向き合っているのは…。

いっこ前の記事について、mixiの方でいろいろコメントやメールをもらいました。
んで、まだお返事が全部済んでないんですが、コメントへの返事をぼちぼち書いて心の中を文章に置き換えてみたら、こんな言葉も出てきました。
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◆ひのこ☆ねーさん
認めてくれてありがとう。
でも、なんかすげー無理矢理キリキリ考えて、無理矢理吐き出してる感は否めないと思うわー。うはー。
でもでも、なんかね、ブログに書いて、ちょっともう何も出ないやー、ってなってから、ちょっとこの2カ月くらいのことを振り返ってみて、やっぱ私の優柔不断とか、人とモメるくらいなら黙っとこー、とかそーゆーところの積み重ねが「ひっくり返って」こうなっちゃったなー、って思うから、
なんかねー、なにみえがどーの、上がどーの、光がどーのなんて、ほんとは「取り替えのきくお題」で、これらが「問題」として現れたことそのものには意味がねーなー、と思ったよ。
問題に向き合ってるようで、向き合ってるのは「自分の心の癖」だと思った。
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書きながら、ちょっと泣きそうになってました。実は。
いつでも、きっとそうなんだろうなー、と思いました。
今までも、これからも。
これから、どんな「問題」が現れても、
「問題解決」に頭も心もいっぱいいっぱいになっても、
真に向き合ってるのは、「自分の心の癖」なんだ、って忘れないようにしたいな。

スルーできなかったから、いっぱい考えてるうちに、こんなふうになった。

のりすけちゃんのこの記事
http://souhaite.blog105.fc2.com/blog-entry-252.html
に対して、いろんな人がいろんなことをそれぞれ感じたと思いますが、
じぇいど♪ボスがブログで自分の意見をあらためて書いてますね。
ただ、そのボスの記事へのコメントの中には、
(のりちゃんの記事を読んでるか読んでないかは知らないけど)のりちゃんの記事を「批判」とか「中傷」という言い方をしてる人がチラホラいたので、ちょっとだけショボンとなりました。
そりゃ、批判とか中傷と受け止められかねないとは思うんですよ。
んでもって、あれを批判・中傷と受け止めたら、そりゃ「せっかく、じぇいど♪さんたちはみんなのために頑張ってるのに!」って反応しちゃうだろうし、「中傷されて、大変でしたね。」と労いたくなるのも分かります。
でもね。
のりちゃんは、ボスたちを批判・中傷しようと記事を書いたんじゃなくて、自分が確信したことを「善意」からみんなに伝えたい!と行動した、ということと、
さらに、ボスもそれはちゃんと理解してる、ということを書いておきたいなー、と思いました。
そうなの。
ボスにちゃんと聞いたから、これはホント。
つまりね、ボスは別に「批判に対して反論してやるぜー!」って記事を書いた訳じゃなくて、このお題に対して、自分の意見をハッキリさせておいた、というだけなのですよ。
というわけで、これについては、非難やら中傷やらという次元の話じゃないということを念頭に置いてもらいまして。
それでもね、やっぱりスッキリしないままでした。
私はサイキッカーじゃないから自分では認識できないんだけど、シエルさんやのりちゃんが「危ないんだよ。」とでらために言ってるんじゃなく、やはり何か確信めいたビジョンを見てるなり声を聞いてるなりしていると思いたいし、
でも、ボスやさつきのひかりさんたちが道から外れているとか、「光の存在たちにそっぽ向かれた」ともも思いたくないですし、
どちらも、大変なこともいっぱいあるけど、いろんな人たちのために自分のできることを一生懸命やってる、と思うんです。
ただ、ボスたちは、なんちゅーか……、裏ではすごく大変なんだろうとは思うんですが、肩に力が入っていない感じを受けるのに比べて、
のりちゃんやシエルさんは、ちょっと「がんばって伝えなきゃ!誰も気づいて無いみたいだから、私たちが言わなきゃ!」という使命感というか責任感というか、そーゆーのが少し強くなってるように感じます。
なので、そういう部分が攻撃的だと受け止められ、批判・中傷だと思われてしまうのかな、と思います。
私も、ボスたちと、のりちゃんたちと、こんなに意見が違うのって、どういうことなんだろう?と、(前々からチラリとのりちゃんから聞いていたので)2カ月以上ああでもないこうでもないと考えたんですが、やっぱりどうしてもサイキッカーじゃない私には、自分なりのハッキリした事実確認ができないため、自分の意見を定めることができませんでした。
そりゃ、
「葛藤や恐怖を解決していないから、アストラルトラベルでネガティブなものを観る、体験する」
という一言で済んでしまうことなのかもしれないけど、
そうなると、なにかしら危険と思われるものを認識したのりちゃんたちが、そういう精神状態もしくは葛藤を抱えたままなんだ、という結論になってしまいます。
または、のりちゃんたちのビジョンを正しいとすると、ボスたちがいつからか徐々にズレてきてしまった、という解釈にすらなってしまう。
のりちゃんたちは、ちょっと頑張り過ぎじゃないかな、と感じたのは確かだけど、
でもね、私はサイキッカーじゃないからこそ、自分で見えないからこそ、のりちゃんもボスも、どっちもホントだと思いたいと、やっぱり思うんです。
どっちかだけを信じる、どっちかだけが正しい、んじゃなくて、どっちもホントを含んでいる、と思いたい、という気持ちがどうしても捨てられないのです。
と。
そんなことを考えていたら、ボスのブログのコメント欄に、興味深いコメントを見つけました。
http://plaza.rakuten.co.jp/californiajade/diary/201005310001/
「みつばち」さんのコメントです。
このコメントを読んで、さらにあれやこれや考えたんです。
今回ののりちゃんの問題提起って、
「アストラルトラベルは思ってるよりもアブナイものだから、ちょっとよくよく考えてみてよー。みんなー。」
ということになると思うんですよ。
すげーーーーはしょってますが。
で、それに対して、ボスは、
「自分の中に恐れを抱えたままのアストラルトラベルをしたら、そりゃいろんなネガティブな体験にもつながるだろう。
でも、やはりそういうことも理解した上で、トライしてくださいとしかこちらは言えない。」
と言ってるんだと思います。
これまた、すげーーーーはしょってますが。
この「問題提起」と「回答」。
なるほど、と思いますよね。
でもね。
もしかしたら問題の本質はもっと別のところにあるんじゃないか、と、「みつばち」さんのコメントを読んでいたら思ったんです。
私、Landのことはよく知らないんで、ちょっと横に置いておきますが、
クリロズみたいな場所は、他にもいろいろあるんですよね?
「浮島」とかよくみんなが言ってるけど。
△△という浮島が○~□次元にあります。
と、言われた場合、みなさんはどのようにそれらを捉えますか?
なんだか分からんけど、ココより高い次元のとある場所に、島のようなものが存在している
とイメージすると思うんです。
なにか固有のものが、固有の場所に存在する、というイメージ。
でも、もしかしたら、たとえば「クリロズ」という名前から「場」を探して、その「場」に行ってみたとしても、
そこが他の誰かが認知したのと全く同じ「場」であるかどうか、というのは、アヤシイのではないか、
……って、実は前々からうすうす思ってたんです。
根拠はありません。なんとなくです。
「大きな葛藤や恐怖を抱えたままのアストラルトラベルは、それに応じたものを経験する可能性が高い」
というのは、言い換えると「場」を選んでる、またはそれに応じた「場」に行かざるをえない、ということではないか。
そして、その「場」の数はトライする人の数だけあるのではないか。
てことは、たとえ主催者のボスでも、クリロズという「場」の「すべて」を認知できない、(とりあえず覚醒者でない凡夫なら)誰にもできないのではないか、と思ったわけです。
となると。
「みつばち」さんの言葉を借りれば、
『あの場所が、何かおかしいよ、致命的な事態になる前に対処したほうがいいよ。と言ってくれている』と、と捉えたとしても、
対処のしようがない
ということを示しているかもしれない、という考えが浮かびました。
さらに仮説を進めてみます。
たとえば、ボスやさつきのひかりさんが、「クリロズというのは、5000~5500オングストロームくらいの波長域にあるよ。緑~黄緑色だよ。」と認識しているとしても、
実は、いろんな人がアクセスすることによって、徐々に波長域が広がって、7000オングストロームの赤色までに拡大していたとしたら?
そして、もしも「場」というのものは一方通行ではなく、「人」と「場」に大きな相互作用があるとしたら?
ボスやさつきのひかりさんの上の人たちが、定期的にクリロズの「波動調整」みたいなことはやっているとは思うんですが、もしもなんらかの理由で拡大した部分までうまいこと手が回っていなかったら?
……って、あくまで仮定なんですけどね。
でもね。
なんかね。
たしかに遠足が終わった後から、なーんとなくアストラルトラベルの感想とかをコミュのトピとかに書かれてるのをぼや~っと読んでるうちにね、なーんか不思議な違和感を感じることがチラリチラリとあったのですよ。
だからほとんど読まなくなっちゃったんだけど。
なので、もしそうだと仮定したら、
葛藤がたくさんたくさん残ってる人がクリロズにアクセスするということは、緑~黄緑色の「場」ではなく、赤色の「場」に毎回触れることになり、「場」の赤色に知らず知らずに染まってしまうことになって、それが危険なことなんだよ、
ということが「アストラルトラベルは危険なんだよ。」の本態かもしれない、と思ったんです。
手が回らないなんて、そんなとこあるかーー?
と私自身思いたくもなりますが、どちらかだけを否定することなくいろいろ仮定してみると、こんなふうにもなる、という一例として読んでもらえるとありがたいです。
でもね。
それすら「問題の本質」ではないな、とだんだん思えてきたのです。
ここにもうひとつのキーワードを当てはめてみます。
「なにみえから、高次の存在たちは手をひいた」
ありえんだろー?と思いますよね。
私もありえんと思いたいです。
ていうか、そもそも高次の存在たちはどんな人たちをも見捨てるなんてことしないもんだと思うし。
でもね、シエルさんのエグいビジョンよりも私の中が混乱したのはこの言葉でした。
これって、肯定しても否定しても、どっちもキツい言葉なんです。
いえね。
どうでもいい人が騒いでるなら、「あー、そうなのねー。そーゆーところにいる人なんだねー。」でスルーしちゃうんですが、今回は私に限ってはそういうわけにはいかないので、思いつく限りあらゆる可能性を考えてみたいので、こうやってあーでもないこーでもないとやってるわけですが…。
肯定すればボスたちの波動がどっか低いよーってことになるし、否定するれば「のりちゃんたちの一部波長が荒い部分が、なにか変なものを引き寄せて、変なこと言われたんだよ。」ということになるし。
でもね。
どっちにせよ、どっちかだけがちょっと変だよと言い切るということは、もしかしたら「光に囚われてる」のかもしれない、とふと思えたんです。
つまり、もし、のりちゃんたちがそうやって確信するなにかビジョンなりチャネリングなりを得たとするなら、
それは、「どっちが光側の人間でしょうか?」という当てっこをするためなんじゃなくて、
「問題提起する側」も「される側」も、今まで当たり前だと思ってて意識に上ることすらなかった自分の「思い込み」を、この件で自分で見つけてみたらどうかしら?と、促されてるのかもしれない
な、と思ったんです。
実際、青い月の親方なんて、すぐにのりちゃんの「問題提起」からエッセンスを取り出して、すごくうまいこと自分の中に取り込んで生かしているんですよ。
あれは見事だなー、とホレボレしたですよ。
「上」では、もしかしたらすべてがうまいこと治まってるのかもしれない。
ただ、それを「下」で解釈する時に偏りができてしまってるだけかもしれない。
それは、波動が高いとか低いとかというより、もっと簡単にいえば「思い込み」というものなのかもしれない。
そして、私ものりちゃんもシエルさんもボスもさつきのひかりさんもそこのアナタも……、みんなみんなある意味どこか「光に囚われている」のかもしれない。
良かれと思って「中傷されて大変でしたね。」と労うのだってそうかもしれない。
しんどい思いして葛藤をがんがん手放してきたとか、さんざん浄化をしてきたとか、そういうことの次にくるのは、
「光に囚われている部分」を自分で見つけて、自分でなんとかしろ、ということなのかもしれないな、と思ったんです。
人間は、上でも地上でも、見たいものを見る。
ほんとーーーーに「見たい世界」を見てると思うんです。
私は、ね。
何かしらの「不調和」が自分の目の前に現れたら、やはり何かを問われているんだと思います。
特に今は「光に囚われているんじゃないか」という視点で。
私の場合は………
サイキッカーじゃないから分からない、(そういう面での)人の手助けができない、と思い込んでる部分とか、
答えを「誰かの中にある不調和」から見つけようとしてしまいがちだとか、
ちょっと考えてみただけでもなんかいろいろありますね。
お恥ずかしいですが。
あれやこれや考えてみて、今はこんな感じです。
結局は自分を省みることになる、という、まさに王道ですね。

「光に住して、光に囚われず。」

タイトルの言葉は、五井先生の言葉っす。
以前にも紹介した覚えがあるっす。
忘れてたよ。
ああ、そうかって、思ったよ。
光に囚われた瞬間に、闇とかなんだとかという「解釈」が始まって、なにかしらと「戦う」という状況になっていくんだ。
敵なんていないのに。

自分は「聞く耳」を持っているか?

最近、「聞く耳」に関することがチラリチラリと目につきます。
とある障害児のお母さんが、自分の子の状態について、他の人たち(それも自分より専門性の高い人たち)に、お母さん自身が我が子について認識している以上に問題がいろいろありそうだ、と指摘されて怒っちゃった、とか…ね。
なんだか「痛々しいなぁ……。」と感じることが多いです。
自分の意見を支持してくれる人の言葉は、そりゃ誰でもすんなり受け入れるもんだし、嬉しくも思うもんだけど、
その人の真価が問われるのって、きっと、自分の思っていることと全然違う意見に出会った時なんだろうな、って思います。
「あなたの意見はあなたの意見として、いちおー聞いておきますが、
私はあなたの意見を聞いて、自分の意見を変えるつもりはありません。」
と、いう態度で臨むのが良い場合もあるけれど、
たとえ耳がすごーく痛くても、その言葉を切り口として、今の自分とじっくり向き合わなくてはならない場合もあるハズです。
自分の感覚や考え方、自分自身に自信を持つということは大切だけど、
他人の意見をまったく聞かなくていいということではない。
そして、逆もまた然り。
すごく難しいな、と思います。
けれども、実はそんなに難しいことではないのかもしれないな、とも思います。
多分、自分の「中」が風通しよい状態になっているかいないか、という違いなんだろうな、と思うからです。
でね。
自分の「中」がすーすーと風通し良い人なら、特別になにかのヒーリングメソッドを用いなくても、
ただ、その場にいるだけで、なんだかみんなが癒されるんだろうな、と思うんです。
(あ。五井先生も同じようなことを言ってるな。そいえば。)
私は、自分が何がしたいのかよく分からないし、もちろん発展途上だし、お父ちゃんに耳のイタイこと言われて「むっきー!」って逆切れするし、ダメダメなんだけど、
でも、いつか、その場にいるだけでなんだか和んじゃう~って人になれたらいいなー、と望んでます。
そのためには、いろんなものをリリースして、軽やかになっていくことを志向してます。
……いや、その、ほんと、今はまだまだダメダメで、聞く耳もちゃんと持ってるかどうかもアヤシイけどさ、いちおーね、目指すところはそーゆー感じってことで。
えへへ……。

昨日は満月だったのかしら?

よく分からんのやけど、昨日がいわゆるウエサクの満月だったのかしら?
確かに月は丸かったちっくだったけど。
(今年は月カレンダーを購入してないから、ぜんぜんチェックしてない。新聞の月齢も見てないや。)
てのも。
ウチは障子の部屋で寝てるんですが、
子どもたちもとっくに寝て、私も嵐の番組を堪能し終わり、仕事で遅くに帰ってきたお父ちゃんがお風呂に入ったので、
さて寝ようかね~~~、と思ったら、
障子の向こうが明るいんですね。
ああ、そうか。
今夜だか明日の夜だかが満月らしいよね。
と、障子を少し開けたら、すーーーーっと月明かりが部屋の中に入り込み、丁度、私の枕を照らしていました。
お?
これは横になりながらお月見ができるんじゃないか???
と、思い、いつもは付けている豆電球を消して、障子を少し開けたまま横になってみました。
おおおおおおお。
丁度いい角度でお月さまがキレイに見えるぞ~~~~~。
月光浴や~~~。
と、(外したらすげーボンヤリとしか見えないため)メガネをかけたままお月さまをのんびり眺めていました。
が。
ふと気づいたら、寝てました。あたし。
あーあ。
多分、お月さまをまったり眺めてたのって、ものの数分だよな…。
眠気の圧勝。

信頼する、ということ。

昨日は、保育園の保護者懇談会もあり、そして小学校の特別支援クラスの保護者と校長先生との会合もありで、午後は忙しかったです。
保育園の方は、まったりとしていて、なんとも和んでおったのですが、
小学校の方は、やはりそういうわけにはいきませんでした。
いろいろあるよね。やっぱり。
でも、親がどういうふうに感じてるとか、考えているとかを、他の(支援クラスの)父兄と校長先生に伝えられる場を設けてもらえるというのは良いことだよなー、と思いました。
で。
その会合の中で、とある(キレイな!)お母さんが、ものすごくハッキリとご自分の意見をおっしゃっていました。
ええ、キツいこともね。
その意見の中に、支援クラス担当のとある先生のことは能力が低いし信頼できない、と、ものすごくぶっちゃけたことをハッキリ言われてました。
うおおおおおお!
このお母さん、美人さんで優しそうなのに、ハッキリ言うな~。
すごいな~~~。
と、のらりくらりな私はビックリしました。
だからと言って、彼女がハッキリ言うことは悪いことだと思いませんでした。
それがクレームではないってのは分かりましたもん。
(それに、親がハッキリ言えるって大切だと思うし。)
その先生って、主に息子ともう一人高学年の子の勉強を担当されてるんです。
なので、この2カ月ほどの間の先生と私との間のちょっとしたやりとりから、私も
「あー、この先生は、ちょっと頼りないなー。」
と、感じてましたから。
でもね。
彼女と校長先生とのやりとりをボケーっと見ながら、いろいろ思ったんです。
親としては、彼女の気持ちはすごーーーーく分かるんです。
そして、どんな親でも、自分の子どもの担当となる先生は、「先生能力」が高くて、性格もいい人がいい、って思うハズです。
けれど、そんな優秀な先生ばかりじゃないのも事実。
いろんな子ども、いろんな親がいるように、いろんな先生がいますからね。
そうは言っても、やっぱり子どもをよりよい環境に置いてやりたいと思う親心は絶対に否定されるものじゃないです。
(モンスターペアレントはアカンけどな!)
難しいことだよなー……と、思いつつ。
思いつつ、会社員時代のことをいろいろ思い出しました。
「あの上司は全然ダメやよねー。デキへん人やん。」
と、同僚と愚痴っていた私とかを。
デキる人はスゴい。
デキない人はダメ。
会社という「利益」を追求していく場においては、特に「デキない」ことは「悪」になりやすいよなー、と今さらながらに思います。
でも、そうだとしたら。
「デキない先生」をダメだと切り捨ててしまったら。
それって、知的障害のある自分たちの子どもたちも「デキない人」という見方をすることになるよな……と、思ったんです。
デキない人をダメだと切り捨てる社会を作っているのは私たちなのに、
効率主義で知的障害のある人に働く場所を与えない社会はダメだ言っているのも私たち。
じゃあ、「今の私」がすべきことは?
それは、多分、先生を信頼することだよな……。
と、やっぱりそう思いました。
私がダメだと思う先生は、
反社会的性格であることはもちろんですが、
なにより、息子をかわいがってくれないとアウトなんです。
あの子のあの笑顔を見ても、ちっともカワイイと思えなくて、ただいかに勉強を進めるか身辺自立を確立させるかばかりを見ている人だったら、アウトです。
「子どもってムカつくことも多いけど、でもカワイイんだよなー。」という心がその人に「先生」という職業を選択させたのであって欲しいのです。
それは、デキるデキないよりも、私にとっては一番重要なことなのです。
担当の先生は、確かにものすごく不器用そうな人ですが、息子の笑顔をカワイイと思ってくれてるとは思うので、
息子との時間の中から、何かを先生も見つけてくれたらいいなー、と思っています。
私が「信頼する」というのは、そういうことです。
てなことを、ぼけーと考えていたら、校長先生が私の方を見て、
「(○○先生は信頼できないという発言を聞いていたら)あまりいい気持ちはしないですよね?」
と、気をつかって話をふってきたので、
ぼけーっと考えていたことをつらつら話させてもらいました。
そしたらね。
今朝、あの美人のお母さんからお手紙をもらいました。
私の言葉に、何かちょっと感じたことがあったようです。
メアドもいただきました。
愛情深くて、子どものためにハッキリと意見がいえる彼女は立派だとほんとうに思います。
そして、違う考え方に対しても何かを感じ取れる感受性を持ち、それを伝える行動力があるのも素晴らしいと思います。
私の方こそ見習わなアカンがねーーー!

いろんないろんな守護存在が私を護ってくれてるとは思うんだけど。

ボスんちのちゅまちゃんも、人間に転生したのは初めてだそうですが、
こちらのブログの娘さんもそのようです。
http://fineengel.blog10.fc2.com/blog-entry-351.html
で。
上記記事を読んでいて、
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この、霊でありながら肉の中で生きるという
人間という生き方は、ともすれば肉体のない
よからぬものに乗っ取られてしまい、現実ばかりに目を
向ければ良心が蝕まれるという非常に微妙なバランスの
必要な生き方であると思います。
**-----------------------------------—**
という言葉に頷いてしまいました。
絶妙なバランスをとるというのは、簡単じゃないですよね。
私は霊感っちゅーものがほとんどありません。
オカンと弟1号はバリバリだったし、霊障もけっこーあったので、
「霊感があるとエライこっちゃなー。あたしはふつーで良かった良かった。」
とすら思っていたのです。
……思っていたのですが。
10年ほど前、フタを開けてみたら、私もがっつりエライこっちゃの状態だったんです。
書き出すと長くなるから割愛しますが、
霊能師の先生の(当時の)言葉を借りれば、
「君の霊魂は、さみしーよーつらいよー、っていう先祖霊に対して、『あ、じゃあ私のところに居てもいいよ。かわいそうだから。』とすぐに許可しちゃうんだよねぇ……。」
ってことらしくて、ハッキリ言ってお人好し過ぎらしいのです。
ダメじゃん。ダメ過ぎるやん。
肉体の私が困るやん。
ってことで、物質界の私が「そーゆーの、ヤメ。」と強く決断すりゃいいんだろう……と思っていたのですが、
これがまた人間の不思議さっちゅーかなんちゅーか。
当然ですが、肉体のエネルギーが枯渇していくことになり、しんどいなんてもんじゃないわけですよ。
そーゆー状態って。
で、肉体の私は「やめろー。そーゆーのはナシだってー。」と強く強く強く思うわけなんですが、
これが、ほんとーーーに心の奥の方の奥の方から強く思っているのかと言うと、
………なんとなーーーーくアヤシイのです。
この感覚、分かるかなー?
今は「憑依」ってハナシを軸に説明してますけど、そーゆーことだけじゃなくて、いろんなことにおいて、
一番表層の意識では強く決断しているつもりでも、
奥の奥の方で思っていることはアヤシそう。
ということってたくさーーーんあると思うんです。
で、それに気づけばまだマシなんだけど、気づかないことの方が多いかもね、とも思います。
もちろんね。
宇宙一のヒプノマンであるPさまに手助けしてもらう、という手もあるし、
他にもいろんな方法があるんだけどね、
(そして、確かにお祈りを10年ちびちび続けたことは、かけがえのないことだったし。)
表層意識が「本気で強く決断する」というのは、
「あー、こーゆーのイヤだ~。あーゆーがいい~。」
って程度の思いとは全然レベルが違うんだろうな、と思うようになんてきたんですよ。
でもって、やはり「強い決断」でなければ、ほんとーに変わっていけないんだろうな、と思うのですね。
でもって、その「強い決断」というのは「欲」というレベルではなくて、「ほんとうの私が望むこと」とリンクしたものでないと、錬金術で金に換えるのではなく、金メッキになっちゃうような気がするんです。
(けど、『とりあえず』ってことも大事なのは十分分かってるよ。)
あ。
違うか。
「ほんとうの私が望むこと」に、指先だけでも触れたら、泉が湧きだすような感じになるかなー。
ま。
いいや。
とにかく、「なんかアヤシイ」というのは、やっぱりアヤシイんですよ。
やっぱまだちゃんと「ほんとうの私の望むこと」にリンクしてない感がどこかにあるんだよなー。
「憑依」のこと以外でもね。あれとかこれとか。
でも、イヤなものはイヤだよ。
当然イヤだ。
けどね、なんやかんやで「しかたがないよね。」と思えるうちは、まだ余力があるんだろうなぁ。
「あー、ほんとーにもうコリゴリ。」って腹の底から思えた時が、変わり時なのかな。

「贅肉は財産です。」

2カ月くらい前だったかな…?
テレビのチャンネルをなにげに変えてみたら、テレビショッピングで矯正下着の説明をしていました。
その商品の説明をしてた女性社長さんが言いました。
「贅肉は財産です。」
多くの女性の体型を見てきた彼女は、矯正下着で贅肉を移動させれば、「見た目が悪い体型」がいい感じになるのだから、贅肉は財産だ、と言い切ってました。
その時は「へー。」としか思わなかったんですが、ある時この言葉をふと思い出しました。
そしたら、
そっか。
マイナスだと思ってることだって、それは実はマイナスじゃないってことはたくさんあるんだろうな。
と、するっと自然に思えたのです。
ポジティプに考えろ、とかそーゆー言葉はなかなか私の中に入っていかなかったのですが、この言葉はするっと自然と分からせてくれました。
「視点の移動」ということについて。
無理矢理に頭で「こーゆー問題にも、意味があるに違いない。」と言い聞かせるのとは違って、
「見かけ」の向こうにある「実体」がどこらへんにあるか、がなんとなく分かったような、そんな感じがしたのです。
もちろん膝に負担がかかりすぎるとか、生活習慣病になるほどの「財産」はどこかに寄付でもして、ちょっとスッキリした方がいいけどね。

五感にちょっと毛が生えたくらいでも、きっと丁度いいんだ。

ちょっと思い当たるフシがひょっこり出てきたんで、
金星とマルデックのこと、検索かけてみたんですよ。
そしたらねー、
いろんな人のいろんなお話があってねー、
みんななんかちょっとずつ違うのね。
(アモラの本と「フラワー・オブ・ライフ」に載ってることでも差異がかなりあるけど、さらに混沌とした。)
いわゆるチャネラーさんとか、自分の記憶とか、ハイヤーさんに教えてもらったとか、アカシックにアクセスしたとか、いろいろあるんだろうけど、
けっこーバラバラで、どれが本当なのかなんてさっぱり分からないんだけど、
それでも、遠い星の文明人たちがこの太陽系に入植してきた、というアウトラインは同じなんだよね。
とりあえず、それはアリっちゅーことにしときました。
しかし、ほんとーにいろいろなバリエーションがありますね。
あたしね。
相棒ののりすけちゃんみたいな生まれつきのサイキッカーじゃないし、
前世でもかなりお世話になったシエルさんのような凄腕ヒーラー(←精進の結果!)じゃないし、
娘さんと一緒に読者参加型のいろんな世界を展開してるじぇいど♪ボスみたいに短期間でガンガン変容してるわけじゃないし、
宇宙ステーション等の「上」にマイドラ「時環」に連れてってもらっても、ぼんやりしたイメージしか浮かばないし、
なんてゆーか……
みなさんほどの体感・実感・リアリティが五感以上の感覚においてはなかなか感知できないのですよ。
ひじょーーーにゆる~~~~いのです。
ま、たまにミカエルとか観音様とかファウとかが脳内会話でガッツリ語りかけてくれることはあるけど、それはあくまでめっちゃ個人的なことについてだしね…。
で。
そうであるということは、つまり、大なり小なり「世界」を知ろうとした場合は、いろんな人の話を読んで、「へー。」と思うことがほとんどだってことです。
自分がリアルに感じとった「情報」というのは、ほんのほんの少しで、
あとは、他の人の言葉を、「直観」なり「思考」なりで、自分の中で取捨選択して落としこんでいって、少しずつ「形」を構築していく……という作業を常にしていかなければならないわけです。
そのため、「これが私の感じた真実です。」と迷いなく言えるほどであればなぁ~……、と、やはり心のどこかで思っていた自分がいたんですが、
このところ、なんとなくなんですが、提示できるハッキリとした根拠とかは無いんですが、
こーゆー自分でいいんじゃないの?
と、感じるようになってきました。
『いろんなことが視えて、いろんなことが分かって、人に示す』という役割ではないのなら、
過不足無いんじゃないか?と、思えたのです。
てか、そーゆーのは私の魂にしたら×なのかも、と、ほんとに根拠無しでそう感じたんですよね…。
だから、上の自分(タミエルとファウとミルラ・ム)が上の誰か他の人とリンクしながらリアルタイムで業落としの物語を紡いでるってことがほとんど無いんだなー、と、なんだか妙に納得したりしました。
(上で宴会したり、というのは別ね。あれはお遊びだから。)
上のことがもっとハッキリ認識できればいいのになー、とか、
五感以上の感覚がもっとクッキリしてきたらいいのになー、とか、
いろんな人の本やらネット記事やらを読んでると、つい思っちゃうことがどうしてもあったけど、
多分、ほんとに、過不足無いんだろうな、と心の奥の方から思えたのでした。
もちろん、これからどうなっていくかは自分でも分からないけどね。
……しかし、スピ的太陽系史のバリエーションについては、もちょっとスッキリして欲しいなぁ。