人の子よ。我にカリカリを捧げよ。
黒丸さん、すっかりブ子兄さんよりデカくなっています。
チンコは無いけど元気です。
さて。
今朝のことです。
だら~っとツイッターのTLを眺めていましたら、こんなツイートがありました。
「自分を認める(自己肯定感)」と「自分を発揮する(自己価値)」の間には
かな〜りの溝がある、と気づきました。自己肯定感は「自分にできること」を認めれば、芽生えます。
ただ自己価値は
「自分【だからこそ】できること」「それは世界において価値のあること」を認める必要がある。— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
「私はこれができる」の自己肯定感が芽生えるだけで、かなり楽になります。マイナスをゼロにすることは可能です。
ただ、そこから一歩進んで【幸せ】を手にしたいときには、自己価値が不可欠。
なぜなら「幸せを受け取るに相応しい私」と自分を認識する必要があるから。— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
私も、実は昨日まで迷子でした。自己価値。
自己肯定感は芽生えていたけれど
自己価値が底辺で「私にできること」はあっても
その「できること」が
「私でいないといけない理由」が分からなかった。自分というオンリーワンの存在に価値が見出せていなかった。
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
私よりもっとすごい人、いるよね…
私にわざわざお金と時間を費す理由、ないよね…ぶっちゃけ、こう思っていました。
11月までは、それでも努力と根性で動けていたんだけれど
12月から、自己価値底辺が暴れ出して、強制シャットダウン。自己価値が芽生えるステージに来ました。
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
「なぜ、私じゃないといけないのか?」
これを、頭ではなく心から、自分の中心から認識することが、この三ヶ月のテーマでした。本気で取り組む!と決めたら
セルフカウンセリングの質はもちろん
現実的な出来事としても、どんどん変化が起こった。えげつないけれど、温かかった。
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
自分が定義づけているあらゆることが
自分を発揮することを妨げていた。自分がどういう世界観で生きてきたか、明らかになった。
自分より他者を優先してきた人は
自分を後回しにしてきた人は
無意識レベルの「自分の世界観」を紐解くことが
自己価値が芽生えるにあたり、不可欠だと思います— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
大切なお客様と、大好きなメンターが
最後の大きなスイッチになってくれたお客様が「みこさんだから受けました。みこさんに会えて良かった」と涙ながらに伝えてくれたこと
メンターの「自分を愛せないことは、中途半端。二流だ」という意味のメッセージ
私はプロだ!と奮い立たせてくれた
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
でも本当、「自分を愛せていないこと」「自己価値底辺」は、二流だと思うのです。
それが真実だから、私は奮い立った。自分を愛せていない人が、自分を幸せにする力を発揮できるわけがない。
力を持っていても、発揮スイッチは押せないそんな人が【「貴方だから」選ばれる】わけがないのです
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
11月までに、たくさんのお客様とご縁した。
皆さん、本当に素晴らしい変化を見せてくださった。それなのに、私は自分の価値を認めていなかったの。
「たまたま」セラピストが私だった
ってこの期に及んで逃げていた。そうしたら12月から、否応なしにテーマが来た。
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
「たまたま私だった」って自己価値底辺はね、謙虚なんて優しいものじゃない
「お客様が自分を幸せにする覚悟」を見くびっているの・たまたま、適当に、セラピストを選ぶ
・自分が本気で変わりたいとき、いい加減な気持ちでパートナーを選ぶそういう風に、お客様を見なしていることになる
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
私、本当にお客様を見くびっていた。
自分の中途半端さで
「いい人でいたい」って気持ちで
お客様の覚悟を、台無しにしていた。これは間違いなく二流だよ。
一番大切なところが曇っていた。そして、今まで生きぬいてきた自分自身にも、本当に失礼だった。
気合い、入れ直す!!!
— 淳海みこ (@miko_atsumi) 2017年2月18日
「ふはーー。」となりました。
この後、自分でもツイートしたので内容は半分くらい重複しますが、このブログにちゃんと書いておこうと思います。
この一連のツイートに対して「ふはーーーー。」となったのは、とどのつまり『自分を真に信頼する』という私の人生の命題から派生してる課題の1つだからなんです。
『自分を真に信頼する』ことと『傲慢になる』ことは別のことであるというのは頭では分かってるんですが、どうしても傲慢さ回避で自己評価を下げる癖が抜けませんし、本気で抜こうとも思っていないのかもしれません。
手を緩めると私はすぐに傲慢になる、という思い(込み)があるからです。
しかし、傲慢になることもなく真に自己を信頼するためには、『大元の神と呼ばれるような存在』…またはうんと下がって『己のハイヤーセルフ』にすべてを委ねきるしかないというのも頭では分かっています。
分かっているんですけど、それは非常に難しいことでもあって、ついつい(純度の低い)思考が走りまくって、いつものやり方に陥るのです。
すべてを『大元の神』または『真の自己』に委ねきることと、何も考えないこと、は、これまた違うことなのに、おそらく私のアイデンティティが「思考する自分」に置かれてるので、それを手放すのを怖がっているのだろうと思います。
違うと分かってても怖いんでしょうね。
「委ねきる」ことは思考しないことでも努力しないことでもないのに。
やるべきことをちゃんとやる、という、一番効率の良いことなのに。
五井先生が『人事を尽くして天命を待つ』のではなく、『天命を信じて人事を尽くす』のですよ、とおっしゃってますが、
この『天命を信じる』というのが『大元の神様や宇宙とかハイヤーセルフ…などと呼ばれる真の自分に委ねきる』ということで、ある意味では『降参する』なんですよね。
もう、この表層意識の自分のエゴエゴしい意識の欲求をエゴエゴしい表層意識の努力だけで叶えようと躍起になるのは無理無理ぃぃ~、と、潔く降参し、何があっても真の自己を信じきる、委ねきる。
それができて始めて、やるべきことをしっかりやる(人事を尽くす)ことができる……ということです。
頭では分かるんですけどねぇぇぇぇぇぇぇ。
と、まぁ、委ねきることの難しさを15年近く感じ続けてはいたのですが、現象界のレベルといいますか、表層意識のエゴエゴしい自分というレイヤーと言いますか……そこでの知的欲求の充足を自分自身のアイデンティティとしている部分があって、それを手放すことに対して(しかしそれは決して思考することを放棄するわけではないのは分かっているのに)強い抵抗感が何故あるのか、が分からずにいました。
そしたらですね、先日と昨日と2回に分けて、月子さんから興味深いメールが届きました。
私のネイタルチャートにおける火星についてと「絶対に勝てない相手」という意味のパラスという小惑星についてです。
実は私の火星は「避けられない不幸」という意味の小惑星と「不和」という意味の準惑星とで厄介なアスペクト(角度)を取っています。
この「避けられない不幸」な小惑星の度数が、サビアンシンボルでは「知的好奇心満々で新天地を冒険する」みたいな意味のところにあるんです。
知的好奇心満々で新天地を冒険するって、好ましいことのはず。
でもそれをやると避けられない不幸を呼び込むことになる……というのが、どうしてもピンと来てきませんでした。
しかし、月子さんのこれらのアスペクトと、追加でパラスの解釈を読んで、ちょっと分かったような気がしました。
「避けられない不幸」をさせようさせようと「不和」が唆し続けていたのです。
知的好奇心は絶対的に良いものだ、という価値観が自分の根底に在り、それによる恩恵をたくさん受けてきたのも確かなのだけれども、
その思い込みが私を容易に傲慢にさせることを、私自身は無意識に分かっていた………ので、(せっかく自己肯定感は根付いているのにも関わらず)自己評価を常に低くしよう低くしようと躍起になっていたわけです。
……ありがたいことに、「避けられない不幸」な小惑星のすぐ隣の度数に「パート・オブ・フォーチューン」があります。
この感受点の解釈も簡単ではなさそうなのですが、少なくとも私にとっては「最後の魔女」みたいなものなのではないかな、という気がします。
眠れる森の美女で、悪い魔女が呪いをかけた後に、最後に残った魔女がその恐ろしい呪いを緩和する祝福をする、というアレです。
なので、Curiosity killed the catの猫にならなくて済んでいるんだと思ったりします。
でも、それも今までの話であって、これからは違うんでしょうね。
気づいてしまったのですから。
「不和」の唆しを振り切って、真の自己を信頼しきって六芒星の示すところをやるしかない……のでしょうね。
嗚呼さりとて、「不和」の唆しに抗うことの難しさよ~~~~~!