「ちゃんと引き受ける」の次は、「いいわけするな」…みたい。

自分の人生を、ちゃんと引き受ける……、と、頭ではなく、
身体の…お腹に近いところで思ってから、ちょっと気になることが出てきました。
私はよく自分の日記に
「私はサイキッカーじゃないし。」とか
「私はエネルギーのこととか分からないし。」とか
そーゆーことを文章の途中でちょこちょこ書いてます。
実際にそうなんだけど、そうやってわざわざ書くというのは、
多分対外的には「自分はたいしたことないからね。鵜呑みにしないでね。」ってのを示したいってのと、
自分に対しては「いいわけ」してるんだな~、って、3日前くらいにハタと気づきました。
「私は視えない。」
「私はエネルギーやスピ的な存在を感じられない。」
「私はスピ的知識をあまり持っていない。」
こーゆー、「私は……ない。」というのは、確かにその通りなんだけど、
多分、すべて「いいわけ」なんだろうな、と思ったんです。
視える・視えない、分かる・分からない、知ってる・知らない……に縛られる必要なんて無いんだな、と突然思ったんです。
うまく言えないんですけど、そんな些細なことはぽ~んっと超えてしまって、視えるとか視えないとか、そーゆーことを自分へのいいわけにするのは、もうやめてね、と誰か(って誰だ?)に言われたような、そんな感覚になったんです。
きっとそれは、
たとえば、
視えないなら、視えるように努力すればいいじゃないか
…っていう意味ではないんですよね。
もちろん、自分に対して(できるかぎりの)客観視をしないでもいい、ということでもないし。
そう。
やはり、
「そんなことをいいわけにするな。」
がしっくりくる言葉です。

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