週末の耳ほり、アキオさんは相変わらず大泣きしました。
先生が「はい。終わったよー。」と言うやいなや、お父ちゃんの膝から飛び下り、「おわった。おわった。」とベソをかきながら診察室から足早に逃げ出してしまいました。
母、おかしかったです。
時々、こっちがビックリするような『言葉』を言います。息子くん。
まだ何を言ってるのかよく分からないことがほとんどですが、たまたま上手に真似したりして、グッドタイミングで言葉が出ることがあるのです。
「おわった。おわった。」もそうだし。
週末に実家に帰った時、弟1号が「アキオ、ぐーんと成長したねぇ。」と感心してましたもん。
やはり言葉が増えるというのは、端から見ていても成長してるなぁ、と分かり易い指標ですね。
デイサービスに通うようになってから、身体も締まったし、言葉も増えたし、やはり良い刺激になってるんでしょうね。
さて。
実家に帰る前に名古屋に寄って、久々にタァちゃんとアキくんに会ってきました。
みんなでランチをしてきたのです。
みんな大きくなっていて、おばちゃんは嬉しかったであります。
その中で、実はアキオが一番成長しておりました。
えっと、他の2人はお母さんが大盛りのうどんを注文して、それを分けてもらってたんですが、息子くんは一人前を注文して、食べちゃったんですもん。
言い替えれば、一番の食いしん坊なのであります。
食いしん坊なので、背が一番高いというのも必然かもしれません。
食いしん坊、万歳。
……でも、ダウン症の子は太り易いって言うから、気をつけないとね。
実家では、オカンについて歩いてた息子くん。
ほんとーにおばあちゃん子であります。
私達にとっては怖いオカンも、息子にとっては甘いばあちゃんだもんね。
孫パワー、おそるべし……というのが真実かしら?
さてさて。
昨日は息子を旦那さんの実家に預けて、午後から吉村医院に行ってきました。
前期両親学級に参加してきました。
妊婦さんだけでなく、見学の人もたくさんいて、賑やかでありました。
先生は徹夜明けなのに、何時にも増してパワフルでありました。
実は、その前日、旦那さんの自然農仲間のYさんから電話がありました。
転勤で今は長野県に住んでいる人なのですが、明日はこっちの方に来る用事があるので、お父ちゃんの畑が見たい、という電話でした。
よくよく聞いてみると、なんと奥さんと一緒に吉村医院に見学に行くのが『用事』なのだとか。(ちなみに奥さんは妊婦さんじゃありません。ナチュラルライフ志向が強くて勉強熱心な方のようで、吉村医院を見学したいと電話で申し込んだところ、両親学級に来たらどうですか、と言われたそうなのです。)
「もうさーー。こーゆーのって、ビックリしなくなってきたよねぇ。」と、旦那さん。
あっちゃこっちゃで繋がってしまう、というのが日常的になっているのです。
裏返すと、意識が違ってきちゃった人たちとは自然と縁が切れてしまう、ということにもなるんですが……。
それは距離とは関係なく、ね。
子どもは病院が嫌い。
『うちの3姉妹』が好きで、よくチェックしとるんですが、コレはほんとに何度見ても笑えたっす。
ウチのアキオも病院は大嫌いで、どの病院でも診察室に入ると泣きます。
明日は耳鼻科で耳ほりの予定……。
またおお泣きするんだろうな。
あなたの真実、私の真実。
まずは、新井信介さんのブログから。
コチラの記事です。
どこまでも、どこまでも、どこまでも、
心と肉体が一致した、喜びを、感じあっていたいと思います。
そして、その喜びを、分け与えることで、社会的な富を生み出したいと思います。
本当にそうだよなぁ、と思います。
ただし、心と肉体が一致した喜びを感じ合うためには、私達一人一人が『自分の本当の心のまま』に生きていなければならない、というのが、ちょっと考えてみると非常に厄介な、と言いますか、どこから手を着けていいか分からないポイントだと思います。
そこで、次はあるヒーラーさんのブログです。
コチラの記事です。
自らの真実に生きる、というのは、わがまま勝手に生きることじゃない、常識的に生きるということでもない、というのは大概の人には分かると思うんですが、ではどーゆーこと?と聞かれると、やっぱりなかなか難しい問いだったりするんですよね。
たとえば。
スピリチャル系の人たちはみんな異口同音に『良い言葉を使い、良い想念を持ち、良い未来を信じて生きなさい。』と言いますが、ポジティブシンキングができない時というのも現実にはあって、そんな自分を騙してまでポジティブであろうとするのは、なんだか違うな、と。
ポジティブに考えることが『良いこと』だからそうする、のではなく、自分の内から真にポジティブに陽気に喜びに溢れるようになるためにどうしたらいいか?を求めることが大切なんじゃないかなと思っていました。
でなければ、あまり意味がないと感じていたのです。
ですから、このヒーラーさんの言葉に「なるほどー。」と深く頷いてしまいました。
自らの真実から発せられた言葉や想いでなければ、いくらポジティブなものであっても生きるエネルギーにはならない、と。
だからと言って、ネガティブなものをそのまま言葉に想念に行動に表出してしまっては、業を増やすだけです。
それも生きるエネルキーにはならないでしょう。
ほらね。
「じゃあ、どうしたらいいの?」ってなっちゃうでしょ?
生まれつきの善人でなければ『自分の真実・本当の自分の心のまま』に生きられないってこと??と、ガッカリしてしまいますよね。
けれど。
そこで諦めちゃうと、そこまでなんですが、諦めが悪いとちゃんと道を示してもらえるもんなんですよ。これが。
それは、人によって違う道なので、それぞれが諦めずにいることだ、としか言いようがないのですが、私の場合はやはり五井先生の教えが光の道でありました。
私の真実。
それは、私たちは神様の分け御霊であって、本心は神である、ということ。
心の芯からポジティブなものが出てこないのは、前世からの溜まりに溜まった業の現れであって、私本心は常に神様と共にあり、光そのものである、ということ。
それを『感覚』として感じることができなくても、とにかくそれをまず信じ、世界平和のお祈りを続けなさい、と先生は言います。
祈りは光であり、その光が業を少しずつ消してゆくと、少しずつ少しずつ、本当の自分が現れるから、辛抱強くお祈りを続けなさい、と。
悪い想念が出てきたら、お祈りの中に入れて消してしまいなさい、と先生は教えてくれました。
初めは『形』だけ信じていたようなもんだったと今から振り返ると感じるのですが、とにかくちびちびとお祈りを続けていたら、気がついたらいつの間にか、それが私の真実になっていたのです。
すると、ありのままの自分を認める、という課題を最近は守護霊さまからいただくようになりました。
本心の私からは遠く離れた業想念(ネガティブな想い)の私も、『この三次元の現実の現れとして、今ここに在る』ということを認め、そのうえで、それは本来の私の属性ではないことも同時に認める、ということです。
すると、この物質世界のリアルであるネガティブな想念も浮かびつつ、本心の私から湧き出る光の想念も少しずつですが感じられるようになったのです。
真実に生きる、というのは、私の場合はそういうことなんだな、と思いました。
するとですね。
不思議なことにですね、毎日を過ごしている『この三次元の物質世界』の空気っていうか、なんていうか、そーゆーものの密度が濃くなったような感覚を覚えるようになったんです。
私は弟のように霊感はありませんので、劇的なものではないところが逆に伝えにくいっちゃあ伝えにくいのですが、そうなんですよ。
とにかくですね、同じ世界のはずなのに、この世界の波動が少しばかり精妙になった感じがするのです。
それは、もう『そういう感覚がする』としか言えません。
あ、ただ、分かり易くなったこともあります。
いろんなことが『以前より速く現れるようになった』ってことです。
いろんなことが、です。
ですから、浄化(下痢とか)も、想念に合わせて来ます……。
今朝もきました。とほほ。
しかし、因が速く結実して果となるというのは、分かり易いです。ほんと。
めでたいめでたい。
以前から我が家では、「紀子さまのお腹の子、絶対男の子だよねー。」と、盛り上がっておりました。
ですから、今日はとても楽しみにしてました。
親王殿下の御誕生を心よりお祝い申し上げます。
良かったですねぇ~。
愛子さまの時も国民の一人として嬉しかったけれど、やっぱり親王殿下ですからね。
格別に嬉しいです。
もちろん、男女は平等ですよ。
そんなの当然です。
男の子でも女の子でも、赤ちゃんが生まれるということは、誰の子であったって喜ばしいものです。
そこに区別なんてありません。
ただ、それとこれとはちょっと次元が違う話しなのであります。
親王殿下がお生まれになって嬉しいというのは、これは大和民族の血のせいなのであります。
条件反射みたいなもんです。
なので仕方がありません。いらんことを頭で考えずに素直に自分の血に従えばよいのです。
(こんなことを書くと、「あんたは右かね?」と聞かれそうだけど、私はよく共産党に入れてます。)
と、こんなとってもおめでたい日なので、ロト6を購入してきました。
めっちゃキャリーオーバー中だし~。
少年老い易く学成り難し
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声
小4の時に担任の先生から何度も朗誦させられて覚えさせられたものです。クラス全員が。
『少年老い易く学成り難し/一寸の光陰軽んずべからず』
は小4でも意味が分かったのですが、
『未だ覚めず池塘春草の夢/階前の梧葉已に秋声』
って、意味が分かりませんでした。
てか、今でも意味は分かりません。調べたことないんで。
それでも、今でもスラスラ出てくるんですよね。
小学生向け斎藤メソッドのことを知った時、自分の経験を思い出しました。
意味もよく分からんけど、何度も朗誦するという実体験があったので、『母国語の向上のためには、名文といわれる迫力のある文章を暗誦・朗誦することが欠かせません。』という斎藤先生の言葉には「なるほど。」と素直に思いました。
ところで。
うちの旦那さんは典型的な理数系の頭を持っていて、私とは正反対です。
私は地学科出身ではありますが、数学物理が苦手なのです。
てか、物理は好きなんですが、なかなか手に負えなくて時間がかかってしまいます。
数学にいたっては、高校の数Ⅰまではなんとか「えっちらおっちら。」とついていけたのですが、基礎解析からお手上げになってしまいました。
大人になってからよーく分かったのですが、そもそも空間認識能力に大きな欠如がみられるのです。私ってば。
致命的です。
数学脳を育てようとしても、そもそもの部品が足らないので育たないわけです。
そんな私ですが、暗記科目は結構得意でした。
それは、数学が苦手だから暗記科目しか勝負できない、という意味ではなくて、自分の中にいろんな知識が入っていくことが単純に嬉しかったからなのです。
「そんなことを覚えて、何か役に立つの?」なんて思ったことありませんでした。
クエン酸回路を覚えたからって、実生活で何か役に立つわけないのは分かってるんですが、自分の引き出しが増えるような感覚がして、本当に単純に嬉しかったのです。
そして、ある瞬間に、それまで断片的に溜めていた知識が『大きな流れ』としてだーっと繋がることがあるんですね。
それって、まるで閃くように突然『見えて』くるんです。
そーゆー時って、授業中でも小躍りしたくなるんですよね。
ああっ。そうだったのか!って。
だから、わりと学校の授業というのは好きだったのです。
あ、でも、語学は得意ではないんですよね。
これも暗記科目なんだけど、なんだかダメなのです。
どうして語学はイマイチ好きになれないのか、そのへんは自分でもよく分からんのですが。
そんなわけで、すっかり忘れてしまったものばかりですが、一度は自分の中に入った知識です。
テレビを見てたり本を読んだり人と話しをしたり、何かの拍子に「あ、そういえば…。」と、ぼんやり思い出すことも多いのです。
そして、そこからいろんなことを考えたりできるようになっちゃうのですから、学生時代の勉強というのは、やはり無駄がないよなぁ~、と思います。
その点、旦那さんは暗記が得意じゃなかったからってんで、いろんな話しをしていても、「あれ?そんなことも知らないの?」とこっちがビックリすることがあったりします。
歴史のこととか、地理のこととか。
せっかく立派な数学脳を持っているんだから、ちゃんと暗記科目もしっかり勉強すれば良かったのに、勿体ないなぁ~、なんて私からすると感じたりしてしまいます。
さて。
ほぼ日の『おとなの小論文教室』を久々に覗いてみたら、こんなのがありました。
やっぱり、子どもの頃に学校でせっせと暗記するのって大切なんですな。
私達は、深い愛へと還っていかなければならない。(その2)
コレの続きです。
*****
「貧しく、苦しく、病んでいる人とともに生きることは、人間にとって最も素晴らしい生き方なのです。」
マザー・テレサはそう言いました。
あなたは見捨てられた存在ではない、あなたは愛されているのだ、と、死んでいく貧しい人たちに伝え続けるマザーたち。
一人一人が大切なのだ、とマザーは言います。
分かち合い生きていくこと。
それは、物質的なことだけではありません。
深い愛を、自分の中の美しいものを人と分かち合い生きていくことが、人間にとって素晴らしい生き方だということなのでしょう。
そして、その深い愛につながり続けるために、神の愛をそのままみんなと分かち合うために、祈りが日々の生活のなかでとてもとても大切だとマザーは教えてくれています。
けれど、マザーの言葉一つ一つに感じ入っていた私なのですが、翌日にお腹が痛くなりました。
何かが間違っているのです。何かが欠けているのです。私の中で。
それを守護霊さまが教えてくださっているに違いないのです。
下痢は一応収まりましたが、まだお腹がしくしく痛い状態で、洗濯物を干しに行きました。
ぐったりしながらも、頑張って洗濯物を干していました。
その時にぼんやりと思ったのです。
「守護霊さまや守護神さまは、こうやってお腹が痛くてぐったりしている私のことを、どう感じながら見てくれているんだろう……。」
たくさんある業をちょっぴり消すため、間違っていることを教えるため、『守護霊さまが私の身体をそうさせている』んだから、「あーあ。バカだなぁ。」なんて言いながら見ているわけはないよな。
きっと、私の考え方の癖や心の動きに寄り添いながらも、在るべき道へと少しずつ少しずつ導いてくださっているんだなぁ……。ありがたいなぁ……。
そうぼんやりと考えが浮かんだ時に、ハッとしました。
お祈りをちびちび続けたおかげで、少しは霊性の向上の道を進むことができていると思える私ですが、当然ですが、そんなもんは守護霊さま守護神さまから見たら幼稚園の年少さんが年中さんになったぐらいのチビっとな成長でしかないのです。
まだまだ霊的には幼稚園児なのです。
なのに、年少さんの言動を見て、なんだか違うなぁ…、と思っていたのです。
霊性の向上に伴う『差別感』みたいなものや『批判』は持たないようにしなければ、と常々思ってはいるのです。
五井先生やハトホルさんたちが教えてくれたとおり、これは大きな落とし穴だと【頭では】十分に分かっているからです。
それでも、です。
私はやはり心のどこかで批判しているんだ、と気がついたのです。(いえ、うすうす気がついてはいたのですが、どかーんと気がつかされたのです。)
守護霊さま守護神さまは決して幼い私を批判しながら見護ってくださってるわけではないのに。
幼い私の心の動きにも寄り添い共感しながらも、その想いの間違いを赦してくれているのです。
しかし、決してそれを是としているわけではないはずです。
間違いは間違いなのですから。
それは批判とは違うもののはずなのです。
私は、守護霊さま守護神さまの深い愛を想い、涙が出ました。
洗濯物を干しながら泣いてました。
そして、「どうしてお義父さんお義母さんは、おばあちゃんの心に寄り添えないの?」と悲しんでいた私自身が、愛を分かち合い共感し合い認め合いながら心を寄り添って生きることがちっともできていないんだ、ということに気がつき、さらに涙が出ました。
だからテレビを見ながら「なんだか違うよねぇ…。」とさらりと言えてしまうのです。
だから菜桜ママさんにも「気持ちは分かるけど、違う見方もできるよ。」なんて分かっていないのに言えてしまうのです。
たとえば、自分より身体的に劣る人、自分より勉強ができない人、自分より人間性が熟成されていない人、自分より霊性の開発が遅れている人……。
そんな人たちに対して、優越感を持つのはもちろんのこと、批判的であってはならないとは分かっているのですが、それでは「かわいそう。」と同情すればいいか、というとそうでもないというのも分かっていました。
それでは、どうなれれば良いのか。
それがイマイチ分からなかったのです。
今でも分かりません。
でも、分かったんです。
深い愛(神様の愛)に還っていく過程の中で、私もいつか守護霊さま守護神さまのように、マザーのように、本当に一人一人が大切だと、心の奥の奥から感じられるようになるんだ、ってことが分かったんです。
頭で理解しているだけでなく、本当にそう感じられるようになるんだ、ってことが。
今はほど遠いところにいるけれど、まだ「かわいそう。」「大変だな。」「早く気がつくといいね。」としか思えないけれど、私の中にある神様の愛に近づけば近づくほど、自然と本当の想いが湧いて出てくるようになるんだ、と分かったんです。
それが分かったからって、『今の私』が今すぐ大きく変われるわけではないけれど、深い愛が足りないために『こうなっている自分』を教えてもらえたことはとても大きなことだと思うのです。
それは、深い愛へとつながり続けるためのお祈りの大切さをあらためて教えられた喜びでもあるのです。
最後に本に書いてあったマザーの言葉をもう一つ。
「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもらたす存在、それがお母さんなのです。」
自分の子どもたちのためだけでなく、縁ある人たちのために、私はそうなりたいと思いました。
深い愛に還っていく過程の中で、そうなりたいと思いました。
私たちは、深い愛へと還っていかなければならない。(その1)
一昨日の午前中に、お父ちゃんが草刈り機で庭の草をガンガン刈ってくれたので、昨日の午前中2時間は私が木っ端微塵になった草を集めておりました。
それだけでも大変な作業なのです。思ったより大変。
そして、お大師さまがいらっしゃるところには一列ずらっと木がありまして、その枝払いをガンガンしました。
もーー、これがかなりの重労働なのです。
あっと言う間にアキオが帰ってくる時間となりまして、おかげで裏庭の草集めは翌日(本日)に延期になりました。
というわけで、今日は裏庭の草集めと芝生のところの手入れをしようと思ったんですが、朝食後からお腹が痛くなりました。
何度もトイレに行き、とうとう下痢に。
ぎゅーーーっとお腹がいたくなる下痢です。
昔は頻繁になり、心身ともにイヤになっていたアレです。
おかげで草集めどころではなくなりました。
でも、こんな時こそ「ああ、消えていく姿だ~。ウンチと一緒に業が出て行くんだ~。ありがとうございます。」と感謝しながら痛みに耐えることを弟1号に教えてもらってからは、しんどいはしんどいんですが、とてもしんどいんですが、心身ともにイヤになるということはなくなりました。
ただし。
今日のは、それだけではありませんでした。
またまた深い深い気づきを示してもらったのです。
自分への覚書のためにも書いておきます。
まず、先週のことです。
福祉ネットワークを何気にほんの10分ばかり見ました。
老人福祉施設の園長さんと町永アナとの対談でした。
その中で、『認知症のお年寄りの心に寄り添う』という言葉が出てきました。
認知症のお年寄りは、子どもに還るのではありません。
自分が壊れていくことが分かっていて、とても不安なのです。
だから怒ったり、妄想で自分を護ろうとするんだそうです。
だから、そんなお年寄りたちの心に寄り添うことが大切だと、園長さんは言うのです。
そうすることで、どんどんお年寄りは穏やかになっていくのだそうです。
ハッとしました。
ちょっとね、旦那さんのご両親のことで思うところがあったのです。ここんとこ。
とても良い人たちなのですが、『常識』や『自分たちの世界』の中の善悪の殻から出られないでいるなぁ、と旦那さん共々感じていたのです。
だから、ちょっとボケてきたおばあちゃんへの対応に私達は哀しくなったりすることがあるのです。
おばあちゃんの心に寄り添うという発想が生まれないんだな、とその時分かりました。
余計に哀しくなりました。
それから一昨日。
テレビで団塊の世代の人が、リタイアを前に田舎に家を建てるという番組がやってました。
のんびり田舎暮らしがしたいんだそうです。
立派な古民家風の家でした。
でも、私と旦那さんは「なんかちょっとなぁ~…。」と感じました。
団塊の世代の人たちにとっての『憧れの田舎暮らし』というのは、ああいうものなのか、とガッカリしたのです。
結局、消費していくだけの生活を、田舎暮らしという形で続けていくだけやん、と。
さて、そして昨日。
まず、以前お父ちゃんが買った本に載っていた『マザーテレサ』についての対談を読みました。
愛の深さについて、あらためて感じ入りました。
それから、菜桜ママさんのブログを読みました。
来年になったら入れると思っていた幼稚園から突然拒否されたのだそうです。
とても混乱されてました。
そして、いろんな方(だいたいは障害児のお母さん)のコメントも、しんどいものがありました。
腹が立つのも分かるし、不安になるのも分かります。
でも、幼稚園や保育園にそんなに固執しなくてもいいのに、と思いました。
障害児の母になること自体が結構イレギュラーなことです。
だから、いろんなことが『普通』のようにはいかないのが当然だし、イレギュラーであることの意味をよく考えて、自分や子どもの『本当の生き方』を探す努力をすることが大切であって、『普通』になることへしがみついていては、同じような問題が何度も何度も立ち現れてくるよな、と感じたのです。
私達はみんなみんな重度な思い込みを抱えて生きている、ということを知らなければならないのです。
ということで、お節介なんだけれども、今朝一番で菜桜ママにメールを入れました。
そして、お腹が痛くなりました。
なんとなく、なんとなくですが、ほんのりと分かってたんです。本当は。
多分ね、ここんところのこの流れと、この腹痛は関係アリアリだな、と。
でも、お腹が痛くて「ありがとうございます。」と唱えるだけで精一杯で、その時はちゃんと頭が回っていませんでした。
それでも、なんとなく分かっていたのです。
私には、気がつかなければならないことがあるって。
…息子が帰ってくる時間となりました。
続きは後で。
少しずつ少しずつ、ほんとうに少しずつ。
以前にも書いたけれど、私は『天然生活』からはほど遠い生活をしています。
衣食住が、自然に近いものであればあるほど、それはおそらく身体にも精神にも魂にも良いにちがいない、というのは分かっているのですが、なかなか『生活習慣』を変えるというのは難しいものです。
金曜日に定期検診のために吉村さんのところに行ったのですが、長い待ち時間の間、以前ここでも紹介した『なずな農園』の赤峰さんの別の本『アトピーは自然からのメッセージ』を読みました。
農薬はもちろん、化学肥料もダメ。
食品添加物もダメ。
それらが身体に入って分解できなくなり、臨界点を越えた時にアトピーや喘息、リウマチなどのアレルギー疾患になる、という持論(もちろんもっともっと奥深いものですよ。)で、多くの人たちに赤峰さんは食事指導をしてきたのだそうです。
途中で脱落しなければ、100%治っている、と断言されていました。
しかし、読み進めていくにつれ、今までの食生活を全面的に変更しなければならないというのは、本当に大変なことだろうなぁ……、と強く思いました。
自分自身または子どもがヒドいアトピーで、病院に行っても良くならず、苦しみ続けている人にとってさえ、食生活の習慣を根本的に変えるというのは、非常に難儀なことだろうなぁ、と感じたのです。
だって、『身体に良くない食生活』が大好きになっているわけですからね。
アトピーが苦しくても、脱落してしまう人がいるのも分かる気がします。
甘いものや、柔らかくてお肉たっぷり添加物たっぷりなおかずに白いご飯が大好きな人に、いきなり無農薬無科学肥料の野菜による添加物一切禁止の玄米菜食をしろと言ったって、なかなか続けられるものではないと思います。
それに、やっぱり添加物に慣れた舌ってのは厄介です。
市販のお菓子を食べさせると、ごはんよりそれらばっかり欲しがる子どもと同じです。
それでも、です。
やっぱりダメなものはダメなんですよね。
できることから少しずつでも変えていかないと。
自分の生活や人生、想念が間違っているから何かしらの不具合が出るんですもんね。
たとえ身体は健康であっても、何かしら不具合は出てるはずなんです。
小さなところでは、「…ねばならない。…ねばならない。」という思い込みに囚われて常にイライラしてたり。
大きなところでは、地球の環境問題とかね。
そう言いつつも。
私自身も間違った生活や食習慣、ひっくるめて『間違った癖』をなかなか修正できずにズルズル日々を過ごしているわけなんですが、どうもここにきてちょっとずつちょっとずつ癖直しの行動ができるようになってきました。
元来の面倒くさがり屋で、観念だけは頭にあっても行動できないことが多い私が、です。
これってね、絶対に私自身の力じゃないんですよ……。
多分、お腹の中のおチビがそうさせているんです。
じゃなかったら、この私が暑い中、田畑で草刈りなんぞしませんって。
虫が大嫌いなのに、土の上でいちいち太陽に向かってぐい~っと伸びをするように進んでいく見たこともない細い線のような虫たちを見て、「あんたたち、なんで五体倒置しながら進んでるの?太陽に感謝しながらどこに行こうとしてるの?」とじーっと眺めたりしませんって。
それまで食べようともしなかった玄米ご飯を毎日食べるなんてことしませんって。
料理が得意じゃないからってんで、市販の調味料に頼りきっていたのに、どうやったら市販の添加物いっぱいの調味料を減らせるかな~、なんて面倒なこと考えたりしませんって。
添加物のアミノ酸のうま味に慣れちゃってる私の舌には試行錯誤の毎日なのにね。
掃除も、クエン酸を溶かした水や精油(ハッカ油)を数滴入れた水を使っての拭き掃除や重曹をクレンザー代わりに使って水回りの掃除をするようになりました。
もちろん、まだまだ市販の洗剤も使っているけれど、クイックルワイパーで楽々拭き掃除をしていた私からするとですよ、ものすごい変化なのですよ。
あーー、もうね。
絶対にお腹のおチビは私なんぞよりぐ~んと高級な魂の高級霊ですわ。
アキオも私より高い霊だと思うけど、おチビはさらに高級かもしれませぬ。
生まれる前からお母ちゃんはおチビに「間違ってるよ。そこから離れなさい。こっちに行きなさい。」と教えられっぱなし。てへへ。
けれどそのおかげで、私にとっては修正するのが無理だったことがらを少しずつクリアできるわけですから、スゴいもんです。
なにより「やらなくちゃ。」という力みがありませんもん。
どっちかっていうと、ほんのり喜びさえ感じられますから。
ああ、実にありがたいことであります。
いろんな存在に感謝せずにはいられませんな。
でも、もちろんまだまだ業はたっぷりあるでよ。
ドロドロしとるでね。
はよキレイに掃除したいもんやわ。
冥王星は惑星ではなくなってしまった。
もちろん、地学科卒というのも大きいのですが、それ以上に占星術的に興味がありました。
今回の冥王星のこと。
冥王星は惑星から格下げとなりました。
地学科卒としては、まぁ仕方がないねぇ~、といった感想になりますが、占星術好きの立場からすると、ちょっと!ちょっとちょっと!って感じでありました。
冥王星ですよ。
破壊と再生、始めと終わり、絶対権力、強制的変化…を意味する惑星です。
さすが『冥王』の星です。
それが惑星から格下げとなるっていうのは、実はものすごいインパクトじゃないの?って簡単に想像できますよね。
てことで。
さすがにマドモアゼル愛先生はブログにこんなことを書かれてました。
冥王星インパクト
さよなら冥王星の良い面
気になることは多々ありますが、仕方がありませぬ。これが時代変化の兆しなんですね。
しかし、その兆しを感じられるかどうかって、大きい気がするなぁ………。
そうそう。
以前見つけた面白かった記事もリンクしておきましょう。
コチラ。
息子、3歳になりました。
おかげさまで、先週の土曜日にアキオは3歳になりました。
早いもんですわ。
もう3歳か~、って感じです。
でもって、来年の始め頃には『お兄ちゃん』になるんですもんねぇ。
んーー。不思議な感じです。
3歳の誕生日プレゼントは何も思いつかずにナシだったのですが、前もってオカンから三輪車をもらっておりました。
まだ上手には乗れないけれど、家の中で時々遊んでおります。
お義母さんは誕生日ちらし寿司を作ってくれました。
これがビッグサイズでねーー。
桶に手をつっこんでがしがし食べてました。息子くん。(お行儀悪いわね…。)
さて。
ものすごーくのんびりした妊婦ライフ中のため、自分のお腹の子が現在何週目なのか、とかをちゃんと把握しておりません。
困ったお母ちゃんです。
それで、ある日の夜、お父ちゃんが言いました。
「ちゃんと5カ月の最初の戌の日を調べておいたら?」
おお。そうか。
でも面倒だなー、まだもちょっと先じゃないかー?と思いつつ、調べてみたところ……。
明日やん。
ビックリしました。
そんなわけで、デイサービスに息子を預けた後、さらしを購入し、砥鹿神社に行って安産祈願をしてもらってきました。
午後からは息子も連れて、別の安産で(地元では)有名な神社にも行ってきました。
そこは階段が長かったのですが、お父ちゃんとお母ちゃんに手をひかれつつも、息子は階段を登りきりました。
母、ちょっと感動。
さてさて。
今年はなかなか夏野菜が思うように育ってくれなかったのですが、それでもクッキングトマトをそれなりに満喫できた夏でありました。
もうこれで最後のトマト煮込みであります。
うちの最近の朝食は、お父ちゃんが挽いてくれた小麦(フスマまで入っている)で作ったハードパンと野菜スープが定番なのですが、その野菜スープにこのトマト煮込みを少し入れるとすごーく美味しくなるのであります。
大変重宝しております。
…でも、これでおしまいなのね。寂しいわ。
と、全然関係ない写真をば。
例の先生んとこの近くでみつけた喫茶店のホットケーキです。
こじんまりしたレトロな喫茶店で、ホットケーキとコーヒー・紅茶がメインのようです。
とても美味しかったです。
ただ、お子様はお断りなので、息子を実家に預けた時だけ行けるお店なのであります。
ああ、ほんとに美味しかった~~。
★興味ある人は、『豊橋』『ホットケーキ』『三愛』でサーチしてねん。