「普通」というものの敷居の高さ

ツイッターで、イクラ(‏ @ikurakoikura )さんという方が、こんなツイートをされていました。

「正解」すらない「果てしなく難しい創造」を毎日やってかなきゃなんないってのは多分、連鎖よりも当人を疲弊させると思う。虐待事件が起きると世間はすぐ連鎖連鎖言うけど、あんなくだらない連鎖好き好んでしたいと思っちゃいないよ。それより怖いのは「普通」っていう敷居の高さに途方に暮れる事だ。
わすは被虐児ですが、世間様が思っているよりも遥かに「普通」を知りません。全てを想像で補うのは本当に本当に大変です。連鎖させないことと、子どもの心身を満たした生活を提供するのは違う。わすは後者を何も知らない。それはとてもとても怖いです。


「知らない」ということは、こういうことなんですよね。
知らないことを想像で補って創造し続けるなんて、ほんとにほんとにエネルギーをものすごく使い、疲弊しやすいことだと思います。
虐待と呼ばれるような経験ではなくても、私にも知らないことはいろいろあって、
娘が生まれた時に、「私、大丈夫かなぁ…?」と不安がよぎりました。
おかげさまで、いろいろクリアになって、今は「普通に」娘と接することができますが、
それができないままの人もいると思います。
そういえば。
このツイートを読んだ時に、小学校の同級生の子のことを思い出しました。
クラスが同じになったことはありませんでしたから、直接話したことはほとんどありませんし、
彼が何をどう感じていたのかも分かりませんが、
オカンが彼のお母さんから聞いた話が印象的だったのです。
(私が大学生くらいの時にオカンから聞きました。)
彼のお母さんは、弟くんの方はかわいいと思うのに、兄である彼のことはどうしてもかわいいと思えなかったんだそうです。
同じことをしても、彼がするとイライラしてしまう、と。
彼のお母さんが虐待めいたことをしたとは思えませんが、つまらないことで怒ったり…というのはよくあったでしょうし、
子供というのはそういう母親の心情を敏感に察知するものですから、彼の中には「普通のお母さん」は居ないままなのだろうな、と、思い出したのです。
「普通」ってのが一番難しいのかもしれませんね。

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