ほんとに冬至はスペシャルでした。
日常的にはそこそこふつーの日常でしたよ。
息子か終業式だったので、早く帰ってきたってのとか、
冬至のお札をもらいに近所の「みちびき不動」に息子と2人で行ったとか、
午後のTVは嵐三昧だったとか、
忙しい友人が顔を出してくれたとか、
実家からと友達からとプレゼントが届いて子供たちが大騒ぎだったとか、
確かに少し違うパターンではあったけど、そこそこふつーの日常でした。
でも、やはりどこか「てんこもり」な日となりました。
「形」としては、mixiのえりもも先生の日記を通して、「神様のお仕事をする」ということを、自分はなんで怖いと思うんだろう……というものでしたが、
「神様のお仕事」というのは、分かりやすい題材であったに過ぎず、
私に関して言えば、そもそも「どんどん目覚めていく」ということに漠然とした恐れがあり、
それは、場合によっては「エゴが肥大する」という横道に逸れてしまうのではないか、という恐怖であった、ということを自覚できたのです。
なので、たとえば。
最近になって「天使の絵、パワーアップしたって感じだね~。」というようなことをチラホラと言ってもらえるんですが、
すごくありがたいし、すごく嬉しいのは確かにそうなのですが、
心のどこかで、「調子に乗ってはいけない。そんなわけがない。」とささやく自分もいたのです。
「恐れている私」が、いつもそうささやくのです。
「私ごときが、何言ってるの?」
「私ごときが、そんなわけない。」
エゴはすぐに肥大する性質がある、ということを知っているのは良いことだと思いますが、
そのために不要なブレーキまでかけていては、なかなか前に進めませんよね。
そんな状態だったんだなー、と思いました。
神我一体になり、完全に覚醒した状態にでもならない限り、エゴが沈黙することは無いと思います。
でも、不要はブレーキはかけたくないなー、と思います。
そんな余裕は、もう無いよな、と思うからです。
「ほんとうの自分」「内なる神」「ハイヤーセルフ」…と、いろいろな名称はありますが、
「真の自分」に波長を合わせることを目指すことで、だんだんとエゴの肥大を恐れる必要も無くなってくるのだろうな、と、すとんと腹に落ちたような気がしました。
そんなふうに思ったところで、冬至の扉を開けるイメージをしてみました。
すると、扉がしゅるしゅる~~っと収縮して消えてしまい、青空が見えました。
ファウとツインさんは、たまこさんのハイヤーさんの歌に合わせて、祝福の歌を歌っていました。
それは、光のような歌でした。
私は、私自身と世界を祝福しました。
★2010★冬至の祝福
感染性胃腸炎
息子がまず感染しまして、続いて娘も感染しました。
娘を迎えに行ったら、クラスの園児がとても少なかったので、流行ってるな~、とは思いましたが、なかなか強烈なヤツですね。
名前は強そうじゃないのにね。
「ノロウィルス」なんてー。
あかつきの天使
観音菩薩
アバンダンティア
先輩に絵を納品しました。
今日は、石井ゆかりさんの占いによると、
『山羊座は教えて上げることと教えてもらうことの量が同じくらい大きい日かもしれない。自分の「アタリマエ」と相手のそれを交換するような。』
とのことですが、
ほんとにそうでした。
先月、大学時代のサークルの先輩からお仕事の依頼を承りました。
先輩がお勤めしている会社は、あの五日市剛さんが以前お勤めしてらっしゃったところです。
技術バリバリ系の会社なのですが、
現在、先輩は現場ではなく、総務・人事のお仕事をしてるそうなんです。
そこの役職となり、「人との関わりを豊かにすることで、職場をより良くしていく」というのが、今の先輩のお仕事みたいです。
昔っから、モノゴトを動かすということに長けてる人だったんすよ。というか、人を動かすのに長けてると言うべきかな。
なので、適職なんでしょうね。
その先輩が、社員間および取引先にも使おうと考えている「名刺大のサンクスカード」の裏面に使用する「絵」を私に描いてくれ、と依頼してくれたのです。
で。
今日の午前中に、先輩が絵を受け取りにわざわざ我が家まで来てくれました。
2枚の注文でしたが、
5枚描いたんですよ。
この中から好きなのを選んでー、とメールに画像を添付して送ったところ、
全部買う!と言われまして、驚きましたわ~~
それも、先輩のポケットマネーで、ですよ。
ブツは先輩所有で、画像は会社で作るサンクスカードのデザインとして使うということなんですって。
なので、これはサービスせんと~~!と、
急遽、先輩にはナイショで1枚追加しました。もちろんこれは無料で。
先輩は、絵を並べて、「いいねー。いいねー。」と言ってくれました。
現物と画像では、やっぱり現物の方が『どーん!』としてるので、
現物をじっくり見てもらって、褒められて、なんか恥ずかしいけど、でもやっぱり嬉しかったです。
別にスピに染まってるとかって人じゃないんですよ。
でも、なんてゆーか、(もちろん頭もしっかり使うけど)「感覚の人」だと私は思うんで、絵をすんなり認めてくれちゃうんだな、と感じてます。
だってねー、
技術的なこと言い出したら、私なんかより絵の巧い人ばっかやもーん。
私、自分の絵は決して巧いとは思わんもーん。
でも、なんで私かは分からんけど、天使さんたちと一緒に描いてるって絵なんだもーん。
そこを受け入れてもらえるかどうかって、身近な人であればあるほど、難しいような気がするんですよ。
(旦那やウチのオカン、弟はすんなり受け入れてくれたけど。)
そこを、昔っからの知り合いがすーっと受け入れてくれるってーのは、嬉しいです。
自分の「アタリマエ」と先輩の「アタリマエ」を交換するような、まさにそんな感じで。
ほんとに。
で。
先輩は、私にも民絵屋としてサンクスカードを作って販売しろー、と言い出しましてねー。
ちょうど、先日届いたばかりの「某印刷会社のサンプル」をあれこれ見ながら、コストの計算とかもしてくれちゃって、
「名刺大4種類の絵を25枚ずつの100枚で1000円だな。」
ってね。
あははは。
こりゃもー、作らんとアカンですわ~。
ほんとに。ええ。
先輩は2時間ばかりの滞在だったけど、いろんな話ができて、ほんとに面白かったです。
知的障害の人たちを会社に雇用することにしたのも先輩主動だそうなんですけど、どんな感じか、とかも興味深い話でした。
それにまた追加で絵の注文もしてもらっちゃったし。
今度は、もっとハードル高いっすー。
50歳代の頑固な管理職クラスのおじさまたちが使い易そうな絵
ってことなんでー。
うはー。
天使さんたちに、そうやってリクエストしないといけません。
どんな絵になるかなー。
オーヴァーソウル、ハイヤーセルフ
私としては、なかなか納得できる内容でした。
http://shiroitubasa389.blog38.fc2.com/blog-entry-194.html
そいえば、
去年……の、今頃だったっけかな?
なんかふいに「ツインソウルってなんだよー。」とかってmixiの日記に書いたら、けっこーいろんなコメントがついて、勉強になるなー、と思った記憶があるんだけど、
その時だったか、その後だったか、
上記ブログに「オーヴァーソウル」って言葉が出てきて、なんだ?と思ったんだよねー。
んで、ツインソウルが統合していったところを、オーヴァーソウルと呼んでたような……。
去年の冬至から突如「ツインソウル」というのが私のテーマとして降りてきてるんだけど、
それまでは、「別にツインなんて興味ないなー。」って感じだったから、知識もあまりなくて、なんじゃらほい~~、っておたおたしたですわ。
実は日記に書いてないこともたくさんあるんだけど、
とにかく、ツインというのが気になるような状況になるというのは、
三次元的に片割れとどーのこーのというよりも、
「自分の中で、統合していく過程」
に踏みこんだんだろうなー、と、今年後半からはすごくそう思ったです。
そんなわけで。
また今年も「冬至の扉の絵」を描きたいなー、と思っております。
次はどんな扉となることやら~。
「1つ」では「世界」は生まれなかった。
昔々。
2つに分かれた光が、
お互いを映しあって、お互いを愛しあって、
そうすることが、生命の基本プログラムのような、行動原理のような、
そんなふうになっていて、
だから、すべては「君を愛する」ということがおおもとで、
なにもかもが、
まるでそこに光や愛がないように見えてしまっても、
なにもかもは、「君を愛する」ということから派生しているんだ。
「情報」を選別するだけじゃ、多分ずっと惑わされ続けると思う。
そいえば。
和尚さんのセミナーで、えりもも先生が「帰依」という言葉を使われてたんですよ。
ああ、えりもも先生って、いいなー、って思いました。
もちろん、その言葉ひとつだけでそう思ったわけじゃないんですけどね。
でも、それが象徴的に私の中に入ってきました。
えりもも先生も、和尚さんも、宗教的にもスピ的にも、いろんな情報が有り過ぎて、みんなぐるぐる惑わされちゃってるよね、ってことを言ってました。
確かにそうかも、って感じます。
けど、その「情報の洪水」の中から、「絶対の真実」を見つけようとしても、きっとそれは不可能に近いんじゃないかなー、とも思うんです。
奇しくも、セミナーが終わってから、なおぴむんといろいろ話してた時に彼女が言いました。
「私、100%のもの(情報)を求めてたんだよね。でもそれは無理だと思ったんだー。」
って。
でもそれって、すごく分かるなー、って思いました。
たとえば。
えりもも先生っていいなぁ~、って思ったし、スゴイいなーって思ったのも本当だし、
和尚さんはスゴいな~~、って思ったのも本当だし、
オープンな心でお話を聞いてたつもりです。
でも、精査していないか、っていうと、そういうわけじゃないんですよ。
でもでも、精査してたからって、決してナナメな姿勢でお話を聞いてたわけじゃないんです。
んじゃ、そこで精査して、「自分に合う部分(情報)だけを良いとこ取り」してるかっていうと、それもちょっと違うんですよね。
情報だけを「これはアリ」「これはナシ」と選別するのであれば、それはどんな人の話を聞いたとしても読んだとしても、
やっぱり、いつまでたっても「情報に翻弄される・惑わされる」というところをぐるぐるするだけだと思うんです。
自分の全部をもってそれを一度吸収して、そして自分の全部をもって……「濾過する」みたいな感じかなー?
そういう精査をしないと、単なる情報の選別に終わるような気がします。
…って。
えらそーなこと言ってるけど、私にそれがちゃんとできてるかってーと、それは分からんです。
でも、そーゆーもんじゃないか、と私はなんとなく思っておるです。
そしてそれはね、スピに限ったことじゃないよね。