ありがとうございます。

1日早く、昨日退院してきました。
息子が風邪と情緒不安定のために、夜になると高熱を出すものですから…。
でも、私の子宮の回復はとても良く、オッパイも余るほど出るし、娘も元気なので1日早い退院でも問題ありませんでした。
お祝いのコメントやメールをありがとうございました。
1人1人にお返事をしたいところですが、産後は目をあまり使ってはいけないので、ご容赦くださいませ。
本当にありがとうございました。
娘は2月6日の朝7時47分に生まれました。
3290gでした。アキオよりデカかったです。
出産時のことは、そのうちブログにいっぱい書きます。

一度食べたいけど食べられないモノ

メガマック
人気みたいっすね。
新聞の折り込み広告を見た瞬間、「あー、これは何だか食べたくなる人、続出なんじゃない?」と思いました。
実際、私も食べたくなったし。
なんでか分からんけど、なにか惹かれてしまうのよね。
でもね。
私はもうマクドナルドのハンバーガーとかは食べられない身体になってしまっているのです。
食べるとね…………お腹の調子がすぐに悪くなって、すっごい臭いオナラが出るようになってしまうんですわ。
今の生活になって、半年……くらい経ってからだったかなぁ。
お肉(特に牛肉)を食べるとダメになってきたんです。
特にマクドナルドみたいなファストフードの牛肉系なんて速攻ダメダメ。
身体が受け付けなくなったってことですね。
しかし、『口』は食べたいと、時々思うんですよ…。
これが厄介なんですな。
そしたら昨日。
弟1号からメールが来ました。
「大豆ちゃん(弟2号)と一緒にメガマックを食べました。」
んまー。
お姉ちゃんは食べたくても後が怖いから食べられないってーのにーー。きーーーっ。
そしたら続きに
「でも、あぐんじゃったよ。」
と、あり。(『あぐむ』って、方言なのかな?『飽きる』って感じの意味です。)
そっか。メガマックは食べ盛りの男子高校生~大学生向けくらいなんだな。量的に。
よく考えたらビッグマックでもお腹いっぱいになるもんなぁ。
勿体ないよねぇ。
てことで、どっちにしても私はメガマックは一生食べられないと思われます。

補足しときます。(って長くなった。)

昨日の記事を読み返してみて、ちょっとアレではアカンなぁ、と思いまして。
足りない部分を補足しときます。
保育園の先生から「レントゲンを取ってきて。」と言われたと書きましたが、実はこの時にお父ちゃんがちょいとプチ切れたのには他にも訳がありました。
というのは、私達がえらいお世話になっているクリニックの先生のことをあまり良くは思ってないなー、というのが伝わってきたからなんだそうです。
この先生、確かに『異端』なんです。
最初は私達も面食らいました。
処方されるのが『石』だったりするわ、「今ね、サリンみたいなのが増えててね…。」「バイオテロがね…。」なんてこと言うわ、でもって問診には『O-リング』ですからね。
そりゃ普通は「なんだ?この先生??」となると思うんです。私達もそうでした。
でもね、縁あって何度かお会いしてるうちに分かったんですよ。
「あー。これは上の人のお力が相当働いてるんだな。」って。
なので、先生にしたら守護霊さまたちからいただく直観みたいなものを治療という現実にはめ込む際に、普通の人からみたら不可思議な形や言葉になるんだな、って。
別に先生には強い霊感があるってわけじゃないんですよ。(多少あるみたいな感じはプンプンするけどね。)
けれど、先生にはしっかりした信仰と、他人に対する本当の思いやりの心があるんです。
それが上の人たちにも認められて、だんだんとああいう形になっていったんだろうなぁ、と思うんですね。
ですから、私達はものすごく先生のことを慕っているのです。
冷えとり健康法の先生も、某市民病院の普通の耳鼻科の先生だったんです。
耳鼻科に通ってくる患者さんというのは、とても再発しやすいんだそうです。
それをなんとかならないかといろいろ勉強されて、とうとう『冷え』という原因に辿り着かれたそうなんですが、そのうち『神霊治療』までできてしまうことになったのだそうです。
この経緯については先生の本の付録に書かれてありますが、これもやはり「苦しむ患者さんたちをなんとか助けてあげたい。」という真に他人を思いやる気持ちと努力が上の方たちに認められたからこそ、だと思うんです。
しかし、『どこかある線を越えた人』というのは、まだまだ『異端扱い』されてしまうんだなぁ、と感じます。
どうやって表現していいか分からないので、最近私達夫婦の間では『一点突破した人』という言い方をしていますが、自然農の川口先生にしても、吉村先生にしても、『一点突破』した人たちの話というのは、ある程度自分の中にも『何か』がなければ、本当の意味は伝わってこないもののような気がします。
その『何か』が、私達夫婦の中では『五井先生のお祈り』だったわけですが、自分の中に『本当の核』が無いまま『一点突破した人』たちの話を聞いても、上っ面の言葉しか入ってこないんだと思うんです。
もちろん、川口先生や吉村先生クラスになると、本当の核が無い人たちに『核』を見つけさせるような力というか言葉というかオーラというか、そういうものがあるので更にスゴいわけなんですが、残念ながらクリニックの先生はそこまでではないんですね。
だから「私は自分の旦那さんにも理解されないけど、でも頑張るの。」ってことになっちゃうんでしょう。
でもね、分かる人はやっぱり分かるので、先生のところに来る患者さんは多いんです。
というわけで、私達も耳鼻科でレントゲンなんて取る必要は無く、大きな原因は冷えだと思っているし、クリニックの先生も同じ意見なんですが、それを保育園の先生に言っても伝わらないんですね。
あんなちょっと変わった先生のところに行ってるだけじゃなくて、他の耳鼻科でも診察してもらってください、となっちゃうんですよね。
『科学的な医学』を治療の方法としているお医者さんに行け、ってことです。
保育園の先生の立場からすると、そう言いたくなるのも分かるけど、でもやっぱり自分たちからすると「違うんだよー。」ってことになっちゃうんです。
科学的。
保育園の先生たちは実に勉強熱心で、科学的な本をたくさん読んで、講演もたくさん聞いてみえます。
子供の発達を促すために、『人間とはどんな動物か』を科学的に理解しようとしているのです。
それはそれでとても大切なことだし、偉いなぁ、とも本気で思っています。
学生時代に地学科にいた私は古生物学なんぞも実に楽しく勉強した思い出がありまして、保育園の先生に薦められた本も興味深く読んだりもしました。
けれど、この世界をそのモノサシだけで計るとなると、実はとっても足元が危ういと思うんです。
科学はあくまでも『相対的』なものであって、いつ通説が覆るか分からんものです。
なのにその危うさを無視してしまうと、本当のことが見えなくなってしまうと思うんです。
だから、モノサシは他にも必要となってくるのです。
冷えの問題だけじゃなく、他にもちょっとしたいろんなことで「??」と思うことがあって、やはりそこで突き当たるのが『単一のモノサシ』の人たちに、自分たちの考えを上手く伝えることができるか、というものです。
けれど、これら「??」があったおかげで、私自身の若い頃の葛藤の意味がようやく分かり、とても感謝しました。
私は上に書いたように地学科にいたのですが、子供の頃から科学が大好きでした。
7歳の時、親に買ってもらった『宇宙・宇宙旅行』という子供向け科学図鑑を開いた瞬間、魂を掴まれてしまいました。
大人になって言葉をたくさん覚えてから、あの時の自分を表現すると、そうなるな、思ったのですが、その時は言葉も見つからず、とにかくすごい衝撃というか、本当にそこから離れられなくなってしまったのです。
実は私の魂を掴んだ『宇宙』というものも、科学的な宇宙と科学を超えた宇宙の2つが1つの形になったものだったんですが、まぁ、そんなことはその時の小さいよしみちゃんには分かるハズありませんわね。
とにかく、それ以来私は宇宙というものに魂を掴まれたまま生きているわけですが、科学的思考というものを本格的に教えてもらったのはやはり大学時代でした。
自分の基盤としてあの図鑑がありますから、科学的思考というのをちゃんと教えられながらの授業は、本当に私には楽しいものでした。
だからこそ、「オカルト」と言ってたような『非科学的』な自分と、『科学的』な自分との折り合いが、実はなかなかつけられないでいた時期があったのです。
科学的思考もちゃんと教えてもらい、オカルト的要素もどんどん強くなっていく……。
けれど、いつしかそれらは統合されていったので、自然と楽にはなっていったのですが、それは子供の頃から自分の中には2つのモノサシが存在していた、ということだったんだ、と最近になって分かったのでした。
それは、保育園での大小さまざまな「???」のおかげでハッキリしたわけで、やはり人間にとって他者は『鏡』なんだなぁ~、としみじみ感じました。
良い保育園だと思うし、先生たちも親さんたちもとても良い人たちだからこそ、「まぁいいや。」と避けられないのですが(どうでもいい人たちなら最初から諦めるって。)、未熟者の私には『翻訳作業』がなかなか進みません……。
ああ、川口先生や吉村先生の偉大さが眩しいっす……。

これも課題なのね。

この調子だと、予定日超過か?と思うくらいであります。
んでも、今朝は10分間隔が何度か続いたので、「おお!」と、お母ちゃんは浮足立ったのですが、またスカでありました。
なーんて書いてる今でも、お腹がぎゅーっとなってるんだけどね。
さてさて。
保育園のことを先日も書きましたが、またまたちょっとしたことがありました。
やはり息子にとって、保育園は冷えるようでして、特に保育園の会議に出席した先週の金曜日は夕方遅くまで預かってもらったため、その後に治りかけてた風邪をぶりかえしてしまいました。
鼻水も出なくなってたのにズルズルになっちゃうし、咳も治りかかってたのがヒドくなっちゃったし、下痢もしてるし。
で、どうしたもんかなぁ、と思ってた矢先、担任の先生にお父ちゃんが言われたそうなんです。
「一度、耳鼻科でレントゲンを取ってもらってください。」
なんで?とお父ちゃんは思い、ちょっと反論したんだそうです。
それでもやっぱりレントゲンを取ってもらってください、とのこと。
鼻は脳に近いから、ちくのうとかになってたら『発達』上、良くないから……、って以前にも言われたことがあるんだけど、私達にしてみたら、保育園に行く前までは家族の中で一番元気だったのを見てるから、もうこれは冷えが原因としか思えんのです。
けどね、それを言ってもなかなか通じないわけですよ。
裸足で身体感覚を養うことは大切だということは分かるけど、身体がついていかんようでは意味ないやん、と思うんだけど、自分たちの保育理論を省みるということはなかなかできないようなんですね。
で、どうなるかというと、「レントゲンを取ってきてください。」となるわけです。
えっとね。
この問題だけじゃないんですよ。
なにやら「???」と思うことは時々ありまして、首を傾げることが多くなりました。
もちろん、保育園の子供たちそのものは良いんです。のびのびしてて。
息子だっていろんな経験ができて、楽しそうですし。
でも、大人の方が問題なんだなぁ、と感じるようになりました。
ハッキリ言って、視野が狭いなぁ、と。
独特の保育(さくら・さくらんぼ保育園系と言えば、分かる人は分かるよね。)を、サークルの状態から、まだ無認可だけど今の形にまで持ってくるというのには、そうとうの情熱が必要だというのは容易に想像できるんですが、もっと世界を広げていかないとアカンのやない?と感じるわけです。
保育園の人たちも、視野が狭いのをヨシとしてるわけではないし、さらに自分たちも成長しなくては子供たちによりよい保育を提供できない、とすごーーく思っているようなんですが、学ぼうとするカテゴリが狭いんだと思うんです。
どうしても実践的な部分に偏るんでしょうね。
言い方を変えると、「頭でっかちになっとるよ。」ってことです。
または、「モノサシが1つしかないよ。」
これって、自分自身もそうなんだけど、陥りやすい部分だよなぁ~~、と思うんです。
視野を広げようとするんだけど、結局は同じ平面上をぐるぐるしてるだけで、深くはなってない、と。
こんな保育園での「???」なことをお父ちゃんといろいろ話していると、これがねーー、守護霊さまがスッと教えてくれたりするんですわ。
新聞の記事だったり、たまたまつけた時にやってたテレビの内容だったり。
おかげで、保育園のことを元にいろいろ夫婦で話しをするんですが、もうそれは生きかたというか、宇宙というか神様というか、人間とはどんなものなのかというか、そーゆー深い深い部分の話しになっていくわけです。
そうすると、保育園の話しだったはずなのに、自分自身のさまざまな気づきという有り難い直観をいただいてしまうのです。
そうすると、当然のごとく「???」の理由が見えてくるんですね。
ですが。
自分たちだけが腑に落ちて有り難がっているだけではコトは済まないんですね。
もうそーゆーレベルになってきたのかなぁ、と、しみじみ感じるんですが……。
たとえば、保育園側もうすうす私達が「???」と思ってることを勘づいてるので、園長先生なんかは「ちゃんとお互いの考えを話し合いたい。」と言ってくれたりするんですが、こっちとしては『翻訳作業』をせにゃならんので、すぐには無理なんですよね。(なのでなんだかんだと理由をつけて、そのうちにお願いします、と先日はとりあえず逃げた。)
けれど、逃げてばかりもいられんなぁ、とは分かってきたのです。
「ウチはオカルト家族だから~。」なんて軽く言って避けてきたことも、ちゃんと『翻訳』して、相手に通じるかどうかは分からないけれど、五井先生のお祈りの光っていうか、宇宙の根源からの光っていうか、神様の愛の光っていうか、生命そのものの光っていうか、そーゆー『全ての元の光』をもっともっと(全然まだまだではあるけれど、それでもこんな)私達を通じて放たなくてはいかんのね、と。
それも『自然に』。←多分、ココ大事。
地球霊王さま(by五井先生)の波動がどんどん高くなっていってるんですもん。
私達の課題がどんどん高くなっていくのも当然っちゃあ、当然ですわね。
うかうかしとれませぬ。

人間はすぐに囚われてしまうものなんだけど。

去年の11月から息子が保育園に通うようになったわけですが、それからというもの、お父ちゃんと私の間では保育園のことがとてもよく話題になります。
もちろん、基本的には良い保育園だと思ってます。
おかげさまで、息子も以前より喜んでたくさんお野菜を食べるようになりましたし、テレビをほとんどつけない生活にもなり、テレビっ子だった私までなんだか『時間』というものへの感覚が変わってきたし、なにより息子がいろんな面で刺激を受けてるねぇ~、という感じの成長っぷりを見せてくれてますし。
それでもですね。
やっぱりいろいろ「ん?」と思うことはあるんですね。
特に感じるのが『発達』に対しての考え方の違いです。
確かに、子供の発達において、なるべく良い環境で良い刺激を与え、好ましくないものは遠ざける……というのは大切なことだと思いますし、特に障害児については『できることがたくさん増える』というのは、その子自身にとっても『生き易さ』につながるであろう、ということは明白なことだと思います。
思うんです、が。
そこに囚われてしまうと、今ここにいるこの子が、ここにいるだけで『完全』であることを忘れちゃうと思うんです。
違う意味での早期教育になっちゃってるんじゃない?と感じることが多々ある、というわけです。
そんな時、五井先生の言葉を思い出します。
光りに住して、光りに囚われず。
真理だなぁ、と思いますね。

生まれるにはもってこいの日だったんだけど。

昨日は年に数日しかない『天赦日』だったので、お腹の子に
「今日は生まれるにはもってこいの日だよー。」と何度も声をかけていたのですが、陣痛みたいな痛みが数回あっただけでした。
お母ちゃん、産む気マンマンだったんだけどなぁ。
で、本日は検診日だったのですが、またまた先生に「安産間違いナシだねぇ。」と言われました。
頭もぐーんと降りてきてるらしいです。
うん。それは感覚的によーく分かります。
お股になにか挟まってるような歩き方しかできんし、膀胱が押されてオシッコがちびりと出ちゃう時も多いし、痔っぽい感覚バリバリだし……。
お腹の子がこうして生まれる前からぐーんと降りてくるのは、それまでにお母さんがよく動いていたからだそうで、くるくる小ぜわしく家事仕事をしたり、お父ちゃんの畑仕事を手伝ったりという日々の普通の労働が良かったみたいです。
おかげさまですなぁ。
ただし。
やはり、安産傾向がこれだけ強いと、のんびりしてると間に合わないかもしれないそうで、「まだ大丈夫だからとお風呂に入ったりご飯食べたりせずに、すぐに来なさい。」とまたまた念を押されました。
んーーー。
フライングせんようにしたいんやけど、間に合わんのは困るしなぁ~~~。
それだけが少し悩ましいっちゃあ、悩ましいであります。