私、ネイタルチャートに六芒星があります。
…と、言ってもですね、メジャーな惑星で組まれたものではなくて、マイナーな小惑星1つとアングル1つを入れ込むと六芒星になる、というものです。
それでも、やっぱり六芒星は六芒星なので、六芒星の示すことをやり遂げろという圧力が非常に高いのだろうと思います。
とは言え。
そんなものが自分のネイタルチャートにあったのもずーっと気づきませんでしたし、
そもそも「箱入り太陽」なので、六芒星の示すところを完遂しようとすらしていなかったことになります。
あ、そうなんです。
六芒星の一角が太陽なんです……。
てなことを知った2016年。
年が明けまして、2017年のお正月。
ちょっと早いけど……と、月子さんが誕生日プレゼントを送ってくれました。
今年の誕生日の太陽回帰図を読んだものでした。
占星術は天動説の世界なので、太陽は1年かけて天を一周していると捉えます。
その太陽が、生まれたときとと同じ位置までもどってくる瞬間のことをソーラーリターンと言うのだそうです。
そして、この瞬間のホロスコープを「太陽回帰図」と呼び、その年の流れを全体の配置で読み解くのだそうです。
今年はなんだろうな~…?と、メールに添付されてた画像を見て驚きました。
六芒星が出来上がっていたのです。
それも、ネイタルチャートと同じ太陽を一角とした、地と水のグランドトラインの組み合わせなのです。
そして、当然ですが太陽は同じ度数なのですが、他の惑星やアングルを見てみると、ネイタルチャートの六芒星よりソーラーリターンチャートの六芒星の方が度数が1つほど若いのです。
……なんとなくですけどね、
人生の六芒星(使命)にさっぱり気づかず、今までのほほーんとしてたので、今年1年で人生の六芒星に取り組むための地ならしをしろよ、と言われてるような気がしたのです…。
では、その「地ならし」とは何か…というのを、月子さんがサビアンシンボルを用いて読み解いてくれたものから知ろうとしましたが、
………うげぇ、って思いました。正直。
ざっくり書くと、
「自分の魂のグループのために奉仕しろ」
ってことです。
それも、
「自分の霊的知識を整理整頓して示せ」
ということらしいのです…。
えーー?
霊的指導者とかじゃない私が何でそんなことせんとアカンのー?
世の中にはもっと素晴らしい人たちがたくさんおるやーん。
と、反射的に思いました。
……思いましたが、
ちゃんと読まれてました。それも。
六芒星の他にもグランドクロスが組上がっているんです…。
その十字架が、「他の誰かがやってくれるんじゃないのー?私じゃなくてー。」と思うだろうけど、そうは行かないんだよ、と釘を差しているのです……。
太陽回帰図の月子さんの解読を読んでから、ツイッターの方でぼつぼつとつぶやいておりました。
私は薄情なんだ、ということを。
基本的に薄情なんです。
相手に深くコミットするには、それ相応の愛が自分の中に無いと出来ないのです。
そこそこ仲良しなら何度か「それは違うと思うよ。」と言うんですけど、それでもちっとも分からないんだなー、と思うと、ある瞬間にすっと心理的距離を取るのです。
もうそこからは何も言いません。ただの他愛もない会話しかしません。
でもね、
「それは違うと思うよ。」と言う時や、民絵屋のお客様からの悩み等を吐露されたメールに返信する時には、それこそ『自分の霊的知識を整理整頓して示す』ということをしているんです。
その瞬間だけはグッとコミットしているんです。
出し惜しみはしてません。
(ただし、お客様のメールの往復は2回程度で終わるようにしています。それ以上は「搾取」となり得るので。)
それで、こんなことをツイートしたんです。
でも、
出し惜しみしないと言っても、私の情愛や私の経験"知"しか私は持っていないので、そこから出すしかないんですよ。
だから、お客様にストライクなものかどうかは分からないわけです。
霊視できるわけじゃないしー。でも、それでもいいやと思うんですわ。
ソレが無駄となったとしても。— たみえ (@TAMIEYAtamie) 2017年1月6日
そうなんです。
「無駄になったとしても、別にいいや。」と、思えるから書けるんです。
……なので。
太陽回帰図の六芒星が履行しろと圧力かけまくってることについても、「覚者でもない私がいつもストライクを投げられるわけじゃないんだから、無駄になったらなったで別にいいや。」と思っていればOKなのかも、と思ったのです。
先生しか教えちゃダメってわけじゃないですもんね。
まだまだ発展途上でも「1年先輩」が「1年後輩」に教える、ってこともアリですもんね。
私も中学の部活では1つ上の先輩にちょいちょいとアドバイスしてもらってましたから、そんな感じなんでしょうね。
さらに言うと。
「私はサイキッカーじゃないから誰の言葉が真実なのかが分からない。」と、オロオロするばかりだった経験があります。
見えない世界のことは、そもそも科学のように「万人に了承を得た方法で確認する」ということができません。
ですから、それを信じるかどうか、というのは、場合によってはそれまで自分が築き上げてきたものが破壊される…というくらいのインパクトを伴います。
五井先生の法話集を読んだ時が正にそれでした。
ちょうどこんなツイートを目にしたのですが、
悪魔的な誘惑や、自分で善かれと思っていることが実は間違っているのではないかという可能性に対して「警戒心を働かせる」のと、「疑いという悪徳」は別です。
波動で観ると一目瞭然。
(でも霊視できない人は想像上の概念でこねくりまわして言葉でラベルをべたべた貼ってばかりで見極めは困難?)— usamimi (@usamimix) 2017年1月15日
コレでした。
(悪い意味で)疑うのではなく、鵜呑みにせず警戒心を働かせながら向き合いました。
半年はかかりました。
しかし、友人とのやりとりはそんな時間的余裕が無く、矢継ぎ早に言われたので、オロオロしつつ黙っているしかできませんでした。
黙ることで「了解した」と相手に思わせていただけなのです。
そして、結果的には友人とは別れてしまいました。
どうせ別れることになるなら、「私はどちらが正しいかなんて分からないので、態度は保留する。」とハッキリ言えば良かった……と、何年も経った今、そんなふうに後悔できました。
…そうなんです。やっと「私は何を悔やんでいたのか」が分かったのです。
「高いサイキック能力を有していて、どちらが正しいのかを自信を持って判別できれば良かった」と、悔やんでいたのではなかったのです。
高いサイキック能力の有無なんて関係なかったのです。
逆にそれが有ったら、私はジャッジすることになったでしょう。
見えない世界の、その人その人固有の世界を、正しいとか間違っているとかでジャッジすることの恐ろしさを、私は見てきました。
それでも、まだまだ人格的未熟さがある私なので、もしも高いサイキック能力があれば、感知したものを根拠に他人の世界を「正しくない」と断ずることは十分にあり得ると思います。
どうしても、どこか「正しさ」を求めてしまうからです。
誰かから相談を受けても、問題を根本から解消しようとしますし、自分の問題についても同様です。
なので、高いサイキック能力で霊視し根本から解決する方法を見いだせたらいいのに、と思う自分が常にいます。
でもそれではダメなのも分かっています。
だから、薄情さも増していたように思います。
自分の内側から湧きあがるものを、自分のエゴの欲求と区別し、それを信じきることと、
自分を疑うのではなく、俯瞰し様々な可能性に対して警戒心を働かせることは、両立すると思います。
私は、自分を疑って自分の直観等を信じきれずにいました。
大間違い。
そんなんじゃあ、魂のしたいこと、六芒星の示すことを履行できるわけないですよねぇぇぇぇ~。
というわけで。
「やること」は今までとそんなに変わらないと思いますけど、六芒星の示すところを履行できるような自分に整えたいと思います。
@usamimix あ、思考も行動のうち。
物理的動作としての行動自体は同じでも、「どんな思考を持ったうえでそれをしたか」で、生じる結果は変わります。— usamimi (@usamimix) 2017年1月15日
だそうですので。