「才能」は喉から手が出るほど欲しいけれど。

うさみみさんの一連のツイートをコピペ。
https://twitter.com/usamimix

大学の頃、短歌サークルに入ってたんだけど、そこで文学部の人たちがたった31文字の世界にものすごい知性というかセンスを発揮して読み込んだり創作してるのを目の当たりにして、自分の文芸的センスのなさ?に愕然としてた時期がある。 これはもう、楽器とか踊りがうまいのに近い「才能」の領域だ。
でも、少ない言葉から文法に則しつつもうまく文法の枠をも超えてイメージを広げる、みたいな禅問答のようなことを延々と(毎週1回の歌会が1回あたり3時間!そこで10人未満の出した1首ずつを丁寧に読み解き、批評や感想を述べあう)やったおかげで、後に演劇をやるときも大いに役立った。
ただ、そういう文芸的センスも、鍛えれば伸びるレベルというのはあり、それまで学校ではろくすっぽやってなかったから最初できないというだけで、やり込めばそこそこ以上(『凡人が努力で到達できる程度には』プロとしても一通りやっていける、というレベル)には辿りつける実感&印象。
世間では売れてない演劇人でも、こういう「作業」のやり方はちゃんとやってる人は大勢いて、無名だろうと人前で演るだけはあるなと安心する(←どこから目線?)。一方、若くして美貌などで売れてしまった役者は、この作業をちゃんと習得する前に活躍しろと舞台だけあてがわれてしまい焦る人多い印象。
こういう、言葉とイメージの関係や背景、言葉同士のイメージ間の繋がりや繋がり方のバリエーションによって生まれる「味(波動のニュアンスといってもいいのかも)」を紐解く作業プロセスをある程度、齧れたことは、後に超感覚ヒーリングをやるときにも大いに助けになった。
だって、エネルギーの波動って「雰囲気」みたいなもやっとした、まるで抽象画みたいなものだから、それが何を意味していて何を象徴していて具体的な何から発生したものかを逆探知する作業は、まさに「芸術(作品)の鑑賞」とほぼ同じプロセスを辿るから。
自分はチャネリングの精度と、見えたものを言葉などで説明するときのプレゼンテーションスキルといったものを褒められることが多いけど、それはひとえに、いま一連のツイートしたような経験を積んでる故なのかなぁ、と思う。
だからって誰もが、チャネリングスキルを伸ばすために短歌と演劇をやったほうがいいかといわれたら微妙だけど、少なくとも感性を商売道具(の1つ)にする(あるいはアマチュアだろうとちゃんとやって実力を伸ばそうとしてる)なら、アートに触れるのはいいかもね。
触れる、といってもなんとなく絵画展とか演奏会に行くのももちろんいいけど、「感じ取るセンス」が育ってないうちに機会だけ得ても退屈するだけの気が。 最初は、馬鹿みたいに、たった1つの作品について何時間も(できればその道に精通した)誰かと話し合ったりして、自分のなかのセンスを育むと◎。


私は、そもそもが空間認識能力に少々難があるので、三次元を二次元に「描く」というのは苦手なのです。
そのくせ「絵を描く」ということはすでに幼稚園児の頃には大好きという自覚があり、病気で寝込む以外は、何も描かないという日はありませんでした。30歳の頃まで。
ちょっとしたラクガキのレベルなのですが、毎日何かしら絵を描いてました。無意識に。
30歳の頃、現在漫画家をしている友人と知り合い、「彼女がすべて描いてくれるから私は描かなくてもいいんだ。」と思えて、それから10年弱の間は絵を描くということからかなり遠ざかっていましたが、
ひょんなことから再び絵を描くようになりました。
それが、天使の絵でした。
私は才能も無いし、本格的に絵を学んだことも無いのですが、毎日ちまちま描き続けたことや、他人が描いた「絵」を観ることも大好きだったことが、なんとかお仕事として成立している下地となっているんだろうなぁー…と、思っていました。
そんなわけで、やりこめば、『凡人が努力で到達できる程度には』プロとしても一通りやっていける、というレベルに到達できる、というのは、ほんとうだと思うのです。
もちろん、圧倒的な才能に憧れないわけがありません。
けれど、ちまちまと続ける努力、感性を育てる努力…を続けることで、到達できるところが少しでも先へと続いていけば、それも素晴らしいことなんじゃないか、と思ったりもします。
そしてそれは、どんなカタチで実を結ぶかなんて、その時になってみないと分からないですしね。
私だってまさか自分が、こんなお仕事をするようになるなんて、露ほども思ってませんでしたもん。
あなたは、好きなこと、続けてますか?

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