♪ねこねこねこね~のおいしゃさーん
♪にゃーっときあいをいれたならー
♪すーぐによくなる、はい、おーだーいーじーにー
♪にゃあ!
…って、娘が保育園の時に、そんな劇をやってました。
娘は患者のお猿さん役でしたが。
2月になってから血圧のアップダウンがヒドくなって、3月は特にダメダメでしたが、
5月になってからは、ちょっとばかりアップダウンの山と谷が小さくなってきたなー、という感じがしてきまして、喜んでいたのですが、
今日はアカンかったです……。
10時頃からすこんと高くなって、ちょうど今日は病院の日なのでなんとか運転して行ったんですけど、まーしんどくてですねぇ、
待合室で座ってんのもしんどかったんですわー。やばかったー。
そしたら、やっぱりどえらいこと血圧が高くなってて、先生がすぐに横になってねー、って言うくらいでした。
あ、今はちょっとばかり高めではありますけど、まぁそこそこですので大丈夫です。
というわけで、看護婦さんがベッドを用意してくれまして、鍼が頭に刺さったまま横になっていたのですが、
網戸越しに見える景色がとてもキレイだったのです。
あれはなんていう名前の木なんですかね…。
葉っぱが風に揺れて、その葉っぱの隙間から青空が見えるんです。
葉っぱの緑も、葉っぱと葉っぱが重なると濃く見えて、重なっていないと光に透けて見えて、それらが風のためにゆらゆらカタチを変え続けるんです。
入ってくる風も気持ちよくて、ぼーーーっと眺めていました。
身体のしんどさを少し感じつつも、キレイな景色と風の感覚が気持ちよくて、ぼーーっと眺めていられました。
すると、流れてた音楽にも気がつきまして、
アヴェ・マリアが流れてました。
そのうち、なんとなく目を閉じて、「なんでしんどいのかなー?やだなぁー…。私もイエス様のお着物の裾を触って癒されたいなぁ…。」なんて、新約聖書の逸話を思い出しつつぼんやり考えていたら、
急に、眉間のあたりがぼわんと温かくなりました。
あー……
イエス様が、手(イメージは指先をちょんと)を当ててくださったんだなー……
ありがたいな……
と、なんでかそんなふうに思いました。
……ぁ?
と、瞬間我に返って、パッと目を開けましたが、もちろん、そこにはキレイな景色しかありませんでした。
もちろん、それはたまたま眉間が温かいような感覚になっただけなのかもしれませんし、
もしかしたら何か見えない存在が何かをしてくれたのかもしれませんけど、だとしてもイエス様だとは断言できませんし、
「や、おれだし。」ってガイドが笑ってるかもしれないですけど、
イエス様ってことにしときます。
新約聖書の中で、あの逸話が一番好きなんです。私。
長患いをしてた女は、あちこちの治療家に頼んで治してもらおうとしたけど、治らず、お金も無くなってしまった…というところに、イエス様たちが街にやってきたと聞いて、
せめてイエス様のお着物に触れば、きっと私は治る……と心の底から信じ、群衆の中に入っていって、イエス様のお着物の裾を触った……ら、自分から「力」が流れ出るのをイエス様が感じたので、
「誰か何かした?」と、群衆に尋ねたら、
女がおそるおそる正直に話すと、イエス様が言ったんです。
「女よ、お前は癒されたんだよ。お前の信仰がお前を癒したんだよ。」
って。
そしたら、その瞬間にほんとーに女は癒されてて、長患いが治ってたんです。
そんな逸話です。
一度だけ、絶対安心の心境になったことがある、と前の日記で書きましたけど、
実は、これまた一度だけ、イエス様への祈りを通じて、「扉が開いた」という感覚になったことがあるんです。
私は小学生の時に2年間ほどプロテスタントの教会に通ってはいましたが、洗礼を受けたわけでもないし、仏様への信心もありますし、この15年ほどは自分の中心に五井先生のお祈りがある…という感じなのですが、
イエス様への祈りというのも、やはり自分の中にはずーっとあるんですね。
それで、精神的にひどくしんどかった時に夕方の薄暗い部屋の中でイエス様に30分くらい祈ってたことがありまして……変成意識状態になってたんでしょうね。
「扉が開いた」「繋がった」という感覚に突然なったんです。
その時の感覚はかなり強烈なもので、その体験から1年くらいの間は、その感覚を、まるで本画像に比べてのサムネイル程度のものにはなってましたが、思い出すこともできてました…が、だんだんと思い出すことができなくなりました。
そんな体験が一度っきりですがあるので、イエス様とも繋がってるんだな、というのは分かるんです。
ただ、顕在意識の私には雑音が多すぎて見失って見つけられないんだなー、と思ってます。
(それは信仰がある人はみんなそうなんだと思うんですよ。)
けれど。
私はやっぱり心のどこか深いところで「癒されるのはまだ早い」と思ってるんだろうな……と、
眉間の温かさを思い出しながら、揺れる葉っぱたちを眺めながら、そう思いました。
顕在意識の「私」は、しんどい度にほとほとイヤになるんですけどね。
んっとにイヤよ。
もうイヤよ。
しんどい度に、あの女のように瞬間で癒されたいわー、って真剣に思うのにね。
今さっき、
娘が頭痛いって保健室で休んでるので迎えに来てください、って電話があって、ブログ書くのを中断して行ってきましたよ。
暑さにやられたみたいですね。
帰宅して兄ちゃんと一緒にアイスバー食べたらすげぇぇぇ元気になっとりますわ。
熱も下がってるし。
や、
これが午前中じゃなくて良かったですよー。
お迎えに行けなかったですもん。午前中だと。
で。
話を戻しまして。
これ
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1028.html
にも書いたとおり、何がしたい、どのような人間になりたい…というのが、うすぼんやりしてしまいまして、
そのままずーーっとその状態が続いております。
体調が悪くない時、
つまり、身体に意識が過剰に行かなくて済んでいる時は、
今までココが「定常」だと思っていた意識より、なんだかちょっと上のところにいるような、そんな感じになることが増えたのです。
でもそれは、愛に溢れた高次の素晴らしい意識…という意味ではなくて、ただちょっと階段をちょっと上がったところで今までよりちょいとばかし俯瞰して見てる……というだけのことで、残念ながら霊性が進化したっていうことではないと思うんですが、
違う言い方をするなら、歳とったねー、ってことかもしれませんね。
もともと、子供の頃から天文とか地学とかが好きで、自分の中のスケールが何億年というものもあるわけですが、
そのスケールで考えると、人間の愚かな行為で地球が生命の住めない惑星になったとしても、それがどうした?という結論にしかならないんですけど、
でも同時にものすごーーーくミクロな視点で見て、これじゃダメだよーなんとかしないとー、と考える自分もいるんですね。
なので、「定常」の意識のスケールが更新されたような感覚そのものは、ああそうなのね、と思うだけなんですが、
うすぼんやりしてるのがどうにも所在無いのです。
もちょっと分かりやすくたとえるなら、
ふと気づくと、この歳でもう縁側でお茶飲んでニコニコしてるおばあちゃん…に近い心境になっとるやないの!
みたいな感じですね。
これがしたい、あれがしたい、こんなふうになりたい……が、ほんとにうすぼんやりしたままなのです。
子供たちのために夫婦共々元気に長生きしたい、と、
エイトのライブに毎年行って思いっきり楽しみたい、と、ハッキリ強く思うのってほんとにそれくらいなんですもん。
欲求が無いわけじゃなくて、とてもうすぼんやりしていて、焦点が合わなくて形状がハッキリしないのです。
ハッキリくっきりしない欲求は現実化されないまま霧散してしまいますもんね。
それで。
恐ろしいのが、その現在の「定常意識」の時に、「今すぐ癒されたい。今すぐ健康で丈夫になりたい。」という欲求が自然とは出てこないということなんです。
意図的にスケールを少しマクロ寄りにしてからじゃないと、それが出てこないんです。
もちろん、しんどい時、その真っ只中にいると、今ココのこの身体のしんどさにかなり多くの意識を持っていかれますから、めっちゃマクロスケールで世界(自分)を感じてるので、下手したらパニックになるくらい「わーーー!いやいやー!今すぐ治してー!丈夫で健康にしてー!」って強烈に求めるんですけどね。
結局ね、
これ
http://smalltamiel.blog82.fc2.com/blog-entry-1056.html
に書いたとおり、自己信頼の回復、生命力への内的信頼感の回復、が、課題だからこそ、こうなってるんでしょうけどね。
身体がしんどいことがアンカーになってるからね~、ってむかーーし観音様に言われたわー、ってブログに書いたこともありますけど、
アンカーであり、スケール変換のスイッチでもありますもんね。
それが、身体感覚においてポジティブなもの(たとえば食べることにめっちゃ喜びを感じるとか、セックスで深い喜びを感じるとか)じゃなくて、ネガティブなもの…つまり「身体がめっちゃしんどい」というものになってる、というのが、「生命力への内的信頼感の欠如」の現れですよねー。
(視覚優位なところがあるので、視覚という感覚で喜びを感じるか……というと、視覚というのはダイレクトに喜びにならなくて、精神活動を経ての喜びになってる気がするんですよねん…。なのでちょっと違うなぁ、と。)
正直ゆーて、食べることにそんなに興味ないし、セックスも無いなら無いでいいや~…にすぐになっちゃうし。
あああああああ。
でもね。でもね。
息子が6年生になってから、国語の授業で、やなせたかし先生の「サボテンの花」というのを毎日音読してるんです。
こちらのブログに載ってますので、読んでみてください。
http://blog.canpan.info/sagara/archive/860
私ね、毎回泣きそうになるんですよ。
息子がこれを音読してるのを聞いてると。
これの次に谷川俊太郎さんの「生きる」も音読するんですけど、そっちはなんともないんです。
でも、やなせ先生のこれは泣きそうになるんです。
やなせ先生の人生はとても悲しみの多いものだった、と知ってるからなのか、
そんなやなせ先生が紡いだ言葉だから泣きそうになるのか、
とにもかくにも、この「サボテンの花」を息子が一生懸命音読してるのを聞いていると、生命力への内的信頼感はいつか回復できるんだろうな、って、なんとなく思えるんです。
たみえさんの眉間のぼわんの話を読んで、少し前のことを思い出しました。
ちょうど一ヶ月ほど前、4月末だったかの倫理学の講義で
「イエスは十字架にかけられ、自身の血によってあがないを……」
と話をした時、いわゆる「ぞぞぞ」が来たので、
「ああ、イエス様が来たナ」と思いながら、話を続けました。
イエス様は、ご自身を必要としている全ての人の前に来られるのでしょう。
そして、光を与えたり、何かを仄めかしたりするのでしょう。
僕の場合は、身を乗り出すかのようにしてこの話を聞いていた学生のため、
僕の話に神様の光を込めに来られたのだろうと思っています。
やなせたかし氏の「サボテンの花」を知らなかったので、読みました。
「いい話」というだけでは片づけられない、心に突き刺さるように残る、
そんな話ですね。
> たみえさんの眉間のぼわんの話を読んで、少し前のことを思い出しました。
> ちょうど一ヶ月ほど前、4月末だったかの倫理学の講義で
> 「イエスは十字架にかけられ、自身の血によってあがないを……」
> と話をした時、いわゆる「ぞぞぞ」が来たので、
> 「ああ、イエス様が来たナ」と思いながら、話を続けました。
> イエス様は、ご自身を必要としている全ての人の前に来られるのでしょう。
> そして、光を与えたり、何かを仄めかしたりするのでしょう。
> 僕の場合は、身を乗り出すかのようにしてこの話を聞いていた学生のため、
> 僕の話に神様の光を込めに来られたのだろうと思っています。
さすがねこだるま先生ですね。
そして、さすがイエス様ですね。
ねこだるま先生とその学生さんに祝福がありましたね。
> やなせたかし氏の「サボテンの花」を知らなかったので、読みました。
> 「いい話」というだけでは片づけられない、心に突き刺さるように残る、
> そんな話ですね。
そんな話をキミのあの甥っ子が音読してるんですよ?
泣きそうになるのも分かるでしょ????