cobaさんのコメントに対して、返事を書いていて「お?」と思ったので、こっちにも書いておきます。
多分、「今」を生きるってのは、『今、私は何を感じているか。』を十分味わうことなんでしょう。
忙しいなぁ、だけじゃなくて。
身体を通して現される『感覚』と、心を通して現される『感情』を、今、ちゃんと感じる。
そーゆーことなのかなぁ、と思いました。
それって、案外みんなできてないと思うんですわ。
映画見て「ああ面白かった。」とか、食事に行って「ああ美味しかった。楽しかった。」とか、そーゆーのは分かりやすいですよね。
でも、そうじゃなくて、一瞬一瞬の『今』を、(いろんな仕事をするために)脳を働かせながらも、脳じゃない部分、マインドじゃなくてハートで感じるように生きるってーのは、できてないと思いません?
私はできてませんでした。はい。
cobaです。
わたしもできていませんです。はい。
mindとheartの違いってなんじゃろ?と改めて辞書引いてみたら
、mindは思考・判断・意思という意味が含まれてて、heartは心情・胸の内とありました。なるほど~です。
「今、何を感じているか」って意識していなかった。
振り返ると、考えることを優先して(って無意識にですが)感じることを無視(これまた無意識に)してました。
体に現れた感覚と心に湧いた感情を大切にしたいと思いました。
たみえさんのコメントを読んで少し深く考えることができました。
ありがとうございます。
heartには他に愛情や恋慕などもありました。
ロマンチックですね。
今日、85歳の人と、草刈のバイトをしてて、その人がある人の噂話をしました(あまり良くない噂です)。とても嫌な気分がして、バイブレーションが落ち込み、混乱しました。
「この気分をありのまま味わおう」
と努力しましたが、混乱は深くなるばかりで、何も学んだ気がしません。
だんだん「助けてクレー」って感じになってきました。
そのとき「ただ、それがあるだけ」
と閃きました。
「ただその感情があるだけ」
補足すると、「私の中にその混乱(感情)があるけど、それとは関係なく、宇宙はただ一つのもので出来ている。」そんな感じでした。
「ヤダナー、この人と俺が一つだなんてやだなー。」
と思いましたが、それでも
「その感情がただあるだけ、全ては同じもので出来ている」
ついにお祭りがはじまりましたね。
とても繊細な、エネルギーが自分の周りにあるのを強く感じます。
cobaさんも亨さんもコメントありがとうございます。
言葉を獲得する前の赤ん坊の頃は、きっと全身の感覚全開で、感情も言葉でカテゴライズされてないものをそのまま、生のまま感じてたんだろうなぁ、なんて娘を見ながら思えてきます。
そして言葉を覚え、思考することを学び、いろんな枠に自分をはめこみ、他人とは違うという『自分』という(すっごい狭い狭い)アイデンティティーを確立していったわけですが、それはそれで必要な道だったのでしょう。
ただ、くるっと一周してきたっていうか、螺旋階段で昇っていって上昇しているけど一周回ってきたって感じですかね。
獲得したもの、学んだことを越えていかないといけない場所に来たんだろうな、と感じます。
だから、「やだな。」という感情も、ちゃんと感じておいて(感情を無視するとか感情を押し殺すとかしないで)、感じる自分と少し距離を置くというか、まずは感情に振り回されないようにしないとね、と思ってます。
つまり、『ちゃんと喜ぶ』『ちゃんと怒る』『ちゃんと怖がる』…などなど、まずはちゃんと感情を認めてあげないと、感情に振り回されないで生きるなんてことはできないことかもしれないな、と思っております。
なので、ちゃんと「やな感じ。」と認めてあげて、その感情を手放せたらOKなんでしょうけど、なかなか難しいです。(そんな私なので、亨さんはスゴいなぁ~、と思いました。)
とりあえず、そんな時は世界平和の祈りをするか、最近は「我は神なり。愛なり光りなり。」と声に出して念仏のように唱えてます。はい。
お祭りのためか、念仏のおかげか分かりませんけど、私もなんだか『つながってる感』が強まってます。昨日くらいから。