じぇいど♪さんがお祈りの会のことをブログで紹介してくれました。
http://plaza.rakuten.co.jp/californiajade/diary/200910290001/
そのコメント欄に、りとる☆すのーさんが、「憤りを感じます」と、コメントしていらっしゃいます。
ご自分で被爆2世だと書いてらっしゃるので、原爆に対する想いも、私なんぞとは比較にならんほどの強いものをお持ちだと思います。
そんな強い想いがあるがゆえに、じぇいど♪さんや私の発言に対して、軽々しいものを感じたのかもしれません。
でも、もちろん、じぇいど♪さんも私も軽々しくなんて考えてませんし、資料館が無くなればいいなんて微塵も思ってません。
人間の視覚情報というのは強烈なものだと思うのですが、
多感だった高校生の私にとっては、写真に写っている全てにショックを受けて「気持ち悪くなった」というのも確かにありました。
しかし、それ以上に、核兵器も含めて、どうして人間はこんなに残酷なことができるのだろうか?どうしてこの人たちがこんな目に合わなくてはならなかったのか?……というさまざまな思いがガンガン沸き上がってきて、すごく「気持悪くなった」のです。
途中で館外に出ないと、このままでは倒れてしまうと思うくらいのぐるぐる具合でした。
そして、その頃は「想念」の力や、エネルギー的なことを何も知りませんでしたので、その想念がどこに向いてるのかも自分では分からないような、行き場の無い激しい虚無感や怒りを、どのように扱うべきかも、どうしたら良いのかも分からず、ただただ「どよよ~ん」としていました。
ですから、私が資料館で学んだことは非常に大きいです。
戦争経験者が身近にいないことが多い今の学生さんには、ぜひ見て欲しいと私も思います。
しかし、それと、エネルギー的な話はやはり別だと捉えていただきたいな、と思うのです。
資料館に行った人の多くが、写真や資料としっかり向き合うからこそ、怒りや憤りなどを強く感じるわけです。
それは、人間の「善なる部分」が反応しているとも言えると思います。
原爆資料館だけではありません。
日々の戦争のニュースや、子供への虐待、殺人事件などのニュース……に、私達の多くは心を傷め続けています。
けれど、だからと言って、怒りや憤りという想念を垂れ流しにしていて良いというわけではない、ということを、
そういう想念が決して平和へは繋がらないことを、
我々は、もう知ってしまったのです。
知ってしまったからには、我々には責任があるのです。
すべきことをしなければならないのです。
知らずにしている人たちは責められるべきではありません。
みんなが怒りの想念をだだ漏れにしているから、広島のグリッドがなかなか修正しきれないんだよ、なんて、誰も責めてはいませんよね。
ちゅまちゃんも、ただ知っている「事実」を話してくれているだけです。
けれど、知ってしまった私達は、だだ漏れにしてはならないのです。
そして、今自分ができることを、したいと思うことを、するしかないと思うのです。
以前、私がとあることをmixiの日記に書いた時に、たとえとして「インディゴの人が…」と、書いたら、何人かのマイミクさんたちが、その部分ばかりにコメントをつけてきた、ということがありました。
本筋のことは、何も触れずに、です。
人間は、みんな自分の世界の中で生きています。
強い想いがあればあるほど、枝葉が気になって仕方がないという状態に誰でもなります。
私だってそうです。
けれども、できることならば、本筋をしっかりと見ていきたいなぁ、と私はよく思います。
そして、そういう行き違いは、常にどこでも生まれやすいものだ、と肝に銘じなければなりませんね。
今回は、りとる☆すのーさんにイヤな思いをさせてしまったことを申し訳なく感じたのですが、本意を分かってもらえたらなぁ、と祈っています。
*** SECRET ***
◆raffaello さん
心のこもったコメント、ありがとうございます。
感情のレベルでこれらを経験している、というのは、本当にそうだなぁ、と思います。
そして、したいこと、せずにはいられないことを淡々とするしかないですよね。
raffaelloさんの言葉は、私の言葉と似てるなぁ~~、と思いました。
なんだかとても嬉しかったです。
ほんとうにありがとうございました。