ひとつ前の日記で、のりすけちゃんのコメントに対して、
「生きるってことは過程そのものなのに、人間は正解を欲しがるものだよね。」
って感じのお返事しました。
確かにそうなんだよなぁ、って思います。
「ジャッジしない」ということが大切と、スピ的な人たちが口をそろえて言いますが、凡夫の我々は日々ジャッジしてしまいます。
正しい・正しくない、という判断をするということは、「正解」を求めているからなんだろうなぁ、とさっきお返事を書きながら思いました。
ジャッジしない、ということが、「批判しない」ということとイコールではないと思うんです。
だって、「こうした方がいいと思うよ。」という善意のアドバイスであっても、それは既にジャッジをしているんですから。
で。
(「エゴ」を含む)顕在意識の我々は、「正解」を求め、ジャッジをするという「機能」を持っていて、おそらくそれがメインの機能なんだ、と気づいてさえいれば、とりあえずOKなのかもしれないな、と思うんです。
普段の日常生活において、「正解」を求め、ジャッジする機能が無いと、お母ちゃんとしての役割を完うできなくなります。
子供を起こす方が先か、お弁当を作り始めるのが先か、洗濯機を回す方が先か……次々と「正解」を求めてジャッジせんと、ちゃっちゃと家事なんて回っていきませんもん。
てことは、出家して行をするというのは、ジャッジしなくていい状況に身を置くってことなのかもしれませんね。
でも、私達はそんなわけにいかないので仕方ありません。
この機能をフルに生かして、元気に生きていかないといけないんです。
ただ、正解を求めてジャッジしてしまう、という性を、「批判」という形に持っていかないように気をつけることはできると思いますし、「怒り」に持っていかないように気をつけることもできると思います。
批判や怒りは、お互いに正解・不正解を押しつけ合うことになるだけです。
イスラエルの怒りはパレスチナの怒りを生むだけのように。
んじゃ、どうすりゃいいか、というと、多分ね、「それは不正解だ。こうすべきだ。」と言うんじゃなくて、「それは悲しい。それは辛い。こうしてくれたら嬉しい。楽しい。」と、シンプルな「感情」を表現するように心がけるだけで違ってくるんじゃないか、と思うんです。
すると、怒りという感情にしても、
「そんなふうに私を怒らせるようなことをしたあなたの心が悲しい。」
と、だんだんなってくるような気がするんです。
子供の頃に、「慈悲」って仏教の言葉だよって教えてもらって、なんで「慈悲」って言うんだろう?ってすごく不思議だったんですよ。
「悲」って漢字を使ってることが不思議だったんです。
でも、それがちょっと分かった気がします。
愛があれば、怒りの前に「悲しみ」がちゃんとあるんですよね。
仏さまは、深く深く我々を慈しんで悲しんでくださってるから、「慈悲」なんだなぁ……って。
多分。
悲しみは、祈りへと導いてくれると思います。
でも、怒りや批判は、祈りへは導いてくれないと思います。
だってさー。
息子や娘に対して、イライラしてどかーんと怒ったって、後味悪いだけだもんね。
んでも、分かってても怒っちゃうんだけどさーー。精進足らん足らん。