパッと出る……というのは、頭の中にその組み合わせがしっかり存在するからなんでしょうけど、
おとーちゃんと話をしてて、私の場合はどうやらちょっとオカシイらしいのです。
おとーちゃんが娘のために作ったカードの絵は単に丸が並んでるものでした。
丸という図形の並びの印象で数を叩き込むわけです。
でも私は「色」で入ってるんです。
えー、たとえば、8はエメラルドグリーンなんです。
なんで?って言われても、最初っからそうなんです。
1~9まで、それぞれの色があるんです。
なので、繰り上がりの計算も、色と色の組み合わせになるんです。
が。
だからダメなんです。
20以上だともう色がぐちゃぐちゃになって、するりと計算できないんです。
そこで違う頭の使い方に切り換えないといけなくて、
そうなるとなんだかとても時間がかかるので、計算がとても苦手なんです。
ソロバンを習っておけば良かったのかもしれませんが、私は習字を習ってまして、ソロバンは習ってなかったんです…。
ちなみに、九九も段ごとに色がついてます。
2の段は黄色とか。
そっかー。
最初が間違ってたのかーーー。
だから算数が得意じゃなくて、数学もデキが悪かったんだなー。
と、この歳になって分かったんですが、後の祭り過ぎますねぇ。
2013年を振り返っておく。ちょっとだけ。
もう大晦日ですよ。
なんてこった。
そんなわけで、2013年を振り返っておきます。
・娘が小学生になった。
・そしたら息子が毎朝妹の担任の先生に「(妹を)よろしくお願いします。」と言っているらしい。
・野良子猫のちーが事故死して、こりゃもう腹をくくるしかないな、とブ子を外猫から家猫へと昇格させた。
・今までで一番ヒドい発作を起こし、そこからMAPを始めることになった。
・そしたら、ガイドが増えた。
・またこのガイドがイケメンでもぉー。(←あくまで私のフィルターがそうなってるだけなんだけどね。)
・10年ぶりくらいに東京に行った。
・今年も365日がっつりeighterだった。
・でもやっぱり松潤は別格。
・実家の猫が19歳でこの世からおさらばした。
・たくさん絵を描かせてもらえた。
あっと言う間だったなー、と思う反面、いろいろあったなー、とも思います。
うん。
なんやかんやといろいろありましたわー。今年も。
そして、今年も家族みんな大病せずに過ごせたのが一番でした。
健康第一!健康第一!!
今年もみなさんにお世話になりました。
ありがとうございました♪♪♪
ちょっと書いておこうかなと思ったので、書いてみた。
じぇいど♪さんがこの記事
http://nanigamieterujpn.blogspot.jp/2013/12/blog-post_20.html
の中で、こんなふうに書いてます。
そして楽観論の人がその悲観的になる人の気持ちに本当の意味で寄り添えないってのは・・・つまり自分のことを言ってるんだけれども、その人と同じような苦しい体験をしたことがないから、能天気すぎるからだけなのかもしれない、申し訳ない、と思うことがあるのだが。
彼女とのお味噌話が始まる前、私は数日間にわたって「自分の深くにある思考パターン」を発見させられ、それを手放すためのアレコレを……まぁ、その…『上のヒトたち』に促されてしておりました。
そんなことをした直後だったので、彼女の話のアレコレも、
「ああー、やっぱりそうなのかなー。」
と思わされるものとなっていました。
「やっぱりそう」というのは、
人間は、自分の中にあるものを通してでしか世界を観ていない
ということです。
それは、場合によっては「ごちそうさん」で描かれたように『傷ついていない人が、深く傷ついた人の心に寄り添うことができない』ということも引き起こすわけです。
でもね。
私は、それでいいんじゃないのかな、と思うのです。
だって、お互いがお互いの心を理解して寄り添うために、みんながみんな深く傷ついていて、ひどく繊細になって、苦しみや悲しみの海の中で生きなければならない…なんて、おかしいですもん。
ひとりひとりまったく別々のいろんな経験があって、いろんな感情があって、
そうやって形成されていくのが、世界でたったひとりの「その人」なんですものね。
それにね。
じぇいど♪さんだって、私だって、貴方だって、きっとそれぞれ苦しい経験をしてるはずで、
それを乗り越えて笑ってるはずなんですよね。
震災や戦争といった悲劇を経験していないからといって、悲しみを知らないわけじゃないんですもん。
けれど、やっぱり震災を経験した人の心の内は真には分からないですし、戦争やテロを経験した人の心の内は真には分からないです。
想像し、同情するしかできません。
自分の中にあるものを通してしか世界を観ることができないからです。
深い悲しみを抱えた人が、同じ悲しみを知っている人に慰められ寄り添ってもらうことでしか癒されない場合って少なくないと思います。
でも、同じ悲しみを知らない人の優しさによって癒されることだってあると思います。
なので、私は、
「私は、あなたの悲しみは分からないけれど、あなたが1日でも早く癒されて心から笑ってくれるようになって欲しいと思っている。」
という気持だって、すごく尊いものなんじゃないのかなー、と、それこそ能天気ではありますが、思っています。
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心のどこかに深い傷がある人が、その傷ゆえに、周囲を傷つける言動に出ることも多いような気がします。
もしかしたら、人間関係の摩擦の原因というのはすべてがソレなのかもしれないなー、とすら思います。
でも、
深い悲しみや大きな怒りを通してしか世界を観ることができない状態のその人に、自分が傷つけられるような言動をされた時というのは、
もしかしたら、それまでとは少し違う視点から「自分の在り方」というのも考える機会を与えられた…と考えることもできる気がするんです。
相手の言動に対して、落胆したり、悲しんだり、怒りを感じたり……いろいろな感情が「反応」として沸き上がってきますが、
その反応としての感情と、自分がどのような態度を取るかは別モノで、
どのような態度を取るか、という選択に対してほんの少し慎重になってみるだけで、
自分の観ている世界と、その人が観ている世界は、同じではない…ということに気づくはずなんです。
自分の観ている世界と、その人が観ている世界は、同じではない
ということを知っていくうちに、
では、自分はどのように世界を観たいと思っているのか、自分が真に観たいような世界を観るためにはどうしたらよいのか、
を探求していくことになると思うのです。
なので、それまでと違う視点で「自分の在り方」を考える機会だとも言えるよな、と思うのです。
深く考えるということ。
今日、精神科医の名越康文さん(@nakoshiyasufumi)が、こんなことをツイートしてました。
深く考えるのは感覚的にはアタマではない。無理に云うと、アタマどころか自分のいないところで考える。
膝をポンと打って
「そうよねっ!そうなのよねっ!」
と激しく同意しました。
「心の型」
先月、コレ
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/1013/
を見たんです。
中国では、急激な経済成長の歪みがいろいろ発生しているそうで、
人々の「心の在り方」も問題になっているそうです。
お金至上主義みたいになってしまった人たちが多く、自己中心的で自分勝手な、「人との心のつながり」がどういうものか分からないような人がとても多くなってしまったのだそうです。
番組の中でも紹介されていましたが、たとえば、2歳の子供が車に轢かれて倒れているのに、何人もの人が無視してすぐそばを歩き去っていく様子が防犯カメラに写ってしました。
そんな中国で、人としての在り方、心の在り方を見直そうとする動きも出てきているそうで、
それを担っているのが、儒学とキリスト教でした。
国としては儒学を推奨して、人民の心を律しようと考えているらしいです。
キリスト教(宗教)は共産主義国家ではソリが合いませんが、党も黙認してるみたいです。
お金儲けのことしか考えていなかったセレブな女性が、ご主人が亡くなり、事業に失敗した途端、周囲の人々が去っていき、とてつもない挫折と苦悩を味わったそうです。
その時に彼女を救ったのが儒学だったのだそうです。
儒学を学ぶ集会に出席し続け、自分の至らなさを省みて、号泣していました。
地方の共産党員として頑張っても、思うような出世ができず、おそらくいわゆるうつ状態になってしまった男性は、キリスト教の牧師さん…なのかな??に相談していました。
今の良くない状態は悪魔のせいだ、と牧師さんは言って、悪魔払いみたいなこと(聖水を撒いたんだっけな?)をしていました。
人間って、道徳や信仰などを「指針」として習得しなければ、迷走しやすい心を有してるんだろうなぁ~、と番組を見ながらあらためて思いました。
お金や権力は誰の手にも入るものではありませんから、それが万人の「生きる指針」「人生を支えるもの」にはなり得ないですし、
やはり、そういう「欲(エゴの主たる作用)」とは別のところにあるものを求める心の作用というのがあるような気がします。
ただし。
あくまで、儒学にしてもキリスト教にしても、救いの入り口だと思うのです。
迷走している心に「型」を教えるようなものだと思うのです。
ですから、目上の人の引き立てが無く出世できないことが「悪魔の仕業」だというのは、その時の彼にとっては救いになるけれども、ずーーーっとそこに留まっていては一種の思考停止になると感じますし、
儒学を学んでる女性にしても、同じことを感じました。
私は、宗教もスピも「型」だよなー、と思うことがよくあります。
「型」を習得したら、次はその型を越えていくというステップが待ってるんじゃないかなー、と思うことがよくあります。
だって、「型」はあくまで「方便」ですから、そこにこだわっていたら、ほんとうの「向こう側」に触れることができないと感じるからです。
この本を作ったP様はよく「自分を最優先にして、自分のことだけ考えればいい」など、そのようなことを書いてらっしゃいますが、
それは、こうあるべきという「型」に縛られている人に対しての言葉だと思うんです。
だって、それこそ自己中心的で自分勝手な人にそんなこと言ったら、さらに周囲が困る状況になるだけですもんね。
人としての「心の型」をある程度習得したら、そこからは自分なりに心を育てていく気概も大事なんだろうと思います。
それが、その人の個性となり、豊かな人生を創造していく土台となるんじゃないか、と私は考えています。
好きなことをゆるゆると続けていけばいいのではないかと思う。
目標をしっかり持って、ガツガツと頑張っていく……というのは、もちろん大切だと思うんです。
特に若いうちは。
いや、別に若くなくても、いいよね。
でも、それとは正反対もアリだと思うのです。
こちらに書いてあるように。
http://ameblo.jp/koi-kentei/entry-11632629313.html
人生、「ここぞ。」という時ってあります。
私の場合は、それが大学受験の時だったなぁ、と振り返ってみると思うのですが、そういう時はグッとお腹に力を入れて頑張るしかないし、それが人生の分岐点になります。
でも、天使の絵に関しては、求められてるうちにお店をネットで開店して、求められるままに(その時に自分の精一杯で)絵を描き続けてきました。
そういうのもアリなんですよね。
なので、
好きなことは心のままにやってみるといいと思います。
何が、どれが、自分の身についていくかなんて分からないし、ましてや人に求められるようなモノになっていくかなんて分かりませんから、
ただ、好きなことをやってみて、興味が続く限り続けてみればいいんじゃないかなー、と思います。
どうでもいい話。
今日の午前中、とある番組を見た後、そのままにしておいたら、これのCMが流れてきまして。
http://www.shopjapan.co.jp/goods/LGMC01?af_id=331&s_ms=10ADW2_d_00008014&trflg=1
ついつい見てしまったんですけど、こーゆーCMってうまいですよねぇぇぇー。
「これなら続けてできて、痩せられて良さそう~。」
って思えちゃうんですもん。
正直、あたしもちょっと思っちゃったもん! やばいやばい。
……でも、買っても3回くらいしかしない気がする。
そして場所取って邪魔!って思うようになるんだろうなぁ。
私ならね。
はっはっはー。(←全然ダメダメ)
私が料理好きじゃない理由
★くまえる絵本『忘れんぼうのキミへ』が絶賛発売中です★
お買い上げいただき、ありがとうございます♪♪
そして、ブログやSNSでご紹介くださった方々も本当にありがとうございます♪♪
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Twitterでフォローしてる「こべに」さんの今日のブログ記事が興味深かったんです。
http://kobeni.hatenablog.jp/entry/2013/09/24/095453
※URL間違ってたので修正しました。
私も料理は好きじゃないです。苦手です。
子供の頃からお手伝いはしていたのですけど、料理が好きだ~と思えたことはありませんでした。
というのも。
私は、自分の味覚に自信がないからです。
大学生の頃までは、「美味しい」「美味しくない」がよく分かりませんでした。
いえ、もちろん味覚はちゃんと感じるんですが、自分の「これは美味しい」「これは美味しくない」という判断に全くの自信が無かったのです。
なので、何食べても、これは一般的に美味しいものなのかどうなのか?と考えると分からなくなってしまい、自分の味覚が正しいのか正しくないのかさっぱり分からなくなっていました。
同じ「太陽が山羊座」のオカンと弟1号は味覚に対してものすごくハッキリとしたモノを持っているのに、私は全然ダメでした。
社会人になってからは、自分の味覚が的外れであっても貧弱であっても、自分が感じることなんだから仕方がない…と思えるようにはなったのですが、
結婚して、自分以外の人にも食事を作るという状況は、やはり苦痛の方が大きかったです。
さらに、子供が生まれてからは、心のどこかでいつも「こんなオカンでごめんねー。」という自責の念みたいなものを感じています。
お料理が好きで上手で、「これが美味しいものなんだよ。」と教えてあげられるオカンじゃないことが申し訳ないのです。
なぜこうなってしまったのか、は分かっているんです。
だって、小さい時から食べることが好きじゃなかったからです。
チビでガリガリの子供だった私は当時から自律神経が乱れやすかったみたいで、食べるとしんどくなることが多くて食べることに対してネガティブなイメージが育ちやすかったことに加えて、
「あんたはちっとも美味しそうに食べない。」とよくオカンやおばーちゃんやおばちゃんに言われていたので、私は美味しく食べられないんだ、と思い込み、食べることがどんどん好きじゃなくなっていったのです。
オカンになってみて分かるんですよー。
ものすごーく美味しそうに食べる子供って、親からしたら至福ですもん。
一生懸命作ったご飯をもそもそとマズそうに食べる子なんて、そりゃイラっとしますよ。
でも、そういう言葉を子供に投げかけるのはやはりNGです。
美味しいが分からなくなってしまうんですから。
それでもですね、
やはりオカンになるということはスゴいことで、料理を作ることが日常となってしまうんですよね。
そうなると確かにキッチンはコクピット化するんですよねー。
それなりにも。
料理って「段取り力」がポイントになってくるので、コクピット化して当然なんでしょうね~。
さてー。
今日の夕飯作ってきますー。
人生を楽しんで生きているか?という問いに、YESと即答できない。
MAPセションをコツコツ続けていて、あるテーマが浮かび上がってきています。
私は、人生を楽しんでいるのか?
この肉体を受け入れ、人生を楽しんで生きているのか?
というものです。
詳しく経緯を書くとどえらいこと長くなるので割愛しますが、セションでこのテーマが徐々に浮かび上がってきたところで、それに関連するようなブログ記事を続けていくつも読むことになったり、
友人の真似をしてひいてみた「あなたの今日のオーラソーマ」で「守護天使」が出たり。
http://artbeing.com/aura-soma/reading/tarot-044.html
「あなたの魂は、自分を信頼すること、自分らしく生きることに、心を開くこと、そしてくつろぐことからあなたのエネルギーが自由に流れ出すことを思い出して欲しいと願っています。」
だなんて、いたたたたーってなりました。
ただ好きなことをして自分勝手に生きる…という意味では無いことくらいは分かりますけど、
果たして自分はほんとうに楽しんで生きているのか?と問われると、言葉に詰まる自分がいました。
同じことの繰り返しの日常に飽き飽きしてるとか、そういうことでもないし、
そんな日常をありがたいと思っているし、フルタイムで外で働いていないから社会とのつながりがどーのこーのなんてことも思っていないし………
そういう枠組みでの問題じゃないんです。
多分、もっとシンプルな、もっと深い部分での話だと思うんです。
多分、「理性」とか「論理」とかと拮抗して、押さえ込まれやすい部分のことだと思うんです。
ほんとは、拮抗するものじゃないんだけど、何か不要なモノがややこしくしてるような気がします。
そう思うと。
妊娠と出産は「この肉体をフルに使って人生を楽しむ」という状態だったように思います。
そして、関ジャニ∞のライブの時間もそうなんですよね。
「この肉体をフルに使って人生を楽しんでいる時間」は、純粋な喜びを感じている瞬間の積分みたいな感じだよなぁ……と、感じます。
とりあえず今は、関ジャニ∞にめっちゃ助けられてるよな~、って、しみじみ思います。
参考までに、これを貼り付けておきます。
http://www7.plala.or.jp/bumboo/amulet/f_ca.html
私の持病の1つが、第1チャクラの弱さが原因なのかなー?とずーっと思ってたら、セションで
「第2子出産のダメージで第2チャクラがそれまでよりちょっと弱ってしまった(?歪んだ?)せい」と(何度訊いてもそう)言われて、
そこから「人生を楽しんでいるか?」というテーマが浮かんできたんですわ…。
なかなか根っこが深そうです。
(※ …と、次の日記に続いた。)
独裁者の統べる国は不幸だというのは、思い込みなのかもしれない。
先週のことです。
関ジャニ∞の3人が出てるテレ東の番組を見ていたら、トルクメニスタンを取材したとやってまして、
その時に、世界各国の報道自由度のワースト3が、
エリトリア、北朝鮮、トルクメニスタン
と紹介されてたんです。
え?
北朝鮮より報道の自由度が低い国があるの?
エリトリアってどこの国?
と興味をひかれまして、早速ぐーぐる先生に調べてもらいました。
すると、こんな記事をすぐに拾ってくれました。
ぜひ読んでください。
麦茶でも用意して、じっくり。
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2012/05/post_6229.html
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2012/05/post_a391.html
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2012/06/post_70ee.html
番組でも、トルクメニスタンの国民は、北朝鮮の人たちのように大統領を褒め讃えまくっていて不自然ではありましたが、
でも、北朝鮮とは決定的に違うことがありました。
それは、トルクメニスタンでは豊富な地下資源で得た富は国民に還元されている、ということです。
ガスや水道はもちろん無料。
教育費も無料。大学も正規の試験さえ受かれば実質無料だとか。
家族を大事にする国民性で、夕方になると街は閑散とするそうです。みんなおうちに帰って家族と食事をするから。
取材班にはりついていた政府の人も、実はすごくフレンドリーだったりして、あれれ?って感じ。
国営放送はちっとも面白くないので、国民のほとんどがおうちにバラボナアンテナつけて、海外のテレビ番組を見てるとか。
独裁者が仕切ってる国だからって、国民がちっとも不幸そうじゃないんです。
すると、ちょうどこんな記事も見つけました。
http://www.tkfd.or.jp/news/today/1_20061225_1.shtml
ニヤゾフ大統領というのは、トルクメニスタンの前の大統領のことです。
あー、そういうものなのかもなー、と思いました。
独裁者本人が賛美を強制するんじゃなくて、周りが気を利かせせやってるうちにどんどんおかしなことになっていくものなのかもな、と。
「独裁」はダメ、「民主主義」でないと先進的な国ではない、というのは、ほんとうにそうなのかな?と、考えさせられました。
リビアも、今は治安がすごく悪化しているとか。
カダフィが治めてた頃より殺人事件が5倍になったらしいです。
「国」とは何か?
「良い国」とは何か?
表現の自由が規制されていたとしても、もしもその国の治安がとても良くて、生活水準が高いとするなら、それも「良い国」のカタチの1つなのではないか…?
ほんとうにいろんなことを考えさせられました。