若い頃は長いのやら短いのやら、いろいろでしたが、
お母ちゃんになってからは特に基本は短めです。髪形。
で。
そろそろ伸びてきて、びみょーにくせ毛で梅雨時期はうねうねになりやすいために、ここんとこ毎朝おかしな頭になってましたから、美容院に行ってきました。
で。で。
シャンプーしてもらってる時に、ふと気づいたんですよ。
「あー。あたしってば、ずーっと自分の『女性性』を大事に育ててこなかったなー。」
って。
もともと自分のそーゆー傾向ってもんは自覚してましたが、今日はがっつりしみじみ思いました。
そしたら、自分の中の「なんでこうなのかなー?」といういろんなことについても、
『女性性』を大事にしていないから、そこのバランスをとるためでもあったんだなー、とかね、
そーゆーことにも「はた。」と気づいたのです。
子供たちを産んで育ててるうちに、ありがたいことに「母性」はふつーに育ってきたと思うし、
「人間性」ってのも、偏りはあるけど意識してきたことだし、「霊性」も勉強させてもらってるし。
……やっぱり『女性性』がおいてけぼりだよなぁ。
てことで。
今さらながらですが、大事に育てていきたいと思います。女性性。
表層意識の「私」と、神なる「私」と。
先月の月食(満月)から、今月11日の日食(新月)の間って、体調不良で頭痛とか消化器官の不調とか、そーゆーのが多くなるって、なんかに書いてあったわー。
てことで、頭痛はそのせいってことにしておこう。
そうしよう。
でさ。
この不安定な(?)時期の間に、内観が進む……みたいなことも書いてあったのを読んだ覚えがあるけど、
なんかねー、
不思議なんだけどねー……
あたし、別にいつ死んでもいいよな
って、すげー深いところから湧いてくるんですよ。
いや、別に今すぐ死にたいとかってんじゃないですよ。
ただ、生きてることに執着してないなー、って感じ。
深い部分の「私」は。
でも、表層意識の「私」は、
痛いのとか苦しいのとかはイヤだー、
子供がまだ小さいからまだまだ死ねんがねー、
一度は松潤を生で見てみたいがねー、
お金、やっぱもっと欲しいなー、
お肌、つるつるになりてー、
とかとか、いろいろ騒がしいし、それらはもちろん当然だよねー、って思うんですが、
そことは別に、深いところの……「神なる私」に近いところの「私」は、
何かを成し遂げたいとか、何かをしたいとか、こういう自分でありたいとか、そーゆー自己実現を超えた存在
なんだな~、とぼんやりとながら「実感」できるんです。この数日。
ただ、在るだけで十分、みたいな感じ。
だから、別にいつ死んでも問題ナシ、って感じなんだろうなー。
小3の時に、突然「世界がクリアに見え始めた」時から、自己実現の欲求は強かった私ですが、
20歳直前から身体をこわして、ずーっと自己実現というのもから遠ざかってしまいました。
これって、どういう意味があるのかしら……と、時々ふと思うこともあったけど、
この数日は、
「ほんとに、これって消えていく姿だったんだなー。業を出しちゃって、お掃除してるんだなー。自己実現の欲求さえ業だったのねー。」
と、なーんかほんとに深い部分で思うんですよ。
いや、だからね。
しつこいようだけど、表層意識の私は、生松潤に会いたい~とか、そーゆー煩悩まみれのカワイイ奴なんだけどね。
それを否定してるわけじゃないっす。
ここんとこ、洗顔や歯磨きの時、鏡を見ながら、
「我即神也。私は神だよ。」
と、声に出して言うようにしてたんですよ。
そのおかげで、いつもより神に近い部分の「感覚」がすこーしばかり滲み出てくるようになったのかなー、とも思うんですが、時期的なものもあるのかしら。
はてさて。
神なる「私」の感覚と、表層意識の「私」の感覚が、どこかでバチっとリンクしたら、その時は、スーーーっと雲が晴れるような感じになるのかもしれんね。
今は、まだ別々だなぁ~。
そよ風に吹かれて揺れていたら。
ちょっと前のこと。
息子を連れて、娘のお迎えに行った時、
保育園の片隅に咲いていたお花たちがそよ風に吹かれて揺れていました。
それを見た息子が、そのお花たちの前に座り込んで、妹に向かって言いました。
「お花が歌ってるね~。」
そしたら、娘も兄と一緒に座って、
「ほんとだねー。お花、歌ってるね~。」
と嬉しそうに言いました。
誰か教えたんだろう?
散歩の途中で、お父ちゃんが教えたのかな?
それとも、オカンかな?
私は、そんなこと一度も言ったことないんだけどなぁ。
ずっと気になってはいたのですが……。
常滑の小五の女児が、岐阜のキャンプ場で忽然と行方不明になってから1年です。
当時、ニュースで彼女の写真を見て、
「あれ?この子、ダウンちゃんじゃないか?」
と思ったんですが、ニュースでは何も言ってないのでハッキリしませんでした。
しかし、さきほど「とくダネ」でこの事件について扱っているのをチラリとだけ見たところ、やはり彼女はダウン症児とのことでした。
ほんと、不思議な事件(事故?)なんですよね…。
まさしく忽然と消えた、という感じなんですよね…。
解決した、見つかった、というニュースをちっとも耳にしなかったので、時々思い出しては気になってました。
……神隠しなのかなー。
同じダウン症児の親としては、さらに胸が痛いです。
私も、「なんで、ここに、こうやって『いる』の?」と、よく思ったもんだ。
またまたtakakoさんの記事です。
http://marialetter.blog22.fc2.com/blog-entry-143.html
この記事の中で、こんな一文がありました。
癒すとか、違和感があってその答えを導き出すとか、それは必要なプロセスではありますが、通過儀礼のようなものと思った方が良いと私は思います。
そうだよなー、と思いました。
自分を癒すことや、人生そのものを問うような…そんな問いの答えを探すこととかって、
確かに「必要なプロセス」であって、そして「通過儀礼」のようなものなんだろうな、と、最近の自分を省みて感じました。
または、「手段」とも言えるかもしれないです。
決して、それは「目的」ではないな、と思うのです。
……でも、人間だもの。
辛いのから逃れたいからさー、とりあえずの「小目的」しか見えないことって、あるよね。
けどさ。
じゃあ……、
「私」のこの人生の目的は?
「私」の魂の目的は?
…わかんないけど。
わかんないけど、それは、とてもシンプルで、同時にとても深いもの……のような気がします。
今の私には、言葉にはできないような類のもの、かもなぁ…。
あ。
でも、むりやり表現すると、
すべてひっくるめて、愛!
って感じの類のものなんでしょうーなー。やっぱり。
しかし、すげーざっくりな表現だなー。
今日は雨で見えないけれど、部分月食だそうで。
まー、浄化中でござるよー。うはー。
しかし、なんかパワフルな月食らしいっすね。本日。
そんなんばっかなので、「あー、またかねー。」って感じにすらなっとりますよ。
でもって、年末12月21日には皆既月食だしー。
どうなることやら~。
なんかもー、泣きそうになった。
夏至の今日は、朝からネガネガで、ちょっといっぱいいっぱいって感じですが、
夏至のエネルギーでネガ出し中なのね、と思うことにしました。
ひー。
で。
そんな状態で、takakoさんの最新記事を読んで、
もう泣きそうになりました。
いえ、ちょくら泣いちった。
13回忌
今日は祖母の13回忌。
もうそんなに経つのかー。
家の中はキッチリしていないと気になる人だったので、
私のいい加減な家事を見たら、イラっとするだろうなー、と思います。
「あー、おばあちゃんに叱られるなー。」
と思うことが今でもよくあります。
これも愛ってことで。
もしかして、「章」が変わったとか、なのかなー……?
昨日は朝から非常に気持ちが悪くて、漢方薬飲んでもなかなか復活せず。
なんだろう、この感じ……。いつもの気持ち悪いーってのがヒドいっていうか……
「なんか、まるでつわりみたい。」
と苦笑いでした。
いや、もちろん、生理中ですからね。妊娠なんてしてませんしてません。
でも、つわりって、子供の振動数と母親の振動数のズレのせい、というスピ的解釈を聞いたことがあって、
何か新しいこととか、そーゆーことへの準備だったりして~~、
なーんてことにしておきました。
いや、単に自律神経が乱れてるだけなんですがね。
そいえば。
ネットのお友達の妊娠話を立て続けに聞いたばかりだし、
mixiの日記に安産の話を書いたばかりだったんですけど、
昨日、お父ちゃんの職場の同僚さんで、私も仲良くしてもらってる方が出産したと聞きました。
……それも、車の中で。
病院まで間に合わなかったそうで、それはもう大安産だったってことですから、もちろんいろいろ大変だったろうけど、良かったなー、と喜んでおりました。
なんだろ。
なんか、やっぱり「新しいこと」とか「新しい自分」とか、そーゆーことを感じさせられるんですよねぇ…。
ただ、オメデタイってだけでなく。
そいえば。
2月頃だったかなー?
3月頃だったかなー?
観音様になにげに語りかけたら、
「6月から忙しくなりますよ。」
と言われたんだよなー。
入園・入学が重なって、春はバタバタと忙しかったけど、
6月って落ち着く頃なのになー、と不思議だったんですが、
もしかしたら、忙しいというのは、ちょっと今までと何かが変わってくるよ、ってことなのかもしれないですね。
なんだろうなー?
ちょっとだけ、ドキドキ。
「自分の道」を歩くのは自分一人。
もっと自分が他の「反応」ができていれば、全然違う結果になっただろうに、と思うし、
その時のことを思い返してみても、やっぱりその時にはその「反応」しかできなかったから、自分のダメダメな部分が強く出ちゃったせいで、人間関係が変わってしまった、というのも、悲しいけれど、それもちゃんと自分で受け止めないとねー、と思います。
んーー。
高校生の時のこととか思い出して、ひーーーー[emoji:v-356]ってなったりしますわ。
今でも。
例の件もからんで、のりすけちゃんが私のために良かれと思ってやってくれたことに対して、私が怒っちゃうという大人げない反応をしてしまい、のりすけちゃんからはその後何も連絡がありません。
そりゃそうだよなぁー、と思います。
でも、のりちゃんはブログで自分がどんどん軽くなってって楽しいって書いているから、
ああ、そうかー。
のりちゃんは、スッキリしてるのかー。
と、思ったら、寂しいのは当然寂しいけど、
なんかね、すごくホッとしました。
ほんとに、心から良かった、って思いました。
春の頃、シエルさんとのりすけちゃんは、私も一緒に連れて行きたいんだよ、と言ってくれました。
だから、ヒーリングを受けたりもしましたが、
やはり私はついていけなかったんですね。
ツインだなんてまったく知らずに、私はのりすちゃんとなぜかすごく仲良くなって、なぜかお互いを大切に思うようになったけど、
それでも、彼女の「感覚」をスーっと分かるのは、私よりも、たとえばかめちゃんの方だよな、とか、
そういうことも感じていました。
やはり、私がどこか「重い」のかもしれません。
だから、のりちゃんはのりちゃんなりに、私にひっぱられてしまっていた部分もあるのかもしれないなー、と今さらながらに思います。
だったら、
私と違う道に進んで、どんどん軽くなって、どんどん自由になることは、必然だし、良いことなんだろうな、と、
彼女がブログで楽しいと書いているのを読んで、本当に心からそう思ったんです。
そいえば。
シエルさんが言ってました。
今年の2月で、私とのりちゃんのツインのコードは切れたって。
今までののりちゃんとの過去世の物語を振り返ってみても、
私をフォローするように、のりちゃんが辛い経験をしていることが何度かあるから、
コードが切れたことで、もう、のりちゃんの魂は真に自由に、楽しく生きていくことができるようになったのかもしれませんね。
強がって、こんなこと言ってるんじゃないし、
寂しいのは寂しいんだけど、
でも、ほんと、なんか、これでいいのかもね、って、素直に思ったんです。
寂しさはもちろん残っていても、
それでも、ある意味、すごく晴れやかな気持ちです。
なーんてことを、土曜日につらつらと思っていたら、
さっき、takakoさんのブログ
http://marialetter.blog22.fc2.com/blog-entry-136.html
を読んで、(あいかわらず辛口だけど!)なーんかね、
「それでいいんだよ。」
って、言われてるような気がしました。
でもって、りゅーらたんが日記にやっぱり「袂を分かつ」ということを書いてたし、showさんもちょっと似たようなテーマで日記書いてたし。
目指すところはみんなみんな一緒なんだろうけど、
やっぱり道のりはそれぞれ違うんだろうな、ってしみじみ思いました。
一時的に、まるで同じ道を歩いているように思える人がいても、
やっぱり違う道を歩いているんだ、ってことを忘れちゃいけないな、って、思いました。
家族でも、友人でも、恋人でも、師弟でも。
ソウルメイトでも、ツインソウルでも。
「自分の道」を歩くのは、自分一人。
守護霊さまとか、ハイヤーさんとかがぴったり寄り添ってくれているけれど、
歩くのは自分の足だもんね。
どんどん、地球の波動が上がってるー、とか、どんどん現実化のスピードが上がってるー、とか、
スピ系の人たちはよく言いますが、
それって、「自分の道」がどんどんクリアに見えてくるようになるということでもあるかもしれなくて、
だとしたら、それこそ「袂を分かつ」ということに直面することが増えるのかもしれないですね。
それは、「みかけ」のことだけど。
ほら。
コリオリの力って、「みかけの力」だけど、私たちにしたら、お風呂の栓を抜いたら、どーしたってなんかの「力」が直接働いて水がぐるぐる回ってるとしか見えないもんねー。
あれと一緒で、「みかけ」のことだと思うのです。
そういう「みかけ」のことって、他にもいろんなカタチで現れてきてるのかもしれんですね。